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散髪とすき焼きと自在稈

 久尾志乃は道場の裏手で待っていた。本部事務所の制服ではなく白いプリントTシャツにタイトなジーンズ姿だ。すでに志乃の前には新聞紙が敷かれ、その上にパイプ椅子が置かれている。椅子の足元にはタオルや霧吹きの入ったトートバッグ。

「ごめん志乃さん、仕事前なのに」

「いいんです。今日から錬成院も休みだし、塔夜様のお使いでお城に行くだけですから」

「これ、叔母さんが志乃さんに食べてもらえって」

 龍彦はそう言って水羊羹と冷やしあめの入った袋を志乃に見せてトートバッグの脇に置く。

「ありがとうございます。佳苗姉さんは気が利きますねぇ。一緒に食べなさいって言われたでしょう?」

「うん。分かるの?」

「ふふ」

 志乃は笑って答えず、「さぁ、座ってください」と言って布をバッと広げる。龍彦は「お願いします」とパイプ椅子に腰を下ろした。首の周りにタオルと布が巻き付けられる。耳元でタプタプと霧吹きの水が鳴り、すぐにシュッシュッと音を立てていい香りのする霧が髪を湿らせる。志乃の繊細な指が頭皮をまさぐり、髪の長さを確かめる。やがて頭の上で鋏がチャキチャキと小気味いい音を立て始めた。

「良い鋏だね。新しいの買ったの?」

 目の前に鏡があるわけではないが、音を聞けば分かる。手入れの行き届いた良い造りの鋏を腕の確かな人間が使うとこうなる。躊躇いなく、気負いなく、切りたいところを切りたい分だけ的確に切り落としていく。

「ママのお古を貰ったんです。買うと高いんですよ、理容鋏って。この五丁セットで一万は下りませんよ」

 志乃は腰に付けた革製のシザーケースを軽く叩く。志乃の母親は神戸市内で美容院をやっている。ケースの方もお下がりなのだろう。それにしても五丁で軽自動車が買える値段とは驚きだ。龍彦が足代わりに使っているカワサキのオフローダーは中古で千円。小まめにジャンク屋を回って部品を集め自分でチューンした。部品代と締めて千二百五十円。そのバイクが八台分だ。

「でもやっぱりいい鋏は切り心地が違います。切ってて楽しいんです。剣と同じですね」

 志乃はこの春に神戸錬成院を卒業し正式に鬼道士となった、つまり精錬鬼道士の免状を受けた21歳だ。詩苑流の本部事務所で事務員として働きながら、週に二日神戸錬成院で講師を務めている。卒業したての鬼士が講師として教壇に立つなどまずないことらしい。つまり、とびきり優秀ということだ。

「後期の授業はどうなりそう?生徒、沢山来るといいね」

 リズミカルで気持ちよい鋏の刃音を聞きながら、龍彦は眼を閉じたまま尋ねる。錬成院で志乃が受け持っているのは「結絡縫」。糸や紐を使った様々な技を体系的にまとめたものだ。伝統ある技なのだが、最近は嫁入り前の婦女子の嗜み的なイメージを持たれており、受講希望者が二名しか集まらなかったと志乃が嘆いていた。しかもその内の一人は名鬼門出身の我儘娘だったらしく、「まずあの減らず口を縫ってやる必要があります」と憤慨していた。

「そうなるといいんですけど。必修選択のコマの一つに入れてもらえないか八重橋先生に頼んでみようかと思ってるんです」

 八重橋教授は錬成院での志乃の元指導教官で御年百五十歳のベテラン鬼士。今でも膝上丈のタイトスカートにピンヒールを決めて颯爽と教壇に立つ。ちなみに離婚歴二回ありの独身。子供四人に孫が十一人。ひ孫から先はきりがないので数えていないそうだ。再婚意欲満々。「鬼か人か何て興味ないわね。重要なのは男前かそうじゃないかよ」が口癖。元々自分が受け持っていた結絡縫の講座を志乃に譲り講師に引き立ててくれた恩人でもある。もっとも当のご本人は「探してたのよ、志乃みたいに糸繰りが得意で同性のあしらいが上手い子」と結絡縫の講座を手放せたことをいたく喜んでいる様子だ。

「あ、龍彦君が錬成院に入ったら絶対取ってくださいよね、結絡縫」

 龍彦は曖昧に笑って誤魔化す。錬成院の話は「夏休みにプールに付き合ってくれる彼女がいるかどうか」と並んで、今触れて欲しくない話題の双璧だ。雰囲気を察した志乃が明るく言う。

「大丈夫。そのうち龍彦君の虫も騒ぎ出しますから。志乃が保証します」

 錬成院は鬼力の使い方を学ぶところだ。鬼虫が騒ぎ出し鬼風を吹かせるようになると年齢に関係なく入学できる。逆に言えば鬼虫が騒ぎ出さなければ入学できない。つまり鬼士にはなれない。普通、虫が騒ぎ出すのは早いと十三四歳くらいから二十歳頃までがほとんどだ。それを過ぎると鬼虫が騒ぎ出す確率はグンと低くなる。単なる虫持ちで終ってしまうのだ。道場の仲間が一人、また一人と錬成院に入学していくのを見送るのは、もうすぐ18歳の誕生日を迎える龍彦には辛いものだった。

「さぁ、できましたよ」

 十五分ほどでカットが終わった。道場の外にある洗い場で水道の水を直接かぶって細かな髪の毛を洗い流す。

「せっかくですからこれ、一緒にいただきません?」

 志乃に促されて、道場裏口のコンクリートの三和土に並んで腰を下ろし、水羊羹と冷やしあめをいただく。龍彦は水羊羹を二口で飲み込み、冷やしあめの缶を開けた。夏場にぴったりの涼し気な生姜の甘味。仄かにニッキの香りがした。

「陽造君、今日帰ってくるんですよね。龍彦君、宴会は出るんですか?」

「うん。買い出し頼まれてるから行ってこなきゃ。志乃さんも出るんでしょ?」

「はい。道場の鬼士はみんな呼ばれてますから」

「夏休みに下宿先から子供が帰ってくるだけだよ?しかも、下宿先、神戸だし。すぐ隣だし。ていうか、あいつちょくちょく土日に顔見せてるよね?高校の友達と焼肉屋で十分なんだよ」

