不夜城の怪人 第二話 kidnaps 2
ピラミッドにスフィンクス、天まで届くような水の柱。巨大なホテルとアミューズメント施設が立ち並び、人の心を魅了する。蠱惑的な看板は浮かれた旅行者を誘い込み、普段は固い財布のヒモをこのときだけはと緩ませる。ここはラスベガス一の繁華街、通称ストリップと呼ばれる地域である。
漆間、綾崎、ミナトの三人はそれぞれ魔本について情報を得るために、この全長約七キロメートルの繁華街で各々(おのおの)別れて聞き込みをしていた。
「田沼、魔本の気配は?」
「さあ、こう広くてはなんとも」
使えないやつだ。
この一週間、交替で魔本の悪魔、田沼を連れ歩いているが一向に成果はない。漆間の内心を見透かしたのか、田沼はメガネの奥のキツネ目をきらめかせて口を開いた。
「目の前に魔本を持つ者が現れればわかります」
田沼は微笑する。
そして、「目の前に能力者が現れてもわかります」と、付け足した。
田沼はこの一週間この二つのことだけを繰り返している。
「別のことは言えないのか?」
この質問も漆間は二回目、おそらく綾崎も興梠も何度かしていることだろう。
「目の前に出してくれれば全てわかります」
そう言ってメガネの悪魔はただ微笑んでいた。思わずため息が漏れる。魔本や能力者を『目の前に連れてくること』ができれば、今苦労などしていないのだ。漆間は静かな頭痛を感じていた。
「漆間さん、気分転換でもしてはいかがですか? この一週間働き詰めです。ラスベガスはゴールではなくスタートにすぎない。今からその疲れようではこの先いつ倒れてしまうかわかりません」
田沼は指をさした。そこにはこの世の娯楽の全てがあった。カジノ、ショーパブ、レストラン、ショッピングモール、etc、etc、etc……。ほんの少し、小指の先ほどの揺らぎがあれば遊びに行ってしまうだろう。しかし――
「ダメだ。俺たちに休んでいる暇はない」
悪魔の誘いを振り切った。綾崎の寿命は残り一一三日。それが過ぎれば漆間が彼の寿命を奪い尽くしてしまう。自分の半身とも言える友のために、残り五冊の魔本を集めなくてはならない。漆間には遊んでいる暇などはない。
田沼はメガネを軽く持ち上げ、ニヤリと笑った。
悪魔の手招きするラスベガスの娯楽から、漆間は視線を逸らし北へ行こうと踵を返した。すると、
「いたっ!」
足元からでた幼い声が耳をつんざく。ゆっくり視線を落とすと、まだ小学生くらいだろうか、少女が仰向けに倒れていた。
「ちょっと急に振り向かないでよ。擦りむいたじゃない」
ブロンドの少女はまだ小さな手を広げ、漆間に傷を見せつけた。彼をきっと睨む両目はサファイアのように澄んだ青だった。しかし、傷自体は軽いすり傷で大した怪我とも思えない。
「そうか、悪かったな」
いつの間にか田沼は本に帰っていた。少女の傷を治してやろうかと思ったが、少し考え漆間はやめた。日本を出て以来、生命力に余裕はない。それに浮かれた旅行者が大半とはいえ、天下の往来で能力を使いたくはない。怒り顔の少女を残し、立ち去ろうとした。
「ちょっとまってよ。どうしてくれるのよ?」
少女の表情は怒りから驚きと困惑に転じていた。
「どうもしない。もう擦り傷については謝った。それを許すも許さないもお前次第だ」
少女を置いて立ち去ろうとすると、声がそれを静止した。
――漆間さん――
田沼の声が頭に響く。悪魔はこんなことができるのか。
――彼女には魔力の残り香がします――
何? こいつは能力者なのか?
口を閉じたまま、心の中で漆間は尋ねた。
――違います。しかし、魔力の片鱗があるのは確かです――
こいつは手掛かりになるのか?
――わかりません。わかることは二つ――
何だ?
――その少女は魔力の残滓を匂わせている。そして――
そして?
――私たちは今、何者かに見られている――
何者かに見られている。
悪魔の能力には度々(たびたび)驚かされる。集中して探れば、道路を挟んだ向かい、街路樹の裏にスーツを着た不自然な二人がいることはわかる。しかし、自然体でそれを判別するのは無理だった。どうやら『使えない』は撤回したほうがよさそうだ。
見られているのは俺たちか、それとも少女か?
今、重要なのはそれだ。自分たちには追われる理由がある。なら少女には?
