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雪村良龍成

 小さな丘の上にぽつんと家が見える。気が付くと龍彦は竹林の中の一本道を歩いていた。風が涼しい。その風に仄かに食べ物の匂いが混じっている。ところどころに笹に隠れるように黄色い灯りが点っており、足元を照らしている。風も匂いも青々とした竹も本物だ。幻術に捉われているわけではなさそうだ。家は平屋で道に面した格子戸から柔らかい灯りが漏れている。格子戸には暖簾がかかっている。「寿司 清正」と染め向かれている。どうやら寿司屋らしい。入ってみるしかなさそうだ。戸を開ける。何の抵抗もなく戸はカラカラと動いた。

「いらっしゃい」

 白い七分丈袖の調理衣を着た白髪の老人が龍彦を見て小さく会釈しながら言った。

「いらっしゃい、龍彦君。迷わず来れたようだね」

 九鬼がカウンターに座っていた。九鬼の前には小鉢が一つとお銚子が一本置かれている。九鬼の指先には猪口がつままれている。

「おやじさん、お土産用の押し寿司を五人分頼むよ」

 店の親父がへいと返事をして四角い木枠に寿し飯とネタを敷き詰め始める。

「君と会うときはいつもせわしないな。残念ながら今日もあまり時間がないんだ。店の外に出よう。真空斬りを見せてくれ」

 龍彦は九鬼に促されて店の外に出る。不思議と僕らはなぜこんなところにいるんですかと聞こうとは思わなかった。

「さ、この辺りでいいだろう。周りに人もいないし気兼ねなく打ちたまえ」

 「はい」と答えて龍彦は竹林に向かって立った。一息呼吸を整えて、躊躇わずに霧雨丸を抜く。刀身がきらりと閃いて涼やかな冷気が迸る。ぽんと柏手を打つような音がして真空刃に乗った瑠璃色の鬼風が鮫の背びれのように地を走った。鋭い金属音が響いて太い青竹が弾けザワザワと笹の葉を揺らしながらゆっくりと倒れる。九鬼が近づいて竹の切り口を調べる。切断面の半分はスッパリと鋭く、もう半分の縁には刺々した竹の繊維が千切れて残っていた。

「うん、悪くないな。練習を始めたばかりなのにもう形ができてるよ。これからも毎晩空打ちの練習を欠かさないことだ」

 店に戻りながら九鬼は剣の持ち手の振り抜き方、柄に添えた左手の使い方をアドバイスしてくれる。

「鋭く、迅く、優雅ですらある。そして最後に闇に溶けていく鬼風の残心。良い技に育ちそうだな」

 九鬼は満足気に星空を見上げる。

「雪月花― 君の必殺技にこの名を贈ろう」

 店に入るとカウンターに紙袋に入れられた押し寿司が用意されていた。その紙袋の脇に幅四〇センチ弱、高さ二〇センチほどの水色のプラスチックケースがあった。ケースを「開けてごらん」と龍彦に差し出す。中に入っていたのは分解されたクラリネットだった。

「町君のだ。こいつのおかげで僕は命を救われたことがある」

 龍彦の母である御蔵橋町は奏術、つまり音を使った技が得意だったと聞いていたが、得物がクラリネットだとは想像もしていなかった。

「今夜も彼女の思い出話を語るのは難しそうだ。さぁ、行こうか。帰りは道場まで送らせるよ」

 クラリネットケースとお土産寿しの紙袋を持って龍彦は店を出る。

「真っ直ぐこの道を下っていくといい。車が待っているはずだ。それじゃ、おやすみ龍彦君。また今度」

 龍彦は竹林の道を下り始める。途中で何だか急に怖くなって振り返って見ると、小さな九鬼のシルエットが手を振っていた。両手がふさがっているのでそのシルエットに向かって一礼してまた道を下る。丘の麓に狭い市道が見えてきた。すると竹林のどこかから、男なのか女なのか、若いのか年寄りなのか、判別のつかない声が響いた。

「我は協会の意を受けし者」

 その場に立ち尽くす龍彦。

「怜門龍彦。協会の意を伝えよう」

 目の前に一台の黒いバンが滑るように現れて止まった。ドアが開く。

「車に乗れ。道場まで送る」

 いつの間にか二人に両脇から挟みこまれた格好の龍彦はそのまま抗う間もなく車に連れ込まれる。すぐにドアが閉まり車は走りだした。車中にいた人物を見て龍彦が小さく驚きの声を上げる。

「清子―さん?」

 東海林清子が目の前のシートに座っていた。清子は口元にこれまで見せたことのない種類の笑みを浮かべながら頭に手をやり黒いおかっぱ頭を鷲掴みにする。ずるりと黒髪のカツラが外れる。

