緑仙流の鬼姫
本部道場での練習は厳しいが楽しかった。野原道場とは道場生の層の厚さが違う。野原道場では同年代はもちろん二学年上を相手にしても負けることはなかったが、本部では年相応に剣の腕前も一番下だと認めざる得なかった。自然、勝つための努力や工夫、研究が必要になってくる。それが龍彦には楽しい。その日道場で教わったことや感じたことをノートにまとめるようになったのもこの頃からだ。真似をして陽造も練習日記をつけはじめたのだが、意外なことにマンガやイラスト描くのが上手いという特技が発見され、いつの間にかマンガ日記になってしまった。もっともそれが錬成院に入学した今でも続いているらしいから大したものだ。
道場では小学二年生の龍彦と陽造が一番年下で、三年四年生は三人ずつ、五年六年は五人ずつ道場生がいる。ある程度才能を認めらえた者が集まってくるので、年齢の低い者は他の町道場に比べて少ない。
中学生年代になると入門してくる道場生が増えてくる。と同時に道場を去るものも出てくる。虫が騒ぐ前であっても剣の腕に見切りをつけられてしまうと道場にはいられなくなる。まだ寒の残る三月、泣きながら両親に連れられて道場を去っていく鬼士の卵たちを見送るのは、まだ幼い龍彦にとってもせつないものだ。
四年生に上がる春、新入りの龍彦にあれこれ教えてくれ、いつも冗談を言って笑わせてくれた山下という先輩道場生が中学進学を期に道場を去ることになった。スーツ姿の両親に付き添われ、道場の自分の用具入れを片付け、道場の皆に別れの挨拶をする山下の顔は、涙と泣き声を必死に堪えているが、針先でちょんと突けば水を満たした風船のように一気に崩れてしまいそうだった。
龍彦は道場生が出入りする門のところで他の道場生と一緒に道場を去ろうとする山下を見送った。山下が横を通り過ぎるとき、龍彦は小さくお辞儀をした。一瞬視線が合ったが山下の顔には何の表情も浮かんでいなかった。龍彦を無視して去っていく背を見つめる。
「山下君、鬼道を辞めるわけじゃないし。また会えるよ」
いつの間にか志乃が横に立っていた。この時志乃十四歳。龍彦が本部道場に入った時からいる道場生の一人だ。
「仕方ないよ、実力の世界だし。早く次の道に進ませてあげるのも山下君のためだと思う」
「知ってるよ」
龍彦がポツリと言う。
「山下君、上手いし正確だけど―」
「けど―?」
志乃が龍彦を覗き込みながら先を促す。
「上手いんだけど、怖くないっていうか― 年上だし体も大きいから勝てないけど、頭の中では勝てるもん。どうやって受けてどう攻めたらいいか分かるから― そういう人、上の組に進めないみたいだし」
志乃は感心したようだった。
「へぇ、龍彦君分かるんだ」
突然、龍彦の目の前にペコちゃんのパッケージにくるまれたポップキャンディが差し出される。
「ありがと」
礼を言って受け取る。志乃を見るともうパッケージを破り、頬をぷっくりさせてポップキャンディを咥えている。志乃の手が龍彦の頭に置かれる。
「ねぇ、龍彦君」
「なに?」
志乃の手の温かさが心地よい。爪を綺麗に丸めた指先がこしょこしょと頭皮をまさぐる。
「髪、切ってあげようか?あたし得意なの、カット。お母さんが美容師さんなんだ」
「うん」
龍彦は深く考えずに返事をしたが、これ以来時折志乃は龍彦の髪を切ってくれるようになった。普通の散髪屋に行って髪を切ると、耳の脇や襟足がむず痒いような気がして苦手なのだが、志乃に切ってもらうととても心地よかった。
「お父さんに散髪に行くからお金ちょうだいとか言ってお小遣いせしめちゃダメだからね」
「うん」
内心ドキリとしながら、志乃さんも小さな魔法が得意なのかなと龍彦は思った。
神戸市街地中心部、現在でも神戸モダニズム溢れる建築物が多く残る旧外国人居留地に建つオリエンタルホテル。正面玄関前の車寄せに一台の車が滑りこんでくる。赤のアウディA8。鏡のように磨かれたボディにホテルの駐車係が近づいて恭しく後部座席のドアを開ける。黒いつば広の帽子。白黒のシャネルのノースリーブワンピース。黒いピンヒール。唇とシャネルのポシェットだけが赤い。ドアを開けてくれたホテルマンに一瞥もくれずに玄関に向かう。早瀬川弓歌。鬼士名を緑風院那賀倉真弓。アウディのハンドルを握っているのは東海林清子。名前以外詳しい素性は分からないが、どうやら免許を取れる年齢には達しているらしい。弓歌が玄関を潜ったのを見届けた清子はアウディをするりと発進させ車道に消えた。
