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龍彦、本部道場生になる

「え― そして翌一八八三年のことだね。遂に御手洗教授はそれまで全く知られていなかった体内細菌、M型共生細菌、俗に言う鬼虫を発見したわけだ。昔からの言い伝え通り、鬼士の体内に特殊な虫がついていることが裏付けられたわけだね」

 白いシャツの襟元に付けたピンマイクのスイッチをオフにして、山田教授は小さく咳払いをした。喉が渇く。演台の上に置かれたペットボトルの水を一口含む。

「自身も精錬鬼道士であった御手洗教授は京都帝国大学で、え―、当時はまだ鬼道院と言ったんだが、形的には鬼道院からのいわゆる出向という形だったんだけど、大学に残りそのまま研究を続けることになった」

 百人ほどが入る中教室は八割方埋まっている。生徒たちはみな制服である半袖の白ワイシャツと白ズボン姿だ。半袖から覗く腕はどれも良く焼けており鍛えられている。筋肉の発する熱量はかなりのものだろうが、性能の良い空調設備のお陰で室温は二六度に保たれている。山田の好みで言うともう少し設定温度を下げたいところだが、室温は事務局で集中管理されており勝手に下げるわけにはいかない。必要以上に温度を下げ税金とエネルギーの無駄遣いだと騒ぎ立てられるのは避けなければならない。

「以降、一八八〇年代後半から九〇年代前半にかけて、御手洗教授はM型光波、M型重力波などの鬼虫が発生させる波動エネルギー、鬼虫の光合成機能、ミタライナーゼに代表される鬼士酵素など、次々に現在の鬼士医学、鬼士化学、鬼道学の基礎となる発見をするわけだ」

 鼻の頭に汗をかいている。背を汗が伝う感触。教室が極端に暑いわけではない。その証拠に講義を受けている筋肉エリートたちは涼しい顔だ。

「そして御手洗教授は鬼士の最大の謎の一つ、その驚異的な治癒力、再生能力について一つの仮説に辿り着くことになる」

 汗が止まらない。シャツの下のアンダーウェア、肌から汗を吸い上げ効率よく気化させるための特殊素材が使われているはずなのに。山田はハンカチを取り出し鼻の頭と額の汗を抑える。小さな映画館のスクリーンぐらいありそうな電子黒板にゴシック体の文字が浮かび上がる。山田は手に持ったマーカーでその文字を丸く囲む。

「そう。かの有名な歪曲時空予想だ」

 この教室にいるのは皆筋力とそこそこの知力に恵まれた人間たちだ。山田の汗を見ても、山田の内心の動揺や不安、恐れまでは見抜けない。暑い。暑苦しい。でも人しかいないのは有り難い。心の色を見透かされないよう、必死に心を閉ざす必要がない。建物の外からではいくら力の強い鬼士でも山田の心を読むことはできないだろう。この建物の中までは連中も入ってこれないはずだ。だからここでは心を緩め、リラックスして不安がっても大丈夫というわけだ。多少暑いくらいは我慢しなければならない。

「鬼力が空間を歪めることは当然古くから知られていたし、鬼士たちは古くからそれを利用してきた。鬼力を使って体の周りに歪曲空間を作り出す。鬼のポケット。鬼溜まり。鬼襞。重力渦とか単に渦流とか呼ばれるが、この歪曲空間はいわゆる底無しの四次元ポケットではない。ちゃんと大きさがあるんだ。空間の広さは鬼力の強さと流量に比例する。はい、これが― ん、出た出た、この電子黒板ときどき固まっちゃうんだよな。はい、これが公式。鬼士はここに武器を隠したまま活動できる。人はもちろんだが、鬼士であっても他の鬼士の作り出した重力渦の中の物を取り出すのは難しい。どうしても取りたければ強制的に相手の鬼力を排除するしかない。相手を倒してね」

 連中はどこで張っているのだろう。家か?大学の周りか?多分大学だ。やつらはあれを俺が持っていると知っている。俺のポケットに隠してあると知っている。ずっと見張られていて取り出すこともできないのだ。あれはポケットから出すとすぐに連中にばれてしまう。連中はあれがどこにあるか分からない。あれの気配が感じられないのだ。つまり俺のポケットの中に隠してあるとすぐに知れるわけだ。簡単な消去法だ。