「まぁそうもいかないんでしょうね。なんせ詩苑流の跡目だもの」

 南雲 陽造。龍彦と同い年の十七歳。ちなみに親友同士。今春から錬成院生となった詩苑流のホープ。名鬼門番付西の小結、詩苑流宗家 南雲湧爾郎が嫡男にして、鬼士界の次世代を担うスター。抜群の容姿と、その名のごとく太陽のような性格で、早くも鬼界、一般社会両方でファン急増中。今では道場生たちは陽造のことを「若」とか「十六代」(陽造が詩苑流当主になれば十六代目当主となる)とか、「陽様」と呼ぶ。陽造と名前で呼ぶのは父の湧爾郎と母の塔子(鬼士名は青光院真幌塔夜)と龍彦だけだ。「陽造君」と呼ぶのは志乃だけだ。古株の道場生の中には露骨に顔をしかめる者もいる。志乃、外見に似合わずなかなかの強心臓だ。

「そういえば、来月ですよね、武闘会」

 鬼士院が主催する武術の全国大会「紅珠武闘会」が今年は神戸で開催される。鬼界最大の武術大会であり、全国のあらゆる流派、道場から腕自慢が集まってくる。鬼力を使った戦いではなく、あくまでも日頃から鍛えた武の技を競う大会だ。鬼士道場の道場生で鬼士の推薦があれば出ることができる建前だが、実際は各流派ごとに出場枠の割り当てがあり、どこも看板にかけて選りすぐりの猛者を送り込んでくる。龍彦は湧爾郎から、まだ鬼虫が騒ぐ前の者たちが出場する「青葉」というクラスに出てみろと言われている。「ありがとうございます。自分に大役が務まるか、熟慮の上で御返事を―」とか言って、即答しなかったのだが、しばらくしてエントリーが済んだと聞かされ、出ないわけにも行かなくなってしまった。もちろん出たくなかったわけではない。道場には自分よりも年上の虫持ちもいる。出たい者が全員出られる大会ではない。出るとなれば道場生の中には龍彦を妬み嫉む者も出てくる。それにこの鬼界では、家柄というものを無視するのは難しい。どの一門の人間で、師匠は誰か。父の鬼門は?母の家系は?父は普通の人で、母は文字通り鬼籍に入ってしまっている龍彦は、この鬼の世界で生きていくためには人一倍周りとの関係を大切にしなければならない。醜名を持つ名門鬼士でなくてもよい。もし両親が鬼士だったら。力に強い鬼士だったという母が生きていたら。ふと、そう考えてしまうときがある。名鬼門出身の者が武道大会に出ると言っても誰も文句は言わない。「がんばれ」「おめでとう」と励まされるだけだ。でももし自分が「出る」と言ったら?勝ちたい、日本中から集まってくる者たちと競いたいと言ったら?

「武道大会か―」

 龍彦は思わず呟いてしまった。武道大会に出場することは若い鬼士にとって大きな財産となるだろう。だが自分にとってはどうか。自分にとっては断る方が得るものが大きいのではないか。「あいつは身の程を弁えている」「分というものを理解している」と思ってもらえる方が得策ではないか。この先、自分の虫が騒ぎ出す保証はどこにもない。鬼力を発揮できなければ鬼士にはなれない。その時はどうするのか。このまま道場に残れるのか。鬼界に生きることを諦めるか。大学に進んだ方がよいか。何もかも投げ捨て父のもとに帰るか。帰ってあの懐かしい香りのする店で肉を焼くのか。

「何を考えてるか分かります」

 志乃は長くてカッコいい足を畳み、膝を抱えた。

「私の両親、虫持ちのままで鬼士にはなれませんでした。パパは高校の先生で、ママは今でも自宅の一階で美容室をやってます。朝晩必ずめかぶ昆布が出てくる家でした。私それが苦手で。ある日ママにどうしていつも昆布なのって聞いたんです」

 その先は聞かなくても分かる。昆布や海藻類は鬼虫に活力を与える食べ物だと言われているのだ。自分たちの虫は騒がずとも、この子だけは―と思うのが親だ。口に出してこそ言わないが、佳苗叔母さんも毎食必ず食卓に昆布や岩海苔といった海藻類を出してくる。

「私十六の時に虫が鳴き始めて、錬成院への入学が決まってから母方の祖母の養子に入りました。姓が変わったの覚えてるでしょ?お祖母ちゃんは鬼道士なんです」

 知っている。青光院松風光園。詩苑流の元幹部鬼士で、今は流派を出て兵庫藩警察にいる。そして志乃の鬼士名は青光院松風志乃部。松風の名をあっさり継げるのは名鬼士の娘だからだ。

「家族みんなで市役所に養子縁組の書類を出しに行って。ママが涙ぐみながら頑張るんだよって言ってくれて。私、すごく寂しくって。よく覚えてます」 

 志乃は缶に残った冷やしあめを飲み干し、龍彦の手の中にある空になった缶をそっと取り上げる。

「悩む必要なんてありません。どんなに足掻いても運命からは逃れられません。湧水様が出ろと仰るんです。素直に出て、全力で戦えばよいのです。それだけですよ。余計なことに気を回すことはありません。嫉妬は憧れの裏返しです。陰口はネガティブな賞賛です。あるがままに受け入れれば怖いものはありません」

「ありがとう、志乃さん」

 龍彦は恥ずかしそうに志乃の顔を見ないまま言った。

「ふふ。怖いものなんてありません。未来は龍彦君の味方です。もりろん私もですけど」

 龍彦は自分の顔が赤くなっていないか少し心配になる。

「じゃ― 買い出し、行ってくる」

「はい。じゃあ今晩また。たくさん食べましょうね」

「まぁいつものすき焼きだけどね。夏なのに」

「私は夏でもOKですよ。最後のおじやが大好きなんです」

 志乃と別れて歩き出した龍彦は、自分の気持ちがすっかり軽くなっていることに気づいた。志乃って本当に優しい娘だと思った。



 鬼虫が憑いたあの夏休み。龍彦は憂鬱だった。夏休みが終わってしまうことが怖くて仕方なかった。夏休みはあと2週間ほど残っている。一日一日と始業式が近づいてくるのが嫌で嫌でたまらない。この夏は家にこもることが多いので宿題もほぼ終わっている。龍彦のクラスは比較的性格の優しい大人しいタイプの生徒が多く、いじめや問題行動などもない。眼だ。虫が憑き鮮やかな色の変化を見せるようになったこの眼だ。好奇の眼という表現が手ぬるいほどの注目を浴びるに違いなかった。そしてひとしきり注目を浴びた後は、周りから潮が引くように人が去っていくのだろう。鬼筋の者をいじめることはしないだろうが、無視され敬遠され、遠巻きにひそひそ話が聞こえ、こっそり指をさされる対象になってしまうのだろう。