弓歌は迷うことなくロビーへ歩を進める。ロビーにいた男も女も思わずその優雅で颯爽としながらもどこか艶めかしい姿を眼の端で追いかけた。その姿を認めて奥のソファに腰かけていた地味なスーツ姿の若い男が立ち上がる。
「姫様―」
周りを気にしたような低く抑えた声を弓歌が遮った。
「おいで、宿坂。お昼をご馳走してあげる」
歩を緩めることなくそのままエレベーターに進む。宿坂が慌てたように小走りに弓歌の前に回り込み、エレベーターのボタンを押した。やってきたエレベーターに乗り込む。箱には弓歌と宿坂と呼ばれた男の二人だけ。
「姫様、もう少し―」
「すぐに着きます。ゆっくり座って話しましょう。出た階のステーキハウスを私の名前で予約してあります」
滑らかで柔らかく響く声。弓歌は正面を見据えたままだ。エレベーターが止まり扉が開く。宿坂は弓歌を先に降ろしてから、小走りにステーキハウスへ向かう。
「予約をしてるんだが。早瀬川で」
受付の男性がカウンターの内側に置かれたディスプレイを眼で追う。
「はい早瀬川様、那賀倉様のお名前で二名で承っております」
男性が宿坂の後ろに弓歌の姿を認め小さく会釈する。宿坂が小さく溜息をついた。
「いらっしゃいませ、那賀倉様。お席にご案内いたします」
店の奥、景色の良い窓際のテーブルの案内される。すでに弓歌のテーブルを担当する焼き手のシェフが待っていた。
「いらっしゃいませ那賀倉様」
弓歌は小さく微笑んでまだ若いシェフに声をかける。
「元気そうね夏目君、お母さまは最近どう?」
「お蔭さまで。母も久しぶりに姫様のお顔が見たいものだといつも言ってます」
「お正月に皆で家にいらっしゃいよ。招待状を送っておくわ」
「はい、お気遣いはありがたいのですが― 最近は鬼界とも縁遠くなってますし― 姫様に迷惑がかかってもいけませんから」
「気を遣ってくれてありがとう。でも、大丈夫よ」
弓歌はここで初めて宿坂の方を見た。宿坂はもっと気を遣えと言われているような気がして居心地が悪くなる。
「夏目君、宿坂は初めてよね」
夏目は掌をかざして鉄板の温度を確かめてから、鉄板に油を垂らし、こてを使って鉄板に油を馴染ませる。
「はい。初めまして、夏目と申します。よろしくお願いします。姫様には普段から何かと眼をかけていただいております」
「宿坂です。よろしく」
目の前の相手と弓歌の関係が良く分からず、宿坂は必要最低限の挨拶に止める。弓歌はクコの実が入った食前酒に口をつけながら楽しそうに二人の顔を見比べている。夏目との関係について宿坂に説明する気は無さそうだった。サラダが運ばれてきた。弓歌と宿坂は黙ってサラダに手を付け始める。弓歌が使われているドレッシングを褒める言葉を口にし、夏目が礼を言う。黙ってサラダを口に運んでいた宿坂がしびれを切らしたように口を切った。
「姫様、おっしゃっていただければお迎えに上がりましたのに」
「南雲の家まで?それとも適当な場所まで電車で出て来いとでも?」
宿坂は夏目を気にする風を見せながら続ける。
「お食事がしたければ私の名で予約をします。何もこんな―」
宿坂の怒り顔に弓歌は楽しそうだ。
「これから後ろ暗いことをしようとしている人間が必要以上に目立つ真似をするなということかしら」
宿坂はむっつりと黙り込む。
「よからぬ相談に相応しい、もっと地味で人間界に溶け込むような服装が良かったかしら」
「私は、何も― そのような―」
「悪事を働こうとしている者はこんなところではなく別のところで話をすべきかしら。寂しい倉庫街の裏手とか?」
宿坂は何も言えなくなった。鉄板の上に夏目がズッキーニ、ヤングコーン、オクラを並べ始めた。
「ねぇ宿坂、花はなぜあんなに綺麗なのかしら」
弓歌の唐突な質問に宿坂は押し黙った。テーブルの近くに花が飾ってあるわけではない。受付に飾られていた花もここからは見えない。
「花はなぜ咲くのかしら」
自分に向けた問いかけとは分かっていても、宿坂には返す言葉が出てこない。弓歌は相変わらず楽しそうだ。
