武闘会
ワールド記念ホール。青葉の組斬の部控室。選手たちの抑えきれない興奮で、青葉の組の控室にも関わらず室内は熱くて堅い鬼気にも似た空気が満ちている。出場選手と運営スタッフ以外は立ち入り禁止。出場選手は三十二名。会場には青々とした畳が一面に敷かれ、畳の上には白く太い線で四つの桝が描かれている。桝は十メートル四方。ここでまずトーナメント表の出場番号一番から八人ずつ五分一本の試合を行う。引き分けや判定はない。勝負が着かなければ休憩を挟まずに三分の延長を行う。延長でも勝負が着かなければ一分の休憩を挟んで後は勝負が着くまで再延長を行う。
初戦開始時刻は九時三〇分。選手たちは出場順に関わらず九時までには受付と身体検査を受けることになっている。女子選手も身体検査と着替えだけは別室だが、その後は同じ控室で待機することになっている。雄の匂いの中に微かに香水が香るのはそのせいだろう。男子選手の中には嫌う者もいるが、龍彦は不思議と気にならない。部屋の壁の掛け時計は九時一〇分を差している。あと五分すると最初の八人が試合が行われるアリーナに移動することになっている。
選手たちは全員自前の外装鬼甲帯を着けている。まだ鬼力を使えない選手たちだが、皆自分専用の鬼甲帯を持っており、普段から着用しながら体に馴染ませていくのだ。そして基本的には一生同じ鬼甲帯を修理しながら使い続けることになる。自分の鬼風が十分に染み込んだ鬼甲帯は動きの邪魔をしないどころか体の動きをサポートしてくれる。力のある鬼士は自分の鬼甲帯を傀儡人形のように操ることができるほどだ。まだ鬼力を使えず、重力渦も作れない虫持ち達だが鬼甲帯には防弾、防刃機能もある。木剣を使うとはいえ真剣勝負では大きな事故も起こる。紅珠武闘会では事故防止のため外装鬼甲帯と鬼甲帯と同じ素材で作られた面防具を着けることになっている。龍彦も自分の鬼甲帯と面防具を持ってきている。高校入学の際に買ってもらったものだ。陽造と一緒に青光院と縁の深い鬼甲職人に頼んだのだが、湧爾郎の口利きがあったとはいえ、外装鬼甲帯と面防具、手袋に長靴で三万五千円だった。高級セダンが一台買える金額だ。なおかつ成長期が終るまでは毎年直しが必要になる。大卒初任給が千五百円、年収2万円程度なのだから龍彦のような一般家庭に育った者にとっては結構大変な額だ。実際ローンを組む者も多い。鬼士になればこれに加えて刀などの得物も持たなくてはならない。家に代々受け継がれるような剣があればよいが買うとなると鬼甲帯どころではなくなってくる。精錬鬼道士になればマシンメイドの大量生産品を使うわけにもいかない。少々の鬼道士手当などあっという間に消えてしまうのだ。スーツにネクタイ姿の民間鬼士団や剣も制服も支給される警察や自衛隊に入る鬼道士が増えるのも頷ける話だ。
武闘会では自分の剣ではなく、主催者の用意した木剣を使う。様々な種類の木剣から自分の手に合う物を選んで使うのだ。太刀から短刀、薙刀、槍はもちろん、めったに使う者はいないが斧や手裏剣まである。事故防止のために得物にはすべてシリコンラバー製のガードが被せられている。その上で鬼甲帯の上からベスト型のシリコンプロテクター、肘膝脛を保護するガード、面防具を着ければ大きな事故はほぼ予防できる。
龍彦は同じ青光院である御苑流の左古武蔵のアップを手伝っている。左古は龍彦と同学年、二月生まれのため齢は一つ下になる。すでにプロテクターを付けており、後は面防具を被るだけの恰好だ。
「ふうっ― サンキュ龍、もういいよ」
額に軽く汗を滲ませた左古がタオルで顔と首筋を拭く。チラと壁の時計に目をやる。九時一三分。
「落ち着いてな。畳に上がったら声出せよ」
