落ちこぼれ魔女
透き通るような青さの中に、綿飴のような雲がぽっかりと浮かぶ空。あちこちで春の花が咲き出した街角で、ビューッと、強い風が幼子の帽子を花びらと共に空に吹き上げた。
「あぁー、僕の帽子が!」
子供が手を伸ばすも、黄色い帽子はすでに空に攫われてどこまで飛んだか分からなくなってしまった。その代わりのように、子供の手のひらにヒラヒラと黄色の花弁が舞い降りる。
「あらあら、春一番に帽子を持っていかれてしまったわね」
「春一番?」
「そうよ。魔女島の魔女さん達が毎年魔法で作る、強くて大きい風のことよ。」
「おかあさん、魔女さん達はなんで風を作るの?」
「魔法使いの子供達が、初めて箒で飛ぶのを助けるためよ。きっと今頃は魔女島で子供達が空を飛ぶ練習をしてるわね」
***
ラピスラズリ島ーー通称『魔女島』は、魔法使い達が暮らす島だ。広大なランダン王国に属しており、東の末端の果ての海に浮かぶ。強い海流に囲まれており、箒で行き来する魔法使いでなければ辿り着けない。
…とは言っても、ヒトの街とも交流は盛んであり、ヒトの町で暮らす魔女もいればラピスラズリ島で生活するヒトもいる。
ラピスラズリ島の海に突き出した春風の丘では、今年六歳になる子供達がはじめての飛行に胸躍らせて箒を抱きしめていた。
「さあ、怖がらずに風にのって、…せーの!」
監督する大人の掛け声と共にふわふわと風に乗り、魔法使いの卵達は空への第一歩を踏み出した。はじめは恐々としていた子供達も、目の前に広がる広大な景色に瞳を輝かせて歓声を上げた。
ラピスラズリ島で五百年前から続く春の恒例行事だ。
風に乗って聞こえてくる子供達の笑い声に背を向け、両手に沢山の本を抱えたこげ茶色の髪の魔女が一人、春風の丘から反対方向へと足速に歩き去る。俯くように歩いていると、その足を止めるように横合いから声がかけられた。
赤みのある金髪を誇らしそうにかきあげる少女だ。
「ソフィアじゃない。こんなところでどうしたの?次代の魔女長様が箒にも乗れないなんて前代未聞なのよ。今からでも遅く無いから、ちびっ子達と練習してきなさいよ」
声をかけられたこげ茶色の髪の少女は、そちらに目を向ける事なく返答する。
「私に風の適性が無いのは分かってる。だから箒の練習なんて無駄な事に時間をかけるつもりはないわ、デリア」
何事もないようにデリアの横を通り過ぎようとするが、次の台詞に足が一瞬止まってしまう。
「ぷっ。箒に乗れない魔女とかあり得ないんだけど。それに風の適性がないって…全ての魔法が使えないって事じゃ無い!」
クスクスと笑うデリアに、ソフィアは唇をギュッと引き結んで俯いた。そして再び歩みをはじめるが、その手は本を握りしめ震えていた。
「練習なら、何度も、何度もしたわ…」
ポツリとつぶやく声は、風に乗って吹き消える。
***
六歳になって初めて迎えた春一番の日、ソフィアは一メートルも浮かび上がる事なく落下し大人達に浮遊の魔法で助けられた。
一日目、こんな事もあるわ、練習すれば大丈夫。そう励ます大人達に辛うじて頷き、何度も何度も挑戦した。
二日目には同い年の子は皆辿々しくも飛べるようになり、強い風の中をふわふわと漂い笑い声をあげていた。
三日目、大人に監督されるのはもうソフィアだけ。何度も浮遊の魔法を使わせるのが心苦しく、地面に膝をつく自分が情けなく、涙を溢さないようにするのが精一杯だった。
春一番が止んでも、毎日のように夜中に誰にも見られぬ森の中で箒の練習をした。それでも、飛ぶ事は出来なかった。もしかしたら、もう一度春一番に乗れば飛べるようになるのではないか。その希望に縋って迎えた翌年の春一番。
年下の子達が飛び上がるのを横目に、何度も何度も、挑戦した。三日目の夕方、焦燥と恐怖でいっぱいの中、もう一度だけと願ったソフィアの肩を優しく叩き、大人達は来年また頑張りましょうと言った。
恐怖ーーそう、ソフィアは怖かった。親にも必要とされなかった自分が、おばあちゃんにも捨てられてしまうんじゃないかと思うと、怖くて仕方なかった。
ソフィアは魔女長であるソニアの孫だ。ソニアの娘は次期魔女長と目された美しい赤髪の娘だったが、魔法使いでない男性と恋に落ち駆け落ちした。それから数年後、ソニアの家の前におくるみに包まれて捨てられていたのがソフィアだった。おくるみの中には、ソニアの娘から赤子を頼むと言う手紙が添えられていた。
ソフィアは魔女長の家系の美しい赤髪を引き継がず、恐らく父親の物だと思われるこげ茶の髪色だった。だからせめて、立派な魔女になっておばあちゃんに喜んでもらいたかった。魔女長を継いで、島のみんなにおばあちゃんの孫だと認められたかった。
どうしても諦めきれなかったソフィアは、その夜こっそりと家を抜け出した。
十人以上の大人の魔法使い達による大掛かりな春風の魔法は、急に止まずに夜間はまだ残っている。一人で春一番に乗る事は禁止されていたが、今回だけだからと箒を握りしめて春風の丘に向かった。
日の沈んだ丘から見る海は全ての光を飲み込むように真っ暗で恐ろしかった。
ーー明け方、おばあちゃんに気づかれる前に何とかたどり着いた家の前で、リビングの灯りが灯っている事に気がつきソフィアは血の気が引いた。
震える手で押し開けた扉は、ギィっと音を立てて開いた。
顔を上げることが出来ずに俯いたままのソフィアの目線に、おばあちゃんの靴が入る。何も言わずに佇むおばあちゃんに、恐る恐る顔を上げたソフィアはヒュッと息を飲んだ。いつもは凛として強いおばあちゃんの瞳が、悲しみに歪んでいた。
その瞳に映るソフィアは、それはもうボロボロだった。
何度も丘から落ちて作った怪我が膝から手足、顔にまで及んでいた。こげ茶の髪はボサボサに乱れ、掴んでいる箒は見るも無惨に折れていた。
おばあちゃんの悲しそうな瞳を見て、ソフィアはもう箒を手にする事はなくなった。