 龍彦は、散髪に大失敗してへんちくりんな髪型になってしまった時の百倍くらい、学校に行きたくないと思った。

 達哉はそんな龍彦の様子を見て、市役所の教育委員会事務局に相談に行った。窓口で事情を話すと奥の談話室で担当者が話を聞いてくれた。残念なことに龍彦の通う小学校には鬼虫憑きの子供はいなかった。ただ、大柄でラガーマンのような体格をした親切な担当者が、隣の校区の小学校に同じ学年で虫持ちの子供がいると教えてくれた。校区内に有名な鬼士道場があるせいで、その生徒以外にも3人の鬼虫持ちの生徒がいるという。達哉がおずおずと転向の可能性について尋ねると、翌日改めて上司も含めて話をしましょうというとになった。担当者がにっこり笑って達哉の横で俯いている龍彦に声をかけた。

「怜門君、学校の先生に相談するのに必要だから、嫌だろうけど眼を見せてもらえるかな?」

 龍彦は少し顎を突き出すように担当者に顔を向ける。焦点の合わない視線を担当者でなく担当者の後ろの壁に投げる。

「うん、綺麗な鬼眼だねぇ」

 と言ってから、急に悪戯っぽい顔つきになり、

「おじさんの眼も見てみるかい?」

 と言って、指で左目の上下の瞼を押し開くと、もう一方の指先で眼球の表面をつまむ。ポロリと濃いグレーのコンタクトレンズが外れ、中から金色の瞳が覗いた。

「鬼眼!?」

 龍彦が思わす声を上げる。担当者は笑って、

「うん。おじさん鬼力は使えないんだけど、鬼虫憑きでね。左目だけなんだけど」

 聞くと、十歳の時に突然虫が憑き、家族中大騒ぎになったらしい。父母ともに一族に鬼士はもちろん鬼虫持ちもおらず、今でもどこで鬼筋の血が入ったのか分からないという。

「でも、鬼虫のお陰で風邪一つ引かないし、髪の毛もふさふさだしね。娘も奨学金をいただけたし、ほんとありがたいですよ」

 今年から社会人の娘がいると聞いて驚いて尋ねてみると、今年で五十三歳だという。達哉と同じくらいの三十代半ばに見える。担当者が隣接校区の小学校の地図をコピーしてくれようとしたが、場所を知っていたので礼を言って断った。

 車での帰り道、その小学校、東甲陽園小学校を見て帰った。走る車の窓から覗いただけだが、学校のサッカークラブがグラウンドで練習をしているのが見えた。見覚えのあるユニフォームだった。試合をしたことはないが地域大会の会場で見かけたことがあった。龍彦は少しだけほっとした気持ちになった。



 翌日、再度市役所を尋ねた達哉と龍彦は、昨日対応してくれた東口係長と学事担当課長の四人で話し合い、夏休み明けの二学期から東甲陽園小学校へ転校することになった。何枚かの書類に達哉が署名捺印し、簡単に手続きが終わった。

「東甲陽園には鬼士の教師も一人いますから。そういう面でのケアは安心してくださっていいと思いますよ。ねぇ、東口さん?」

 東口よりもずっと年上に見える学事課長は丁寧な口調で言った。実際の齢は東口の方が上だろうからやりづらいのかもしれない。鬼士と人が一緒に仕事をしたりすると、往々にしてこういったことが起きる。東口は頷きながら龍彦に向けて、

「向日山先生というんだ。大丈夫、怖い体育の先生じゃないよ」

 眉を釣り上げた肉体派の先生を想像していた龍彦は、東口に自分の心を読まれてしまったことにちょっとびっくりした。東口はがっしりした顎に縦皺を刻みながら二カッと笑う。

「当たったかい、怜門君?」

「どうやったの―?」

 ちょっと不思議でちょっと気味が悪いといった表情の龍彦。

「怜門君もできるようになるよ。学校で向日山先生か鬼虫持ちの友達に聞いてごらん」

 もちろん東口は、鬼士以上に希少なテレパシー能力者というわけではない。鬼筋の人間特有の眼の良さと大勢の子供を見てきた経験に心理学的な知識を組み合わせて使ったに過ぎない。東口の使ったこの小さな魔法は、まだ幼い龍彦の心に大きな影響を与えた。これ以降、龍彦は人間観察を熱心に行うようになり、相手の思考を先読みしたり、好みや苦手、嘘を見抜いたりといった、鬼眼と経験と心理学的テクニックを組み合わせた「小さな魔法」は長ずるにつれて龍彦の得意技となっていく。



 その日の晩、龍彦の家に一本の電話が入った。達哉が出たのだが、達哉が随分と恐縮しながら、

「お気遣いいただきまして― ありがとうございます」

 と、何度もお礼を言っていたのが印象的だった。

「ねぇ、誰?」

 直感的に自分に関する電話だと気づいた龍彦が達哉の袖を引っ張りながら尋ねる。

 達哉はPCの電源を入れ、検索サイトの小窓に何か打ち込んだ。

「ねぇ、何?誰?なんだって?」

「ちょっと落ち着きなさい。あ、ほら」

 達哉が人物検索サイトの画面を龍彦に示す。

「南雲塔子―」

 漢字の横に読み仮名が振られているので龍彦にも読むことができ 「あぁ、今の電話をくれた人だ。その下を読んでごらん」

 表示された人物情報を追うと「詩苑流」「鬼士」の文字が目に入った。鬼士名も載っている。「青光院真幌塔夜」。

「息子さん、陽造君ていうんだそうだ。仲良くしてやってくださいって」

 サイトの記事には南雲塔子が詩苑流宗家の妻であることから過去の有名な立ち合い(公式非公式問わず鬼士同志の闘いをこう呼ぶ)まで、事細かに書かれている。読み進めると陽造の名前まで出ている。記事の詳細さから鬼界への関心の高さ、詩苑流の鬼界に占める地位、流派における南雲塔子の立場が伺えた。