「なぜだと思う、宿坂?花はなぜ咲くの?なぜあんなに美しく咲く必要があるの?」
弓歌の質問の意図を測りかねて宿坂は黙るしかなかった。前に置かれた皿に焼き野菜が置かれる。弓歌が箸を取ってズッキーニを口に運ぶ。「うん、ホクホクで美味しい」と夏目に笑顔を向ける。
「あなたも食べなさい」
弓歌の言葉に宿坂は渋々と言った感じで箸を取る。夏目が鉄板に豆腐を並べる。バチバチと小気味よい音を立てて豆腐が踊り始める。
「答えは簡単。花が美しく咲くのは虫たちの目を引くため」
弓歌はヤングコーンに箸を付ける。
「華やかに美しく咲くのは他人の眼を惹きつけるため。つまり虫たちの気を惹いて子孫を残すため。自分の種子、遺伝子を残すため」
宿坂がこわごわといった感じで弓歌を見る。弓歌は宿坂を見ず、熱い鉄板の上でチーズのように蕩けかかっている豆腐を見ていた。
「私がこの世に生まれたのは正にそのため」
豆腐が皿に置かれる。弓歌は待ちかねたように箸で豆腐を慎重につまむ。
「私はいずれ早瀬川の家を出て他家に嫁入りするのでしょうね」
豆腐が赤い唇に包まれる。
「早瀬川の家が安泰なれば私も嬉しい。緑風院が栄えればそれもよい。でも真に大切なのは鬼門です」
夏目が物問いたげに弓歌を見ているのに気づいて「レアでお願い」と弓歌。続けて宿坂が「よく火を通してくれ」と告げると弓歌が夏目に微笑む。微かに嘲笑を含んだ笑み。
「彼のもレアでお願い」
「はい―」
弓歌は顔を殆ど動かさずに視線だけ宿坂に向ける。
「生物や冷たい飲み物は極力口にしないのよね、宿坂は」
後半部分は夏目に視線を戻している。夏目を見る時には笑顔になる。わざとそうしているのだと宿坂には分かっている。
「そうでしたか。武道家の方にはたくさんいらっしゃいます。やはり、よくお焼きしましょうか?」
「だめよ」
弓歌がぴしゃりと言う。
「彼には私と同じものを食べさせるわ」
「申し訳ありません。出過ぎたことを―」
鉄板に肉のブロックが置かれる。一つは美しいルビー色のフィレ肉。もう一つはローズピンクのサーロイン。フィレ肉はサーロインの半分ほどの大きさしかない。宿坂の視線に気づいたのか弓歌がからかうように言う。
「別に食欲が無いわけじゃない。美しく咲くための単なるダイエットだわ。あなたのことだから念のため言っておくけど家への報告なんて不要よ」
これは本当だった。午前中に一時間程ウォーキングを兼ねて日光浴をしたのだ。鬼虫には光合成の能力が備わっており、光と水と空気、体内栄養素を使って数種類の鬼士酵素とブドウ糖を生成する。鬼力の強い者なら真夏にTシャツとハーフパンツ姿で半日屋外で活動すれば一食分くらいのブドウ糖を生み出せる。
「宿坂、頭の固いあなたのために分かりやすく説明しておくわ。よく聞きなさい」
宿坂は焼ける肉に視線を固定したまま膝の上で拳を握っている。
「宿坂、返事は?」
「―はい」
弓歌は満足げにふうっと溜息を吐く。
「私という鬼がここにいるのは先祖から受け継いだ鬼門の伝統、技と知恵、名誉と誇りを大切に守り育て、次の世代に送り渡すため」
生肉が鉄板に押し付けられる音。肉の焼ける香ばしい香り。宿坂の拳がそれと分かるほどに震えている。
「私がここにいるのはそのため。鬼の血を受け継ぐ子を生し、一人で歩けるようになるまで大切の守り育てる。鬼界の全てを受け継ぎ、全てを次の世代に手渡していく。私は連綿と続く鬼の世の一部なのです」
肉が焼きあがった。夏目が二人の前に置かれた皿に大事そうに肉を載せる。醤油と山葵、岩塩の入った小皿が脇に添えられる。宿坂の前には肉に加えて白いご飯と漬物も置かれた。
「私はつまらない私憤や激情に突き動かされているのではない。鬼達皆のため。鬼門全体のため。この世界を守るためにやるの。だからこそこそ隠れる必要はない。悪びれる必要はない。誰かに聞かれやしないかと怯える必要もない。分かったわね?」
「はい―」
弓歌は箸で山葵をひとつまみ肉に乗せる。宿坂は弓歌の赤い唇に肉が吸い込まれていくのを上目遣いに盗み見る。
「美味しい」
声に出さずに言って弓歌は優しく肉を咀嚼する。
「準備はできているの?」
宿坂は目の前の肉も目に入らない様子で異様に強い視線を自分の膝に刺している。
