表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/24

鬼虫と霧雨丸

 ジュウジュウと肉の塊が焦げる音。滴る金色の油、ホクホクに蒸されたジャガイモと人参の甘い香り。立ち上る紫色のシルクのような濃厚な煙。分厚いグラスが擦れ合い金色の液体がタプンと揺れる音。フォークやナイフが皿とこすれ合いながら肉の繊維がほぐれていく音。人々の話声と笑い声が混じり合い、そこにピアノやギターの音色が加わることもある。決して大きくはないのにかき消されることなく淡々と聞こえてくるコオロギの鳴き声。国道を行く車のエンジン音。それらが一体になって網戸のままの窓から、青白い月明りと一緒に流れ込んでくる。窓だけではない。床全体から、オーケストラの演奏のように染み出してきて、いつの間にか部屋全体を包んでしまう。

 夏の暑い時期だった。もうすぐ甲子園の高校野球大会が始まるお盆前の平日の夜。6畳ほどの南向きの部屋。学習机と学校や塾の教科書、参考書が詰め込まれた本棚。簡素な2段ベッド。下はクローゼットになっている。ベッドには少年が一人。怜門龍彦。8歳。近くの公立小学校に通う小学2年生。まだまだ夏休みがとてつもなく長い年頃。枕元に置かれたデジタル式の時計は10時15分過ぎだが少年の眼は青白い満月の光を受けて光っている。タオルケットを蹴飛ばし、パジャマ代わりの、商店街の福引で貰ったヴィッセル神戸のTシャツをはだけて、汗ばんだ胸と腹を首を振る扇風機の風に晒している。

 床も壁も板張りでどことなくカントリー調だ。もっとも家自体がログハウス風の作りになっているのだが。1階部分はバーベキューレストランになっており、広々とした敷地がそのまま駐車スペースになっている。未舗装で砂利敷きの駐車場から車の轍の音が聞こえてくる。閉店時間は夜12時だが、アルコールも出すもののファミリー層主体の店だ。この時間には客が引き始める。

 父が経営するこの店は肉の美味さと量の多さ、店の居心地の良さで繁盛していた。個人店にも関わらず人も二人雇えている。賑やかで温かい店のざわめきを聞きながら眠りに落ちるのが龍彦の常だったが、ここ数日寝付きが悪い。小さくカチリと音がして扇風機が動きを止めた。寝付くまでと思ってかけていたタイマーが切れてしまったらしい。この店舗兼自宅は住宅街からはかなり離れており、兵庫藩立甲山森林公園のすぐ側にあることから周囲を森に囲まれている。標高も山肌を削っ創られたニュータウンぐらいはある。とはいえ、やはりこの時期に扇風機も無しというのは辛い。龍彦はむくりと体を起こして、扇風機のタイマーを適当に回す。チキチキチキ―と微かな音を立てて安手のタイマーが再び動き始め、扇風機は生温い、仄かに店の名物ポークソテーの香りのする風を送り始めた。

 リン― リン― リン―

 龍彦が体を固くする。まただ。またあの音だ。コオロギでも鈴虫でもマツムシでもない。それ以外の虫の音は、龍彦には分からない。風鈴の音だろうか。少し離れた所にある畑にぶら下げられた、カラス除けのCDが枝にぶつかる音だろうか。色々考えてみるが、分からない。この音のせいで、ここ数日なかなか寝付けないでいる。夏休み中の小学2年生とはいえ結構忙しい方だと思う。午前中は小学校のサッカークラブの練習に行く。午後からは塾の夏期講習に行く。普段は週に二日公文式の教室に通っているだけだが、講習が終わったら新しいスパイクと自転車を買ってもらう約束で渋々通っている。またそれ以外に週に二日、小学校近くで鬼士がやっている剣道場へも通っている。夏期講習の講師の熱心さ、宿題の多さもあって頭の方がかなり疲れている上に、今日は剣道の日だったのだ。頭も体もぬるま湯につかったようにぼうっとしている。なのに、眠れない。

