『炎の魔女』
ピシッと額を叩かれ、俺は目を開けた。
「…ん?」
頭に声が響いてきた。
『いつまで寝ている 起きろ』という声が、頭の中で反響している。
威圧感があるが、女性的で若々しい声だ。
何だぁ、これは。
俺は重い体を起こし、辺りを見回した。
「誰もいない…」
俺がそう言った瞬間、今度は頭を後ろから強く叩かれた。
俺が慌てて振り向くと、そこに彼女が居た。
あの時と変わらず、影のような布を羽織っている。
ただ、今回は目元に布はかかっておらず、その部分だけが露出していた。ただ、口と鼻辺りは布がかかったままだった。
「気づかなかった…」
『寝ぼけるな 面倒だ』
また言葉が頭に響いてきた。彼女が話しかけていたのか。
「あの、ここは何処ですか」
『私の家だ 許可もなく質問するな』
怒られたが、質問には答えてくれた。
ここは家なのか。
改めて周りを見回すと、本が机の上に散らばっていたりと、確かに生活感が感じられた。
上を見上げるとかなり高かった。縦長い家だな、と思った。
そう思っていると、また声が響いた。
『今度は私から質問させてもらおう 君の名前はなんだ』
と言って彼女は、俺に石炭のような色をした指を向けた。
「俺の名前は、灯葉です」
俺がこう言うと、彼女は眉をちょっと八の字にした。
『とうは? 不思議な響きだ』
不思議な響きなんて言われたのは初めてだ。彼女にとっての普通の名前は何なのだろう、と俺は彼女の名前が気になった。
「質問よろしいでしょうか」
『うん いいぞ』
「貴方の名前は何というのでしょうか」
『ほう 私の名か それはまだ早いな』
と彼女は言った。
『ただ、何をしているのかは教えておこう。私は魔女だ。現在、「悪魔」と呼ばれる存在について研究を行っている』
そう言いながら立ち上がった。
『おい 立て』
「え、なんで」
『これから町に出かける ついてこい』
ちょっとまってくれよ、と俺は思った。 状況を全く飲み込めていなかった。
「あの、なぜ町に?」
『君の服を買うためだ その奇抜な格好は、この世界じゃ異端そのものだ』
そう言いながら彼女は自分の顔に黒い布を被せ始めた。
そんな彼女を尻目に見ながら、俺は自分の服を見た。
…なかなかカラフルだ。
この世界にこういった服はないらしい。
『当たり前だがまだこの世界のことは分かっていないだろう。 街はここからなかなか遠いから、向かいながら今の君の状況を教えるとしよう』
「…ありがとうございます」
一応感謝の言葉は言ってみたものの、この人を信用して良いのだろうか。それすらわかっていない。
無力な俺は、ただついていくことしかできなかった。
…これは夢だろうか。
扉を開いた瞬間、草原の匂いを含んだ柔らかな風が俺を包み込んだ。
日は今沈みかけ、大地を黄金色に染めていた。
向こうの方に、町のようなものが見えた。あれが目的地だろうか。
「すげぇ…」
『どうした』
「ここまで美しい景色は、初めて見ましたよ」
『ふっ、それは良かった。 まぁ 遅れない程度についてこい』
彼女は歩き始めた。
「あぁ、待ってください。聞きたいことが山ほど…」
俺も共に、町に向かって歩き始めた。
彼女はゆっくり話し始めた。
『君は、草原で横たわっていた』
「へぇ、じゃあそこから運んでくれたんですね」
『そうだ。実は、お前のようなものは少なくないらしいぞ』
「え、どういう…?」
『他の世界からこの世界に来る者だよ。たまにぽつぽつと来るらしい』
「へぇ…」
こんな目に会ったのは俺だけじゃないのか、と思うと、なんだかちょっと安心した。
「そういえば、どうして俺を見つけられたんですか。たまたま通りがかったとか?」
俺がこう言うと、彼女はまたせせら笑った。
『そんな偶然、あるわけ無いだろう。 ずっと探してたんだよ』
「え、俺をですか?」
『いや、丁度いい手駒だ』
「…え」
『…』
俺等はしばらく黙っていた。
『…さて、重要なことは全て話したし、私の名前を教えてあげよう』
もうすぐ町につく、というところであった。
よくあんな空気のなか話しかけてこれたもんだ、と思った。
まぁ、逆にこれほど清々しい方が信用出来るのかもしれない。
「教えて下さい」
彼女はちょっと顎に手を当てた。
『今は、リビアという名前でいい』
「わかりました。リビアね…」
今は、というところに引っ掛かった。リビアという名は本当の名前じゃないのだろうか。と思っていると、
『ちょっとそれで私を呼んでみろ』
と急に言われた。