「―姫様、鬼界は狭い世界です。ご存知でしょう?誰にも顔を知られていない鬼士などおりません。偽名を使ってもすぐに分かることです。たとえ虫が騒ぐ前のまだ台帳に載っていない鬼がいたとしても、すぐに緑仙流が仕組んだことだと知れてしまいます」
弓歌は一つ溜息を吐いて見せる。
「だから言ったでしょう?構わないと。鬼界全体のためにやるのです」
宿坂がグッと喉を鳴らす。
「…なぜ、ですか?」
昏い光を湛えた眼で弓歌を見る。
「なぜあの男に拘るのです?ただの虫持ちではありませんか。放っておけばよいではありませんか。どうしてもというなら虫持ちの一人くらい緑仙流の力を使えば簡単に潰せます。政治的に潰せます。姫様の手を汚す必要など」
「黙りなさい!」
鞭の音を聞いた犬のように宿坂が口を閉じ身を固くする。
「もういいわ。お前には頼まない。他の者に頼みます」
弓歌が箸を置いてナプキンで口元を拭う。
「ごちそうさま、夏目君。この男がいないところで相談します。今日はもう帰れるわね?」
「はい―」
夏目は宿坂を気にする素振りを見せながらも素直に頷く。弓歌はスマートフォンを取り出し素早く画面をなぞった。
「すぐに車が来ます」
弓歌が立ち上がる。フロア係が鬼士並のスピードで現れ帽子とポシェットを手渡す。
「待って― 待ってください」
宿坂は簡単に陥落した。
「分かりました― やります― 手伝わせてください」
弓歌は黙ってスマートフォンのディスプレイをもう一撫でした。愛想の無いチャイム音が一つ。宿坂が上着の内ポケットからスマートフォンを取り出す。メールが一件。本文もタイトルも空だ。Jpg形式の画像が添付されている。画像を開く。若い男の顔写真。写真画像に直接名前や年齢、身長といった個人プロフィールが書き込まれている。
「時限ファイルよ。三日経ったら勝手に壊れる。必要なところに配りなさい」
宿坂はもう一度画像に眼をやる。怜門龍彦。一七歳。まだ少年の面影を残したターゲットは隠し撮りに気づかなかったのか、写真の中で無防備な笑みを浮かべていた。
午後三時。山田教授はカーテンを閉め切った薄暗い部屋の中で、檻の中の熊のように行ったり来たりしていた。高級住宅地にある二階建ての低層マンションの角部屋。とても残念なことに下の道路から一つしかない出入り口が確認できる位置にある。
山田教授は授業を終えて真っ直ぐに帰宅すると、昼食も摂らずに部屋に閉じこもり、ソファに座っては立ち上がり、電話を掛けかけてはやめ、窓に近づこうとしては考え直し、またソファに座るという動作を繰り返していた。
山田は意を決して、ほんの数㎜隙間の空いたカーテンに近づく。いた―と思ったら相手はカーテンの隙間から真っ直ぐこちらを見つめ、口の端をニッと吊り上げる。小さく手を振ってくる。少し小太り。顔全体を包むようなストレートの長髪。クラシカルなレイバンのサングラス。少しピチピチ気味の素っ気ない洗いざらしのTシャツ。腰には革のライダージャケットを巻き、適度に色落ちしたジーンズに型押しの鰐革ブーツ。なぜかブーツの踵には馬の腹を蹴り上げ気合を入れるための拍車が嵌めてある。傍らにアーミーブラックに塗装されたモタードバイク。ハンドルにヘルメットが引っ掛けられている。
山田は熱いものに触れたように身を引くと窓から離れる。やはり見られている。室内はカーテンのお陰で薄暗い。普通の人間の視力では細いカーテンの隙間から中の様子を伺うことはできないはずだ。しかもこの部屋は鬼風除けのためにカーテンはもちろん、窓ガラスにも壁にもバリウムが塗布されている。バリウムは現在効果が認められている唯一の鬼力遮蔽体で、純粋なバリウム結晶は鬼力を九十五パーセント以上遮蔽することが確認されている。毒性があるため硫酸バリウムの形で布や壁紙、フィルムに塗布されて利用されるが、それでも鬼風遮蔽率五〇パーセントだ。カーテンの隙間からとはいえ、山田と太っちょカウボーイの間には硫酸バリウム加工されたレースのカーテンと、バリウムフィルムを内と外に貼った上にスプレー式の硫酸バリウムをたっぷり吹き付けた窓ガラスがあった。相手の鬼力が強いせいなのか。それとも室内に何か細工をされたのか。