 リン― リリン―

 一昨日の晩から聞こえ始めたこの音のせいなのだ。ひょっとすると他の音に紛れて気づかなかっただけで、もっと前から鳴っていたのかもしれない。小さく、不定期だが、とにかく耳について仕方がない。階下の騒めきも、風の音も、結構喧しい虫の音にもかき消されることなく、すぅっと龍彦の耳に届いてくるのだ。

 もっと奇妙なこともある。この音、というかこの音を出している者は自分の心を見透かしているのではないか―と思えるのだ。昨夜も、眠りに落ちそうになる心にスッと射し込んでくるように音が聞こえるので、

「もう、うるさいっ」

と思わず声に出してしまった。

 リッ―

 リンリンと鳴り続けていた音が驚いたような感じでピタッと止んだ。龍彦はゾッとした。この家のどこかに誰か潜んでいるのではないかと思ったのだ。龍彦の頭の中に、部屋の扉の向こうで、隙間からすぼまった眼でこちらを伺いながら、薄っすらと微笑み鋭いナイフを構えるピエロの姿が浮かんだ。最近見た映画「ピエロが迎えにやって来る」の殺人ピエロ。ホラー映画とは知らずに見てしまい後でひどく後悔したのだがもう遅かった。それから2週間たった今でも、赤いしずくを滴らせるナイフとピエロの無感情な笑みは、龍彦の頭に焼き付いている。階下には人がいると思って堪えているが、これがまた映画の1シーンと同じで、家の周りに警察がいると思い安心した少女がが部屋のクローゼットを開けると、

「ハーイ、良い子のみんな、ディッキーが来たよ!」

と、感情の向け落ちた甲高い声と共にピエロが飛び出してくるのだ。

 龍彦は思わずブルッと身震いをしてベッドから身を起こした。

 リ リ リン―

 不思議なリズムで音が聞こえた。龍彦は不思議な感覚に捉われた。音が「大丈夫」と言っているように聞こえたからだ。龍彦は勇気を振り絞って部屋の扉の前に行くとノブに手をかけ、少しためらってから勢いよく扉を開ける。階下のレストランから聞こえる声と匂いが少し強くなっただけで、廊下の壁が見えるばかり。龍彦はベッドに跳ね戻り、タオルケットを被って眼を強く瞑った。昨夜はそれきり音は聞こえなかった。

 そして今夜である。音はどことなく遠慮がちに、しかし、龍彦が眠りに落ちることを許さないタイミングで、聞こえてくる。眠気に怖さも警戒心も緩み、そのままブラックアウトしそうになると、絶妙のタイミングで、龍彦の心を揺すってくるのだ。

 リン リン―

 まるで呼びかけられてるみたいだ。そう考えた途端、

 リンッ―

 そうだ、と音が答えた。直感的にそう思った。

 僕を呼んだ?

 リンッ―

 龍彦はベッドを降りて部屋の外の様子を伺う。ドアを開ける。

 本当に?僕のこと呼んだの?

 リンッ―

 音が少し大きく聞こえる。思っていたほど遠くない。近くから聞こえてくるようだ。そのまま廊下に出て階下への階段に向かう。音は潜水艦のソナー音のように、一定のゆったりしたリズムで聞こえてくる。部屋の扉を開ける前に感じていた恐怖は不思議と消えている。龍彦は音のする方へ導かれながらゆっくりと階段を下りていく。まだ客の気配がする店舗スペースの裏を抜け、半地下になっている物置に降りていく。物置の扉に手をかける。開いた扉から漏れてくる空気は意外にひんやりとしている。壁に手を這わせて灯りのスイッチを探る。一瞬間をおいて白い蛍光灯が瞬く。

 リンッ― リンッ― リンッ―

 音が止んだ。乱雑に物が置かれているが、人が隠れられるほどの戸棚も遮蔽物もない。それでも龍彦はわざとらしく「誰かいる?」口に出してみたり、不意を突くように振り返ってみずにはいられない。