「武器だけじゃない、中には人間を隠すことができたと言われている鬼士もいる。文字通り神隠しだな。みんな出雲久作や伊勢雷田の名前は聞いたことがあるだろう。二人ともつい十五六年前まで生きていた実在の人物なんだが、生前の記録がほとんど残ってない。政府と鬼士院が隠蔽しているという噂があるくらいだ。結果、数少ない真実に噂と想像、妄想が加わり今では役小角や安倍晴明伝説とほとんど変わらないくらいだ。まぁ重力渦に人を隠すというのは理論的には可能なんだが。実際に見たことはないがね」

 一番安全と考えた場所が皮肉にも自分自身を縛ることになってしまった。何も無い空っぽの部屋にぽつんと金庫が置いてあるようなものだ。相手は無理をして金庫を開けて中身を壊してしまわないよう、じっくりと金庫を見張っていればよいのだ。金庫に入っている限り中身は安全だ。扉が開くのを、できるなら金庫自ら扉を開けてくれるのを待っていればよい。これはあまり考えたくないが連中は大人しく扉が開くのを待つだろうか。困ったことに普通の金庫は度を越した熱や衝撃を受ければ中身もダメージを負うが、自分の金庫は壊れない。自分がいくら苦しい思いをしようが痛い思いをしようが、自分の金庫にしまわれた品物には傷一つつかないのだ。もし彼らがこれ以上待つつもりがなければ?あてどもなく待つよりも積極的に扉を開けるように働きかける気になったら?

「話が脱線したな。御手洗教授は治療実験を繰り返した。そしてM型光波と鬼士酵素を組み合わせた治療を行うと、部位や症状、重度にもよるが通常の治療に比べ全治期間が半分から四分の一程度に短縮され、条件次第では失われた部位の再生も可能だということを実証した。医学的に見て素晴らしい結果を得たわけだが、教授は満足しなかった。鬼士の持つ驚異的な治癒力、再生力には遠く及ばないからだ。その差はどこにあるのか考えた教授は一つの仮説を立てた。教授は鬼虫の発するM型重力波に着目した。M型重力波は時空間を歪める。傷を負った部位は時間を早く経過させて治癒を早める。健康な部位は時間の流れをゆっくりにして若さを保ち老化を遅らせる。驚異的な回復力と若々しさの秘密は鬼虫が宿主の体内時間をコントロールしているからではないかと考えたんだ。これが御手洗教授の歪曲時空予想だ。縮めて御手洗予想とも言う」

 山田はチラと時計を覗く。鳩と桜のロゴマークが入ったごついミリタリーウォッチ。講義終了まであと一分。その時計は山田の細い手首には悲しいほど似合わないが、スイス製の高級機械式時計など学内で着けていると目だって仕方がない。家で眺めるためだけに二万円も払ったわけではないが、今、羨望や好奇の眼差しを集めるのは極力避けなければならない。

「一〇年前にこの御手洗予想が正しかったことが証明されたわけだが、鬼力を医学やその他の分野に活用する取り組みはまだ始まったばかりと言っていい。鬼士の数は増えてはいるが爆発的な増加は見込めない。今後、人工的に鬼力を作り出すための研究は更に加速するだろうな」

 授業の終わりを知らせるチャイムが鳴る。

「じゃあ、今日はここまでにしよう」

「起立!」

 鋭い号令と共に教室の全員が綺麗に揃って立ち上がる。

「敬礼!」

 パシッと小気味よい音がして、生徒たちが山田に敬礼を送った。 



 小学校二年生の二学期から東甲陽園小学校に通い始めた龍彦は、陽造のお陰もありすぐに学校に馴染むことができた。陽造と同じクラス。担任は向日山先生だった。後から考えれば陽造と同じクラスになれたのは南雲家からの口添えがあったためだろう。鬼門会のみならず一般社会にも大きな影響力を持つ詩苑流ならそれぐらいは簡単だろう。学校に一人しかいない鬼士教師が担任であることも、南雲家への学校側の配慮なのだろう。