急がねばならない。山田は左手で腰のあたりの空気を掻き混ぜる仕草を見せた。左手が分厚いレンズ越しに見たか、水の中に突っ込んだように歪んで見える。鬼力が作り出した重力渦の中に手を差し入れているのだ。しばらくして山田の左手がそっと引き出される。指先に小さな黒いプラスチック片をつまんでいる。マイクロSDカードだった。仕事用のバッグからアルミ製の小さなチューブを取り出す。キャップを外し中にSDカードを収める。山田はしっかりキャップを締めると自分に言い聞かせるように数回小さく頷いた。
オリエンタルホテルの一室。先程まで部屋にいた宿坂と夏目は先に帰っていた。
「大丈夫― なのですか?」
少し震え気味のか細い声。東海林清子だ。洋室の床に直に正座している。弓歌はアンティーク調の椅子に腰かけミルクティを飲みながら答える。
「大丈夫よ、夏目は。昔の侍従の息子なの。残念ながら虫が憑かなかったのよ。緑仙流に残る道もあったけれど鬼道をきっぱり諦めて外に出たのよ。あなたと逆ね」
清子は俯いたままグスグスと啜りあげている。さらさらのおかっぱ髪のせいで顔が隠れ表情は伺えない。
「―出したんでしょ?」
弓歌がカップ越しに清子に視線を投げる。
「出たのではなくて出したんでしょ?」
清子の声は相変わらず細く小さい。俯いて表情を見せないまま肩を振るわせている。
「いろんな所にいるんでしょ?鬼門の外に、こういう時に使える駒が、沢山いるんでしょ?言うことをよく聞くように仕込んだスリーパーがいっぱい」
弓歌が怖い笑みを浮かべる。
「清子、今日は良く喋るわね」
「弓歌は他人を支配するのが上手だから― 乱暴なことしないでも宿坂さんみたいに上手にがんじがらめにしてしまえばいいのに。宿坂さんみたいにいじめて欲しがってる人には冷たく鋭く容赦なく、夏目さんみたいに愛情に飢えている人には優しい姉のように。きっと龍彦さんにも弱点があるはずでしょう?お母さまを早く亡くされているから母性で攻められると弱いはず。何も手荒なことをしなくても」
弓歌の声の冷たさが増した。
「姫様とお呼び、清」
清子が黙って肩を揺らす。顔を覆う髪の隙間からそっと弓歌の顔色を窺っているのだろう。
「さすがはエデン帰りね。よく見えていること」
エデンと聞いて清子の嗚咽が少し大きくなる。弓歌はお茶請けのクッキーを齧る。
「懐かしいでしょう?戻りたい、エデンに?」
清子が何かに取り憑かれたように激しく頭を振る。全身を激しく捩って拒否の意思を表す。
「嫌!嫌!いやだ!戻るのは嫌だ!」
弓歌は意地悪く黙って微笑む。
「戻るもんか!絶対に!嫌だ!嫌だ!嫌だ!」
弓歌は清子の余裕を測るように黙って見つめている。
「ねぇお願い、あそこに戻るのは嫌。嫌なのよ」
いつの間にか弓歌の足元ににじり寄って懇願する清子。
「分かってるわ。帰すものですか。姉妹でしょう?」
そういって弓歌は清子の頭を撫でる。
「今回のこと、上手く行ったらご褒美をあげる」
弓歌はそっと清子の頭に顔を近づけ囁く。
「お姉さまと呼んであげる」
清子の嗚咽がピタリと止まる。
「―本当?」
「本当よ。認めてあげる。お姉さまだと」
清子は相変わらず俯いて髪で顔を半分隠したままだ。しかし体の震えは綺麗におさまっている。
「約束、忘れないで。姫様」
清子の声はツンと冷たく乾いていた。
太っちょカウボーイの尻ポケットでエルガ―の威風堂々が鳴り響く。ポケットから薄いメタリックシルバーの端末がぴょんと飛び出して太っちょの右手に収まる。
「あいよ」
体形に似合わない甲高い声。
「遊んでんじゃねぇ。鬼力を感知されたら面倒だ」
電話の主は携帯電話を取り出すのに鬼力を使ったことを怒っているらしい。鬼士院に属する精錬鬼道士、警察の鬼士警官、自衛隊の鬼士武官、民間鬼士団の団員など、鬼力を持つものが鬼士としての任務に就く際には、特別な許可のある場合を除いてそれぞれの組織の制服か外装鬼甲帯と呼ばれる鬼士専用の鬼士服を着なければならないことになっている。未登録の鬼士が鬼力を使うことはもちろん、休暇中に私用でみだりに鬼力を使うことは禁じられている。鬼士が鬼風を吹かせて傍若無人な振る舞いをすることへの枷でもあり、また周りの一般人が「鬼」を一目で識別できるようにするという意味もある。鬼力は鬼個人に与えられた物ではなく公のためのもの。社会全体のために使われるべきもの。そしてその考えは鬼士に与えられた様々な特権の根拠にもなっている。