 ゴトッ

 さっきまでの音とは別の、明らかに何かが動く音が聞こえた。発生源はすぐに分かった。物置の奥の隅に置かれた小ぶりな箪笥だ。一番下の抽斗がほんの少しだけ空いている。そのせいで、抽斗を塞ぐように積まれた段ボール箱が斜めにずれて、不自然な隙間ができていた。確か以前に父と大掃除をした際、父が母さんの箪笥だと言っていた。龍彦は写真でしか母の顔を知らない。父からは自分が生まれてすぐに事故で亡くなったと聞かされている。母の写真は葉書サイズの写真が数葉残っているだけだ。父は意図的に避けているのか、思い出話の類もほとんど聞いたことがない。母の愛用品の類も全くと言っていいほど残っておらず、この古い箪笥はこの家にあるほぼ唯一の母の品と言ってよかった。そして、その唯一の品は普段人目に触れない地下の物置に入れられている。

 ゴキブリや蜘蛛、ヤモリの類では抽斗を開ける力はない。ネズミのような小型動物だろうか。龍彦はそろそろと箪笥に近づき、軽く横板をつま先で蹴った。コンと板が鳴っただけだ。遠くで常連客を見送る父の声が聞こえる。龍彦は物置の扉をそっと閉めると、できるだけ音を立てないように箪笥の前の段ボール箱を動かし始める。上段に積まれた二箱はとても軽かったが、下の二箱はひどく重かった。隙間に足を入れて膝を箱に押し当てながら少しずつ押し出すように動かしていく。ようやく抽斗を開けることができるようになった時、龍彦は汗びっしょりになっていた。Tシャツの裾をタオル代わりに、裾で顔をごしごしやってから、汗と埃で汚れた手を綺麗に拭う。

 龍彦は箪笥の前にしゃがむと、抽斗の隙間に手を掛ける。抽斗がふいごのように空気を吸い込みながら開く。龍彦が中を覗き込む。

 何も無かった。白い木肌の底が四隅まではっきり見えている。龍彦は抽斗を引っ張って外してしまう。中を覗き込み、ちょっと迷った挙句、中に手を入れて探ってみる。やはり、何も入っていないようだった。 

 龍彦は宝が消えてしまったような失望感を味わいながら、抽斗を元に戻そうとする。この後、段ボール箱を元に戻さねばならないと思うと徒労感フルコンボだったが、仕方がない。父に叱られるのは嫌だった。

 溜息をつきながら抽斗を枠に戻そうとした時だ。ゴトリと何かが抽斗の中で動く感触があった。抽斗には何も入っていない。龍彦は抽斗を揺すってみた。ゴトゴトと何かが動く感触が手に伝わる。中だ。底板の下に何かがある。

 龍彦は底板をを外そうと試みたが、ぴたりと隙間なく嵌った底板は外れる気配がない。押し引きはもちろん、横にずらすこともできそうにない。底板を割るだけの勇気はなかった。とにかく一旦抽斗を元に戻して明日考えようと、抽斗を枠に押し込もうとした時、手が滑り抽斗が床にぶつかってガタリと大きな音を立てる。店の方に聞こえないかとひやひやしながら、もう一度抽斗を元上げようとする。何気なく抽斗に眼をやって、龍彦はハッとして手を止めた。抽斗の側面の板が、ほんの少しずれている。

 組木細工だ― あれと同じだ―

 龍彦の頭に閃くものがあった。テレビ番組で、昔大切なものをしまっておくのに使った組木細工の箱を見たことがある。一見どこにも開け口のない寄木の箱なのだが、キーになる木片をずらすか外すかすると、たちまち箱の蓋が開くようになっているのだ。その番組で箪笥の隠し棚のことも言っていた気がする。