わからない。
いずれにせよ、このブロンドの少女は魔本の手掛かりかもしれない。だとすれば取るべき行動は一つのはずだ。
「おい、ガキ」
「ガキじゃない、リタ」
「そうかガキ。すり傷の詫びをしてやる。欲しいものを言え」
「なんなの、そのいいかた?」
「いいだろ別に。欲しいものなら何でも買ってやる。早く言え」
街路樹の裏にいる二人組の男女はなにやら立ち話をしていた。よくある手だ。立ち止まった対象に気づかれないように自然な会話を装う。男女ペアというのもプロっぽい手口である。
「……ホントになんでもいいの?」
腰まで伸びたブロンド髪の少女リタはおそるおそる漆間に確認した。
「いいさ、なんでも。ただしカードが使えるところで、だ」
この少女が何者か知る必要がある。田沼の言った魔力の残滓、追跡者の男女、それらを知るカギはこのリタという少女の正体にある。
「ついてきて」
青い目の少女リタはそういうと漆間を手招きして歩き出した。
「パパがあんまりものを買ってくれないのよ」
バスに揺られること一◯分、リタは漆間に口を開いた。
「いいお父さんじゃないか」
窓の外をチラリと見た。尾行車の気配はない。どうやら手練れらしい。田沼が教えなければ気づきもしなかっただろう。
「でもあんまりじゃない? トモダチみんなスマホ持ってるのにわたしだけ持ってないのよ」
「なんだ、スマホが欲しいのか?」
俺たちも持ってないのに。
「うんほしい。でもそれは今度もらえることになってるから」
「じゃあなにが欲しい?」
青い目が漆間をとらえた。
「ついたらおしえてあげる」
リタは無邪気にほほえんだ。不意に目をそらしたくなった。青い視線がむずがゆい。腹の底に黒いものが堆積してゆく。
「お前、怖くないのか?」
思わず、率直な疑問が口から漏れた。見ず知らずの男にほいほいついて来て、態度も堂々たるものだ。普通は怯えたり、緊張したりするものじゃないだろうか。
「べつに。もしなにかあってもパパが助けてくれるわ。簡単にね」
そんな疑問をよそにリタは窓の外を眺めていた。その姿はどこか退屈そうで、サラサラした金髪が光に溶けて霞んでいた。
「すごいお父さんなんだな」
「まあね」
「お父さんはどんな人なんだ?」
気だるい目がカッと見開かれ、漆間の瞳を覗き込んだ。
「あなたパパのこと知らないの?」
「有名なのか?」
へえ、知らないんだ、とリタは繰り返し漆間を物珍しげに見回す。漆間にしてみれば知るはずもないことだ。リタとは偶然出会ったにすぎないのだから。
「教えてくれ、どんな人なのか」
もしや魔力の残滓の正体か?
「自分でしらべたら? 今までの人はみんな知ってたよ」
それきりリタはまた黙った。
リタに促されバスを降りると、そこはアウトレットモールらしかった。だだっ広い敷地に様々な店々が立ち並ぶ。女性向けの服屋や、北欧の雑貨、果ては家具や楽器、工具類まであった。この敷地のどこかで自動車も売ってますよ、と言われたら多分信じてしまっただろう。それほどまでに広いにもかかわらず、物欲を持て余した人々がそこら中に溢れかえっていた。
「こっちよ」
リタは小さい身体で人の波をスルスル抜けていくが、漆間はそうはいかない。いかにみんな大柄な海外とはいえ、それでも漆間は大きい方だった。なんとかリタを追いかけようと人波の中をもがいたが、肩がぶつかり、すみませんと言うのに精一杯でうまく前に進めない。少女の長い金髪が視界の端に消えようとする。
「リタ!」
振り返った少女の髪がキラキラと揺れた。リタはまた人の間をすり抜け、漆間の元に現れた。
「意外とだらしないのね。ほらこっちよ」
小さく柔らかいものが指先を握った。久しく忘れていた感覚だ。
お兄ちゃん行くよ――
頭の片隅で耳鳴りがした。
リタは漆間の革手袋をした手を引っ張り、混み合う人々の流れの中を力強く引っ張っていった。
「ここよ」
それだけいうと、少女は桃色の店内へと一人進んでいった。
「おい」
呼び止める声は雑踏に消え、伸ばした手は空を掴む。ティーン向けの女性服が並ぶ店内は桃色隠秘の女の砦。メープルシュガー甘く香る女の園は無粋な男の立ち入りを拒絶していた。
ここに入るのか? このピンクの中へ?