 鬼士は虫が騒ぎ出すまでは普通の人と同じ速さで成長していくが、虫が騒ぎ出すととたんに加齢による変化がゆっくりになる。老化スピードが極端に遅くなるのだ。向日山は鬼士流に言うと―つまり実年齢でいうと五〇歳半ば、一般人基準で言うと三〇歳前後に見える男性教諭だ。鬼士の平均寿命は一八〇歳を少し過ぎるぐらい。つまり鬼門界ではまだまだ青二才、一般の会社組織ではベテランに分類される年齢だ。龍彦が、

「向日山先生も六〇歳になったらやめちゃうの?」

 と尋ねる。陽造や他の鬼筋の子供たちと付き合ううちに、龍彦も鬼たちの年齢感覚に少しづつ慣れつつあった。向日山は細いシルバーフレームの丸眼鏡をちょいちょいと指先でつつく。ちなみに向日山先生の視力は三・五だ。眼鏡はフレームだけでレンズは入っていない。伊達メガネだ。

「やめないよ。人と鬼じゃ定年になる齢が違うんだ。月額八四〇円の鬼道士手当だけじゃ生活できないしな」

 向日山先生は少しくたびれたスーツ姿。教壇の上で生徒たちから集めた算数の小テスト用紙を名簿順に並べ替えている。

「鬼士は百歳なんだよ、定年。ね、そうでしょ?」

 陽造が教えてくれる。教室に残っているのはもう龍彦と陽造の他には、ふざけて下校の準備が遅れた少年が一人。その少年も体に比べてまだまだ大きいランドセルに教科書、ノート、給食セット、プリントを押し込むと教室を駆け出していく。向日山先生が、

「おーい、廊下を走るな」

 と声をかける。小テスト用紙の角をトントンと揃え、クリアファイルにしまう。

「うん、学校の先生だと百歳かな。私立校はまた違うけど」

「先生は鬼士院に勤めないの?」

 龍彦の問いに向日山先生は「鬼士院ねぇ」と苦笑する。

「入るの難しいんだよ、鬼士院て。勉強ができて強い鬼士じゃないと― とにかく、すごくむずいわけ」

 陽造は最後の方は少し言いにくそうだった。向日山先生は勉強できないし強くないと言っているようで遠慮したのだろう。

「はは、そうだな。確かに大変だ。鬼士院の本院の中で仕事している人たちはいわば鬼士のリーダー達だからね。陽造のおじいちゃんが入った時もみんな大喜びでお祝いしただろ?」

「有馬グランドホテルでお祝いしたよ。お客さん何百人も来てさ、じいちゃん大喜びっていうか、あぁ疲れたって言ってたよ。ちょうど明日、久しぶりに帰ってくるんだ」

「陽造のおじいちゃんは鬼界全体、鬼たちみんなのための仕事をしているんだ。大変な仕事だと思うよ。陽造のおじいちゃんみたいになるのは確かにむずいな。でも鬼士院で働く人にはいろんな人がいてね。鬼力を持たない普通の事務員もいるんだ。まず鬼士だけじゃなく、虫持ちの人もいる。普通の人も結構働いてるんだ。鬼士院の中では大体二千人位の人間と千匹近い動物が働いてる。二千人の人間のうち鬼士は五百人くらい。鬼虫持ちが五百人、普通の人が千人くらいだな。動物の方は犬、猫、鳥が多いな。ほとんどが鬼士たちの使鬼だ」

「うちのサクラも使鬼なんだ。使鬼はペットじゃないよ。鬼士を手伝う動物のこと」

 陽造が自宅で飼っているシベリアンハスキーの名を出して解説してくれる。

「うん。中には変わった使鬼もいてね、馬や熊、狐、フェレットやハムスターを使う鬼士もいるし、島とか海沿いの街なんかだとイルカを使う鬼士もいるよ」

「えー、鷹とかがいいな。かっこいいし」

「だからペットじゃないってば」

「はは、龍彦も鬼士になったら使鬼を持てるといいな。でも陽造の言う通り使鬼はペットじゃない。鬼力を持った動物だ。きちんとした良い鬼士だと認めてもらえないと使鬼も言うことを聞かないぞ。ま、それ以前の問題として数が少ないしものすごく高いからな。手に入れるのはかなり大変だよ。先生も持ったことないし。二人は鬼士院には行ったことあるか?」

