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モンスター VS モンスター

「幸いと言っていいのか、もう死んでたよ。ガリガリに痩せちゃいるが、何て言うか、静かな死に顔でな」

 耕太郎は焼酎の最後の一口を飲み干す。佳苗がもう一杯作ろうとするのを手で断る。

「何だか吸いたい気分だな。今日は一本いいだろ」

 耕太郎はキッチンの戸棚の奥から炭酸せんべいの空き缶を取り出してくると、中から一袋の煙草とマッチ、アルミの灰皿を取り出す。煙草の袋の脇を人差し指でトントンと弾いて一本抜き出す。

「湿気ってねぇかな」

 と呟きながらマッチをする。最近はとんと嗅がなくなったマッチの香りが部屋に広がる。龍彦は達哉と二人、自宅でお盆を過ごした時のことを思い出した。

「灰皿は自分で洗っとくれよ」

 佳苗がビールのコップの底を覗き込んだまま言う。耕太郎が旨そうに紫煙を吐き出す。漂う煙を見ながら少し寂しそうに笑う。

「坂本は命は助かったが、鬼虫をほとんどやられてな。力がなかなか戻らなくて一線を退いた。俺も佳苗も虫をかなり削がれちまってな。それに息子があんなことになったんだ。正直、周りの眼もあるしな。正吾さまの気遣いもあって道場付きにしてもらった」

 佳苗が瓶に残ったビールを一口で飲み干すと、コップに焼酎を少し注ぎピッチャーから水を足す。氷とレモンを浮かべる。

「もう四〇年か― 今でも思うんだよ。あん時敦はわざと抵抗しなかったんじゃないかって。親のあたしらに黙ってやられてくれたんじゃないかってね」

 耕太郎が頷きながら二本目の煙草に火を着けた。

「新しい子でもできりゃこの苦しさもひょっとしてましになるかと思ったりもしたが」

 佳苗がチビチビと飲んでいるコップを取り上げると半分ほど飲み干す。

「きっと邪鬼の血筋だとか言われちまうんだろうなとか、色々考えちまってな」

 耕太郎は結局一口も吸っていない二本目の煙草を揉み消す。

「で、龍彦よ、どうなんだ、例の進路の話は?」

 龍彦は熱い番茶を啜りながらちょっと考えた。

「鬼道は続けようと思うんだ、これからも。でも虫が鳴きだすかどうかはちょっと微妙だし… 鬼士以外の道を考えておかなきゃと思って。できればせっかく虫も憑いてるんだし、鬼道に関係した仕事したいと思ってるんだ」

 龍彦は一旦言葉を切った。耕太郎も佳苗も黙って龍彦が口を開くのを待つ。

「大学に進学する準備をしなくちゃ。今の学力じゃ希望の大学には入れそうにないし。武闘会が終わったら塾の夏期講習に行くよ」

 佳苗が頷く。

「お金のこととか、心配しなくていいんだからね」

「うん、塾代まで甘えられない。達哉さんにはもう話してあるんだ。とにかく春まで頑張ってみて受験はするけど、多分春からは予備校通いかな」

 龍彦は耕太郎と佳苗の眼を見ないまま、温くなった番茶で喉を湿らせる。

「春からは実家に戻ろうと思ってるんだ」

 龍彦の言葉を耕太郎は静かな表情で聞いていたが、佳苗は平静を装いつつも明らかにドキリとしたようだ。

「できるだけ道場通いは続けたいと思ってるんだけど、予備校とかのスケジュール次第かなって」

 龍彦はできるだけさらっと言ったつもりだったが、佳苗は明らかにショックを受けたようだった。視線が定まらなくなりコップを握りしめる手が白くなる。

「そんな、龍彦お前― まだ分からないじゃないか。二十歳過ぎて虫が騒ぐ鬼もいるんだから」

「分かってるよ叔母さん、別に諦めたわけじゃないよ。ただ、進学の準備はしておいた方がいいなって― そう思って―」

 三人の会話が途切れた。佳苗が縋るような視線を耕太郎に投げる。耕太郎はチラと佳苗を見たがすぐに龍彦に視線を移す。ニヤリと笑って龍彦の肩を軽くはたく。

「明日は頑張れ。練習したリズムとタイミングの取り方を忘れるな。右、左、右、タン、タン、ターンだからな」

「うん、分かってるよ」

 食卓を囲む三人共が少しだけ無理をした笑みを浮かべた。



「ありがとう、夏目君」  

 弓歌が柔らかく微笑みながら礼を述べる。弟思いの優しい姉のような笑顔。夏目は虫の憑かなかった自分を呪った。一度でいいからこの優しく慈しむような鬼の波動を鬼として感じてみたかった。