少し後ずさりする自分に気がつく。
怖いものか、これくらい。
辺りをさっと見回すと、素早く店内へと入っていった。
「どっちがにあう?」
リタは奇妙に大人びた少女だった。外見は少女そのものなのだが、言葉の端々に大人を少し匂わせている。それはこの少女のある種の達観か、それとも諦念か。その正体はうまく掴めない。しかし、時折見せる横顔が妙に寂しげなのは確かだった。
「ねえ、どっちってば」
かわるがわるに似たような服を幼い身体にあてがった。
「さあ、似たようなもんだろ? 欲しいのは服か?」
「意外?」
「指輪とかネックレスとかって言われると思った」
それかゲームとか。
「そんな高価なもの、あとが怖くてねだれないよ。わたし今誘拐されてるのに」
「誘拐? 誰に?」
細っこい指はまっすぐ漆間を指す。背伸びして伸ばした指先は高めの鼻に届きそうだった。
「俺?」
あの人の仲間なんでしょ? と一瞥し、店員に試着させてください、と言うと服を両手に持って試着室へ入っていった。
あの人とは誰だ?
今は姿が見えないが、例の男女がその部下なんだろうか。だとすれば追われているのは俺ではなくリタか?
そもそもリタは何者だろうか。魔力の残り香を漂わせ、奇妙に達観した少女。父親はどうやら有名らしく、おそらく何度も誘拐されている。
リタ本人に聞けば早いのだろうが、直接的な質問を少女は好まないらしかった。はぐらかされて調べろと言われるのがオチだ。
田沼、聞こえるか。
漆間は心の中で呟く。
――何でしょう――
追手は今どこにいる?
――……、二手に別れています――
別れた? なぜだ?
――わかりません。一人はこの店の右隣の店、もう一人は左隣にいます――
わかった。ありがとう。
追手の男女は左右の店に別れている。やはり手慣れた奴らだと言わざるを得ない。左右の店に別れたのは、漆間とリタがどちらへ行っても一方が追跡を続行できるからだ。来なかった方も一方の連絡でまた追跡に戻ることができる。
右か左か?
綾崎が昔言っていたことを思い出す。
「迷ったら右だ」
漆間がなぜか問うと彼はこう切り返した。
「ゲームのコントローラでもだいたい右は◯、左は×だろ? どうせなら◯を俺は選びたいね」
プレステの話か? と問うと、そうだ、とおどける綾崎を笑ったものだが、今は同感だ。右しかない。
シャッと音が鳴る。
「どう?」
振り返ると、少女が髪をかき上げ決めポーズをしていた。その姿は少女がやるには滑稽で、大人の女性に憧れる子どもにすぎないものである。
「失礼ね。笑わないでよ」
知らないうち微笑んでいた自分にはっとする。大人びたリタの大人になりきれない身体とのギャップにどうやら笑ったらしい。綾崎のいないところで笑ったのは何年ぶりだろう。
「わるかったよ。もう何着か買っていいから許してくれ。それと俺は誘拐犯じゃない」
「ちがうの? じゃああなた何者?」
少女は大きな青い目を丸くして漆間を見つめた。
「漆間。日本人だ。ラスベガスには本を探しにきた。——さあもう一つの服も着て見せてくれ。今度は笑わないでやる」
整った眉を吊り上げ首をかしげるリタを押し込み、シャっとカーテンを閉めると、漆間は素早く駆け出した。ピンク色の服の間を矢のようにすり抜ける。白色光の強い店外に出ると、隣の店へと走った。もちろん右だ。雑多に商品が陳列された右隣の店は小規模な店らしく、ガラス越しの外からは植物が多くて中の様子が掴みづらい。アッシュビーの選挙ポスターも邪魔だった。反対に中からは外がまるわかりである。慎重さはかなぐり捨て、獲物を求めるケモノのように店内に入った。
さて男か女か?