「ないよ」

「お父さんが子供が行っていいとこじゃないって」

「先生も鬼士の免状を貰った時と師匠の師匠、つまり大師匠だな、精錬鬼士団に入った時の入団式でしか行ったことないんだ。入団式の招待状が送られてきて、それ持って鬼士院に行くんだけどな」

 二人の少年が食い入るように話の続きを待っている。

「手紙に香が焚きこんであっていい香りがするんだ。それと招待主の鬼風も染み込んでる。鬼士院に行くと入口に大きなホールがあってな、ホールの壁際に犬や猫が沢山臥せってるんだよ。で、自分の主が出した招待状を持った客が来ると匂いと鬼風で分かるらしいんだな、これが。先生がホールに入ると、一匹のまだ若い黒柴がトコトコっと先生の前にやってきてな。犬語というか、吠え声なんだけど、いらっしゃいませ―って言ってるのが分かるんだ。で、先生を振り返りながら尻尾を振って、僕についてきてって顔するんだ。そのまま黒柴君についていくと大師匠のいる控室まで案内されてな。部屋に入って大師匠に挨拶しようとしたら、黒柴君、先生の足元にちょこんと座ってこっちを見上げてるんだ。部屋にいた手伝いの鬼士が教えてくれたんだけど、部屋の隅に小さなボウルが置いてあってな。使鬼用のおやつが入ってるんだ。ここからおやつを一つ取って使鬼にあげるんだ。案内のお駄賃にね」

「わ―、飼ってみたいな」

「うちのサクラ全っ然、言うこと聞かないし」

 向日山先生は「お話はこれでお終い」と言うようにプリントの束でもう一度教壇を叩いた。

「さぁ、今日はもう帰りなさい。また月曜日にな」

「はーい」

「さよなら先生」

 教室を出ていこうとする二人を向日山先生が呼び止める。手に持ったプリントの束を振って、

「龍彦、小テスト、また百点かな?」

 龍彦は照れたように笑う。

「それから陽造」

「何、先生?」

 陽造が満面の笑みで尋ねる。向日山先生は優しく笑った。

「一リットルは百ミリリットルじゃないぞ」



 翌日の土曜日、龍彦は少し緊張した面持ちで詩苑流本部道場にいた。鬼士袴姿で道場の壁際に正座している。横には達哉が、これもそわそわした様子で座っている。達哉の方はスーツ姿だ。陽造と友達になって以来、時折自宅の方には遊びに来ているが、稽古着姿で道場に上がるのは初めてだった。

 龍彦はふぅと一息ついて、傍らに置いた霧雨丸に触る。指先で柄の辺りをトントンと叩きながら気を落ち着かせる。落ち着かないのは達哉も同様で、先程からしきりに時計を覗いたり、ハンカチで出てもいない汗を拭く真似をしたりしている。達哉の横に座っていた野原が龍彦に声をかける。

「そんなに緊張しなくていいぞ、龍彦。ご挨拶をして稽古を見てもらうだけだ」

 野原は龍彦の通う鬼士道場の道場主だ。

「そうだよ、龍彦、じいちゃんそんなに怖くないから」

 同じく鬼士袴姿の陽造が気楽に言う。先ほどから木刀をバトン代わりにクルクル回して遊んでいる。ヘリコプターのローターのように高速で回したり、切っ先を指先の腹に乗せてバランスをとったり。左右の人差し指を交互に使って宙に浮かせたままトンボ返りをさせたり。まだあどけない顔立ちながら刀の扱いに長けているのが分かる。道着ではなくブレザーにスラックス姿の男性が盆に載せた湯呑を運んで来る。ブレザーの左胸には詩苑流鬼道の文字と、詩苑流の紋、鶴丸稲穂が刺繍されている。