「よかったら今週の日曜日に遊びに来ませんかって。父さん、ぜひにって返事したんだけど、よかったか?」

「うん」

 龍彦は素っ気なく答えた。怖いような楽しみなような、自分でも良く分からない。ただ、何かが動き出しており、もう自分では止められないということだけは感じていた。



 日曜日、龍彦は達哉の運転する車で詩苑流本部道場へ向かった。本部道場は西宮市内の甲陽園というところにある。北側に甲山という標高三百メートルほどの山があり、この山の南の麓に位置することから「甲陽」となったらしい。

「ここだよ」

 約束の時間にはまだ少し早かった。達哉は詩苑流道場の周りを一周すると、近くにあったコインパ―キングに車を停めた。これまでに何度も近くを通り、目にしたことがある場所だったが、その広さと立派さから近くにある関西学院大学の施設だろうと思っていたのだ。

 少し早いと思ったが、駐車場から正門に回っている間に丁度良い時間になった。正門は冠木門を現代風にアレンジしたような造りで、コンクリート打ちっぱなしの二本の柱、その上に同じくコンクリートのアーチがかかっており、鉄製のスライドゲートがその口を塞いでいる。大型車が二台、スピードを緩めることなくすれ違えるだけの広さだ。脇に通用門があり、そこにインターフォンがあるのだが、あまりに立派な門構えに、チャイムを鳴らしていいものか躊躇っていると、

「こんにちわっ」

 元気な少年の声が聞こえた。日本代表の青いレプリカユニフォームを着た少年がサッカーボールを小脇に抱えて走ってくる。ゲート越しに龍彦に笑いかけ、

「怜門君?いらっしゃい」

 と言うと返事も聞かずに柱の影に走っていく。カチャンと音がして通用門が開いた。

「入って」

 多分、龍彦達が来るのをここで待っていてくれたのだろう。大きなクリッとした瞳の色を緑から青、青から紫と、くるくる変化させながら、興味津々といった表情で龍彦を見ている。

「南雲陽造です。こんにちは」

 道場でするような折り目正しいお辞儀。釣られて龍彦もお辞儀をしながら「怜門龍彦です」と挨拶を返す。

「知ってるよ。こっちだよ」

 陽造が先に立って小走りに駆けながら、

「お母さ―ん、怜門君来たよ―」

 と大声で叫ぶ。近くにいた道場生や背広姿のビジネスマン、事務所職員などの視線が一斉に集まる。龍彦は何だか恥ずかしかったが陽造は全く気にすることなく、

「ねぇ、お母さ―ん、怜門君と怜門君のお父さん来たってば― ねぇったら―」

 と、二人の到着を大声で触れて回った。大きな私邸らしき家の玄関からオードリーヘップバーンのプリントTシャツにデニム地のサブリナパンツを着た女性が苦笑を浮かべながら出てくる。状況からして母親の南雲塔子だろうが、やはり鬼士だけあって女子大生のように若々しく見える。

「陽造、大声で喚かないの」

 という塔子の声もかなり大きい。

「ようこそ。陽造の母です」

「お言葉に甘えてお邪魔しました。龍彦の父です」

 達哉に促されて龍彦も挨拶する。

「こんにちは、怜門龍彦です。」

「こんにちは、龍彦君。さぁ、上がってくださいな」

 広々とした玄関は龍彦の部屋ぐらいの大きさだ。龍彦は綺麗な穴空いてない靴下を履いておいてよかったと考えながら靴を脱ぎ、達哉に倣って靴を揃えた。

「あの、これうちの店で出してるローストビーフなんですが、よかったら召し上がってください」

 達哉が保冷バッグからアルミフォイルに包んだレンガほどの大きさの塊を取り出す。

「まぁ、ありがとうございます。じゃあ今日のお昼はローストビーフサンドイッチにしよう」

 塔子は龍彦に向けて言ったが陽造の方が「よっしゃ― おれ、肉山盛り」と喜ぶ。

「やぁ、いらっしゃい」

 陽造の達哉、南雲湧爾郎が玄関口で出迎えてくれた。鬼士名は青光院神薙湧水。湧爾郎の父、岳湧はすでに道場を息子に譲っているため、この湧爾郎が詩苑流のトップということになる。岳湧は兵庫藩を代表する代議員の一人として鬼士院に上がっており、昨年からは防衛省に出向し鬼士武官を務めている。将来は鬼士院院長、皇宮守備隊隊長、精錬鬼士団団長の鬼士三役の何れかに就くだろうと噂されている。

 学校の教室より広そうなリビングでお茶をいただきながら、子供たちはゲームに興じ、大人たちは子育ての苦労、特に学校との付き合い方について、人と鬼、それぞれの立場から話しをした。鬼士といえど人の親。息子と同じ虫持ちの子が増えることを、湧爾郎も塔子も喜んでいるようだった。

 昼に塔子が作ったローストビーフサンドとミネストローネスープ、海藻のサラダをいただき、二時過ぎに「店を人任せにしているので」ということで、食事のお礼を言い、龍彦と達哉は家を出た。門のところまで陽造が送ってくれた。

「じゃ、学校でね、龍彦」

 明るく笑って手を振る陽造に「うん、また」と手を振り返し、二人は駐車場に向かう。車が走り出すと龍彦はホッとした声で言った。

「良かった― いいやつだったよ」

「あぁ。お父さんも安心したよ」

 それからしばらく会話が途切れた。信号待ちで達哉が助手席を見ると、龍彦は小さく首を傾けながら眠り込んでいた。



 卓の上ですき焼き鍋がクツクツと煮えている。飴色になった牛肉。とろりと蕩けた白ネギ。割下を吸って飴色になった牛肉。酒麹の甘い香り。少し離れたところから誰かが吹かす紫煙の香りが漂ってくる。屈強な男たちの話し声と太い笑い声。その声に消されることなく女たちの声も良く通る。

 南雲湧爾郎、詩苑流の総帥である青光院神薙湧水の私邸の大広間。六人掛けの座卓が三つ並べられている。一番奥の卓の端に床の間を背負って湧爾郎が、その右手に妻の塔子、左手に今日錬成院の寮から帰宅した長男の陽造。二人の横に詩苑流の幹部鬼士らしい年嵩の男が二人、赤い顔で座っている。残りの二卓には合わせて十四人が座っている。志乃と龍彦も卓を囲んでいる。湧爾郎の真向かい、卓の並びの一番端、いわゆるお誕生日席に二人並んで座っている。南雲家三人は寛いだ私服姿。それ以外は全員鬼士袴姿だ。