窓ぎわに佇むのは二人、一人はブルゾンを着た女、もう一人は黒スーツの男。
男だ。
男は未だ漆間に気づいていないのか、それともそもそも漆間など眼中にないのか、観葉植物の間から見える店外の様子と、右耳だけに挿したイヤホンに夢中である。男に気づかれぬよう足音を消して忍び寄る。背後から一歩一歩。
「動くな」
漆間はまっすぐ伸ばした二本の指を男の背中に突き立てた。右手で男の肩を掴む。
「女のほうも聞こえているだろう、動くな。動けばこの男は死に、お前の方に行って質問しなければならなくなる」
田沼、女のほうに動きがあれば教えてくれ。
漆間は心の中で呟いた。わかりました、と頭に響く。
男は都合のいい位置にいてくれた。店員からは花の種子の陳列棚で見えづらく、外からは植物が邪魔で様子を伺うことはできない。唯一目撃者となりうるブルゾンの女はすでにどこかへ去っていた。
「お前たちの狙いは俺か、リタか?」
男の首筋には汗が浮き出ている。背中には冷や汗が垂れているに違いない。狙い通り、背中に突きつけた指を銃だと思い込んだらしい。
「答えろ」
漆間は突きつけた中指と人差し指で男を小突く。男の背中に緊張が走った。首筋を汗の粒が滑り落ちる。
「お、お前なんて知らない」
「ふん、リタが目的というワケだ。なぜ追っている」
「い、言えない」
背中に突きつけた指を上下に動かす。背骨に沿ってゆらりゆらり、男の背中を甘く撫でた。男の肩が震えだす。
「し、知らないんだ!」
「ほう、では女の方に聞くか」
指を背骨から少しずつずらし、左へ左へと進んでいく。男の呼吸が荒くなった。揺れる肩を右手で抑えつける。突きつけた指がピタリと止まった。男はいよいよ全身を震わせはじめた。そこは心臓の真裏だ。
「上司の命令なんだ! 本当に知らない! お願いだ、撃たないでくれ!」
男は命乞いの刹那、振り返ろうと首を傾けた。そしてガラスに映る二人を見てしまった。
ここまでか。
背中に突きつけられたものが銃ではなく指だと気づいた男はすぐさま全身を反転した。左脇のホルスターから黒光りするホンモノの銃が飛び出す。
漆間は右手の手袋に指をかけた。一気にそれを引き右手が露わになる。闇を纏った右手。死を感じさせる黒い右手。
男は引鉄に指をかけた。漆間の右腕に狙いを定める。
しかし、漆間が一瞬はやい。黒い手が男の視界を覆い、それが顔全体を包み込む。寒気のするような冷たい感触が広がる。
ズキュゥゥゥン
スーツを着た精悍な男は姿を消し、代わりにひなびたミイラが現れた。
「カーマイン! カーマイン!」
ミイラの耳からこぼれ落ちたイヤホンから、女の声が叫んでいる。
――漆間さん、女が動きました――
どこへ?
――さっきの店に入っていきます――
漆間は掴んでいたミイラを投げ捨て、すぐさま雑貨屋をあとにした。視界の端にスーツの女をとらえると、あとを追ってメープルシュガーの店内へと飛び込む。桃色の店内では目標はすぐに見つかった。無粋な黒スーツを着た女は漆間同様に目立ち過ぎる。女は一通り店内を見渡したあと、試着室に目をつけたらしい。フリフリした服の間を縫うようにそこへ近づいていく。
漆間は出たとき同様、矢のように飛んだ。走る漆間は墨筆で引かれた線のようだった。試着室のカーテンを端から開いていく女に追いついた。ちょうど中を確認し終えた女が次のカーテン、すなわちリタのいる試着室に手を掛けようとしている。
漆黒の弧が宙に舞う。女の顔を捕らえると、リタの試着室から引きずり離し、隣の試着室へ放り込む。漆間はその中に入るとシャっとカーテンを閉めた。
女は頭を打ち、視界に星が散っている。ふいに女の前から光が消えた。手のひら大に拡げられた闇が迫っていく。
ズキュゥゥゥン
漆間は手袋を付け直し、シャっとカーテンを開け外に出て、また閉めた。
隣のカーテンがシャっと開いた。
「汗だくね、なにしてたの?」
「別に。軽い運動さ」
訝しげに目を細めたリタに、息を切らしながら漆間は答えた。
「あなたホントに誘拐犯じゃないの?」
服の入った大きな紙袋をリタは両手で持っていた。漆間がカード払いしたものだ。
「違うって言ってるだろ。誘拐ならカードなんて使わない。脚がつくからな」
漆間は懐におさめた拳銃を確かめる。ベレッタ、男の持っていたものだ。身分証でもないかと探ったが、二人とも持っていたのは銃と幾らかの紙幣と、チップ用の小銭入れだけだった。