「寒くないですか?どうぞ、座布団をお使いください」

 湯気の立つ湯呑とお茶請けの風月堂ゴーフルを皆の前に置いて回りながら人のよさそうな笑顔で座布団を勧める。

「道場で座布団なんて、岳湧様にも道場生の皆さんにも失礼ですから」

「なに、岳湧様はそんなこと気になさりませんよ」

 事務員は電気ストーブを持ってきて達哉と野原の前にストーブを置く。赤々と熱せられた電熱コイルから発せられる輻射熱が心地よい。熱いお茶を一口二口啜るうちにバイクのエンジン音が聞こえてきた。

「あ、じいちゃんだ!龍彦、早く」

 陽造は食べかけのゴーフルをバリバリと口に押し込むと、道場の床に落ちたゴーフルの小さな欠片を親指の腹で集めペロリと片付ける。あぐらをかいていた座布団をポイと背後に放ると床に正座して姿勢を正した。ほぼ同時に道場の入り口が騒めく。

「やぁ、お待たせしてしまって申し訳ない。今日は珍しく信号無視もスピード違反もしなかったもんだから時間がかかってしまってね、わはは」

 十五代詩苑流宗家である陽造の父を従えて道場に入ってきたのは、使い込まれた仔牛革のライダースーツ姿の偉丈夫。後ろでポニーテールにまとめた黒々した長髪に綺麗に手入れされた口ひげ。陽造の父湧爾郎の兄と言っても通るくらい若く見える十四代詩苑流宗家。鬼士院の兵庫藩代議員であり防衛省の鬼士武官でもある南雲湧造、鬼士名を青光院神薙岳湧。十二代宗家南雲雄吾はすでに隠棲に入っており、十三代正吾は外務省に出向し海外を飛び回っている。まだ七〇手前であり鬼界では若大将扱いの湧造だが、宗家こそ息子の湧爾郎に譲ったものの、実質的な詩苑流のトップということになる。

「怜門さんですね?孫がいつもお世話になっております」

 優雅に腰を折って達哉に一礼する。

「やぁ、龍彦君だね?陽造から聞いてるよ。リフティングがすごく上手なんだってね。後でリフティング競争をやろう。おじさん、こう見えて鬼士院のチームではA選抜だったんだよ。右のトップでね」

 と言って器用にウインクして見せる。

「おじいちゃん、お帰りなさい」

「陽造、元気にしてたか?口の端にゴーフルのクリームがくっついてるぞ、わははは」

 豪快に笑って陽造の頭を撫でる。

「お久しぶりです、岳湧先生」

 野原が両手を付いて挨拶をする。

「お、野原、久しぶりだなぁ。そっか、お前が教えてるんだったな、龍彦君」

「教えるというか、自分で勝手に急成長してくれまして。そろそろ私の指導では心許ないかと―」

「うん、見せてもらおう。と、その前に」

 ひょいと腰の辺りで掌を翻す。たちまち手に二振りの短刀が現れた。陽造と龍彦に一振りずつ投げる。二人ともそれを器用に受け取った。

「お土産だ。陸自の官給品でね、練習用にはちょうどいいだろう」

 湧造は座布団にドカッと腰を下ろすと両の手を擦り合わせ、

「富さん、ストーブ、ストーブもう一台無い?いや、オフィス勤務が長くなるとダメですな、冷暖房完備の環境に体が慣れてしまって、ははは」

 茶を啜りゴーフルにかぶりつく様子は陽造そっくりだ。というか、陽造が湧造に似ているのだろう。

 野原と龍彦、陽造が巻き藁で作った打ち込み人形を運んできて道場の真ん中に置く。人形は二体。頭、胴、手足があり、高さは一体が百七十cmぐらいで右腕を突き出しており、その先に黒いプラスチック製の拳銃模型が取り付けてある。もう一体はもう少し大きくて百八十cm程。右正眼に構え手に剣を模した黒いプラスチック棒を持っている。準備が済むと野原と陽造はまた壁際に戻って座った。

