黄昏の序曲 第一話前編 願いの悪魔の名は田沼
こちらは日本編
「もう行かなくてはなりません」
それは幸福な世界。
永遠に降り注ぐ朝の暖かな陽光、空の恵みを乱反射して地平線まで広がる爽やかな草原、そして優しく吹き抜ける風。
そこは天国のような場所だった。
いや、これは正確ではない。その世界は彼の天国を模倣して創られたのだ。記憶の糸を手繰り寄せ、寂寥と郷愁を織り込みその世界は一冊の本の中に創られたのだ。その本の名は『堕天使の懺悔』。そしてこの偽の天国を創り上げたのはその世界のたった一人の住人だった。
果てのない草原にその男は立っていた。沈まぬ太陽の光を背に受け、その世界にただ一人立っていた。執事服に丸メガネの整えられた正装は、黄金色の草原には不釣り合いで、彼の存在を一層際立たせていた。メガネから覗くキツネ目は、これもまた不釣り合いな憂いをたたえている。
彼は呟いた。もう行かなくてはなりません、と。彼は自分の物語の終わりを予感していた。
とある秋の日の午後、二人の男が探偵事務所を訪れた。
「なんて読むんだ? これは」
「コオロギ、興梠ミナトです。宮崎にはよくある名字ですよ」
窓から差す陽が小さな探偵事務所を茜色に染める頃、漆間夜一と綾崎京二の二人は探偵に依頼していた物探しの報告を受けていた。ここは赤色のアロハというド派手な格好をした探偵がヘラヘラと一人で切り盛りする小さな事務所である。アロハの男が差し出した資料と、童顔の男が写った写真を漆間と綾崎はジックリと見ていた。
漆間夜一は二十歳、彼は長い黒髪が特徴的な男で、黒っぽいロングコートを愛用していた。よく怖い顔をしていると言われるが、それは彼が高身長であり、大抵の人が彼を見上げる姿勢になってしまうため威圧感を覚えるからである。もっとも、実際彼が怖い顔をしている場合も多いのだが。
「本当にこいつが魔本を持ってるっての? てか、男か?」
綾崎京二も同じく二十歳、少し明るめの茶髪で耳には小さなピアスをしている。身長は漆間より少し低く一八◯センチ弱ほどで、女好きな男だった。必ずしも女性から好かれるとは限らなかったが。
綾崎は写真について探偵に疑問の声をあげたが、無理もない。それほどまでに写真の男?はあまりに普通で彼らが探している魔本を隠し持つようにはどうしても見えない。外見が中性的である、という以外は普通である。男は文具メーカーの会社員らしく、経歴も特筆すべきところはどこにもなかった。
「綾崎さん、もっと私を信用してくださいよ」
そう言って探偵が差し出したのは随分古い写真だった。魔本「堕天使の懺悔」を持った背広の男が隠し撮りされているものである。二人が探偵に依頼したのはこの魔本の捜索であった。
「その辺りは信用している」
写真を探偵から受け取り漆間は言った。見た目こそラテン系でその上アロハという胡散臭さの極みのような探偵だが、その手腕はかなりのものらしい。少なくとも彼の同業者はそう言っていた。それに、漆間と綾崎の二人は魔本の情報をそれほど与えられなかったにも関わらず、探偵が魔本の写真をどこからか入手したことからも彼の実力は明らかだった。
一方、綾崎はどこ吹く風、くだらないことを探偵に確認していた。
「なあ、本当に男?」
「そうですよ、十二枚目を見てください」
「うわ、マジかあ…」
十二枚目を見た女たらしは露骨にぐえっという顔をし、十三枚目を見てもったいねえなあ、と呟いた。
「男か女かなんてどうでもいい。重要なのは魔本をこいつが隠し持ってるってことだ」
たいした問題じゃないだろ、魔本を見つけることに比べれば。
綾崎の女好きな部分を漆間は気に入らなかった。この二人はいったいなぜ共に行動しているのであろうか? それほどまでに何もかも違う二人であった。しかし——―
「そうだな。さっさと終わらせちまおう」