会場は照明の加減も音の響きも普段の道場とは違う。緊張した状態で畳に上がれば、うっかりすると普段とは違う独特の雰囲気に飲み込まれてしまう。そんな時自分で自分の声を聴くと妙に落ち着けるのだ。龍彦は緊張しているなと感じたときはいつもそうしている。
深呼吸して気を落ち着けている左古と龍彦にスキンヘッドの男が近づいてくる。同い年くらいに見える。
「左古君―やろ?」
人懐っこい関西弁でそう言うと男は軽く頭を下げる。
「初戦でやらしてもらう陣内です」
「あ、よろしく、左古です」
二人は軽く握手する。陣内は大会主催者が用意した貸出用の鬼甲帯を着けている。瞳の色は普通の黒だ。
「俺、普通の人なんで― 練気系やねん」
大気の精を体内に取り込み、練り上げ体外に放つ技術。錬気とか操気と言われ主に武道や仙道の修行によって会得される体内操作術の一種で、この技術を会得したものは錬士とか操士と呼ばれる。個人の資質や訓練の度合によって力の強弱があり、力の性質としても若干鬼力に似た部分がある。普通の人間が鬼士に対抗するための唯一の手段とされている。鬼力をより効率よく繊細にコントロールするために錬気を学ぶ鬼士も多い。青葉の組の選手たちはまだ鬼力を使えない者ばかりだ。しかし錬士は特に出場を制限されているわけではなく、試合での錬気による攻撃も許されている。ある意味青葉の組の中では厄介な存在なのだ。
陣内が龍彦を振り返る。
「君は怜門君やったよね?」
「よろしく。俺のこと知ってるんだ」
「出場選手の顔くらいは覚えとるよ」
実は精錬鬼道士全員が虫憑きで鬼力を使えるわけでもない。ごく少数ではあるが虫の憑いていない普通の人が精錬鬼道士になることがある。実力を認められた錬士が特例的に錬成院への入学を許されるという道筋があるのだ。実力を認めさせるには紅珠武闘会で良い成績を収めるのが最も手っ取り早い。陣内も虫を飼っていない鬼道士を目指す一人なのかもしれない。
その時控室の扉が開き、スタッフの腕章を着けたスーツ姿の男が入ってきた。
「一番から八番の選手は集まってください。アリーナに移動します」
左古が龍彦の手をパシッと叩いてスタッフの元に集まる。左古達八名の選手はスタッフに先導されて控室を出ていく。再び扉が閉まる。残された選手たちはめいめいのやり方で試合に備えている。控室の壁に向かってストレッチをするもの。音楽を聞くもの。頭からタオルを被りただじっと眼を閉じるもの。
龍彦がアリーナに移動するまであと三〇分。龍彦も音楽でも聞こうとプラスチック製の成型椅子に腰かけところに、一人の選手が近づいてくる。見上げるとまたスキンヘッドの男だ。こちらも貸出用の鬼甲帯を着けている。おそらくオープン枠の選手。隠岐和仁だろう。
「少し付き合ってくれ」
龍彦は片耳だけイヤフォンを差し込み、もう一方を手に持ったまま男を見上げる。
「付き合うって、何に?」
「トイレだ。外に出ようと言ってる」
隠岐は静かに龍彦を見つめたまま表情を変えない。鼻の下だけ薄らと無精髭が伸びている。
「失礼だけど、君は?」
「隠岐だ。お前、青光院の怜門だな」
龍彦は少し苦笑いしながらイヤフォンを外す。
「一人で行けないの?初めてだから道が分からない?」
それでも隠岐は全く表情を変えなかった。
「何でもいい。人のいない所に行こうと言っいる」
龍彦は苦笑いを消して隠岐を真っ直ぐ見つめる。隠岐は平然と見つめ返してくる。龍彦は黙って立ち上がる。隠岐が先に立って扉を開け廊下に出る。龍彦はチラチラといくつかの視線が背に注がれるのを感じながら隠岐に続いて廊下に出る。廊下には人気がない。試合直前になるとアリーナはもちろん観客席の出入りも禁止される。選手の気を散らさないためだ。
「ここでいいだろ?知らない人に着いていくと叱られるからさ」
隠岐は相変わらず冷たい眼で龍彦を見据えたまま固い表情を崩さない。どうやら閉心の技に長けているようだ。感情の動きを表に出さない訓練を積んでいるのだ。