「龍彦ぉ、ビールくれぇ」

 声が掛かると龍彦は素早く台所まで行って、たらい氷の中で冷やされているビール瓶を二三本引っこ抜き、ふきんでしずくを綺麗に拭いて盆にのせて持っていく。もちろんただ持っていくだけではなく、栓を抜き、空になったコップをビールでいっぱいにしてから席に戻る。戻る前に別の席から声がかかることもある。落ち着いてすき焼きをつつく暇などないが、不満には思わない。この席の中で鬼士でないのは龍彦だけだ。場に気を配り、先回りして動く。雑用と思えば面白くないが、これも修業の内と考えるようにしている。錬成院に入る前は陽造も龍彦と一緒にこの役をやっていた。この席に座れない者もいる。呼ばれていない者もいる。雑用だろうが呼んでもらえるならありがたい。普段あまり接点のない大物鬼士の話も聞けるし、時にはちょっとしたアドバイスを貰えることもある。酒の勢いで道場の裏話が耳に入ることもある。

「龍彦君、大変ですね。龍彦君のお肉、取っておきましたよ」

 志乃が肉と葱、豆腐で一杯になった取り皿を示す。見ると卓上の牛肉皿は八割がた無くなっており、葱、豆腐、白滝、春菊も半分ほどになっている。

「サンキュー、志乃さん」

 皿の中身をがつがつと平らげると、席を立つ。

「肉、用意してくる」

「はい。じゃあその間私がお酌係をやってます」

 龍彦は台所に下がると冷蔵庫から肉の包みを取り出す。特上のすき焼き肉を三㎏買ってきたが、もう二㎏平らげられてしまった。薄い油紙にくるまれた薄切り肉を、一枚づつ丁寧に剥がして皿に扇状に並べていく。

「よぉ、お疲れ。適当でいいよ、俺の歓迎会なんて」

 陽造だ。顔が少し赤い。飲まされたのだろう。陽造は自分で冷蔵庫からピッチャーを取り出すと、コカ・コーラのロゴが入ったばかでかいコップになみなみと中身を注ぐ。喉をぐびぐび言わせながら一気に飲み干す。

「なにこれ、ひょっとして出し汁かなんか?」

 顔をしかめる陽造。

「大丈夫、お茶だよ」

「茶?腐ってんじゃないの、これ?」

「腐ってないよ。塔夜様と都ちゃんが大好きな健康ダイエット用のシイタケ茶だよ。」

「ゲェ― 早く言えよ」

 陽造は口直しのペプシを解毒剤でも飲むかのように急いで口に含む。

「今日は都ちゃんと京太郎くんは?」

「部屋でゲームでもしてんだろ。もう、こういうの楽しい年じゃないだろうしな。帰った時にちょっと話して小遣いやっといた」

 都は三歳違いの陽造の妹。京太郎は五つ違いの弟だ。二人とも虫持ち。

「いいね、俺には?」

「誰がやるか。でもいいこと教えてやる」

「何?」

 陽造が嬉しそうに笑う。

「教えてほしい?」

「何だよ」

「お前のこと、好きな奴がいる」

 皿に肉を並べる手が止まる。

「―って、引っかかんないよ。前にもやられたし」

「今度はホントなんだって」

 陽造が楽しそうな表情になり声を落とす。スマートフォンを取り出すとディスプレイをひょいひょいとなぞって画面を龍彦に示す。鬼士袴を着て薙刀を構える龍彦と同じ年頃の少女がちょっと恥ずかしそうにこちらを見ている。ショートカットが凛々しい。薄暗い道場でのスナップ写真。それでも十分に可愛く写っている。

「知ってる?この子」

「うん、キラヒナちゃんだろ?」

 龍彦がこぼれそうになる笑みを堪えつつ答える。

「キラヒナ?そんな子いたっけ?名前で言ってよ」

「紀平さんだよ。紀平七実ちゃん。お前が錬成院に行く前からいたよ、道場に。去年の夏に姫路道場から移ってき子だよ」

「へぇ― そういやいたな、姫路から移ってきた子。それは覚えてるけど―」

「髪、切ったからね。丁度志乃さんぐらいのながさで、同じようなポニーテールにしてたけど切ったんだよ。ってか、お前相手の名前もしらないんじゃん。やっぱり俺騙されたわけ?」

「ちげーよ、俺も知らないの。これ都が送ってきたんだ。」

「都ちゃんが?」

「そ。いないとは思うけど龍彦君に付き合ってる彼女いるかどうか聞いてみてって。多分飛びついてくると思うけど七実のことどう思うか聞いてみてって」

 随分な言われようだと龍彦は少ししょげる。

「どうよ、文句ないよな?武闘会終ったらさ、四人でプール行かない?」

「いや― 本当に…?キラヒナちゃん俺のことなんて言ってんの?」

「知るか。自分で聞けよ。な、行くだろ?」

「うわ― お前これで嘘だとか言ったら殺すけどいい?」

「嘘じゃないって。呼ぼうか、都?」

「いい、いい、俺上手く喋れるかな」

「その気満々じゃねーか。よし、決まりね?」

「あ、でも四人て、都ちゃんに付いてこられると何か自分を出しづらい気がするな」

 年下とはいえ、やたらしっかり者の都から龍彦はいつも準弟扱いをされている。

「誰が都だって言ったよ。錬成院で知り合った子だよ。あ、その子妹がいるんだ、キラキラちゃんと上手く行きそうになかったら紹介してやるよ。良かったな、これで夏、寂しくないじゃん?俺、夏合宿あって忙しいし―的な小芝居せずにすむぜ?」