綾崎は驚くほど切り替えがはやい。先ほどの女好きは鳴りを潜め、目の前の仕事に向かうサラリーマンのようにクールな表情になった。漆間の苛立ちは気にもとめていない。この綾崎の潔さが二人をなんとか繋ぎ止めているのかもしれなかった。
アロハの男に礼をいい、「興梠ミナトの部屋」に向かおうとしたとき、探偵がそういえば、と彼らを引き止めた。
「なんだ?」
二人同時に探偵に返事をする。
「興梠は二人組の男に監視されています。おそらく公安に」
本来であればここは驚くべきところだった。しかし漆間たちは驚かない。
「確定だな。しかも急いだ方が良さそうだ」
公安は魔本、およびそれによって生まれた能力者を追っている。漆間と綾崎も少し前まで二人組に追われていたのだ。
「奴らしつこいからなあ。大切なことを教えてくれてありがと」
綾崎は探偵と握手を交わした。
「サービスですよ」
綾崎と握手をした流れで今度は漆間に右手を差し出した。ひと仕事終えた男はにこやかである。
「世話になったな」
漆間も右手を差し出す。しかし、探偵はとたんに顔をしかめた。原因は明らかだ。
「手袋越し、ですか?」
漆間は普段から革手袋をしている。そしてそのまま彼と握手しようとした。それがこのアロハの探偵には気に入らないのだ。しかし、この探偵のためにも彼は手袋を脱ぐわけにはいかなかった。握手をするのが右手ならばなおさらだ。
漆間の手袋の下に隠されたもの、それはこの二人の旅の目的であり、原因であり、なにより助けでもあった。
短い葛藤が夕焼けに染まる事務所を静寂に包んだ。数秒に満たない沈黙だった。しかし終わるまでは永遠に感じられた。打ち破ったのは綾崎だ。
「ああー、漆間は昔ひどい怪我をしてしまってね。だから手袋を取れないんだ。だから、ね」
綾崎は持ち前の明るさで、説明めいた嘘をつく。しかし探偵は納得しないのか、鷹のように鋭い目で漆間を睨んだ。疑り深い目、裏に潜むものを見透かそうとする強い意志を持った瞳だ。この目の前では息を吐くことからも何かを知られてしまうのではないか、そんな目だ。息の詰まる張り詰めた空気が事務所に立ち込めていた。間を取り持とうとした綾崎の笑顔はこわばってしまっている。
「そうでしたか。これは失礼なことを申しました。どうかお許しを」
刹那の鷹であった探偵はアロハを着た陽気な男の表情に戻っていた。彼らはホッと胸をなでおろす。綾崎のいうことを信じた訳ではないが何か理由があるというのは理解したらしい。この探偵が優秀であるという一端を見た気がした。
「今度こそお別れだ」
漆間は探偵と手袋のまま固い握手を交わした。
「またのご依頼お待ちしております」
探偵は事務所の玄関まで見送ってくれた。漆間と綾崎は去っていく。
「ヤバイヤバイ、ああいう奴らは関わりすぎるとロクなことがないぜ。全部忘れてケツ掻いて寝よっと」
離れていく二人の背を横目で見やりそう呟くと、アロハの男は夕空に向かって欠伸をした。
警察を名乗る二人組が「興梠ミナトの部屋」を訪ねてきたのは夜だった。
「暴力で無理やり連れて行かれるのと、自分からついてくるのとどちらがいいかな、興梠君?」
穏やかな口調で話すオールバックの男はすでに勝利を確信している。
秋雨の季節にも関わらず雨の降らない夜、少し広めな単身者用の賃貸物件の一室に三人の男がいた。
その部屋はその中の一人、興梠ミナトの住居である。そこは二年前、就職を期に母親の、もっと安いところでいいんじゃない? という反対を押し切り、もう子どもじゃないんだから、と借りたちょっといい部屋であった。はたして母親の危惧した通り、そのちょっといい部屋は会社員興梠の給料の大半を飲み込んでいき彼は少し後悔していたが、親に大見得切った手前引っ越すことができないでいる。
そんな部屋に突然の来訪者が現れたのは太陽が山の向こうに沈み、ちょうど夜が訪れた時だった。