「お礼なんて仰らないでください、姫様」

「ふふ、骨を折ってくれたのだもの。お礼をして当然だわ」

 黒いシンプルなイブニングドレスの裾から白く長い足を惜しげもなく晒し、周りの眼を気にした風もなく自然に足を組む。神戸中華街にある高級中華料理店の個室。丸いターンテーブルには弓歌と夏目の他に清子と宿坂の姿がある。弓歌はスマートフォンの画面に映る一人の男を微笑みを浮かべたまま眺めている。

「どんな方なのかしら」

 液晶画面の中では動画が再生されている。大勢の人間の頭と顔がぎっしりと詰め込まれた空間。撮影場所が暗いせいと手ぶれのせいで表情までは識別できないが、大勢の人間の興奮した息遣いは伝わってくる。突如、画面の中央部分が明るくなる。四メートル四方ぐらいのスペース。周りを三本のロープで囲まれている。観客に周りを囲まれたリングだ。どうやら観客たちは簡素なベンチのようなものに座っているらしい。さほど広い場所ではないらしく客たちは肩を寄せ合うように詰め込まれている。カメラが左右に揺れると壁際に立ち見の観客も写っている。突如、観客頭が波打ち、雑音交じりの音声に歓声らしきものが混じる。一人の男、黒いハーフスパッツを着けたスキンヘッドの男が画面右手から現れロープをくぐってリングに入った。リングは床とほぼ同じ高さに設営されている。夏目が弓歌に声をかける。

「後から来る方です」

 少し遅れて今度は白っぽいハーフスパッツの男が同じ方向から現れてリングに入る。ほぼ同時にTシャツにジーンズ姿のおとこが現れ同じようにリングに入った。ハンドマイクを握って観客を煽り始める。

「シャンパンゴールドのトレーニングパンツにドレッドヘアの男がそうです。この地下格闘技場のチャンプで名前はJIN」

 弓歌は友達の子供の運動会の様子でも見るかのように微笑んだまま尋ねた。

「人なの?」

「えぇ。鬼界と無縁の者をというご指示でしたので」

 弓歌はチラと宿坂に視線を刺す。宿坂が身を固くする。

「強いのかしら?」

 夏目が頷く。

「はい。ただ、かなり野蛮でショッキングな試合をする男です。姫様の御目に触れるのもどうかと思いますのでそこまでになさっては」

 弓歌は表情を変えない。

「構わない。見たいの」

 夏目は弓歌の手元のスマートフォンを示しながら言う。

「ではご自分の眼でお確かめになってください。長くはかかりませんから」

 夏目の言葉に嘘はなかった。Tシャツの男がリングを出ると、スキンヘッドがチーター並のダッシュでJINにタックルを仕掛けていった。だがJINは全く慌てた様子がない。最小限の動きでタックルをかわす。スキンヘッドは慌てずマットの上で四つん這いのまま方向転換すると、這うようにじりじりとJINとの間合いを詰めていく。そして低い体勢から再度タックルを仕掛ける。入った。スキンヘッドがJINの腰に抱き着いたままマットに押し倒す。関節の取り合いがしばらく続いたと思うと急にスキンヘッドが動かなくなる。肘だ。下になったJINの方が自分に覆いかぶさっているスキンヘッドの左肘を決めている。それも束の間でJINは布団でもは剥ぐようにスキンヘッドの体を脇にのける。肘を折られたらしくスキンヘッドは右手で左肘を庇いながらのろのろと立ち上がる。JINはゆっくりとスキンヘッドの正面に立ち、前蹴りを放つ。スキンヘッドはリングのコーナーに吹き飛ばされる。ローキック、ローキック、ローキック。スキンヘッドは体を斜めにして膝を曲げ防戦一方。コーナーに追い詰められ逃げることもダウンすることもできない。そして鞭の一閃のようなハイキック。前歯をごっそりいかれたはずだ。ハイキック、ハイキック。前のめりに倒れそうになるスキンヘッドをコーナーに押し付けると脇腹へ膝蹴りの連打。スキンヘッドが嘔吐している。肘が顔面を襲う。また膝。脇腹、胃、そして股間。もう料金分のバイオレンスは提供したと判断したのかTシャツの男がリングに入ろうとする。それを見てJINもショータイムの終わりを自覚したようだった。スキンヘッドに抱き付き脇の下に両腕を回すと、巨大魚を一気に釣り上げるかのようにスキンヘッドの体をぶっこ抜く。JINの体が綺麗な弧を描きスキンヘッドを頭からマットに叩き付ける。豪快極まりない反り投げだ。スキンヘッドはもう痙攣すらしていなかった。