 龍彦は少しずれた横板を強く押してみた。あっけないほど簡単に、横板は滑るように動いてぱたりと外れ落ちた。板の外れた側面を覗いてみる。抽斗の底から10㎝ほどのところに中板、偽の底板が嵌め込んであり二重底になっている。

 リン―

 もはや聞き間違いのない近さから、あの音が聞こえてくる。隠し棚の中からだ。

 龍彦は抽斗を斜めに傾けた。中身が動いて床にあたった。見ると、二つの細長い木箱だった。箱を引っ張り出す。桐の箱だ。蓋に筆文字で何か書いてある。蓋を取ってみる。

「あ」

 龍彦が思わず声をあげた。刀だ。黒々とした漆塗りの鞘に組紐を巻き付けた柄。綺麗な彫刻の施された鍔は外してあり箱の隅に入っている。敦彦は柄を握ると刀を抜く。

「―?」

 ポロリと柄が抜けた。刃が付いていない。柄だけだ。龍彦は柄を元通りに鞘に差し込むと、もう一つの箱の蓋を見た。美しい筆文字は龍彦にはまだ読むのは難しい。ただ、「雨」と「丸」の文字を読み取ることができた。

「あめまる―」

 龍彦が箱の蓋を取る。

 リン―

 音がして箱の隙間からサッと風が吹きこぼれた気がした。飾り気のない白木の鞘が入っている。

 リン― リン― リン―

 この音は耳から聞こえてくるのか。それとも握った鞘から伝わってくるのか。龍彦には分からなかった。スラリと鞘を抜く。刃渡り一尺八寸の美しい小太刀。

「―!」

 言葉が出なかった。この上もなく純粋に鍛えられ、美しく研ぎ澄まされた清冽な一筋の意思。虹色の輝きを放ちながら涼気を迸らせている。

 息をすることすら忘れて、龍彦はその刀身に魅入った。

 あの音が聞こえる―

 龍彦は、自分の意識が刀身に吸い込まれていくのか、刀身が自分の中に入ってきたのかどちらだろうと考えながら、じっと息を潜めて刀身を見つめ続けていた。

 刀身の放つ美しい輝きに龍彦は眼を開けていられない。夏の日の太陽に向かって霧吹きをかけたような美しい虹。粒の細かい七色の輝きが極北のオーロラのようにゆらめいている。

「龍彦」

 呼びかけが聞こえた。この剣、しゃべれるのかとぼんやり考えながら、

「何?あめまる」

 と返す。あめまる―?と声が戸惑ったような響きを帯びる。あれ、あめまるって名前じゃなかったのかなと思いながら、薄目を開けて声の主を探す。

「大丈夫か、龍彦?」

 父の達哉の心配そうな顔が眼の前にあった。どうやら自分が寝かされているらしいと気づく。自分の部屋だ。いつものベッドの上ではなく、床の上の布団に寝かされている。眩しい虹色の光はいつの間にか天井に据え付けられた丸い蛍光灯の光に変わっていた。