一人暮らしの自室の真ん中でレスラーのような短髪男に、丸太のような腕で興梠ミナトは羽交い締めにされていた。ミナトのきつく締められた腕は象牙細工のように繊細で、サラサラとした髪は少女のように無垢だった。小柄な彼はとても二四歳の成人男性には見えなかったが、ミナトはもう自立した大人である。その彼が自室の中央でレスラー風の大男に拘束されているのはなぜなのか? それが今彼自身一番知りたいことだった。
「どうしてこんなことするんです?」
冷静に問いかけるミナトはなんだか間抜けな心持ちである。しかし彼は金とか宝石とかいう答えを期待して尋ねた。もしそうなら、ないと分かれば出ていってくれるかもしれない。後ろではスピーカーが流行りの音楽を垂れ流している。
「いやなに、付いて来ればわかるよ。だから、ね?」
ミナトに向き合った男は優しく、そしてねっとりと言った。整髪料でキッチリ固められたオールバック男の、角縁メガネから覗く鋭い目はお願いではなく命令をしている。
「うちの実家は金持ちじゃありませんよ」
誘拐したって身代金なんて出ないぞ、そう続けるのは情けない気がする。しかしミナトはあくまで金目当てだと考えていたし、そうであって欲しかった。
「別に興梠君の実家に興味はないよ。君が付いてきてくれるだけでいいんだ」
男はあいも変わらず優しく告げた。
もしやオールバックとレスラー風の目的は金じゃないのか?
金銭目的じゃないとしたら何が目的なんだ?
五線譜上では一小節ほどの小休止、ミナトの脳細胞は一つの映像を紡ぎ出す。それは部屋の隅に置かれた小さな本棚。
「さあ、行こうじゃないか。俺たちは別に金なんかいらない。君がきてくれるだけでいいんだ」
オールバックの優しい誘いにミナトはただただ怖ろしさを感じていた。金目的でもなければ身代金目的の誘拐でもない。ただ自分に付いてきてほしいとだけ言っている。
そんな曖昧で疑わしい誘いに誰がついていくのだろうか?
やはり目的はあれなんだろうか。
彼の頭の中に浮かぶのは一冊の本。だとすればなぜ自分が持っているとわかったのか?
耳元でレスラー風の男は息を荒げていた。ミナトの細腕を締めつける筋肉質な腕は少しも緩まない。決して逃さない、その意志が丸太のような腕を律しているようだった。しかし、この荒い呼吸はなにか? それはまるで何かを期待するような息づかいで、狼が獲物の前で牙を研ぐような不気味さがあった。
「う、腕を離してください。それからでなければどこへもついて行きません」
そう言ったミナトの声は震えている。彼はこの荒々しい二人組について行く気はなかったが、羽交い締めにされて腕が不自由なままではどうしようもない、わけではなかったが、状況を少しでも好転させたかった。
なんとかせめて両腕が自由ならば。腕が自由なら二人組の警察を倒せるかもしれない。いや、倒せる。それだけの能力がミナトにはあるのだ。
「離してやれ」
意外な展開だった。
オールバックが冷たくそう言うと、ウス、と応じるレスラー風は丸太のような腕の緊張を解きミナトの象牙細工のような腕を解放した。彼の細腕はギリギリと痛んだが、なんとか腕が自由になった。ミナトは二人の様子をチラリと伺う。レスラー風はどこか意気消沈した様子であり、オールバックはなぜか退屈そうである。少し不思議に思ったがそんなことは関係ない。何とかしなければ。ミナトのその意志が彼に行動を促した。
足元を見る。レスラー風もオールバックもカーペットの上に乗っていた。これならカーペットを使えばよさそうだ。なんとかそれだけで済むかもしれない。
だけど——―
僕にできるだろうか。この凶暴そうな二人から君を守れるだろうか?
それに僕は————いや。
教えてよ田沼。
——―ヤるしかねえだろうが。
ミナトは聞こえるはずのない声を心の中で呟いた。彼のいう田沼とはいったい誰か?