「え、今ですか」
『そうだ』
「えぇ…」
俺はちょっと緊張した。彼女…リビアは今、何故か只事ではない雰囲気を纏っていた。
そしてちょっとワクワクしているかのようにも見えた。
…俺は少し息を吸い込み、言った。
「…リビアさん」
俺がそう言うと、リビアは衝撃を受けたかのように大きく震え、その場にしゃがみこんだ。
「ちょっ、大丈夫ですか!」
と俺が言うと、リビアはゆっくり顔をこちらに向けた。
顔の布が剥がれ、表情が見えていた。
その表情を見て、俺はちょっとゾッとした。
それは恍惚の表情であった。
「あの…」
リビアは返事をしなかった。感動を噛みしめるかのように、目を閉じていた。
暫らくして、リビアは立ち上がった。まだ興奮気味らしく、少し肩を震わせていた。
『済まない 取り乱した』
「あの、大丈夫ですか」
『大丈夫だ リビア… ふふっ あぁ…』
とても大丈夫そうには見えなかった。
リビアって、何なのだろうか。
「あの」
『ぁー…』
「…」
『ぇ あぁ大丈夫だ もちろん…』
「…本当かな」
『うん… あぁそうだ 今度から私のことはイミカと呼んでくれ』
「え、リビアじゃなくていいんですか」
俺は驚いた。そんなにころころと変わるもんだろうか。
『いいんだ もう満足したから…』
そう言うとイミカは自分を落ち着けるように深呼吸をした。
俺は今後、「リビア」のことは口に出さないようにしよう。と思った。
少し危ないような気がした。
否、確実に危ない。
『さて 今度は私が質問したい』
落ち着いたのか、イミカはそう言った。
「質問?」
『そうだ 君がどうしてこの世界に来たのか ということだ』
そんなこと、俺にもわからない。
いきなりこの世界に飛ばされたのだ。
「ちょっといいですか」
『なんだ』
「なぜ俺が別世界から来たとわかるのですか。ただ横たわっていただけのこの世界の住人かも知れないじゃないですか」
『ん、まぁ服装が変わっているからというのもあるが、やはり確信したのは…』
と言ってイミカは俺の右腕を指差した。
『…そのアザだ』
「これ…?このアザは生まれつきのものですが」
このアザは間違いなく産まれたときからあるものだ。
この世界に来たことによってできたものではない。
『疑い深いのは良いことだ そのアザはな 呪晶というものだ』
「じゅしょう…?このアザがですか?」
『そうだ それを持ったもののみこの世界に入ることができる。そして、この世界のものは呪晶を持つことが絶対に出来ないのだ』
「これが…」
そんな馬鹿な、と思いながら俺は右腕のアザに触れた。
すると鈍い銀色の液体がアザから流れた。
それは前腕から手首、指先に滴ってゆき、最終的に人差し指から地面に零れ落ちた。
「なんだこれは…!」
『ほう、銀色か 珍しいじゃないか』
そう言いながらイミカは零れ落ちた銀色の液体に手をかざした。
『不思議だろう』
するとその液体は針状に変化し、宙に浮いた。
これが俺の右腕からでてきたものなのか?
『おぉ』
「こ、これは一体?」
俺が聞くとイミカはこちらを向いた。
『何度も言わせるな 呪晶だ 君の世界じゃただのアザにしかならんのだろうが、この世界は別だ 呪晶はこの世界に来て初めて力を発揮する』
俺は全く理解できていなかった。
「このアザは…そんなことが有り得るのか?このアザが特別だなんて…」
『現に起こっているじゃないか、目の前に』
と、おちょくるようにイミカは言った。
「俺が…」
特別なことだ。
俺は子供の頃からこのアザのことは好きになれなかった。これさえなければ、と子供の頃何度思っただろう。このアザのせいで今回、この世界に来てしまったのだ。
そういえば、俺は元の世界に戻れるのだろうか。
時間の進みが二つの世界で違うとか、そんなことはないだろうか。
そうだ、両親はどうなるのだ。俺が何処かに消えて、ひどく心配するだろう。
俺がもし戻ることができなければ、両親は俺のことを心配しながら逝ってしまうのだ。
…いきなり息子が消えて、大丈夫だろうか、どこに行ってしまったのだろうか、と心配しながら、誰にも看取られず孤独に死ぬ?
そんな馬鹿な。
「そんなの駄目だ…」
『おい』
「あ、何?」
イミカは怪訝な顔をした。
『町についたぞ 何ボケッとしている』
ハッとして俺が前を見ると、そこには活気のある町が広がっていた。
全く気づかなかった。
「…」
俺の胸は、不安で満ち満ちていた。
何処か遠くで、ごう、と重苦しい鐘の音が響いた。
錆びた音だった。