不夜城の怪人 第二三話 星条旗のもとに 12
麻生清美、三一歳。元麻酔科医。
現警視庁公安部公安五課特殊事件対策室室長。
過去その地位にあった誰よりも優秀で、誰よりも若い。『外部組』、つまりスカウトによって警察官となった者の中で最も地位の高い警視正であり、『外部組』という外様でありながら警視総監になるとウワサされる才色兼備の女傑……
それが私に対する周囲の評価だ。
でも、私は出世なんて望んでいない。警視総監の職なんて、イヌにでもくれてやればいい。ついでに現職の警視総監も喰われて仕舞えばいいんだ。このタイミングで鈴木を帰国させるだなんて!
私の望みはたったひとつ。
私の夫を生き返らせたい、それだけ。
だけどそれは叶わない。夫が警察に殺されたのは田沼に『願い』を言ったあとだったから。
本当に叶わないの?
綾崎の言ったあの言葉。魔本は世界に六冊あって、全て集めると完全な願いが叶う……
グランドキャニオンサウスリムに到着した漆間の見たものは、壮観だった。
ハーミッツレスト、日本語にして”隠修士の休憩所”と呼ばれるそこは、グランドキャニオン国立公園サウスリムの中で、最西端に位置する場所である。その名は十九世紀末、ルイス・ブーシェというフランス系のカナダ人が隠修士のごとく住み着いていたことに由来する。隠修士とは「神との一致を求めて、砂漠などで独り修道生活をおくる者」を意味する。
つまり、ここは孤独な砂漠だった。見渡す限りの岩山、孤独を忘れさせまいと吹き付ける秋の冷たい風、そして身体から水分を根こそぎ奪うような太陽の光。
ここでは全てが敵だった。
漆間は冷たい風を避けるようにコートの襟をたてて肩をすくめた。敵は、アジア人の女は何を思ってこんなところを指定したのだろう? 頭上の太陽を全身に浴びて、背後につくる影の色は濃い黒だ。しかし伸びるそれは一つしかなかった。
孤独にドプリと浸かるような寂しさを感じながら漆間は歩いていく。すると目の前に奇妙なオブジェが現れる。石を積み重ねたようなそれは不器用なアーチをかたどっている。アーチの右肩辺りにはこれもまた不器用な字で”HERMITS REST”と書いてあった。
「ここか」
呟きは小さくはなかったが、大気の揺らぎに霞んで消えた。圧倒的な自然が人の中では大きい漆間を萎縮させている。グランドキャニオンの名に偽りなし、ここは何もかもが巨大だった。独りで立ち向かうには人間は小さすぎる。だからこそ修行の場としては最適だったのかもしれない。
「遅かったじゃない」
不意にかかった声が空を見上げていた漆間を驚かせた。さざ波のように安らいだ奇妙に落ち着く声だ。もっとも、孤独な砂漠に耐えかねた自分の精神が、他者の存在を確認したおかげで少し安心しているに過ぎないのかもしれない。
「女を待たせるなんてどういうつもり?」
声はするのに姿を現さない。声はアーチの影から響いてきている。
「時代錯誤なことを言うな、綾崎を返せ」
漆間はアーチの影に向かって話しかけた。潤間は決して同性愛者ではなかったが、この手の女性特有の言い回しが気に入らなかった。男女平等という建前を彼は半ば本気で信じている。
「魔本は? 『堕天使の懺悔』はどこ?」
そんな潤間を声は無視して続けた。
無論、漆間は今魔本を持っていない。不敵な微笑みの悪魔、田沼は彼が追い出したミナトとともにラスベガスの街のどこかにいるはずだった。
「綾崎の無事をまず確認させろ。話はそれからだ」
「なるほど、親友の無事を確認したい、か。だけどそれは少し難しいね」
女がアーチをくぐり抜け、漆間の前にその身を晒した。
アーチの影から姿を現した女は黒髪の美人だった。腰まで伸びる長く艶やかな髪、豊満なバストにきゅっとくびれたウエスト、十分すぎるほどに美しい。しかし力強いその両目に悲壮感が宿るのはなぜだろう。彼女の背後に暗いものの影がちらついている。