「相手の方も人なの?」

 弓歌はまだ穏やかな笑みを浮かべたままだ。

「えぇ、人間です」

「相手がもし剣を、例えば木刀を持っていたらどうかしら?勝てる?」

「銃で遠くから狙撃されたら厳しいでしょう。でも剣やナイフといった近接武器を使っての闘いなら、私が知る限りこの男は無敵です。相手が鬼力を操る相手でも丙種までなら互角以上に闘えます。実際鬼士とやりあったこともあるようですし」

 弓歌は嬉しそうに口角をキュッと吊り上げる。人差し指で唇に触れながら何か囁く。

「姫様、何か仰いましたか?」

「何でもないの。エントリーは?オープン枠は確保できたの?」

 宿坂が口を開く。

「はい、大丈夫です」

「緑仙流の枠の方は?一つ空けてあるわね?」

「本部を説得するのが大変でした」

「みんなから罵倒されながら土下座したのでしょう?良かったじゃない宿坂、もう一度させていただいたら?」

 弓歌はスマートフォンを夏目に返しながら「ありがとう」と声に出さず唇だけ動かす。宿坂が昏い目つきできつく唇を噛む。

「エントリーの名前は?」

「加藤勇樹です」

「何の工夫もない名前ね、全く」

 宿坂は弓歌の冷たい態度にもめげなかった。

「顔合わせはさせていただけないのですか」

「無理ね。適当に言い繕っておきなさい。控室に直接行かせるわ」

「せめて写真ぐらい―」

 ピシッと鋭い音がして宿坂の頬が赤く染まる。弓歌が鬼力で宿坂の頬を張ったのだ。

「出場証は後で清子に取りに行かせるわ。夏目君、ゆっくりして行ってね」

 言い捨てて去っていく弓歌の背を見送りながら、宿坂は無意識のうちに赤く腫れた頬にそっと手を当てていた。夏目が感情の抜け落ちた眼でそれを眺めていた。



 「斬」と「拳」にはそれぞれ三二名の選手が出場する。対戦組合せは、まず「京煌院」「緑風院」「青光院」「白土院」「黄樹台」「紫水台」「橙蓮台」の七つの各院が四枠ずつ持ち、三十二名を四つに分けたブロックごとに同じ院が重ならないよう一人ずつ入る。ブロックの中でどの院と当たるかは抽選で決まる。こうしてブロックの七人が決まり、残りの一つはオープン枠となる。オープン枠をめぐっては民間の鬼士団に所属する鬼士や腕に覚えのある市井の武道家達が出場権をかけて熾烈な予選を戦うが、今回は神戸開催ということもありオープン枠の一つを御苑流が使うことになっている。

 龍彦の初戦の相手は橙蓮台天神流の五代貴志。初めて聞く名だったが検索をかけるとすぐに十ほどのヒットがあった。天神流の本部道場は茨城県水戸市にあるが、五代は福島県会津若松市の道場に所属している。父はその天神流会津若松支部の志部長を勤める五代匡弥。橙蓮台十文字音匡である。年齢は龍彦と同じ十七歳。身長は龍彦より一センチ高い一七九センチ。体重は二キロ重い六九キロ。三つほどあった動画はすでにチェック済みだ。長刀の右差し。オーソドックスでどちらかというと受けが強い。相手の攻めをしのぎながら、できた隙を逃さず突いていくタイプに見えた。もっとも一番新しい動画でも十一カ月、ほぼ一年前の物だ。その間に相手も練習し成長する。この動画からでは現在の五代貴志の力の半分も分からないと考えるべきだった。龍彦は念のため自分の名前でも検索を掛けてみる。かつて出場したことのある地方の大会の出場リストや、青光院の鬼士が書いたらしいブログなどが五つほどヒットする。動画はない。龍彦は少しニンマリする。無名選手の強みだ。年齢や身長体重はエントリーリストを見れば出ているし、小太刀を使うことぐらいはすぐ調べがつくだろうが、それ以上のことは分からないだろう。知らない相手と戦うというのは結構嫌なものだ。