ミナトは二人の男に見つからないよう、こっそりと両手の親指と中指を合わせた。指を鳴らすためだ。彼の特別な能力は指をパチンと鳴らすことで発動する。
しかし彼は怖れてもいた。
―——何を?
だが、やるしかない。額に流れる汗を感じながら慎重に右手をカーペットに向け、数を数える。
三、二、一……
彼は親指から中指を滑らせ始めた。ところがその瞬間——―
「おおっと、そうはさせねえ!」
「ぐぅっふぅ…!」
レスラー風はミナトの放つ反抗の気配を読み取り、視界に星が散るようなボディブローを一撃した。開いた口からよだれがカーペットにたらんと垂れる。レスラー風は今度はミナトの親指同士を片手で握りしめた。レスラーのような短髪男に、無理やりに握られた親指の痛みと鳩尾に入った一撃はミナトの心を折るには十分だった。ミナトはそのささやかな反抗心さえ根こそぎ刈り取られてしまったのだ。
「君の能力が指鳴らしで発動することは聞いている。余計な気を起こさないように縛らせてもらうよ」
結束バンドを取り出したオールバックはレスラー風が締め上げているミナトの親指どうしを後ろ手にそれで拘束した。きつい輪ゴムで縛ったように血が指先に溜まっていく。みるみるうちに親指は赤く染まり、パンパンに腫れ上がった。
「あいにくと、仕事柄君のような物分かりの悪い者の扱いには慣れていてね」
ミナトは腕を振ろうとした、が動かない。彼を後ろ手に拘束している結束バンドは手錠の代わりでもあるらしく、もう両手はおろか両腕すら自由に動かせそうもない。当然、能力を発動するために指を鳴らすこともできなくなった。
「へへっ、大人しくしな。おまわりには従うもんだぜ」
レスラー風が背後にまわった。ミナトの細腕を彼の顔よりも巨大な手でギチギチに捕まえている。
終わりだ。
部屋の片隅の本棚を思い浮かべた。
ごめん、田沼。守れないかもしれない。
この場にいない者の名を心の中で呼び、謝った。ミナトは静かにうなだれていた。絶望が痛みとともに染み渡っていく。
ハァ、ハア……!
突然、背筋の寒くなる音が耳を掠めた。先ほどよりも荒々しい息がミナトの首元に吹きかかってくる。レスラー風のものだった。熱を持った吐息は興奮を含んでいて、首筋を生暖かい舌先で舐められるような不快感に襲われた。
ミナトはオールバックをおそるおそる見た。オールバックはもう退屈そうな顔はしていなかった。狩で獲物を見つけた貴族のように、女の裸体を前にした男のように彼の瞳はギラついている。
「しかし興梠君、残念だよ。俺たちは君のことを信じたって言うのに」
コツコツ、とゆっくりこちらに向かって歩きながら男は言う。歩くオールバックの声は少しも残念そうではなく、むしろ興奮と愉悦を含んでいる。
「君は俺たちの言うことは信じてくれないらしいね。警察の言うことが信じられないのかい?」
「へへっ、よくいうぜ」
悲しそうな顔を作るオールバックにレスラー風は意地悪く笑っている。
「興梠君、君には反省してもらわなくちゃならない。君は俺たちに、警察に向かって反抗したんだ」
オールバックはミナトの顎を優しく持ち上げ、彼の左耳に囁くように言った。耳にかかる吐息はザラザラと耳障りで、気色悪い熱が伝わってくる。
「それはどうしてついて行かなきゃならないか教えてくれないから……」
「黙って聞きやがれ」
ドスの効いた声でいうレスラー風に腕をグッと引っ張られた。いつの間にかオールバックは目の前に戻り、ミナトをまっすぐに見つめ舌舐めずりをしている。オールバックの瞳はメガネの奥でサディスティックに輝いていた。ミナトの背後で、右腕を痛いほどに掴んでいるレスラー風も、未だ荒い吐息を首に吹きかけている。きっとレスラー風の瞳はオールバックと同じようにギラついているに違いなかった。
