不夜城の怪人 第二二話 星条旗のもとに 11
その日が私たちの最悪のはじまりだった。
「なんだって?」
仏頂面の川藤が口火を切るのは珍しいことだった。聞き取れなくて思わず聞き返すのも仕方のないことだった。だが、本当は発言の内容を聞きたくなかっただけかもしれない。
「鈴木、田辺両警部には綾崎を連れて帰国していただきます」
麻生室長の能力、『麻酔体液』により眠り続ける綾崎は胸の前に手を組み、祈るように目を閉じていた。
「あなたになんの権限があってそんなことを命令しているの? 指揮官は私よ」
川藤は警部補、麻生は警視正である。それにラスベガスに来たとき、川藤が自ら我々三人の指揮下に入ると宣言している。先の彼の、日本に帰国しろ、という命令にはなんの正当性もない。
何より私も田辺君も、走りはじめた計画を投げだすつもりなどない。
「両警部とも、犯罪シンジケート『王国』との関与が疑われております。早急に帰国し、査問をお受けください」
「『王国』に関与? 馬鹿なことを言わないでくれ。私は奴らの仲間をもう二一人は“牢屋“にぶち込んでいるし、田辺君は『王国』を知りもしないだろう。それに漆間を手紙で呼び出したばかりじゃないか。そっちはどうする? 今帰国すれば計画がオジャンになる。第一君にそんな命令をされる筋合いはないよ」
川藤はふぅーっと息を吐き出すと、仏頂面のまま、曇りないまなこを私に向けてこう言った。
「警視総監のご命令です」
淡々とした声は冷徹の響きを持っていた。
明け方の薄闇の中、カーテンのすき間から差し込む光はか細かった。ラスベガスの街は暁とともに眠り始める。早朝の秋風が吹きすさぶ中、夜の喧騒を忘れたこの街の朝は奇妙に静かだった。
「……警視総監だって?」
息も止まるような沈黙の中、私がやっと絞り出した声はそれだけだった。田辺君はただ驚いている。麻生さんはまつげの長い目を閉じて唇を噛んでいる。そして目の前の川藤は……
「そうです。これは警視総監閣下のご命令です。お二方は直ちに帰国し査問会に出席ください。そこでは弁明の機会が与えられるでしょう」
ふてぶてしいほどに無表情。規律の遵守を至上命題とした彼の声は私のもう僅かになってしまった自尊心を、抜き身のナイフで切り裂くような硬さと鋭さを持っている。
参ったなあもう。
「弁明か……」
警視総監の命令では逆らいようがない。見張りとして川藤を派遣したのは雲の上のような身分の人だったのだ。
「魔本の悪魔、田沼についてはこちらにお任せ下さい。必ず、手に入れて見せましょう」
鈴木は麻生の方を窺った。しかし彼女の大きな目は私に日本に帰れ、と促している。
警視総監に逆らうことはできない。それは特殊事件対策室に所属してしまった者たちの宿命。心臓に突き刺さったしがらみの楔。麻生も鈴木も、もはや逃れられない。死ぬことでしか逆らえない運命がある。
「麻生さん、本当に二人だけ大丈夫ですか?」
「やるしかないでしょ。幸いに、漆間は凶悪な能力を持っているけど、強力な能力者じゃない。私と川藤、それで十分」
「ですが……」
「帰りなさい」
「危険です!」
「帰れ!」
麻生さんの鋭い瞳には私の死相が映っているかのようだった。しかし私の美男子にはほど遠い寝ぼけまなこにも、彼女の追い詰められた未来が映っている。
「清美さん。死なないでください」
私は彼女のファーストネームをおよそ二年ぶりに呼んだ。
「名前で呼ばないで」
それに対する彼女の答えは二年前と同じだった。
「日本に帰ろうか、田辺君」
もう二度と振り返らない麻生さんの背中を尻目に、私は呆然と立ち尽くす同僚に声をかける。
ぎこちなく頷く田辺とともに、私は綾崎を日本へと連行する準備を始めた。
この朝のこの出来事は、最悪のはじまりだった。
ラスベガスからグランドキャニオンへの道のりは遠い。サウスリムへと向かうのに車で五時間、ノースリムにはそこからさらに五時間かかる。 漆間の乗り込んだバスがラスベガスのターミナルを発ってもう四時間が経とうとしている。
ラスベガスのばか騒ぎの喧騒は消え去り、乾いた空気がバスに吹き付けられる。
砂混じりの風は砂漠の冷気と旅の孤独を浮き彫りにする。
都会的な街並みはいつしか消え去り、見渡す限りの岩石地帯である。それは決して人を受け入れることのない絶望の風景だった。
綾崎を捕まえた女とは何者なのだろうか。
ホテルグラージオのフロントに手紙と写真を預けたのはアジア系の女らしい。もちろん心当たりはない。日本人だったとして、誰だろう? 綾崎の母親はまだ存命だが、彼とは絶縁状態である。彼女が十年越しの妄執を発揮するほど彼は愛されてはいなかったし、綾崎の方でも田沼に『家族から自由になること』を願うくらいには嫌っていた。
だったら誰だ?