「まあいいわ、ありがとう。お礼はいっとく」
細い金髪をサッと振りまくと夕焼けの中に溶けて消えた。リタの背後で大噴水から数条の水柱が立ち登り、しぶきが光を乱反射する。屈折した光に染まる茜空は赤、橙、黄と、太陽を中心に広がっていく。漆間の背にはすでに闇が迫っていた。
「そういえばあなたの名前、なんて言ったっけ?」
サファイアのような両目が覗き込む。
「漆間だ。さっきも言っただろう」
「聞いてなかったのよ、しょうがないでしょ」
ぷいっとそっぽを向く少女に遅れて、黄金の髪がゆらりと舞った。
「一つ聞いていいか?」
「なに?」
リタの頬にえくぼが現れ、白い歯がキラリと光る。
「お前は誰に追われているんだ?」
白い歯は隠れ、えくぼは消えた。
「どうして追われている? お父さんは何者だ?」
いつの間にか噴水は静まり、水を緩やかにたたえている。太陽が最後の閃光を放ち、地平線に没した。闇夜に包まれた街はきらめく星々を地上に灯し始める。彼方からアッシュビー、と歓声が滲み、二人に届かず雑踏に紛れた。眠らない街の狂乱は続く。
「……それって、あなたに何かカンケイあるの?」
長い沈黙の後、小さな口から発せられたのは遠回しの拒否だった。
やはり直接的な質問は好まれない。夜風は少女の表情を凍てつかせていた。
しかし引き下がれない。
綾崎のため、魔力の残滓をもつ少女を逃すわけにはいかない。
「俺は親友の命を助けるために『堕天使の懺悔』という本を探しに日本から来た。中に悪魔が住んでいる本だ。リタは、リタのお父さんはその本の手掛かりを持っているんじゃないかと俺は思っている。教えてくれリタ。お前は魔本を知っているんじゃないか?」
水面に映るホテルの姿は二人の間の壁のようだった。隔たりは漆間の背よりも高く、乗り越え難いものに思える。
水面が勢いよく裂けた。紫の光が水柱を染める。次は藍、その次は青。流れる音楽に合わせ、七色の水柱が空に舞う。人々がライトアップされた噴水の美しさにわあっと声をあげた。しかし、漆間は目の前の少女から目を離せなかった。ラスベガスの贅と華麗の極みたる噴水の隣ですら、黄金の髪はなおも輝き、サファイアの目は力強く見つめている。
「私は……」
少女の口から微かにもれた。
「私は、そんな本のことは知らない」
絞り出すように放たれた言葉は、期待を裏切るものだった。
「そうか……」
「役に立てなくてごめん」
「いいさ、また探すだけだ。——もう遅いから送ってやる。家はどこだ?」
「いい。一人で帰れる」
「わかった。もし、何かわかったら教えてくれ。俺たちは見つかるまであのホテルのスイートに泊まってるから」
漆間は噴水の奥の巨大な建造物を指した。青い目がギョッと見開かれる。
「そのときはネックレスとか指輪とか買ってよね」
悪戯っぽくリタは微笑み、冗談よ、とまた笑った。
「友だち、助かるといいね」
「ありがとう」
大きな紙袋を抱え、リタは手を振り去っていった。残された漆間の肩に重いものがのしかかる。これは疲労か、それとも惜別か?
「気分転換になりましたか?」
いつの間にか姿を見せた田沼が微笑して問うた。田沼の本音はいつもわからない。
「まさか……、ウソか?」
田沼はリタに魔力の残滓を感じるといった。
キツネ目がメガネの奥で煌めく。
「私がわかるのは二つだけ」
目の前に魔本が現れればわかること、能力者が現れればわかること。
漆間は舌打ちした。
「ムダな時間をとらせやがって」
田沼は微笑んだ。
漆間は黙って魔本を閉じた。
「いいニュースと悪いニュース、どっちから聞きたい?」
ジーンズ生地のジャケットを羽織り、シチリア製のコッポラ帽を被った男は唐突に切り出した。
「毎度言わせるな。簡潔に話せ」
スマホから流れる声は静かな迫力を漂わせている。ジージャンの男はつまらないなといった風にかぶりを振ると、要件を伝える。
「ミモザとカーマインがやられた」
「まさか「彼」が現れたのか」
もしかして「彼」が現れることを期待しての誘拐作戦だったはずなのに、電話の向こうの声は意外の成分を含んでいた。
「いや、やったのはアジア系の奴だ」
「アジア系?」
「そう、それに」
ジージャンの男、インディゴはわざともったいつける。声の主がイライラとこめかみをヒクつかせる姿を思い浮かべ、口元をほころばせた。