「反抗したというのは、仮について来てくれたとしても君が途中で逃げるかもしれないということだ。わかるかい?」
わからない。ミナトは訳がわからなかった。
「逃げられたら困るんだよ俺たちは。だから君には従順になって貰う」
ミナトは耳を疑った。もう彼には少しの反抗の意志もなかった。唯一の秘策だった能力も封じられ、一切の抵抗の手段がない。ミナトは全てを諦めてこの二人組について行くしかないのだ。
「君のせいだよ、興梠君」
強い口調だった。疑問に思うミナトの心を威圧する強い口調。オールバックは指をポキポキ鳴らしている。レスラー風の吐息はもはや耳で捉えられるほどの大きさになっていた。荒い呼吸は長い間待てをされていた
犬のものに似ている。
「そんなに反抗されたんじゃあねえ、やはり暴力でついてきてもらうしかないじゃないか…!」
オールバックの拳がミナトの顔にヒットした。ドッジボールを顔で受けた痛みに似ていたが、拳に込められた悪意はボールの比ではない。
「フハハ、綺麗な顔が台無しだぜ」
レスラー風は下品な笑い声でオールバックを囃し立てた。なぜだか血の匂いがしている。
今度はオールバックの蹴りがミナトの頭にヒットし視界が揺れた。続けて鳩尾にひざ蹴りを叩き込まれる。こみ上げる嘔吐感に耐えきれず、通販で買ったカーペットを汚した。代わってくれよと抑えきれない興奮を露わしていうレスラー風に、オールバックはもう少し待て、まだ反省してないようだと上ずった声で応じ、またミナトの繊細な髪をおさめる頭を蹴った。グラグラと揺れる頭は鈍い痛みでぼうっとしている。
ああ、そういうことか。
ミナトは心の中で納得する。確か彼らは曲がりなりにも警察官らしかった。公然と暴力を振るうにはそれなりの理由が必要だ。例えば相手が抵抗するとかそういった理由。オールバックとレスラー風は待っていたのだ。ミナトがなんらかの抵抗をするのを。理屈なんてどうでもいいのだ。どうやらミナトのあまりにもささやかな反抗心はこの二人組に公然と暴力を振るう口実を与えてしまったのだ。
どうしてこうなってしまったんだ。
オールバックと交代し、今度はレスラー風がミナトを殴っていた。レスラー風の巨拳はミナトの頭ほどもあり、ぶつかるたび鐘つきを顔で受けるような衝撃に襲われた。鼻、目、歯と次々にミナトの美しい顔を構成する要素は壊れていき、赤くはれて醜くなる。
誰か助けて。
薄れゆく意識の中、ミナトは思わず部屋の隅にある本棚の方に目がいきそうになり慌てて俯いた。鼻血がポタリと白いカーペットに垂れると、先ほどの吐瀉物の上で滲んだ。
レスラー風がうずくまるミナトの脇腹を、スラックスに収まりきらない屈強な脚で蹴り上げた。仰向けに転がされると、ギラついた四つの目が僕を見下ろしていた。二つの口は嗜虐的な笑みを浮かべている。
怖い。このまま嬲り殺されてしまうのだろうか? それは嫌だ。
家族に別れも言っていない。恋人はいない。友達も田沼しかいない。友達はそれで十分だけど。だけど嫌だ。だからこそ。田沼に別れも言えずに死ぬなんて嫌なんだ。
だけど——―
見つからなくてよかった。この二人組が見つけなくてよかった。田沼が知られればもっと恐ろしいことになる。田沼が僕の前から消えてしまう。
きっとこの二人組は探しにきたのだ。願いを叶えてくれる魔本を。魔本「堕天使の懺悔」を。そしてその魔本から現れる悪魔、田沼のことをきっと探しにきたのだ。
僕は友達を奪われたくない。
田沼は僕の友達だ。
だからこれでよかったんだ。
――本当か?
興梠ミナトは降りしきる拳の雨に耐えながら心の中で繰り返していた。