 陽造の情報では、

「お前が大本命と言ってやりたいところだけど今年は強敵が多いぜ。解説者風に言うなら、鬼界の未来を担うニュースターの卵たちが勢揃いって感じだな。もちろん俺を除いてだけど。まず、お前の山の要注意人物は春嵐式の黒川慶だな。覚えてるよな、黒川のこと?」

 龍彦は頷く。昨年の武闘会、陽造は詩苑流に一七年ぶり五度目の青葉の組斬の部優勝をもたらしたのだが、その時の決勝の相手が黒川なのだ。決勝まで圧倒的な強さで勝ち上がった陽造と接戦を演じ、五分一本の勝負では決着が着かず三分の延長にもつれ込んだ。延長も残り三十秒というところで疲れの見える黒川から陽造が一本を取りきって優勝したが、黒川の強さも鬼界に広く知られるところとなった。春嵐式宗家黒川航、あの火炎剣、ファイヤーバードの使い手である京煌院柊航真の次男である。齢は陽造と龍彦より一つ下だが、京の都の風情が良く似合う優男の父と違ってふてぶてしい面構えをしている。大会プログラムのプロフィールによれば身長一八六センチ、体重八六キロの堂々たる体躯。陽造が「あ、あいつ俺より一センチでかくなってやがる」と舌打ちしていた。

 黒川以外では、やはり春嵐式の吉福尚大も強いと評判だ。こちらも四強に残った昨年に続いて二度目の出場。陽造、龍彦と同い年で居合いを得意とする選手だ。先月号の鬼道マガジン別冊付録、「第一〇二回紅珠武闘会出場選手名鑑」によれば、父は京都藩警の鬼士警官隊隊長である吉福正成、母は鬼士院附属病院で鬼学療法士をやっているらしい。「育ててくれた父母、鍛えてくださった道場の方々に報いるためにも全力を尽くします」という衒いのないストレートなコメントには好感が持てる。青葉の組は鬼力を使えない者が出場する。全国で戦うにはある程度の年齢にならないと難しく、またある程度の年齢になると虫が鳴き出す事が多いため二年連続の青葉の組出場は比較的珍しい。虫が鳴き出さず出場資格があっても、できるだけ多くの者に機会を与えるという意味からも連続出場を控える場合も多いのだが、鬼道マガジン担当記者はコラムの中で「春嵐式が勝ちに来た」と書いている。鬼界のリーダーを自負する京煌院の中でも最大勢力を誇る春嵐式。過去一〇一回の大会で京煌院派は青葉の組だけでも三〇回の優勝を誇るが、そのうち一四人が春嵐式の選手なのだ。この一〇年青葉の組で優勝者を出せていない春嵐式が本気で勝にきているというのだ。鬼界も現代化が進み各流派の運営形態も様変わりする中、どことも歴史と伝統を誇る地域密着の流派というだけではやっていけなくなりつつある。鬼界の名門春嵐式にしても目に見える結果を出したいのだろう。

 記者予想では黒川、吉福の二人を本命に、京煌院洛北式の鬼武誠也、白土院玄武道の舘崎貴徳が対抗に挙げられている。紅珠武闘会には体重や男女によるクラス分けはなく女子選手も出場する。女子の中ではオープン枠から参加の銀鈴鬼士団 泉川蘭の名が注目選手として挙げられている。銀鈴鬼士団は御苑流、詩苑流と同じ阪神間に本拠を置く民間の鬼士団で泉川蘭は最近売り出し中の薙刀使いだ。予選では並み居る男子選手を文字通り薙ぎ払っての優勝、ルックスも良いのでよく雑誌などで見かける機会が増えている。

 龍彦はというと残念ながら記事の中では触れられていない。名鑑のコメント欄には「全国的には無名も実力は昨年優勝の南雲陽造の折り紙付き。雑草魂で頑張れ!」とある。本当に無名なのだから仕方ないが陽造の知り合いというだけがアピールポイントというのも何だか複雑な気持ちだ。