「難しいだと? どういう意味だ?」
「魔本を渡しなさい。そうすれば教えてあげる」
挑発的な物言いは圧倒的優位な視点から繰り出されていた。事実、漆間は分が悪い。女の目的である魔本は持っておらず、その上綾崎を人質にとられている。本来、何をしにきたのかわからないほど交渉の武器がない。しかし漆間は全ての不利な条件を無表情に隠しこう切り出した。
「魔本はある男に預けている」
もちろんブラフだ。
「綾崎の無事が確認できなかった場合、あるいは俺から連絡が二時間以内になかった場合、その男が魔本を燃やすことになっている」
我ながらとんだ大嘘を言うもんだ、と思う。しかし、実際興梠に預けていると解釈できなくもないのだから、まんざら嘘でもない、と無理矢理に考えることにした。そうでもしないと、ハッタリに真実味をもたせられないだろう。
美しい黒髪の女は、悲壮感をその瞳にたたえながら細くしなやかな指で整ったあごをつまんで考え込む。しかしその美しい所作に見とれる前にそれは終わった。
「なるほど、私を甘く見たようね。あなたが魔本を預けた、というところまでは信じられる。おそらく興梠が持っているのでしょう? だけど彼とあなたは連絡をとっていないことも私は知っているのよ」
さざ波のような声で放たれたそれは、漆間の全身を総毛だたせた。
驚きが表情に出なかっただろうか?
目の前の女は漆間の現状をほぼ正確に把握している。
「……お前は何者だ?」
やっとでた言葉がそれだった。
「漆間、あなたは魔本を持っていない。そして魔本をどうこうできる立場にもない。つまり……」
女は漆間の問いを意に介さず言の葉を紡ぎ続ける。それは患者の病名を導き出そうとする医者のような消去法だった。
「私はあなたを拘束することに集中できる。『死神』漆間、あなたを拘束します!」
次の瞬間、背中から取り出した銃から漆間に向かって銃弾が放たれていた。
「本当に彼に協力するつもりですか?」
「そのつもりだよ田沼、いけないことかい?」
薄暗いがしかし満員御礼の観客席、期待と高揚感の浮き足立ったざわめきのなか、私の隣でミナトはそう言い放つ。アレックスと呼ばれるピエロの能力者を助けると言った彼の眼は力強い。おそらく綾崎さんを――心の中に負い目があるとはいえ――半ば見捨てたことに対する贖罪意識も手伝ってこんなことを言い出すのだろう。ミナトにすれば、アレックスを助けるのは自分自身の心の弱さと立ち向かう出発点と考えているのかもしれない。それは悪くない。変わろうとすることは彼にとっていいことである、そのはずだ。
しかし、この漠然とした不安はなんだろうか?
あの能力者であるアレックスは人柄といい、境遇といいミナトにどことなく似ている。彼はおそらく悪人ではない。それは確信をもっていいように思う。
しかし、アレックスのあの危険極まりない能力はどうだろう?
呼吸をするより簡単に命を散らすことのできるあの能力はどうだろうか? ただその一点だけでも、アレックスは危険な男なのではないか?
田沼の脳内に駆け巡る疑念とは別にブザーは鳴り響く。開演を告げるその無機質な音色は白々(しらじら)しく場内にこだました。
舞台を照らす照明がいつもよりいやに眩しかった。僕の心の弱さをなじるようだった。
久方ぶりの満員御礼。AJの自殺以来、閑古鳥が鳴いていたこのサーカスアクトもそれまでの盛況を取り戻しつつある。一つももらさず座られた席にはサーカスショーを楽しむ笑顔が並んでいる。
そんな観客席の一つにミナトが見える。その隣に執事服を着た丸メガネの男が座っている。
そのメガネ男の視線が奇妙に疑ぐるようなものなのは気のせいだろうか?