 龍彦は用意しておいた練習用の小太刀を掴んで独り道場の真ん中に戻る。

「うん?龍彦君、その刀は?」

 湧造が刀袋にしまわれたままの霧雨丸指して言う。龍彦の代わりに野原が答える。

「龍彦のお母さんの形見らしいのですが、まだ彼には少し大きすぎるので一回り小さい刀を使わせています」

「お母さまというと、御蔵のマッチさん―か」

 青光院御蔵橋町。御蔵橋は龍彦の母の旧姓だ。記録によると町の曾祖父の祖父が鬼士であったこと分かったが、平次という名しか伝わっておらず鬼士名は持っていなかったらしい。鬼界に伝わる伝統的な醜名、鬼門号は全部で七百と五六。鬼士院に登録されている鬼士の数は二万人ほど。一つの号に数名の鬼士がいるのが普通だが、それでも鬼門号を名乗れるのはせいぜい四千人程度。ほとんどの鬼士が「青光院」「緑風院」「京煌院」「白土院」「黄樹台」「紫水台」「橙蓮台」の七つの院号の内、一つを本名の頭に付けて鬼士名としている。鬼門号を名乗れるのはある意味エリートなのだ。

「見せてもらっていいかな?」

 湧造が龍彦に尋ねる。

「はい」

 龍彦は壁際に歩み寄り刀袋を外して霧雨丸を湧造に手渡す。湧造は大事そうに両手で受け取り、

「ありがとう。拝見します」

 と龍彦と霧雨丸に一礼する。他人の刀を抜く際の礼儀として口にハンカチを咥える。顔の前に霧雨丸をかざすようにしながら、すらりと刀身を抜き放つ。

「―!」

 湧造が小さく呻く。鞘を脇にそっと置くと陽にかざしたり、真っ直ぐ突き出して峰を見たり、様々な角度から霧雨丸を眺め、やがて刀身に浮かぶ美しい刃紋に魅入ったまま動かなくなる。湧造はたっぷり三分ほどもそのまま動かなかった。龍彦は湧造の前に正座してただじっと待った。湧造が霧雨丸に魅入られている様子を見て、やっぱり霧雨丸はすごい刀なんだと嬉しくなった。

 湧造は未練たっぷりといった様子で刀を鞘に収めると、龍彦に両手で霧雨丸を返した。

「いい刀だ。後でもう一度じっくり見せておくれ。町さんの形見と言ったね?」

 龍彦の父が答える。

「町の使っていた箪笥から見つかったので― 使っていたかどうかまでは分かりません」

「うん。マッチは奏術が得意だったからな。刀を扱う印象はあまり残ってないなぁ」

 湧造はチラと龍彦に視線をやり、

「ま、その辺はおいおい― 待たせたね、龍彦君。じゃ、見せてもらおうかな」

「はい」

 龍彦は霧雨丸を袋に戻し、練習用の霧雨丸より少し短めの小太刀を手に取る。袴の上から腰に巻いたサッシュに小太刀を挿す。左腰ではない。右腰の低い位置だ。道場の中央まで行って湧造と湧爾郎に一礼する。二人も黙礼を返す。

 道場の正面に向かって向き直り神棚に向かって一礼する。龍彦の右斜め前に背の高い剣士、正面やや左寄り、剣士より間合い一つ遠目に銃士の打ち込み人形が置かれている。龍彦は一つ深呼吸して二体の人形の正面、二体とも見える位置で剣士の間合いの外に立つ。両足は肩幅の広さ。両手は自然に垂らされており、右手首が剣の鞘、柄に近いところに僅かに触れている。

「はっ」

 気合と共に龍彦の両足が床をタンッと鳴らしてサイドステップを踏む。剣士と銃士の直線状に入り銃口から身を隠す。まだ刀は抜いていない。爪先でジャブを差し込むタイミングを測るボクサーのようなステップを踏み、次の瞬間剣士に向かって低い姿勢で飛び込む。同時に右手が閃き銃の早打ちのように刀が抜かれる。下から上に剣士の剣が跳ね上げられ真っ二つになる。と、同時に下がりながら剣士の前足首を刈り取る。剣士の影から飛び出し、銃士と剣士の直線上を、S字を描くように体を左右に揺らすステップで銃士に跳びかかる。左順手に持ち替えた剣で斜め下から銃士の右手首を銃ごと切り落とす。右に持ち替え返しの一刀で銃士の右膝から下を切落とした。