「龍彦君、夏休み暇だったんですか。知りませんでした」

 ギョッとした龍彦と陽造が床から数㎝飛び上がる。

「まぁ、七実ったら男にうつつを抜かす暇があったなんて… 志乃は知りませんでした。いつも一心に鬼道に打ち込んでいるものと―」

 志乃が二人の背後からスマートフォンの写真を覗き込んでいた。龍彦の方に首を曲げにっこり笑う。

「龍彦君、お肉、無くなってますよ。ビールも無くなったんで志乃、龍彦君のお手伝いをしようと台所までビールを取りに来た次第です」

「あ、ごめん、志乃さん、すぐに―」

 よいしょっ―と大儀そうにビール瓶をたらいから出し、テーブルの上にドンと置く。

「いいんですよ、志乃がやっておきますから。ゆっくりご相談なさっててください」

 龍彦が肉を塊ごと皿に載せ、志乃からビールをひったくる。陽造はペプシの缶を持ったまま棒を呑んだように立ち尽くしている。

「ごめん、俺の仕事させちゃって。志乃さんはゆっくり座って食べてよ」

「そうそう、俺たちがやりますから」

 陽造が少し青い顔のまま調子を合わせる。

「そうですか― じゃ、お言葉に甘えて。それにしても七実のやつ、半人前のくせに道場で男にちょっかいだすなんて少し浮かれてるようですね。明日から少しいじめ― いえ、厳し目に指導せねば」

 薄く微笑みを浮かべながら独り言っぽく呟く志乃。酔っているのかいないのか、冗談なのか本気なのか、どちらなのか分からないところが少し怖い。

「さぁ、僕らが持っていきますから。志乃さんは部屋に戻って。」

 陽造が半ば無理やり志乃を台所から追い出す。志乃はどことなく納得いかない表情で台所を出ていく。志乃が部屋に戻るのを確認してから、陽造がふうっと溜息を洩らした。

「いや、しかし驚いたな。ああもあっさり後ろを取られるとは。しかもあんなに真後ろにいるのに気付かないなんて― 俺、酔ってたからかな?さすがは巻首螺鈿」

 巻首螺鈿。錬成院の首席卒業者は卒業生の名を記した巻物の筆頭に名を書かれるため、巻首とか筆頭と呼ばれるが、その中でも特に優秀と認められた者には美しい蒔絵を施した鞘に納められた短刀が贈られる。志乃は全国に七か所ある錬成院の卒業生の中で十一年ぶりの巻首螺鈿なのだ。一度、志乃からその短刀を見せてもらったことがあるが、鞘の螺鈿細工はもちろん刀も拵えも引き込まれるように見事な造りだった。刀も鞘も全て名のある名工に頼むそうだから当然だろう。オリンピックの金メダルと一緒で、卒業の挨拶回りの時にはみんな見たがるので必ず持って行ったそうだし、今でも公の集まりに出るときは身に着けている。ちなみに普通の巻首は巻首懐刀と呼ばれ記念に黒鞘の短刀を貰う。次席だと次代念珠と言って赤珊瑚の数珠飾りを、三席は三限筆生で漆塗りの文箱と筆がそれぞれ与えられる。副賞は巻首に金の懐中時計。二席、三席は銀の懐中時計だ。

「先に戻っとけよ。俺、肉とビール持ってくから」

「俺、ビール持つわ。そろそろ食ってるばっかじゃなくお酌して回んないと」

 龍彦が肉の乗った皿を二枚、陽造がビール瓶を片手に二本ずつ持って台所を出たところだった。

「どういうつもりかしら。陽造様にそんなものを持たせるなんて」

 廊下の暗がりからツンと冷えた声が掛かった。

「立場をわきまえてはいかが?皆あなたより目上の者ばかり。自分の役割ぐらい自ずと分かろうというもの」

 早瀬川弓歌。鬼士名を緑風院那賀倉真弓。岡山藩の最大流派である緑仙流宗家 早瀬川光彦、緑風院那賀倉新彦の長女であり、この春から行儀見習いということで神薙の家に来ている。夏らしい白い麻のワンピース姿。派手で整った顔立ちと長いウェーブのかかった栗色の髪。どことなくラテンの歌姫を思わせる。その弓歌の脇にひっそりと佇む小柄な影。東海林清子。大きな眼鏡におかっぱ頭。弓歌の従者として緑仙流からやってきた少女。名前だけは緑仙流から連絡があったので分かっているが弓歌以外と口を利くことがめったになく、カラーコンタクトを着用しているのか、瞳からは鬼虫憑きなのかどうか分からない。学校に行く様子もないことから「少女」なのか、幼く見える「女」なのかも分からない。

「すみません」

 龍彦はさらりと謝って場を収めようとした。

「俺が持つって言ったんですよ。俺も龍彦もあの中じゃ下っ端だし」

 陽造は苛立ったように言う。しかし弓歌は棘を潜ませた陽造の言葉を全く気にした風もない。

「陽造様はもう錬成院生。鬼士心得のお立場。虫が鳴きだすかどうかも分からぬ庶民の子とは違いますわ」

 陽造の表情が険しくなる。

「口が過ぎますよ」

 吐き出すような言葉もどこ吹く風。弓歌は微笑みを浮かべたまま陽造を見つめ続ける。龍彦には一瞥もくれてやらないと決めているようだ。

「行こう」

 陽造が背中に怒りを滲ませながら部屋に戻ろうとする。

「陽造様、お気を付けください」

 弓歌の声は相変わらず冷えたままだ。

「一部の女子にとっては錬成院はある意味狩場。あるいは狩られる場。普段は近寄り難い殿方とも気軽に話すこともできます。気になる方の前で無防備な獲物を装って目を引くこともできます。ご学友と親しくお付き合いされるのも錬成院での大切な学び。でも相手をよく見てお付き合いなさいませ」

「行こうぜ、龍彦」

 龍彦は顔に内心を出さないように注意しながら軽く会釈する。顔を上げるときチラッと二人に視線を向けた。弓歌はまだ陽造の背を目で追っていた。しかし清子の視線とかち合ってしまい、一瞬空間でパチンと何かが弾けた。清子はすぐに視線を逸らし、いつものように空虚な視線を自分の足元に向けた。時間にして一秒の半分のそのまた半分くらい。ほんの一瞬ではあったが清子の視線は意外なほど澄んでいて力強かった。



 ムッとしながら部屋に戻った陽造だが、誰も気にするものはいなかった。陽造もすぐ切り替えた様子で、ビール瓶とペプシのペットボトルを持って宴会の席を回り始める。よくできた一七歳だ。