あまり長く付き合う気のない龍彦は自分から口を開く。
「君も錬士なんだね?分かるよ、この辺の産毛がなんかピリピリするもん」
龍彦はうなじの辺りを指で叩く。はったりだ。目の前の隠岐という男からは錬気は微塵も感じられない。
「試合前に非常識だと思うな。僕の集中を乱そうって腹かい?」
隠岐は冷えた眼でただ龍彦を見つめ返してくる。
「妹さん、がっかりするんじゃない?」
龍彦の唐突な言葉に隠岐の表情が初めて揺らぎを見せる。
「お前―」
隠岐が怒りのこもった声で呟く。どうやら図星のようだ。隠岐のバッグにぶら下がっていた小さなマスコット人形。手作りであるこはすぐに分かった。その人形と、隠岐の態度に見える覚悟のようなもの、受付の際に会場の端で見かけた少し顔色の悪い中学生。その三つが龍彦の中で重なったのだ。龍彦の口調が気を遣ったものになる。
「ごめん。会場で何となく君と顔立ちが似てる子を見かけたから― 心臓?」
兄を応援する病弱な少女。決然と紅珠武闘会に挑む兄。何となく隠岐の背負っているストーリーが垣間見えた気がしたが、それは簡単に他人が触れてよいものではないだろう。龍彦は少し後悔した。しかしその無遠慮な質問のお陰でほんの少し隠岐の素顔が見えた。害意は無さそうだ。隠岐はすぐに怒りを押し殺し冷たい仮面を被りなおす。
「それは関係ない。それより―」
ゴフッ―
廊下の奥から苦悶の叫びが聞こえた。続いて重たいものが床に落ちる音。龍彦は声のした方へ走り出す。嫌な予感がしていた。
「おい、待て―」
隠岐が後ろから追ってくる。廊下の奥、グレーに塗装されたスチールドアが半開きになっている。
「おい― 怜門―」
追ってくる隠岐を無視してドアの中に入る。管理用の倉庫らしい。半開きのドアから差し込む明りの先に人が倒れている。外装鬼甲帯を着けた男だ。
「タケ」
倒れていた男は左古だった。龍彦が膝を着いて顔を寄せる。命に別状はなさそうだが白目を剥き口の端から泡を吹いている。
キイッと小さな軋みを上げて扉がしまった。シリンダー錠がかかる音。オートロック式の扉だったらしい。暗闇に少しとぼけた関西弁が響いた。
「触らん方がええよ、そいつ小便漏らしとるから」
陣内の声だった。
「腹痛起こすクスリがあってな。シャド―するふりして左古君の口にこうピュッと― 飛ばしたってん。一〇秒もたずに腹抑えてトイレに直行や。トイレで半殺しにしてから怜門君を呼びに行く算段やったんや。左古君が大変やとか何とか言うてな。急に控室から出てくるから慌てたで」
部屋の奥から声が聞こえる。窓もなくドアの隙間もぴったりと塞がれている。が、虫の憑いている龍彦は猫眼を持っている。うっすらと入口正面奥の壁際に立っている陣内のシルエットが見える。控室とは少し違う種類の笑みを浮かべている陣内が龍彦の足元に何か放って寄こした。お弁当についている醤油やソースを入れる容器だ。下剤を仕込んだこのタレびんを指の間に挟んでおいてパンチに合わせて中身を飛ばしたのだ。
「隠岐く―ん?君、関係ないねん。悪いけどドア自分で開けて出て行ってや。鍵は掛けんでええよ、かってに掛かるから。俺、あんたのこと忘れるし、あんたも俺のこと忘れてや。妹さん、ようよう面倒見たってや。俺、涙もろいねん。あんたの妹が泣くとこ見たないわ」
隠岐がすぐ後ろにいるのは分かっていたが龍彦は振り返らず、陣内の様子を注視し続ける。
「怜門君は残って俺にボコられてもらうで。心配せんでええ、これでもケンカのプロや。死なん程度にちゃんと加減するし。痛い目見て恥かいて終いや。楽なもんやろ?どうせあんたら鬼人は怪我なんてすぐ治ってまうんやし」
陣内はじっと龍彦の顔を見ながら話している。つまり陣内もある程度夜目が利くのだ。龍彦は声量を落とさず隠岐に話しかけた。