 切り落とした右足が床に落ちると同時にパチンと音がして刀が鞘に収まっていた。静かに礼をする。湧造と湧爾郎が拍手をする。湧造の拍手の方がピッチが速い。龍彦の剣裁きを初めて見た驚きが顔に出ている。湧爾郎は笑顔を浮かべながら落ち着いた拍手をしている。

「お見事、龍彦君」

 湧造は破顔して同意を求めるように湧爾郎と野原の顔を見た。

「なかなかの物でしょう?彼の剣裁き」

「うん。想像していた以上だ。鋭くて滑らかだよ、剣も体の裁きも」

 龍彦は照れながらもう一度礼をする。少しぶっきらぼうで首先だけでするようなお辞儀だった。

「龍彦君、最後のあのステップ、スラロームしながら飛び込んでいくやつ、あれって―」

 龍彦は嬉しそうに大きく頷く。

「はい。サッカーのドリブル練習で覚えました」

 湧造がニヤリとする。

「やっぱりか。ロナウジーニョだな」

 龍彦の顔がパッと輝く。

「当たった!」

「うん。自分なりの工夫をするのはいいことだ。これからも頑張るんだぞ」

「はいっ」

「お父さん、龍彦君の実力が良く分かりましたよ。野原、よくやったな。足裁きの滑らかさと剣先の繊細さ、さすがはお前の仕込みだ」

「ありがとうございます」

 野原が手を付いて頭を下げるのを見て、達哉も頭を下げる。

「私に頭を下げる必要はないよ。龍彦君が頑張ったんだから」

 陽造は龍彦ばかり注目を浴びて面白くなさそうだ。

「僕だって一杯教えたんだけどな。息を吸うところとか吐くところ、手の返し方とかさ」

「分かってるよ陽造。お前も後で見せておくれ」

「え― 今じゃないの?」

「時間はたっぷりある。まずは少し早いが腹ごしらえだ。陽造の好きな逸煎堂さんのクリーム大福買ってきたぞ。近江牛もな」

「よっしゃー 龍彦、早く雑巾かけちゃおうぜ」

 一瞬で機嫌を直した陽造が、さっさと片付けにかかる。湧造は孫を見る目つきになって、

「うん、いい子だ。掃除をおろそかにするようじゃ良い鬼士にはなれん」

 と満足そうに目じりを下げる。

「では、掃除は子供たちに任せて我々は先に部屋に戻ろう」



 この後、南雲邸の広間で昼食となった。乳白色の鶏がらだしでしゃぶしゃぶをいただく。肉は湧造が買ってきた近江牛だ。出向先の防衛省から昨日京都の鬼士院に戻り、今朝京都からバイクを飛ばして自宅に戻ってきたらしい。

 子供たちは牛肉を食べるだけ食べ、クリーム大福は三時のおやつにいただくことにして、ドタドタと二階の陽造の自室へ駆けあがっていった。

「夏休みが明けてからの龍彦君の成長ぶりには驚かされます。剣の成長期なのでしょうね」

 野原が湧造の猪口に日本酒を注ぎながら言う。湧爾郎が相槌を打つ。

「えぇ、本当に。九月に初めて陽造と手合わせをした時にはまるで相手にならなかったのですが。最近では喰いついてくるようになりました」

「うん、才能に疑いはないな。稀に見る才能と言っていい」

 湧造は湯気の立つ鍋の中に牛肉をくぐらせ、桃色に染まった肉を胡麻だれに絡めて頬張る。

「私もそう思います」

 野原は鍋の中の灰汁を綺麗にすくい、大皿から菜箸を使って白菜と白ねぎ、薄く切った大根を鍋に入れる。

「正直これ以上私の道場にいても得るものはあまりないでしょう」

 湧造が野原と達哉のコップにビールを注ぐ。

「うちの道場で預かろう」

 湧造が湧爾郎に視線を投げる。

「私も賛成です。学校帰りにそのまま陽造と一緒に道場に来てもらいましょう」

「いろいろとお気遣いいただいてありがとうございます。龍彦も喜ぶと思います」

「お父さん、どうぞ気になさらず。龍彦君だけでなく陽造にも、道場生にも、みんなにプラスになることですから。詩苑流の道場に優れた才能が集まってくる。その才能が他の才能を育て、また新たな才能を呼びこむ。会社やプロのスポーツクラブと同じですよ」