「龍彦、今日は早く寝るんだよ」

 階下から佳苗叔母が声をかける。

「分かった」

 返事をして龍彦は部屋の明りを消す。天気予報によれば昨日まで三週間近く続いた熱帯夜が今夜は途切れそうだとのこと。確かに昨夜に比べて若干しのぎやすい気がする。龍彦はエアコンを切って扇風機だけで寝ることにした。細目に空けて網戸にした窓から生温い風と一緒に若者の話声や笑い声も途切れ途切れに入り込んでくる。すぐそばに大学があるせいで結構遅くまで賑やかだ。龍彦は腹にタオルケットを掛けると眼を閉じた。これまで詩苑流内の大会には参加したことがあるが、他流派の者と試合をするのはもちろん、全国的大会に参加するのも、同じ年代、同じ立場の相手と競うのも初めてなのだ。自然と気持ちは昂る。怖いような、嬉しいような気持ちが混じり合い心に小波を立てる。

「龍彦、窓を開けっぱなしで寝るんじゃないよ」

 再び佳苗叔母の声。

「OK、分かった」

 龍彦は窓をそっと締める。枕元のラジオから最近お気に入りのバラードが流れてくる。龍彦は何だか焼き肉の煙を嗅いだ気がして鼻をひくつかせた。久しぶりに父さんのローストポークが食べたいと思った。



 大阪防衛大学校鬼道工学担当教授山田實を拘束、アジトに運び込んだ円谷兄弟は、山田が重力渦に沈めている荷物と鳩の行き先を教えるよう求めた。予想通り山田は応じようとしなかったが、広幸は赤く焼けたバールや刃物、電気ショックといった時間をかけて山田を痛めつける方法を選ばなかった。永都は不満そうだったが時間との勝負だ。即効性を一番に考えなくてはならなかった。同じマンションに住む佐藤樹里、美帆親子を攫って来たのだ。怯える二人を部屋の隅に転がしておいて再び交渉すると、山田はあっさりと重力渦から小さなアルミのアタッシュケースを取り出した。そして兵庫藩の赤穂市にある鬼道場の名を告げた。

 アタッシュケースを開けると緩衝用のスポンジに嵌め込まれたガラスチューブが六本入っている。両端に電極らしきものが付いており六本の内三本は電極が赤、残り三本は青く塗られている。広幸と永都が顔を見合わせて笑う。

「じゃ、鳩に託したものを取り返してもらおうか。赤穂なら直線距離で百㎞もねぇ。あの鳩、使鬼なんだろ?とっくに向こうに着いてるはずだ」

 山田は素直に自分の携帯電話を使って道場に電話をした。山田が鬼士なら円谷兄弟もそうだ。小細工は通用しない。山田は電話の相手に一時的に難を逃れるために手元から遠ざけたが、問題が片付いたので送った伝信管の中身を返して欲しいと告げた。しかし会話はそこで終わらなかった。山田の表情が徐々に曇っていく。山田が発する「まだ着かないのか」とか「とにかく着いたらすぐ連絡をくれ」といった言葉で広幸たちにもおおよその事情は伝わった。

「まだ着いていないそうだ」

 電話を切った山田に嘘を吐いている気配は無かった。大阪市内の山田の自宅から赤穂の道場まで使鬼の鳩なら一時間半程度で着いてしまうはずだ。今日の兵庫藩南部、瀬戸内の天候は一日中安定したものだった。天気専門サイトで調べても朝から雨雲一つかかっていない。台風や低気圧に遭遇する可能性は無かった。飛行ルートに竜巻やダウンバーストが発生した可能性も低そうだ。使鬼であれば電線やドローンなどにぶつかるようなへまはしないはずだ。

「となると、鷹とか鷲だな」

 しかも、使鬼の鳩を襲って撃墜するとなると相手の猛禽も使鬼である可能性が高い。つまり広幸たち以外にも山田のデータを狙っている鬼士グループがいることになる。広幸と永都は山田に聞こえないよう別室に移った。

「もし別の鬼士グループがいたならその連中もどこかで鳩が飛び出すのを見てたはずだ。その後で使鬼に追撃させたんだろう。だとするとそう遠くまでは逃げきれねぇはずだ。鳩を探すぞ」