「加藤―」

 加藤勇樹が微笑んでいた。

「久しぶり、怜門君。約束を果たそうと思ってね」

「約束?」

「あ、やだなぁ、約束したじゃない?僕の攻撃をかわせたら奴隷になってあげるって」

「…」

「ダメよ清良、初心な子をイジめちゃ。困ってるじゃない?」

 助手席に座っていた野戦服姿の男が無精ひげに覆われた横顔を見せながら渋いバリトンで言う。

「ふふ、まぁ今日で貸し借り無しってことで、ね?」

 何が「ね?」なのか分からないが、どうやら九鬼と一緒に龍彦達があの工場を無事に出るのに手を貸してくれたようだ。

「あの、加藤君て―」

 加藤はピンと来た表情で長い睫毛をパチパチさせながら言う。

「昔は女の子になりたくて仕方なかったんだけど、最近は自分でもよく分からないんだ。自分が男なのか女なのか中間なのか。でも好きになるのはどちらかというと男の人が多いかな。ふふ」

「もう清良、龍彦くんには相刀ができたばかりなんだから。ちょっかい出しちゃダメよ。ねぇ龍彦くん?」

 再び振り返って龍彦を見たバリトンの口には赤いルージュが引かれている。

「あの、みんな協会の人なんだよね?せいら―君」

「ふふ、滉矢って呼んでよ。早瀬川滉矢」

 早瀬川!?龍彦の反応を見て加藤が続ける。

「嘘か本当か分からないんだ。弓歌のやつは僕が兄だって言うんだ。サイキックであることが分かって生まれてすぐに捨てられたんだって。そのあと僕はエデンで育てられた。孤児のサイキック、東海林清としてね。二年前、使いの者がやって来て卒園した。弓歌に引き取られたんだ」 

 国立田園学園。通称エデン。日本のどこかにあると噂される孤児や遺児の鬼士、サイキックを収容するための施設。サイキック協会のメンバー同様、誰も見たことがない都市伝説の世界の収容所。 