 普段龍彦が通っている町道場と違い、詩苑流直轄の道場は月謝を払えば入れるというものではない。詩苑流のように大きな流派ともなれば紹介状なしには入門できない。特に本部道場ともなると、詩苑流の支部はもちろん、全国から才能ある鬼筋達が集まってくる。今回龍彦が本部道場に通えることになったのは、陽造と仲の良い友達ということではなく、やはりその実力が高く評価されたということだろう。

「それにしても面白いスタイルですね。右腰に小太刀とは」

「うん、珍しいな。小太刀を腰の背中側に右差というのはよく見るが、右腰下とはな。俺もちょっと思い浮かばん。野原、お前が教えたのか?」

「いえ、誰から教わったわけでもないのですが、自然と― 霧雨丸のことがありますから得物に小太刀を選ぶのは自然なことでしょう。最初は背中に斜め差しにしたり、背中の腰の位置に差したりしていましたがいつの間にかあの差し方に― 本人なりに色々試行錯誤したのでしょうが」

「右腰やや低目に小太刀― ですか」

 そう言って湧爾郎がさりげなく湧造を見る。湧造はその視線に反応することなく龍彦の父に日本酒を勧める。

「面白い子だ。楽しみだよ」

 湧造は座の皆を見渡して白い歯を見せた。よっこらしょと立ち上がり、声を張る。

「おーい、塔子さん、君もこっちで一緒に飲みなさい。台所で一人でクリーム大福を喰っても太るばかりだぞ」



 二階の子供部屋で漫画を呼んでいた二人に湧造の大きな声が届いた。続いて階段を上ってくる音。

「あ、じいちゃんだ」

 道場ではないので陽造はリラックスしている。ベッドに寝そべって漫画を開いたままだ。龍彦は藩を代表する大鬼士の前で漫画を読むのも気が引けて、漫画を閉じるとローソファから身を起こして床の上に座った。同時にノックの音。

「どーぞ」

 陽造の声を待って部屋のドアが開く。

「お、感心感心、食事の後は読書とは。二学期の成績が楽しみだ」

 陽造は悪びれずに笑ってベッドの上で胡坐をかく。

「ちゃんと勉強もしてるよ。向日山先生も褒めてくれたよ、いつも明るくて元気なクラスのリーダーですって」

「あぁ、お母さんが通知表を見せてくれたよ」

 陽造が「え、見たの?」と困り顔になる。

「龍彦君、さっきの人形斬り、上手かったよ」

「あ、ありがとうございます」

「二学期からは本部道場に通いなさい」

「えー本当?」

 陽造が声を上げる。

「やったじゃん、龍彦」

「うん。ありがとうございます」

「詳しい話は野原先生に聞くといい。あと三十分ほどしたら下に降りておいで。クリーム大福を食べてリフティング競争をやろう」

「ふふっ、じいちゃん、実は俺もリフティングめちゃ自信ありなんだけど」

「それは楽しみだな。それから、これ」

 湧造がポケットからポチ袋を二枚取り出す。

「小遣いだ。漫画とゲームソフトばかり買うんじゃないぞ」

「わぉ、ありがとうじいちゃん」

「ありがとうございます」

 湧造が階段を下りていく。陽造は早速ポチ袋を開けて中身を確かめる。モスグリーンの紙幣を高くかざす。

「よっしゃー空海ゲット!」

 空海の肖像が印刷された百円札。同じものが龍彦のポチ袋にも入っていた。龍彦が思わず呟く。

「今日はすごくいい日だよ」

 本部道場に通えることになった。短刀を貰った。お小遣いももらった。お母さんのことも少し分かった。

「良かったな、本部道場生になれて。俺、嬉しいよ」

 陽造が笑う。

「これで俺、一番の下っ端じゃなくなったんだな。掃除と草むしり、手伝えよな」

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