「探すったってどこを?それにもう死んでてデータも横取りされてるかも」

「死体を探す。伝信管もな。運良くデータを回収できればそれでよし。鳩が死んでデータが持ち去られたことが確認できれば次の手も打てる。とにかく鳩とデータがどうなったか確認するんだ」

「この仕事、なんか面倒な感じがしたんだよなぁ」

「ちょろい割にギャラが良いって言ったのは誰だ?とにかく探してみるんだ」

 永都がやれやれという表情で小さく首を振った。



 本部道場の事務所を挟んだ反対側にある女子道場の更衣室。化粧室の鏡の前で志乃が髪に櫛を入れながらムニュムニュと唇を動かしてリップを馴染ませている。今日は紅珠武闘会だ。志乃は大会運営スタッフとして試合の見届人役を務めることになっている。公式大会の本番では試合の進行を仕切る審判が一人、その審判も含めて試合の正当性に責任を持つ立会人が一人、立会人の補佐と副審を兼ねる見届人が二人と、少なくとも四人が試合場に張りつくことになる。その他選手の案内係や警備担当、場内アナウンスに観客対応まで、二百名を超える運営スタッフを集めなくてはならない。基本、開催地である兵庫県の鬼道連盟が中心となって大会運営を行うことになっており、運営スタッフも県連盟が県下の道場に割り当てをして人数を集めている。御苑流と詩苑流は五十名ずつ、銀鈴鬼士団が二十名、その他小さな流派やスポーツ団体、一般公募のボランティアなど、様々なところから人が集まってくる。

 案内係や場内整理スタッフはともかく、試合の審判や立会人ともなるとある程度地位の高い鬼道士が務めることになる。立会人は青葉と草花の組を詩苑流現宗家の湧爾郎が、大樹の組を御苑流宗家青光院吉斗良光流が務める。審判と見届人は神戸錬成院の教授たちに加えて県下の主要流派、御苑流、詩苑流、青濤流の道場長クラスの鬼士が務めることになっている。本来なら、神戸錬成院の講師とはいえ、まだ精錬鬼道士になりたての志乃を見届人にしなくても他に候補者はいたのだが、神戸錬成院の剣技担当教授である喜乃戸教授の「十一年ぶりの巻首螺鈿にして全国最年少の錬成院教諭じゃ。華があってよいわ」との言葉に誰も異を唱えられる者はおらず、志乃の見届人役が決まった。

 無論事前に八重橋教授にお願いして喜乃戸教授を初め何人かの教授に根回しをしてもらってのことだ。やはり今回は龍彦が出場することもありぜひ試合を見たかったのだ。どのみち神戸錬成院からのスタッフとして武闘会の運営を手伝うことになるのは分かっている。来賓対応係などにあてられては試合を見るどころではなくなってしまう。それならいっそ特等席で見られる見届人にというわけだ。

 龍彦が驚いたりして試合に差し支えると困るので、見届人になったことは昨夜のうちにメールを送ってある。自分から頼んだことは言わずに「あたし試合の見届人役を仰せつかることになりました。明日は龍彦君のこと贔屓しますから頑張ってください」と送ると、「恥ずかしいから知り合いだってばれないようにしたほうがいいかもよ」と返ってきた。

 といた髪を青い瑠璃色の珠飾りのついた髪留めで結わえる。すでに濃紺の鬼士袴姿であり身支度は整っていた。そろそろ出かける時間だった。今日は荷物が多いので事務所の軽自動車で会場まで行くことにしている。会場は神戸沖に作られた人工島ポートアイランドにあるワールド記念ホール。日曜だから道が少し込むかもしれないが三四〇分あれば着く。

 カシャン―

 戸口で小さな音がした。今日は事務所職員も武闘会のボランティアに駆り出されるか、あるいは応援のために会場へ行っているはずだ。ポーチに櫛をしまい、化粧室を出て戸口を覗く。人の気配はない―が、いつの間にか内鍵がかかっている。