「若、そろそろあれ、やって見せてくださいよ」

 まだ錬成院を卒業して二年目の鹿嶋田という若い鬼士が言う。若いといっても龍彦と陽造より七つほど年嵩だ。

「あれって何よ?歌とかか?」

「何で歌なんすか、もう。そんなの政叔父の行きつけの店ででもやりゃいいじゃないですか。自分が歌いたいんでしょ?」

 鹿嶋田は自分より上座に座る頭が白くなりかけた鬼士に対しては、もう少しくだけた言い方をした。もう百歳を超えている鬼士だ。働き盛りを少し過ぎて、そろそろ革張りの椅子にふんぞり返っても似合う齢になりつつある。そういう鬼士には甘えた口も利けるが、名鬼門詩苑流の宗家嫡男にして実力と人望を兼備し、将来鬼界で重要な地位を占める可能性が高い陽造には敬語になる。錬成院入学以来、陽造がそういう立場になりつつあるのを龍彦はひしひしと感じている。

「この場であれといえば、あれでしょ」

 鹿嶋田は立ち上がり座敷の隅に置かれていた刀袋を解く。中から

赤樫の木剣を取り出す。艶々と美しい飴色の刀身。柄の部分は一段深い色に染まっており、使い込んだ木剣だと知れる。この春まで陽造が道場で好んで使っていた中の一本だ。一番手に馴染んでいた木剣は錬成院に持っていっている。

「若、最近あれが使えるようにおなりとか」

 鹿嶋田が陽造に木剣を手渡す。鹿嶋田自身も剣を持つ。場に、あぁそういう趣向か―という雰囲気が流れる。陽造が苦笑しながら立ち上がる。

「え― どっから聞いたんですか?まだまだ使えるなんてレベルじゃないんだけど―」

 鹿嶋田は陽造の言葉を無視して続ける。

「さてさて、酒飲みの皆さま、ただ今より詩苑流第十六代宗家、あ、もちろん十六代になる予定ということで、まだまだ十五代の時代は続くわけですので、お気を悪くなさらないでください湧水様」

 と言って鹿嶋田は湧爾郎に向かっておどけたように一礼する。

「若が将来の詩苑流を担う方だという証をお見せしましょう。そう、あれです。兵庫神薙の自在稈」

 おぉ― と座から声が上がる。鬼士の力の源は鬼虫だ。鬼虫は親から子へ、子から孫へと受け継がれていく。鬼虫にも血液型と同じで型がある。壱型から六型までの型があり、それぞれの型に数種類の亜種が存在し、現在計十二種類の鬼虫が確認されている。もっとも血液型と違って、三から五種類程度の複数種類の鬼虫が体内で共存しているケースがほとんどで、単一種類の鬼虫しか持たない者はごく少数だ。

 この鬼虫の種類や組み合わせによって鬼力の性質も変わってくる。

使用する得物も親から子に引き継がれることが多く、剣士の子は剣士に、銃士の子は銃士になるのが一般的だ。鬼力の特性が遺伝し、得物も受け継がれれば、自然、得意な技も親から子へ伝わっていくことになる。つまり代々その家に伝わる必殺技というものが生まれてくる。

 自在稈。南雲の家の鬼士たちが代々受け継いできた必殺技だ。南雲の家は太刀が主武器だ。その太刀に鬼力を込めて振るう。すると鍛えた鋼の刀身が柳の枝のようにしなる。そしてスズメバチの針のように鋭く伸びる。つまりフェンシングの剣のように大きくしなってありえない角度から、そして刀身が伸びて本来届かないはずの場所から襲ってくるのだ。兵庫神薙の自在稈は京都柊の火炎剣、名古屋鱶島の陽炎陣などと並んで鬼門十大必殺技の一つに数えられている。それほど簡単に使いこなせる技ではないが、やはり必殺技は血で繰り出すものなのだろう。そして陽造の才能の大きさが短期間での習得を可能にしたのだろう。

「さ、若、この鹿嶋田がお手伝いします。存分に」

 鹿嶋田は自分の木刀を手に、座敷を仕切っていた襖をあけ放ち奥の座敷へと移動する。広く天井も高いので気兼ねなく剣を振るえそうだ。

「そうですか― じゃ、まだ自在稈というより自在稈もどきなんですが― 龍彦も手伝ってくれ」

 陽造は座敷の欄間の所に掛けられている樫の棒を取り、ひょいと龍彦に投げる。棒の長さは二メートルほど。鬼士の家だけあって各部屋にはいざという場合に備えて武器が置かれている。無論現在では単なる飾りの意味合いが強く、実際に使われることは皆無に等しく、せいぜい油断を戒める教訓としての意味ぐらいしか持たないが、湧爾郎を初めとする南雲家の者は伝統的な鬼士様式を守り伝えるのも宗家としての役割だと考えているらしい。

「まず龍彦は俺の前足を内から払う感じで、それから鹿さんは正眼から面を狙ってもらえますか?一回軽く合わせてもらっていいですか?」

 ゆっくりした動きで三人がそれぞれのタイミングを確認する。龍彦が軽くステップを踏んで間合いに飛び込み、棒で陽造の左脛内側を狙う。陽造が右に回り込みながら斜め上から抑え込むように棒を払う。次いで鹿嶋田が正眼の構えからそのまま陽造の頭めがけて木刀を振るう。本気ではないゆっくりした打ち込み。それでもさすが鬼士の太刀筋は美しい。鹿嶋田が剣を振るうというより、剣の動きを邪魔せずに鹿嶋田の方が剣の行きたい方向についていくような動きに見える。

「OK、じゃ今の動きで」

 言うと陽造は軽く鬼道式の呼吸を行って体内の鬼虫に精気を送り込む。瞳の色が熾火のような赤に変わる。熱風を伴った強い磁力のような鬼風が陽造の体内から沸き起こり、龍彦に吹き付けてくる。 

「いいよ、いつでも」

 正眼に構えた陽造が目線だけ動かして龍彦を見る。少しの間三人は静かに呼吸を合わせていたが、みんなの息が揃ってスッと落ちたタイミングで龍彦が動く。

「はっ―」

 右足で畳を蹴り、その勢いを乗せて右手を繰り出す。陽造の膝頭目がけて奔る棒を左手でハンドリングしながら陽造の前足、左足の膝内側に潜り込ませる。もちろん万一に備えて手を抜いている。ただ、技の速さはほぼ全力に近い。しかし、陽造の剣はもっと早かった。龍彦の操る棒に向かって剣先が奔ったかと思うとコルク栓抜きのようにねじれ、朝顔の弦のように棒に絡む。そのまま剣を左に払うと、龍彦の棒は綺麗に絡め取られてしまった。陽造は奪った棒をそのままふわりと宙に放す。本来なら相手に拾われないよう遠くに弾き飛ばすのだが、狭い室内のことゆえ気を遣っているのだ。