漆間がいくら過去に思いを巡らせても、浮かんでくる顔はないのだった。
漆間が眉間にシワを寄せて謎の女の正体について思いを巡らせるバスの中、人知れず少女は眠っていた。連日の疲れ、程よいバスの振動、そして何も見えない暗闇。全てが彼女を眠りに誘った。バスの貨物スペースに忍び込んだ彼女は観光客の大きな荷物に挟まれて眠っていた。
少女の名前はリタ。
リタは漆間を追っていた。ただ好奇心のために。
「そのアレックスの先生だった人を殺すの?」
「ああ。そうだよ」
いつものようにミナトはアレックスとともにホテルマーカスサーカスへと向かう。昨日の衝撃的な『お願い』ののちも、二人の間に築かれつつある友情は揺らがない。むしろ、秘密を打ち明け合うたびに、お互いの共通項は増えていく。能力者であること、望まぬ殺人を繰り返していること、そしてなによりそこから変わろうとする意志。
「「彼」は僕の先生だった」
秋晴れに向かって独語するアレックスの横顔を見る。遠くを見つめるような瞳は澄み渡るような青だった。
「「彼」がいたおかげで僕は大好きな仕事をしていられる。それは認める。でも……」
「でも?」
「「彼」がいたせいで僕は殺人なんて大罪を犯してしまった」
アレックスの苦悩が手に取るようにわかる。ミナト自身も内に秘めたもののせいで凶悪な殺人を幾度か経験している。自分がやったわけではないとしても、自分がその場にいなければ、失われずに済んだ命が散っていく。それは心の柔らかい場所を締め付けるのには十分だった。
「終わらせるよ」
ミナトは思わずつぶやいていた。
「そんな哀しいこと、もう終わらせよう。僕もできるだけの協力をするよアレックス」
まっすぐとアレックスの青い瞳を見据えていった。青い瞳の中のミナトがうるうるとゆがんでいく。泣き出しそうな顔をアレックスは背け、「ありがとう」と小さく言った。
ねえ、田沼。僕も少しは変わってきたのだろうか?
ジーンズのポケットに入れた魔本を握りしめる。しかし返事はない。田沼は眠っているようだ。
「じゃあ、ミナト。君は今日も観客席に行ってくれ。「彼」については帰りにまた話すから」
「わかったよアレックス。仕事頑張ってね」
何気ない握手を交わし、二人は別れた。一人は舞台へ。もう一人は客席へ。再会を約束したつかの間の別れ。
そのはずだった。
ミナトと別れたアレックスは、控室で一人、メイクをしていた。まずは顔全体を白塗りにし、その上から真っ赤な唇を描き、左頬に大きな涙、ティアドロップを付け加える。泣き顔の半面を作り終えたら、右半面を覆い隠す笑い顔の仮面をつける。これでピエロマスクの完成だ。
「よし、今日も良くできた」
いつも通りに顔を完成させると、来るときのミナトとの会話を反芻する。小さいけれど勇気ある日本人は僕とシェリーのために「彼」を倒すのを手伝うと言ってくれた。
なんていい奴なんだろう。
こんなにうれしいことはない。僕はもう殺人を強要されることもなくなるし、シェリーが殺される心配もなくなるだろう。なにより……
「お前のために自分の命を懸けてくれる友達ができたんだぜアレックス?」
鏡に映ったピエロ姿の自分に語り掛ける。
こんなにうれしいことはない。アレックスにとってミナトは何よりの友となりつつあった。
ミナトにも悩みがあるのなら、僕が助けてあげるんだ。
アレックスにはそんな決意すらある。うれしくて仕方がなかった。泣き顔がうれし涙を流すような顔にすら見えてくる。本当に涙が出そうだったかもしれない。
開演五分前のブザーが無機質な音を立てた。それは演者を舞台袖へと呼び寄せる。アレックスも例外ではない。
「さて、本番が始まる」
鏡から目を背け、舞台袖へと向かおうと振り返った。が……
「……!」
振り返ったそこにいた男はアレックスの運命を握っていた。顔の上半分を覆う銀仮面、雪のように真っ白な髪、揺らめき立つような痩身の男。
「彼」だった。
「直接会うのは久しぶりだなアレックス」
「先生……!」
やっと絞り出せたのはその一言。残酷にも「彼」は続けた。
「お前が日本人をかくまっているのは知っている。それも魔本を持つ日本人を。いつまで待たせるつもりだ?」
足元が崩れたような気がした。絶望の声だった。アレックスは泳がされていたのだ。「彼」はすべてを知っていたのだ。アレックスがミナトを「彼」への切り札としてかくまっていたのも、ミナトが魔本『堕天使の懺悔』を持っていることも。そしてアレックスがミナトとともに「彼」を殺す計画を立てようとしていたことも。
「アレックスよ。お前は知っているはずだ。私が一瞬にして、この場にいながらお前の妻を殺すことができるということを。であるからこそ、お前は私に従ってきたのではなかったかな?」
今日、シェリーは休みで家にいる。しかし「彼」にとってそんなことは関係がない。「彼」の能力はたやすく空間の壁を乗り越えられる。
終わった。
ミナトとともに「彼」を殺すことはもうできない。「彼」の能力はあまりにも強力。対策なしに挑んでも勝ち目はない。
「アレックス、私はまだお前を見捨ててはいない」
銀仮面の下、唇に得体のしれない笑みが広がった。
「日本人のガキを殺せ。そして魔本を手に入れろ。そうすればすべてを水に流そう」
それは世界一不幸な選択だった。妻か? 友か?
答えはもう決まっていた。
鏡に映った哀れなピエロは大粒の涙を流していた。それは親友を裏切る絶望か、それとも妻を失う悲劇か、あるいは「彼」の掌の上で踊らされた哀しみか?
もうアレックスに残された選択肢は一つしかない。
笑い顔の半仮面の下、アレックスの右頬は濡れていた。涙を笑顔の下に隠しピエロは舞台へと歩みを進める。
「哀れな男よアレックス。貴様こそピエロだ。私から逃れることはできないのだよ」
決意をにじませる道化師の背を「彼」のせせら笑いが追いかけるのだった。