「松風、おめかししてどちらへ?」

 振り向くと道場の真ん中に弓歌が立っていた。眼に染み入るような真紅の鬼士袴。栗色の長い髪を頭頂でまとめ、溢れた髪が朝の光を浴びて金色のシャワーのように背に流れ落ちている。瞳も同じ色に爛と輝いている。こんな時でもきちんと紅を差した口元には抑えきれない微笑みが浮かぶ。今にも涎でも垂らしそうな表情。しなやかな肉食獣が喜悦の笑みを浮かべたかのようだ。

 そうか、そういうことか。状況が飲み込めると志乃にも余裕が生まれた。瞳の色が鋼色から紅茶色に変わる。

「あら、いらしたんですか那賀倉様。朝から道場にいらっしゃるなんて珍しいですね。新しいダイエットでもお始めになったんですか?」

 弓歌の笑みが少しだけ深くなる。

「口の減らない事務員さんだこと」

 フラメンコダンサーが客を挑発するかのように右手の指をゆらゆらと揺らめかせながら、足から腰のあたりをまさぐるように動かす。陽炎が立つように揺らめきながら長い棒が現れて、弓歌の手の中でぐるんと一回転すると柄の部分がトンと道場のピカピカに磨き上げられた床板を叩いた。美しい銀細工の施された漆塗りの柄は六尺。鋭いカーブを描く刀身は二尺。合わせて八尺、二メール四〇センチ。これだけの大きさのものを重力渦に沈めておけるだけでも弓歌の実力がなまなかのものではないと知れる。

 志乃の右の瞳が真紅に染まる。しかし左目は紅茶色から明るい茶色に変わる。

「あら、器用ね。熱さと冷静さ。事務員さんをやらしておくには惜しいわね」

 弓歌の瞳は金色の光を放ち、ともすれば顔の表情すら見えなくなるほどだ。志乃は瞳の焦点を僅かにずらして、弓歌の顔ではなく喉元に視線を落とす。さすがは緑仙流の鬼姫様。あの鬼眼に搦め取られたら志乃でも心と体を縛られて石のように動けなくなってしまう。

「ふふ、勘違いしないで頂戴。瞳術であなたをどうにかしようなんて思っていないわ。勝手にこうなってしまうの。だって私すごく嬉しいの。ようやくあなたを畳に這いつくばらせることができるんだもの」

 弓歌が堪え切れずに唇を舐める。赤い舌がちらりと覗く。弓歌は囁くように言った。

「あなたのこと、前から気に入らなかったの」

 あたしもです―とでも言うように、志乃は小さく頷きながら笑った。両手の指で腰のあたりにくるくるっと素早く円を描く。

「今日は珍しく振り分け髪にしてみたんです」

 志乃の両手に輪にまとめた鞭が現れる。ほろほろと解けて床に垂れる。二本鞭スタイル。

「きっとこうなることを予感してたんですね」

 鞭の先がピョンピョンと床板の上で跳ね始める。弓歌の薙刀がピリピリと身震いを始める。道場の空気が帯電したかのように張りつめ、微かにオゾンの香りが漂い始める。

「殿方を丸め込むのがお上手ね。見届人になって何をなさるおつもりかしら?」

 弓歌の言葉が志乃の勘にピンと響いてくる。何かするつもりなのは弓歌の方なのだ。

「選手の皆さんが全力を尽くせるようお手伝いしたいだけです。ホスト藩の務めですから。いい思い出を持って気持ちよくお国に帰って欲しいですし。那賀倉様にも」

「その減らず口、二度と叩けぬようにしてあげよう」

 弓歌の手が今にも志乃に飛びかかりそうになっている薙刀を必死に抑えつけている。荒ぶる馬を必死に御しているかのようだ。志乃の鞭が早くフリスビーを投げてとせがむ犬のように志乃の周りを飛び跳ね始める。口笛一つでロケットのように飛び出して行きそうだ。

 緑仙流の鬼姫対巻首螺鈿。どちらもただ者ではない女流鬼士同志の闘い。ただならぬ鬼気に喧しく遠慮のないクマゼミも飛び去る。静寂。どちらかが少しでも動けば空気にひびが入りそうだ。

「立っていると疲れるでしょう?椅子でもお持ちしましょうか?」

 弓歌の笑みがきつくなる。

「来い、松風」

 志乃の鞭がレーザー光線のように弓歌に向かって伸びる。同時に弓歌の薙刀がつむじ風のように志乃を襲う。緑と赤の閃光がぶつかり合い、ソーダ水のように弾けて部屋を満たした。

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