 龍彦の棒がまだ宙にあるタイミングで鹿嶋田が動く。

「きぇぃっ―」

 こちらも右正眼から振りの小さい鋭い一太刀。闘気が無いだけで十分に鋭い一撃だ。陽造は僅かに右に開くと、龍彦の攻撃を払うために左に振った剣を、今度は右に振るう。剣先が釣り竿のようにしなって鹿嶋田の剣に絡みつく。まるで手で剣先を握って引き抜いたかのように鹿嶋田の木刀が奪い取られ、一瞬二本の剣がくっついて固まってしまったかのように見えた後、鹿嶋田の木刀は畳の上にポトリと落ちた。

「うぉぉ―」

 期せずして座から歓声と拍手が起こる。鹿嶋田と龍彦も顔を紅潮させながら拍手する。

「すごい、若様」

 女性鬼士たちも思わず道場では決して見せないような華やいだ笑顔を見せ嬌声を上げた。

「すごい―」

 龍彦もその言葉しか出てこない。剣が、固い赤樫で作られた木刀が曲がる。捻じれる。活きた蛇のように絡みついてくる。実際に技を受けてみて分かる生々しい迫力と凄み。陽造の祖父である岳湧や父の湧水の使う自在稈は陽造に貸してもらったプライベートなDVDで飽きるほど見た。また正月など全国から人の集まるような場では必ず披露されるから龍彦も何度か生で見ている。ただ、観客として見るのと実際に相手と向かい合い自在稈を受けてみるのとでは大違いだ。

「どうよ」

 陽造が照れたようにニヤつく。龍彦がスゲェと口だけ動かし親指を立てる。席に戻ると志乃が顔を寄せてくる。少し落とした声で尋ねる。

「大丈夫ですか」

「うん。全然大丈夫。体に当たってないし。鬼力も流れてこなかったし」

「そっちじゃありません」

 志乃が周りをちょっと気にしながら呟くように聞く。

「台所です。弓歌さん来たでしょう?」

「うん。別に何もなかったよ」

 志乃は何も言わずに龍彦の顔を見つめ、龍彦のコップにペットボトルのお茶を注いだ。

「嫌な奴です。私もよく嫌味を言われます」

 志乃は糸コンニャクと焼き豆腐を器に残った玉子に搦めて食べる。

 龍彦の器を覗き込み、

「あ、そうか。龍彦君生卵ダメなんでしたね」

 と笑って、器の中に菜箸で少し煮込みすぎの肉と白ネギをよそってくれる。

「君子危うきに近寄らずです。顔を合わせなければ嫌味も言えませんから。もっとも弓歌のやつ、呼びもしないのにやってくるんですけど」

 志乃がクイッと赤い切子のぐい呑みを傾ける。いつの間にか日本酒に切り替えたらしい。

「ふふ、これ、薩摩切子です。卒業のお祝いに喜乃戸様にいただいたんです」

 喜乃戸は神戸錬成院の教授の一人で示現流の達人だ。志乃は鬼士としての力量はもちろん愛嬌があるので院の教授連から随分可愛がられている。

「気をつけた方がいいかもしれません」

 志乃がほんのり頬を染めている。ただ眼は冴えている。

「弓歌がなぜ龍彦君を気に入らないのか― ただ虫が好かないというのならいいんですけど」

 確かに龍彦も弓歌の自分に対する当たり方は、ただ生理的に受け付けないとか相性が悪いといったものではないと感じている。何か自分を嫌いになった理由があるのだろうが、龍彦自身に心当たりがない。

「私もちょっと探ってみます。龍彦さんはあまり意識せず、できるだけ距離を置くようにしてください」

「ありがと。志乃さんも気をつけて、喜乃戸先生に。飲みに行こうって誘われない?」

 志乃の笑い顔にちょっと困った色が混ざる。

「めっちゃ、誘われます。この間は八重橋先生がいたから助かりましたけど。八重橋先生、なんであたしを誘わないんだってすごい剣幕で」

 志乃はその時のことを思い出したのかクスリと噴き出す。龍彦は志乃のぐい呑みに日本酒を注ぐ。とろりとした透明な液体が美しい切子細工の縁から盛り上がっている。志乃はこぼさないようにそうっと口をつけて酒を吸い込む。

「美味しいですね、西宮のお酒って。でもこれ普通のお店に並ばない本当の蔵出し品ですから当然と言えば当然ですけど」

 江戸の時代から灘五郷の一つに数えられた西宮市には今でも多くの蔵元が残っており、新酒のシーズンにはあちこちの酒蔵の門に杉玉が下がる。もっとも最近では醸造工場での大規模生産が中心となっており、良質な酒米と宮水、杜氏の経験と勘、蔵に何百年と住み着いた麹菌の力で作られる酒は量も少なく値段も高い。自然、一般の店には出回らなくなり、一部の粋人や金持ちだけの間で流通するようになってしまう。

「そうだ、高校の友達が北海道にいるんで新巻鮭、送ってもらえるんです。冬になったら知り合いの酒蔵から酒粕を分けてもらって粕汁を作ってあげます。体が温まるし美味しいですよ」

 志乃はキラキラ光る切子を傾けて中身をほとんど開けると、底に残った数滴分の滴を見せて、両手で龍彦に差し出す。

「龍彦君、これ飲んでください。お清め酒です。」

 龍彦はぐい呑みを受け取って残った酒を口に含む。少し舌で味わってから飲み込む。

「新鮮で果物っぽい匂いがする」

「いいお酒はみんなそうです。でも今からお酒覚えちゃだめですよ。今日だけですよ?」

「分かってるって」

 そろそろ鍋をつつく手も止まりだしたようだ。会話のトーンも落ち着いたものになってきている。

「そろそろご飯出そうかな」

 龍彦が腰を上げる。

「あ、手伝います。おじやは私が作ります」

「鍋みたいにコツがあるの?」

 志乃は少し悪戯っぽく笑って首を振る。

「いえ。自分のお茶碗に春菊が入ると嫌だからです」


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