「僕もよく状況が分かってないんだけど、何だか巻き込んじゃったみたいだな。迷惑ついでで悪いんだけど、ヒロを医務室に連れて行ってやってくれないか?君も試合があるからここでのんびりしているわけにはいかないだろうし」
声に出さなくても隠岐の逡巡が空気を伝ってくる。
「お前、あいつが誰か知ってるのか?」
「予選を勝ち抜いた陣内大輝や。文句あるんかい」
「ない。予選を勝ち抜いたのは事実だろう。東日本予選をな」
龍彦が「東日本ねぇ」と呟く。
「あぁ、そいつのホームグラウンドは大阪、大阪の地下だ」
龍彦がニヤリと笑う。
「地下?ホームレスって意味じゃないよね?」
隠岐は真面目な表情を崩さない。
「地下格闘技だ。ヤクザなんかが仕切ってて大金が動く。そこで売り出し中のチャンピョンだ」
「チャンピョンてか。キングと言うてくれ。それにしても隠岐君喋りすぎや。ペラペラ口の軽い男はモテへんで」
龍彦は陣内から眼を離さずに顔を少し後ろに向ける。
「ありがと隠岐君。後は僕がやっとくから、ヒロを頼む」
陣内が壁際から一歩、二歩と前に出る。
「隠岐君いらんこと言わんほうがええで。せっかく妹に免じて見逃してやろう思てんのに。もっぺん言うとくで。ここ、部外者立ち入り禁止や。はよ出ていってんか、あんたも忙しいのやろ」
隠岐は静かに自分に言い聞かせるように言った。
「お前が出場選手として試合場で闘うなら、俺は何も言うつもりはなかった。予選を勝ち抜いたのは事実だしな。しかしお前は試合以外の目的で動いていて、もう選手を一人あくどいやり方で潰している。そして俺はもうそれを知ってしまっている。それを忘れて試合を続けることはできん」
陣内がククッと笑った。
「あんた、えらい真っ直ぐやな。角がピシッと立ちすぎて友達が少ないタイプやろ?嫌いやないけど、今そこにこだわるかって感じやな。自分の将来と家族の安全がかかっとんのやで?」
龍彦が口を開く。
「隠岐君、こうしない?ヒロを抱えて僕ら三人でこの部屋を出るんだ。僕らの方がドアに近い。僕があいつを足止めしてる間に君がヒロを外に引っ張り出してくれない?この倉庫、他に出口はない。外に出て助けを呼べばそれで終わりだよ」
陣内が笑う。上下とも前歯が全くない口にマウスピースを押し込む。
「俺にも仲間くらいおるで。今頃ロビーにばらけて待機しとるはずや。それにな、怜門君は俺とやるしかないんや」
陣内が左の掌に右の拳を撃ちつける。パンと小気味いい音が室内に響く。
「左古君に呑ませた超強力下剤な、毒も混ぜてあんねん」
龍彦の眼がスッと細くなる。瞳の色が薄い水色に変わる。
「解毒剤は俺が持っとる」
陣内が平手でトンと自分の胸の辺りを叩く。
「―どんな毒?」
陣内がニタリと笑う。心はぴったり閉ざしたままだ。閉心したまま笑える奴を龍彦は初めて見た。
「キノコや。カエンタケを精製して抽出したマイコトキシン。これ、鬼士によう効くはずやで。虫が騒ぐ前のまだ免疫力の弱い鬼士にはな。さっ、やろか」
鬼虫が活性化しM型光波、M型重力波を発生させる、つまり虫が騒ぎ出し鬼力を発揮するようになると、宿主にとって有害な細菌、ウイルスはあっという間に駆逐されてしまう。毒物に対しても驚異的な耐性を発揮するようになる。まだ鬼力を発揮する前であっても常人に比べれば驚異的な免疫力を発揮するが、それでも虫が鳴き出す前であればいくつかの毒物が有効であることが確認されている。
「マイコトキシン、どこで手に入れた?」
陣内は相変わらず心を見せずに笑っている。
「どこやろな。嘘やと思うなら確かめてみい。あと十分も放っておけば分かるで」
陣内が軽くステップを踏み始める。体重を全く感じさせない軽やかでリズミカルなフットワーク。龍彦も構える。左足を前に出し半身に構える。陣内のように派手なフットワークは使わないが、足親指の付け根と踵で床にピンポン玉ぐらいの小さな円を描くようにリズムを取る。