「もっとも自分でもあそこが本当にエデンだったのか知らないんだ。早瀬川家の長男なのかどうかもね。弓歌からそう教えられただけなんだ。騙されてるのかも」

「もう着くわよ」

 バリトンが再び振り向く。

「もし用があるときは僕らみたいなのがたくさんいるバーを何軒か回って滉矢に会いたいって言ってくれればすぐに耳に入るから」

 車が止まってドアが開く。半ば押し出されるように車を降りる龍彦。

「バイ、龍彦君。またね」

 走り去る車を見送りながら龍彦は眩暈を覚えた。詩苑流道場の正門前にしゃがみ込み、そのままころんと横になり気を失った。



 紅綬武闘会の時と同じように天井の灯りの眩しさで目が覚めた。耕太郎宅の自室に寝かされているのが分かった。あの時と同じく志乃の顔が視界に入ってくる。

「気付かれましたか、龍彦さん」

「全くもう、心配かけるんじゃないよ」

 佳苗の顔が志乃の横からにゅうっと割って入ってくる。眼が赤い。鬼虫のせいでなく泣いたせいだ。

「龍彦、ご苦労だったな。多少厳しい初陣になってしまったがよくやった。もっとも獲物が大きすぎて表沙汰にできんのが辛いところだがな」

 湧造が破顔しながら言った。だが、湧造がなぜここにいるのか龍彦には分からない。

「おっと、いいから寝ていろ。湧爾郎から連絡を貰ってな」

「この世界は広いようで狭い。伝手を頼って情報を集めたんだ。龍彦が巻き込まれてるトラブルのことも大よそ察しがついたよ」

 湧爾郎の声。声のした方に首を曲げる。六畳の龍彦の部屋は人で一杯で廊下にまで人が溢れていた。詩苑流の主だった鬼士達が顔を揃えているらしい。

「とにかく、今は休め。後始末は俺たち防衛省と警察、鬼士院でやるから」

 つまり龍彦達の手には余る案件だから後は口を噤んで任せていろということだ。

「もっとも頑張った龍彦に褒美をやらんわけにはいかんな」

 湧造はしばらく顎に手を当てて考えていたが、やがて龍彦ではなく部屋の入口の方を見ながら言った。

「どうだ耕さん、佳苗ちゃん、雪村良の名、そろそろ復活させてみるか」

 耕太郎と佳苗が驚いたように黙り込んで湧造を見つめ返した。

「雪村良の名、龍彦に継がせてみるか。どうだ?」

 感極まった佳苗の嗚咽が聞こえ、耕太郎が崩れ落ちるように床に手を着く音がした。

「あ、ありがとうございます」

「うん、そろそろ潮時だと思ってな。週明けにも鬼士院に届けるとしよう。襲名式は年が明けてから盛大にやる。それと師匠をどうするかだ」

 考え込む湧造に声が掛かった。

「岳湧様」

 土方だった。

「よければ俺が引き受けますよ。もう鬼界の伝統を守っていればいいと言う時代じゃない。錬成院を卒業して鬼道士免許を受けるまでに一度外の水を飲んだ方がいい」

「成程、どうだ?龍彦」

「こんな格好でお願いすることではないでしょうが― よろしくお願いします」

「よし。では土方警部、何卒よろしくお願いいたします。それと」

 湧造は龍彦と志乃の顔を交互に見ながら言った。

「お前達、どうする?どうせなら襲名式と一緒に赤鬼の儀もやってしまうか?」

 どう答えていいか分からず志乃の方を見ると志乃が恥ずかしそうに俯きながら上目遣いに紅い瞳で龍彦を見た。龍彦の全身で鬼虫がザァッと騒めいて、龍彦はぶるっと震えた。



 風鈴がチリリンと鳴ってレースのカーテンが揺れる。

「青光院雪村良龍成― 何度聞いてもいい名前です。惚れ惚れします」

 龍彦と志乃は丸い座卓に向かい合って座っている。志乃はテーブルに片肘を突き、もう片方の手に持った氷の浮かんだコップを頬に当てがった。中身は佳苗の漬けた赤紫蘇とクコの実のジュースだ。

 つい先程部屋を訪ねてきていた広幸と永都が帰っていったところだ。あの事件の後、二人は土方に付き添われて警察に出頭した。一週間ほど留置された後、以外にも二人は軽微な罰金刑で済むこととなった。ただし広幸は自衛隊に、永都は警察官になることが条件となっていた。大きな秘密に触れた二人を刑務所に入れるより手元に置いておきたいということかもしれない。二人は条件を呑み、念願だった戸籍と住民登録を与えられ、広幸は訓練部隊に、永都は警察学校に入学することとなった。明日には広幸が入隊のため関東へと出発することになっている。しばらくは兄弟四人が揃うのは難しいということで龍彦と志乃の新居に二人が尋ねてきたのだ。千晶と翔太は詩苑流預かりとなり二人の元に身を寄せている。

「本当に。さすがは岳湧様、あんな名前よくさらっと出てくるよね」

 志乃がまだうっとりとした表情で「うふふ」と笑う。

「アドリブでさらっと出るわけありませんよ。きっと前から考えていたに違いありません」

「前からって、僕の鬼士名を?」

「えぇ。きっとあの紅綬武闘会、いえ、ひょっとするともっと前から龍彦さんに雪村良の名を継がせることを考えていたに違いありません。龍成の名は前から準備していたんです。雪村良は古くから詩苑流に伝わる鬼士名であり伝統と格は申し分ありません。一方で邪鬼のこともありますから詩苑流の保守本流にはなり得ない名でもあります。龍彦さんにとっては十二分な魅力があり、詩苑流にとってはお家騒動や跡目争いの心配が無い名ですし。お師匠だって本当は岳湧様が自分で師匠になるつもりだったんでしょう。雪村良の格、龍彦さんの鬼力の強さ、剣の切れを考えればそうそう名乗り出られるものではありませんから」

 後で聞いたのだが志乃が土方にこっそり耳打ちをして師匠の話になったら引き受けて欲しいと頼んでいたらしい。

「有り難いけど― なぜそこまで」

「そりゃあ龍彦さんを囲い込みたいからに決まってます。民間鬼士団や藩に取られたくなかったんでしょう。人間界にも鬼界にも通じていて腕も経つ。陽造君とも気心が知れている。陽造君の片腕として詩苑流を支えて欲しい。それは本音でしょうけど―」

「けど?」

「岳湧様の真意は分かりませんが雪村良の名は望んで手に入る物ではありません。貰っておいて損はありません。とにかくある程度話が見えるまでは少し距離を取っておくことです」

「ねぇ志乃、やっぱりあれかな、九鬼さんのことがあるのかな?九鬼さんて本当に伊勢―」

 志乃がスッと指を伸ばして龍彦の唇に当てて言葉を遮った。

「それは今は口に出さずにおきましょう」

 バタバタと足音がして玄関が勢いよく空いた。広幸と永都を送りに出ていた翔太と千晶が帰ってきたのだ。

「ただいま。喉乾いたぁ、麦茶飲んでいい?」

「いいけどちゃんと手を洗って。飲んだら佳苗叔母さんの家に行くわよ。お庭でバーベキューするんだって」

「やったー」

 翔太がバタバタと洗面所に走っていく。千晶が「もう下に響くでしょ」と口を尖らせながら後に続く。二人とも夏休みが終れば学校に通うことになっている。

「あ、赤とんぼ」

 蜻蛉は雪村良の紋でもある。年が明けたら雪村良の襲名式があり、龍彦と志乃の赤鬼の儀を行うことになっている。つい二週間前までは予備校に通うことを考えていたのが嘘のようだ。

「龍彦さん」

「何?」

「志乃って呼んでもらえるようになって嬉しいです」

 龍彦と志乃は少し俯いて恥ずかしそうに笑った。気まずい沈黙を破るように「ねぇ早く行こうよ」と翔太の声が響いた。


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