「あれ、あめまるは?」

 達哉は少し怪訝な顔をしたが、すぐに笑顔になり龍彦の汗ばんだ額を撫でる。

「ゆっくり寝ていなさい。何か飲み物を持ってくるから」

 龍彦は上半身を起こし、行こうとする達哉を引き留める。

「ねぇ、あめまるは?僕、物置で剣を見つけたんだ。放っておくと錆びちゃうよ。早くしまわなきゃ」

 達哉は笑いながら、

「元気になってよかった。スープとトーストを持ってこよう」

「ねぇ、父さん、剣だよ、本物の。剣が呼んだんだよ、僕を。あのままにしとくと傷がついちゃうよ」

 達哉は分かった分かったと身振りで龍彦を制する。

「大丈夫だ。安心しなさい。剣ならちゃんと箱に戻しておいた」

「鞘だよ、鞘。鞘に入れておかなきゃダメなんだよ。僕、剣を見ながら気を失って、あめまる大丈夫?傷がついたりしてない?」

 達哉が少し困った顔をした。

「剣のことは心配しなくていい。ちゃんと鞘に収まっていたよ。多分気を失う前に自分で戻したんだろう」

 達哉の言い方は自分自身に言い聞かせるようでもあった。

「早く剣をみたいな、もう一回。いいでしょ、父さん?一緒に見に行こうよ、箪笥の底にね、隙間があって、そこにね」

 勢いこんで言う龍彦の両肩に手を置き、達哉は龍彦を布団の上に押し戻した。

「落ち着きなさい。剣はどこにもいかないよ。お前から離れたりしないだろう、多分」

 達哉の表情はどこか寂しげだ。剣が僕から離れないってどういうことだろう。達哉が不意に思い出したように龍彦に尋ねる。

「お前、今日が何日か知ってるか?」

 突然の質問に龍彦が戸惑っていると、達哉は口元に人差し指を当てて、耳を澄ます仕草をしてみせる。

 雲は湧き 光、溢れて―

 あれ、この曲。甲子園で行われる夏の全国高校野球大会の入場行進曲だ。小学校のクラスメイトの姉がプラカードガールに選ばれ、千葉県代表高のプラカードを持って行進に参加することになり、龍彦も入場行進を見るのを楽しみにしていたのだ。あれ、でも甲子園が始まるの、明々後日じゃ―

「大丈夫。録画してるから」

 達哉はもう一度龍彦の額を愛おしげに撫でた。

「お前、三日も眠ってたんだ。熱にうなされてな」

 達哉は龍彦の眼を見つめながら優しく告げた。

「龍彦、おめでとう」

 龍彦は自分の前に聳えている巨大な門が、重々く軋みながら開きつつあるのを感じた。

「龍彦、お前、鬼虫が憑いたんだ」

 達哉は龍彦の食事を用意するために部屋を出て行った。遠くで高校球児の選手宣誓が聞こえた。



 自分に虫が憑いたあの日、鏡に映る琥珀色に染まった自分の瞳を飽きもぜず眺めて過ごしたあの朝。あれからもうすぐ十年が経とうとしている。朝六時半。兵庫藩西宮市にある青光院派本部道場。詩苑流は藩下に十三の支部を持ち、二百人を超える鬼士を含め門下生二千人、職員まで合わせると三千人近い鬼と人を抱える、兵庫藩では隣接する神戸に本部を構えると並ぶ大流派である。五十畳以上ある本部道場では今、二十人ほどの鬼士袴姿の道場生たちが、朝稽古に勤しんでいる。下は小学校高学年から高校生、大学生らしき顔まで学生が主だが、中には三十代、四十代、年金を貰えそうな年頃の顔も見える。普段は十人足らずなのだが夏休みに入ったせいもあり朝稽古の参加者が増えているのだ。

 十七歳になった龍彦も、何ヶ所か繕いの後の見られる稽古着姿で木刀を振るいながら、軽くスキップをするような滑らかな足裁きで道場の端を行ったり来たりしながら運足の稽古をしている。

「龍彦、振り切れ。途中で止めるな」

 六十絡みの指導役らしい道場生が声をかける。試合をイメージして木刀や竹刀で素振りをすると、相手の頭を打ったところで剣を止めてしまいがちになる。これではいけない。剣は最後まで振り切らないといけない。