「大丈夫だって、ヒロ兄。巡回ルートは今日も変わってないよ」
少し大きな町には大抵の場合鬼道士事務所が設置されている。保安執行士として鬼士が赴任しており、警察と連携しながら町の安全確保、治安維持に努めている。特に鬼力を使った犯罪の取り締まりは鬼士にしかできないため、鬼士は鬼力犯罪の捜査や予防が重要な任務となっている。現在、鬼力を機械的に検知する装置はあるにはあるが、まだ国家機関や大学の研究所の一部に設置されているレベルだ。不正な鬼力使用の摘発は町を巡回している保安鬼士や鬼士警官の皮膚感覚が頼りなのだ。
「とにかく気を抜くな、永都。もうそろそろ終わらせる」
「お、やっとかよ。ヒロ兄慎重すぎんだよ」
「やつは中にいるんだな?」
「あぁ。ただやたら鬼風除けが厳重でさ。中の細かい様子までは分かんねぇな」
「分かった。そのまま見張ってろ」
「了解」
ドアのチャイムが鳴った。出る気はなかったがインターフォンのモニターを確認せずにはいられない。山田は猫足でインターフォンに近づくとモニターをそっと覗く。モニターに写っているのはマンションのエントランスではなかった。一瞬ギョッとしたが、モニターに写っているのは知っている顔だった。同じフロアに住んでいる小学生だ。以前、たまたま学校関係者と一緒の時に母子とすれ違い、後日ゴミ出し場で出くわした際に、母親が朝の挨拶をしながら、
「この間は先生と呼ばれてらっしゃいましたけど、小説でもお書きになってるんですか?」
と話しかけてきた。鬼士である山田は相手の表情や声音から相手の心を読むのが上手い。母親は山田に対して興味深々と言った感じであり、女性らしい飾りや異性へのおもねりは少し感じるものの、嘘や偽りの色は見えなかった。
「いえ、学校で教鞭を執っていますので― 本当にただの先生なんですよ」
防衛大学校の教授だとは言わない。この母親に近しい人物が他国のスパイである可能性もあるからだ。それを聞いた母親はパッと明るい笑顔を造る。
「まぁ、ひょっとして近畿音大かしら?」
「―いえ、残念ながら」
母親は気まずさを笑って誤魔化しながら、
「実はうちの子ピアノを習ってまして、将来音楽の道へ進みたいとか言うものでつい― ごめんなさい」
母親は頭を下げながらマンションの中へ、山田はそのまま駅へ向かった。それだけのことだったのだが、それ以来顔を合わせると会釈くらいはするようになった。
山田はインターフォンの受話器を取った。
「はい」
「こんにちわ、佐藤です。お母さんが、これ―」
モニターの中で少女が紙袋を掲げて見せる。山田はモニターに不審な人影がないことを確認してドアを開ける。
「やぁ、美帆ちゃん」
「あの、これ―」
恥ずかしそうに紙袋を見せる美帆。
「お邪魔してすみません。美帆、先生はお忙しいから早くお渡しして」
母親の樹里の声がした。自己紹介をしたわけではないが集合ポストに名前が書いてあったので覚えたのだ。名前は母と娘、二人のものだけだった。山田は廊下に出て声の方を見る。少し派手目の化粧をした樹里がミニのドレス姿でやってくる。気恥ずかしそうに笑いながら、
「これからお友達の演奏会なんです」
「そうですか―」
山田は適当に相槌を打ち、美帆から紙袋を受け取る。プラスチックのタッパーが一つ。
「とこぶしの煮つけです。お友達からとこぶしをいただいたんで煮付けてみたんです。先生のお口に合うか分からないですけど」
「いやぁ、とこぶし、大好きで。ありがとうございます」
これは本当だった。
「良かった。タッパーはそのまま捨ててください。それじゃあ」
会釈をして美帆と手をつないで戻っていく二人を見送る。山田は辺りを見回してから部屋に戻りドアを閉める。鍵を二つとドアガードをしっかり掛ける。後で礼でもしたほうがよいかと考えながらダイニングテーブルの上に紙袋を置いた。
「よう色男、お返しに食事にでも誘ってやれよ」
リビングのソファに若い男が座っていた。山田は凍り付いたように動けない。いつの間に入ったのか。全ての窓には外部からの侵入に備えて仕掛けがしてある。床や天井に穴を開けるわけもない。