「はやく話せ」
「それに、そいつは能力を持ってた」
今度は明らかな動揺が電話口から伝わってくる。ガタガタと椅子から立ち上がる音が聞こえる。
「そいつは何者だ? なぜ能力を持っている?」
「さあ。「彼」の手下とか?」
インディゴはヘラヘラと答えた。
「ありえん」
まあそうでしょうね、とインディゴはうなずく。仮に腹心の部下だとしても少女を人に任せる「彼」ではないし、少女を救う「彼」でもなかった。
「まあいい、そいつをつけろ。何かわかるかもしれん」
「了解」
言われるまでもなく居場所は確認済みだ。すでに双子に監視させている。インディゴが通話を切ろうとしたとき、向こうから再び声が聞こえた。
「ひとついいか?」
「なんです?」
「いいニュースはまだか?」
インディゴがニヤニヤと、俺の口内炎が治った、と伝えるとプツリと通話は切られた。
「遅かったじゃねえか漆間」
空席の多い不人気なレストランに入ると精魂尽き果てた綾崎が待っていた。彼の顔が普段よりも暗いのは薄暗い店内の一際薄暗い席に陣取るからというだけではなさそうだった。いつも通り魔本について収穫がなかったようである。
「興梠はどうした?」
一日中の無駄な足掻きに疲れ果てた綾崎は、俺に聞くな、とばかりに手を振った。
いつもならもう店に来ているはずだった。ミナトは真面目な男だ。はじめ、レストランへは夕暮れに集まろう、と綾崎が適当に決めようとしたのだが、時間にうるさい漆間の提案で午後七時と正確に決まった。それ以来、ミナトはその一◯分前には到着し、必ず二人を出迎えた。そんな彼が来ていない。今はもう八時である。
「お客さま」
背後からの声に振り返る。視線の合わない不気味なウェイターが抑揚のない低い声で漆間に話しかけていた。
「注文なら昨日と同じでいい」
「いえ、注文ではございません」
ウェイターはまた単調な声で話し出す。おそらくこの無愛想なウェイターもこのレストランが不人気な理由の一つだろう。一週間の通い詰めで、彼とはすっかり顔なじみなのだが、初めて会ったときと全く変わらない接客をしている。
「ならなんの用なんだ?」
綾崎はこのウェイターを嫌っていた。単純な話、うまくいかずに苛立っているときに見る顔がこの男の顔であるからだ。綾崎はそれだけでなく、魔本の情報が得られない、そのことをこのウェイターの顔が能面のようだからだとまで決めつけているようだった。
「お手紙を預かっております」
誰からの?
ラスベガスに知り合いはいない。いるのならこれほど苦労する必要はなかった。
「はん、そりゃどうも」
それを知ってか知らずか綾崎はぶっきらぼうに答え、ウェイターから手紙をひったくった。漆間がチップを渡すとウェイターは去っていく。やつはNASAで造られたサイボーグか? なんて軽口をウェイターの背中にぶつけながら、手紙の封を乱暴に切った。むしゃくしゃをぶつけるかのようだった。
「これは……!」
綾崎が目を見開く。取り出したのは写真だった。裏には何か文字が書いてある。
「どうした、俺にも見せろ」
眉をひそめる彼から手紙を受け取ると、裏に書かれた文字が見えた。
——〇〇通り△△ビル五階、明日三時
「——?」
首をひねりながらも漆間は写真のオモテを見た。彼の眉間にもシワが寄る。
「興梠のヤロウ、何厄介ごとに巻き込まれてんだよ……」
打ちっぱなしのコンクリートの広い空間に木製のシンプルな椅子。そこに縛られているのは口にガムテープをされたミナトだった。写真の右隅には赤黒い、ドロッとしたもので『一◯◯万ドルcash only 』と書かれている。それはわずかに鉄っぽい香りがした。
血だ。
「どうするよ、漆間」
綾崎は髪をくしゃくしゃにし、漆間を苦りきった表情で見上げた。漆間は舌打ちをする。
何もかもが予定外だ。今日はなにか調子が狂う。
「行くしかないだろうが」
綾崎の目がキリッと輝く。彼は本当に切り替えが早い。能面のようなウェイターに注文を告げると、漆間に座るように促した。何をするにも腹ごしらえ、それにことが起こるのは明日の三時、ジタバタしても仕方がないというわけだ。
幸か不幸か、一週間の停滞は打ち破られた。興梠ミナトの誘拐という形で。
ラスベガスの夜はまだ始まったばかりだ。