「はい」

 返事をして運足を続ける。よく見ると、道場生の使う木刀には全て先の方に軽いラバー製の緩衝材が巻かれている。振り切って床に当たってもいいように、ということだろう。龍彦は木刀の風切り音で自分の調子を確かめながらもう二往復し、一旦木刀を道場の壁に設えられた木刀掛に戻す。道場の隅に置かれた自分の荷物から、別の木刀を取り出す。先ほどの木刀より短いようだ。端に並べられている打ち込み台がちょうど一つ空いている。木刀を逆手にもって打ち込み台の前に立ち、軽く呼吸を整える。両足を肩幅くらいに開き、両の踵はほんの僅かに床から浮貸した状態だ。体から綺麗に力が抜け、重心は体から真っ直ぐ下にかかっている。閉じていた龍彦の眼がカッと開く。赤い紅茶色の瞳。全身が閃いて木刀が右斜め下から奔り抜け打ち込み台に叩き込まれる。叩き込んだ―と思ったら、同じ速度で木刀が引かれ、素早いバックステップを踏んで相手の攻撃圏外に身を置く。龍彦は足の位置を確かめ、木刀の軌道を何度かシミュレーションしながら、同じ打ち込みを繰り返す。二十本打ち込んだところで手拭いで汗を拭う。手拭いには東京タワーに向かって怪光線を吐くゴジラの柄が染め抜かれている。

 続けて、まず相手の剣を受けてから、二の太刀で左から低い位置を薙ぐように打ち込む。相手に打ち込む前に逆手から順手に素早く握り替えている。最初に相手の剣を下から受けて流し、そのまま低い体勢で地面と水平に剣を走らせ、相手の左前足に切り込むイメージだ。足裁きだけを何度も繰り返し、納得がいってから手の動きも加えて全体の動きを確認する。そして打ち込む。打ち込んでみてイメージが違うとまた、足元から順に動きを確認していく。ようやく五本ほど打ち込んだところで、

「止め」

 の声がかかった。壁の上に祀られた神棚の下に、先程の指導役が正座して礼をする。後ろに並んだ道場生たちもそれに倣う。最後に汗や埃で汚れた道場の床に皆で雑巾をかけるのだが、一時間の朝稽古を終えた体には意外とこれがきつい。丁度よい足腰の鍛錬になるのだ。龍彦は、夏休み参加の小中学生に手伝わせながら汚れた雑巾とブリキのバケツの後片付けをし、凛々しい袴姿で早くもスマホのチェックに余念がない少年少女達に、

「寄り道せずに帰れよ。車に気をつけて、歩行者の邪魔にならないようにな」

 少年少女達は「オッケ」とか「は―い」などと思い思いに返事をしながらゾロゾロと道場の門をくぐって出ていく。龍彦は道場の戸に鍵を掛け、タオルや練習用具の入ったリュックサックを肩に引っ掛ける。ポップな字体のイニシャルが入った帆布製の手作りリュックだ。もっとも彼女が作ってくれたわけではなく、中学生時分に学校の家庭科の授業で自分で作ったのだが。

 道場は道場主、つまり詩苑流宗家、青光院神薙湧水の私邸の敷地内に作られている。昔の武家屋敷風の邸宅は周りをぐるりと白壁に囲まれており、その中には道場だけでなく、一門の高弟達が住む家まで建てられている。

 龍彦は道場の裏手に回る。敷地の一部が生垣で仕切られており、そこに小さな家が四軒建っている。小さいといっても祐月の邸宅に比べてという意味で、一軒あたり五十坪ほどの広さだろうか。四軒とも造りは違うが、何れも瓦葺屋ねで縁側付きの二階建て、小さな庭もあった。

「お早う」

 パジャマ代わりのスウェット姿のまま、庭で木刀を振っていた隣家のご主人から声が掛かる。

「お早うございます」

 挨拶を返して龍彦は玄関のドアを開ける。そもそも壁の内側の敷地なのであまり鍵をかける習慣がないらしく、この家に来てからこの方、鍵が掛かっていて入れないとか、チャイムを鳴らして中から開けてもらうといったことを経験したことがない。旅行の時ですら掛けずに行ってしまうほどだ。というか、毎回、出発間際になってから叔達哉さん叔母さんが、