「嘘なんだろ?僕とやりたきゃ四回勝ちゃ当たるのに」
「お前結構おめでたい奴やな。四つ勝ったら決勝やんけ。来れるんかいや、お前」
互いに心の内を覗かせないよう、表情も闘気も極力殺している。二人の間合いはジリジリと詰まり互いの間合いまであと一メートル。陣内のステップも小さく早く不規則なものに変わっている。
「隠岐君、ヒロをよろしく。医者呼んでやってくれる?大声出せばすぐ人が来るから。こっちもすぐ終わらせるから」
「分かった」
左古を軽々引きずって部屋を出ようとする隠岐に龍彦が声を掛ける。
「明りはいらないから。ドアが閉じていたほうがあいつは逃げられない。ちゃんと見えてるから気遣い無用で」
隠岐が「なぜ分かった?」という顔をする。龍彦のためのドアに物を挟むか何かして廊下の光を入れてくれるつもりだったのだろう。
「あぁ」
隠岐がドアの錠を解きドアを開ける。白っぽいLEDの明りが室内に差し込む。隠岐が左古の体を引きずり出す。ドアの隙間から左古の足が消え再びドアが閉まった。
錠の掛かる音と同時に龍彦が動いた。右足の踵で思い切り床を蹴ると左ジャブを放つと見せかけ意識を顔に向けさせる。そのまま右足を鞭のようにしならせて陣内の左ひざを狙いに行く。しかし龍彦は右足に鋭くブレーキをかけると、そのままステップバックして距離を取る。陣内が浮かした左足を床に戻し、左手で何かを掴む仕草を見せる。
「なんや、やめるんかい。右足もろたと思うたのに」
龍彦は背後から差し込んだ光で急速に絞られたであろう陣内の瞳孔が再び訪れた闇に慣れる前に攻撃を仕掛けようとしたのだ。しかし陣内もそれを読んでいた。顔を攻めると見せかけてローキックというところまで見切って蹴り足を捕まえに来たのだ。
「人が悪いな。ほんのちょっぴり、眩しそうに瞼を動かしたよね?小芝居するタイプに見えなかったけど」
「これぐらいできな地下ファイトで金は稼げん。お前、ちょっと見込みあるで。虫が騒がんかったら尋ねて来いや。道場の受付やるよりよっぽど稼げるで」
本音の称賛が三割。言葉による神経戦が七割。この年頃の虫持ちが何を気にしているか十分に承知しているのだ。
「さて、ほないくでっ」
陣内が鋭くステップインして間合いを詰めてくる。左―と見せて、サウスポースタイルにスイッチすると右のジャブ。遠い。とっさにそう判断したが、拳から空気砲のように硬質の空気の塊が打ち出され顔目がけて飛んでくる。すんでのところで上体を逸らしてかわす。そのかわした所に測ったように左のストレートが伸びてくる。龍彦はスウェイバックした勢いを殺さず、そのまま仰向けに床に倒れる。鼻の上を陣内の右の拳が通過する。龍彦は顎を引き左手で後頭部を庇いながら床に背から落ちる。倒れた勢いで体を捻り回転受け身の要領で体制を立て直す。
「お、やるやんけ。俺が左利きて気づいとったんか?」
「始める前にわざと右の拳で左の手を叩いたんだろ?いい演技だったけど少し肩の辺りがぎこちなかったよ」
「はしっこい奴やな。錬気は?分かっててもかわせる奴、あんまりおらんで」
「お前の錬気強すぎるんだよ。打つ前にピリピリくるんだ」
「ふーん― って、関心しとる場合やないな。あんまりのんびりしてられんのはこっちも同じや。鬼士どもが集まってくるとさすがに厄介や」
「じゃ、終わらせよっか、そろそろ」
「お前に言われると何か腹立たんわ。調子狂うで」
闇の中で二人が呼吸を整える。どちらも鬼力を使えるわけではないのに、あっという間に部屋の空気の密度が高まり透明なガラス質のものに変わっていく。そして圧力が極限まで高まり、ガラスにピシリと亀裂が走った。
「シャァァ―」
「ハッ―」
ガラスの砕ける感触と共に二人は互いに向かって飛び込んでいった。