「どうだっていいだろ?どこから入ったかなんて。落ち着いて深呼吸しろよ。ぶっ倒れても医者は呼んでやれないぜ、山田教授」
山田は無言で体中に鬼力を見たす。心にがっちり鍵を掛け表情を消す。
「だから落ち着きなって。お互いに一番得なやり方を考えようぜ」
若い鬼士はソファから立ち上がり両手を大きく広げる。背が高い。長袖の黒い無地Tシャツに裾を絞ったモスグリーンのアーミーパンツ。ごついマウンテンブーツを履いたままだ。荷物はない。手ぶらだ。重力渦からまだ取り出していないだけだろう。
「あんたが渦の中に隠してるものを出してくれればそれでいい。俺たちのクライアントがそれを買い取る。値段は五百万。その上であんたをプロジェクトチームのリーダーとして迎える。年俸は百万。それにもし希望するならマンションに高級車、それから女。さっきの女― もちろん母親の方だぜ? あの女がいいなら自分で声掛けな。もともとあんたに気があるから。それから―」
若い鬼士が真面目な表情になる。山田に掌を向けながら言う。
「庇護だ。あんたを守ってやる。俺がじゃない。組織があんたを大事に守ってくれる。俺たちみたいな連中からも、警察からも、鬼士院からもな。物理的な攻撃はもちろん政治的にも、あんたをそっとしておくよう話をつけてもらえる。だからあんたはそのハンサムなお顔を整形したりこそこそ逃げ回ったりする必要がない。あんたはのんびり人生を楽しみながら研究に没頭してくれ」
山田は何も言わずじっと若い鬼士を見つめていた。
「お、やる?荒事は学者先生には向かないぜ?いいの?」
若い鬼士の体が陽炎が立つかのように揺らめくと背に斜めに背負った長刀が現れる。山田の体もゆらりと揺らめき右腰にホルスターに収まった銃が現れる。
「山田教授は早撃ち系の銃使い。鬼士録のデータ通りだな」
話しながらも若い鬼士は体内の鬼力を高め、体の周りから湯気が立つように鬼力が溢れ始める。足元を確かめながらそろそろと右手を頭の方へ動かす。右手が柄にかかった。
「南部の六八式か。古いけど良い銃だ。軽くてバランスがいい。早撃ちにはもってこいだ。弾は?やっぱり岩塩?」
鬼士同志の闘いは相手を殺傷することを目的としない。相手の鬼虫にショックを与え動きを止めるか、弱らせるかすることで相手の鬼力を解除することを目的とする。激しい戦いの結果、怪我をしたりさせたりすることはあっても、最初から相手を肉体的に痛めつけるための闘いはしない。剣であれ銃であれ、鬼士にとってそれは相手を破壊するものではなく、自分の鬼力を相手に届けるための道具なのだ。
「撃つのはいいけど、こっちも手加減できない。少しくらい怪我するのは覚悟してくれよな。もっともあんたも鬼士だ。ちょっとした刀傷くらいすぐ治っちまうだろ」
山田は何も言わずに口の端だけで笑う。その笑みを見て若い鬼士も笑う。
「気づいてたのか。大学教授だっていうからお勉強だけの世間知らずかと思ったんだがな」
若い鬼士はただ無駄に喋っていたわけではない。声に鬼風を乗せ話すことで聞き手の山田に催眠誘導を仕掛けようとしたのだ。相手が鬼士でも油断していればかかる。山田が初めて口を開く。
「これでも鬼士だからね。君と違って鬼士院から免状を貰った精錬鬼道士だよ」
「ふん、うるせぇ」
若い鬼士はニヤリと笑う。が、山田はその顔に走った微かに苛立ちの影を見逃さない。
「僕は教師だからね。教えてあげよう。声を使った催眠誘導で大事なのはリズムとタイミング。歌うように、ささやくように、呟くように。大きな波と小さな波。高い波と低い波。相手の揺らぎに合わせてリズムを使い分けるんだ。錬成院では実習するんだけどな。あぁ、興味があれば教科書が戸棚にあるよ」
山田が若い鬼士のコンプレックスを突いて反撃する。若い鬼士のシニカルな笑いの面に小さなひびが入り始める。
「言われなくても分かってるよ。俺は無資格の野良犬さ。もっとも錬成院を出た鬼道士がみんなご立派な人物とは限らねぇようだがな」
山田が更に言葉による攻撃を仕掛けようとするのを遮るように、
「さて、軽く立ち会おうぜ。まだ名乗ってなかったな。俺は円谷。円谷広幸だ。あんたらのような鬼号はない。未登録だからな」
山田は微笑んで小さく頷く。
「黄樹台山田實だ。引き分けにしないか。黙って出ていけば君のことは忘れよう」