「おーい母さん、鍵、どこだ?」

「やだよ、お父さんが持ってるもんだとばっかり」

「龍彦、お前知らねぇか?」

 知っているわけがない。で、結局「ま、掛けなくても大丈夫だろ」となるのだ。玄関ドアには鍵穴があるからこの家のどこかにはあるのだろうが。

「ただいま」

 龍彦がサンダルを脱ぎながら奥に向かって言う。味噌汁と鰯の丸干しを炙る匂いが玄関先まで届いてくる。

「おぉ、お帰り」

 ダイニングテーブルで新聞を読んでいた男が返事をした。道場で指導役を務めていた男だった。先に帰っていたらしい。湯沢耕太郎。この家の主だ。昔は大層力の強い鬼士だったのだが、三十年前の邪鬼退治のときに深手を負い、鬼力をほとんど失ってしまったばかりか、大切な一人息子まで亡くしてしまった。耕太郎はその時のことをあまり語りたがらないので、龍彦もそれ以上は知らない。

「ただいま、叔母さん。腹減ったぁ」

「すぐご飯だよ。さっさとシャワー浴びといで。」

 叔母の佳苗が掌で木綿豆腐を切りながら言った。龍彦はものの三分でシャワーを済ませると、バスタオルで頭をガシガシやりながらテーブルに座る。耕太郎は納豆を混ぜている。テーブルの中央に置かれた杉のお櫃から自分で飯をよそい、

「いただきま―す」

 きちんと手を合わせて言う。炊き立ての玄米。豆腐とわかめの味噌汁。シラスをのっけた大根おろしと1/8カットのレモン。パリリと炙った海苔。ネギを散らした納豆。鰯の丸干し。岩海苔の佃煮と茄子の浅漬け。玉子。耕太郎は生玉子、玉子の白身が苦手な龍彦は半熟だ。龍彦は半熟玉子を飯の上に載せ、だし醤油をひと垂らしして、玉子を箸で突き崩す。

「あ」

 龍彦が思わず声を上げる。

「ありえないよ叔母さん、卵の黄身が固まってるし」

「あら、ごめん。朝は忙しいんだよ。キッチンタイマーばかり睨んでられないよ」

「文句言うやつは喰うなってことだ」

「冗談だよ、ごめん。おでんの締めの玉子ごはんと思えば、これまた美味し」

 龍彦は二杯目を納豆で食べ、鰯の頭と尻尾まで綺麗に食べて、「ごちそうさまでした」と手を合わせた。普段ならここで教科書やら何やらが詰め込まれたリュックを背負い、泥だらけのサッカースパイクの入ったシューズケースを振り回しながら自転車に飛び乗って、学校へ向かうところだ。が、夏休みのなんとありがたいことか。今日は部活もオフの日だ。龍彦は扇風機の真ん前に陣取りながら、熱いお茶を啜りつつ、新聞のスポーツ欄を眺める。昨夜TV観戦したガンバ大阪VS川崎フロンターレ戦の寸評を読む。やはり日本人だからだろうか、龍彦はガンバの技術と連携を前面に押し出した美しいパスサッカーが大好きだ。もっともガンバの美しいサッカーは一方的にボールを支配し攻め込むものの、脇が甘いという欠点がある。相手のカウンター攻撃に滅法もろいのだ。昨日もガンバが負ける典型的な試合内容で、一方的に攻めながらシュートが入らない。そこに相手のロングボール一本でやられるというパターン。ひどくフラストレーションの溜まる試合だったのだが、終了間際にガンバのエース宇佐美が見せた美しいドリブルとミドルシュートは素晴らしかった。宇佐美はその繊細華麗な技術力と抜群に広い視野、圧倒的なサッカーセンスの高さから、本当は鬼士なのではないかと週刊誌が書き立てるほどの選手だ。そう思っているのは週刊誌記者だけではないらしく、国際試合などでは必ずドーピングチェックの対象に選ばれるという。スポーツの世界では鬼虫保有者はドーピングと同列に扱われているのだ。龍彦も部活の試合で相手チームや主催者からクレームをつけられることがある。