いや、きっと気のせいじゃない。
僕は罪を重ねる。四二人目の犠牲の羊。その生命とあの丸メガネの男、つまり魔本の悪魔を「彼」に捧げなくてはならない。
家族のために。愛する妻シェリーために。
ミナト、許してくれとは言わないよ。僕はどう足掻いてもこのしがらみから抜け出せないのかもしれない。
だからせめて……、正々堂々と君と戦ってみせる。この場で、このサーカス場で。
「彼」は歓喜に湧く場内の最後方で、独り壁にもたれて立っていた。アレックスがボールを投げたり、宙を舞ってみせたりするたび湧く歓声に冷めた視線を送っていた。
私には関係ない。
そう、「彼」には関係がない。ラスベガスという街の悲喜こもごもの愛憎入り混じった感情全てに関係がない。
ポケットにしまっていたスマホが勢いよく震えだした。確認すると、画面にはアデーレと表示されている。妻の内の一人だ。
――見なくていいのか? ――
頭の中にラーサーの声が響く。しゃがれたその声すらも酒臭いような気がする。
「余計なお世話だ」
短くそう告げると、ラーサーは何も言わなくなった。アデーレの用など大した用ではないのだ。どうせ娘がまたいなくなったとか、ガレージの荷物を整理しろとか、書斎の本をどうにかしろとかいったくだらない用事に決まっている。そんなことは些細なことに過ぎない。
魔本『堕天使の懺悔』を手に入れることに比べれば。
不意に場内が拍手の嵐に包まれた。一通りのアレックスの演技が終えられたらしい。心地よい拍手と歓声を存分に浴びると、ピエロの姿をしたアレックスは優美なおじぎを一つしてみせた。
「本日のお客さまには一つ、特別なショーをお見せしようかと思います」
はじまった。
思わず口もとが緩む。アレックスは決心したのだ。「彼」にこれからも従い続けることを。
「お客さまの中から一人選び、その人と勝負をしたいと思います。その勝負とはズバリ鬼ごっこ」
殺すつもりだ。
アレックスは能力を使うようだった。
「お客さまが鬼となり、この私、ピエロを捕まえることができればお客さまの勝ち。何か賞品を差し上げましょう。反対に捕まえられなければ、一つ、ささやかなものを私に頂きましょう」
ささやかなもの、それすなわち命である。
「私の逃げる範囲はこの場内全てです。どなたかご参加頂けませんか?」
観客席に向かってかけられた言葉に反応する者はいなかった。咄嗟のことに誰も判断がつかず、尻込みしていた。しかし、もう一度ピエロが呼びかけると、おそるおそると一つの手が天井に向けてまっすぐ挙げられた。
「おお、そこの男性! こちらへどうぞ」
ピエロのアレックスのもとにトボトボと歩く男は随分と小柄だった。アジア人のようであり、どちらかというと少女のような風貌をしている。
あいつが魔本を持つ日本人か。
そう、ミナトである。
『堕天使の懺悔』を持つ日本人がゆっくりと壇上へと登っていく。緊張した面持ちで、耳まで真っ赤にしながら一歩一歩とピエロに近づいていく。
「お名前は?」
「興梠ミナトです……」
「皆さま、勇気あるミナト君に盛大な拍手を!」
ピエロがそう告げると、場内に拍手が巻き起こった。空間中が手を叩く音で埋め尽くされる。
拍手の間にピエロは小柄な日本人に耳打ちした。緊張して頬を赤く染めていた男は途端に血の気が全て失せたように蒼白になった。慌てたようにピエロを振り返ったが、ピエロはもう観客の方に向き直っていた。
「彼」だけがそれを見ている。
アレックスは告げたのだ。破滅へのカウントダウンがもう始まったことを。
「さて、鬼ごっこのスタートです!」