「そうはいかねぇ。もうすぐ家賃の引き落としがあるんだ」
もう広幸の顔には落ち着きが戻っていた。
「来いよ。撃ってこい。野良犬を撃つのを躊躇うタマじゃねぇだろ」
山田の顔に張り付いていた笑みがスッと溶け、能面のような表情が剥き出しになる。互いの鬼虫の鳴き声が聞こえそうなほどの沈黙が三秒、四秒、五秒―
突然、山田の右手とホルスターに収まった銃が消失した。消えると同時に右腰の前に現れる。人差し指はすでにトリガーを引き絞っている。左手が撃鉄を仰ぐように叩く。銃口から火薬の炎とは違う赤い鬼力の光が砕けた岩塩と共に銃口から噴き出す。続けざまにもう一発。パパンッ―と火薬の爆発音が部屋を満たす。右手が動いてから鬼力をたっぷり込めた二発目の岩塩弾が発射されるまでコンマ一秒以下。銃使いの超高速ファニングショット。
山田の右手が動くと同時に広幸の右手も動いた。白銀の刃が抜き放たれ、山田の銃が放った赤い閃光に向かって振り降ろされる。広幸の剣は黄緑色の燐光を帯び、空中で赤い閃光とぶつかる。カーテンを引いた薄暗い部屋がフラッシュを焚いたように明るく瞬く。初弾のすぐ後ろからやってくる二弾目を、体を低く沈めたまま、柄を顔の位置まで掲げる変則の下段に構えた剣で受ける。互いの鬼力がぶつかって虹色のスパークを散らした。硝煙の香りが部屋一杯に広がる。
「早いな教授。それに結構強い鬼力だったぜ。だが、俺の勝ちだと思うけど、どうだ?」
広幸は刀を収めずに右手に持ったままだ。山田も銃をホルスターに戻していない。
「確かに、完全に受けきられたな。大したもんだ。どうだろう、錬成院に入るっていうのは?私が推薦するよ」
「遠慮するよ。こっちにも色々と事情があるんでな」
山田は残念というように多少大げさに体を反らせかぶりを振った。
「それは残念だっ―」
再び銃が赤い閃光を放つ。ただ銃口は広幸の方を向いていない。狙ったのは部屋の奥の壁際、天井に近い辺り。その意図はすぐ分かった。部屋の隅に置かれた白い煙突上のライトスタンド、天井の隅に取り付けられたスポットライトから白い煙が噴き出したのだ。ただの煙ではない。重晶石を砕いた粉、つまりバリウムがたっぷりと含まれたバライト粉だ。銃で狙った場所に噴射装置のスイッチが仕込んであったのだろう。
「クソッ」
広幸が逃げる山田を追って隣の部屋に飛び込むのと、山田が開けた窓から白いボールを投げるのが同時だった。放物線を描いてゆっくりと落ちていく白いボールに突然二つの翼が生えた。ハタハタと力強い音をさせながらグンと上昇すると、マンションの上空を旋回する。鳩。足に小さなアルミチューブが取り付けられている。伝書鳩だ。
突然、山田の視界がグニャリと回転する。動けない。山田は自分に何が起こったのか分からない。
「永都!」
広幸が外に向かって鋭く叫ぶ。上空の鳩を指さす。永都がバイクに飛び乗り鳩の飛び去った方向へ走り去っていく。それを見届けた広幸は山田の脇腹をワークブーツで一蹴りする。「グフッ」という自分の呻き声を聞いて山田は自分が猿轡を噛まされていることに気づく。そして今のキックの奇妙な角度は自分が床に寝かされているせいであることも、両手両足をプラスチック製の結束バンドで拘束されていることにも気付く。鳩を投げたと思った次の瞬間、もうこうなっていたのだ。殴られて瞬間的に記憶が飛んだのだろうか。
「やるな、教授」
広幸は今度は口元にワークブーツの踵をお見舞いしてきた。山田の口の中に鉄の味が広がり折れた歯が舌の上に転がった。
「永都の蹴りはもう少し痛いと思うぜ、教授」
広幸は窓を閉め、スマートフォンを取り出すと手早くメールを送信する。
「さて、あの鳩はどこに行く―と尋ねても、答えるわけねーよな」
広幸は重力渦から薄べったい銃のようなもを取り出す。銃身に当たる部分の先に電極が付いている。鬼捕獲用につかわれる高出力のスタンガンだ。山田はスタンガンをよく見ようとしたが視点が定まらなくなっている。
「酔いが回ったてきたな」
どうやらアルコール注射をされたらしい。鬼士を無力化する際によくやる手だ。しかしいつ注射されたのか、全く覚えていない。
「おやすみ教授」
肩口に電極が押し付けられ、次の瞬間すべてがブラックアウトした。