「龍彦よ」

「あ、ん?」

 急に話しかけられ龍彦は新聞から顔を上げる。

「お前、あれだ、進路のこととかちゃんと考えてんのか?高三の夏休みっていや普通は塾だ予備校だとバタバタする時期だろうに」

「心配ないよ。進路は考えてるし」

「そうか― で、どうすんだ?お父さんとはちゃんと相談してんのか?何せ大事な息子さんを預かる身だ。将来のことはちゃんとしとかねぇと」

 佳苗もエプロンで手を拭いながら話に入ってくる。

「そうだよ龍彦。予備校行くなら行くで遠慮しないでお言いよ?お父さんのゴルフ代なんてお金を野山に捨てに行ってるみたいなもんなんだから。馬鹿高いクラブなんか捨てて鍬でも持ってきゃいいのに。あんたの塾代に使った方がずっと活きたお金になるんだから」

 耕太郎が「うるせぇババァだ」と声に出さずに呟くのを佳苗は見逃さず、「うるさくて悪かったね」と耕太郎を牽制し、

「お前のことは湧爾郎様も気にかけてらっしゃるんだから」

 と龍彦ににじり寄ってくる。今にもそのエプロンのポケットから予備校のパンフレットと申込書類一式が出てくるのではないかと思ったほどだ。

「ありがとう、色々気を遣ってくれて。僕なりに考えてるから。近いうちに相談するよ」

「約束だぞ?里帰りの日までには聞かせろよ?いいな」

「うん。分かった」

 佳苗はまだ何か言いたそうな顔をしていたが、結局それ以上は口に出さなかった。龍彦は笑いながら立ち上がる。

「叔父さん、叔母さん、どうもありがとう。僕のこと心配してくれて」

「あ、龍彦、どこ行くんだい?」

 出かけようとする佳苗が心配そうな声を出す。

「志乃さんが仕事前に髪切ってくれるって」

 龍彦はメッセージの表示されたスマートフォンの画面を見せながら言う。耕太郎も佳苗もなぜか少し安心したような顔で笑う。

「よく気の付く娘だねぇ、志乃は」

 佳苗は「あんなお嫁さんを貰え」とまでは言わなかったが、志乃と一緒に食べなさいと、竹筒入りの水羊羹と缶入りの冷やしあめを二本ずつ、ビニール袋に保冷剤と一緒に放り込んで手渡してくれた。



 小学校2年生の夏休み、もうすぐ8歳を迎えるサッカー小僧だった龍彦に鬼虫が憑いた。自分に鬼の血が流れていることなど思いもよらなかった少年は、ひたすら驚き、どう振る舞っていいか分からず、誰かに瞳を見られるのが嫌で、俯き、目を細めながら、知り合いを避けて暮らした。そして自分の部屋に籠って鏡に映る自分の瞳の色が刻々と変わるのを眺めて過ごした。

 店が休みになるお盆、これまでは達哉の祖父母が住む鹿児島に遊びに行くか、西宮市のお隣り宝塚市に住んでいる達哉の弟家族と兵庫藩内の湯村や滋賀藩の草津といった近畿州内の温泉などに行く事が多かった。この年もお盆は鹿児島で過ごすことになっていたのだが、祖父母に事情を話し鹿児島行はキャンセルしていた。

 盆の入りの夕方、テーブルの上の花瓶にはカスミ草やひまわりが飾られ、籐のバスケットに林檎、桃、小玉スイカが盛られている。龍彦の家には仏壇がない。数葉しか残っていない母の写真の中で、顔が一番はっきり分かるものが写真立てに入れられテーブルの中央に飾られている。仏壇の代わりだ。割り箸をなすびに、竹串を胡瓜に刺して、霊を迎えるための牛と馬を作る。ベランダに牛と馬を並べ、達哉に手伝ってもらいながら線香にマッチで火をつける。達哉の灰皿を線香立てにして牛馬の隣に置く。バイクのエンジン音が近づいてきて家の側で停まる。玄関のチャイムが鳴った。ピザが届いたのだろう。

 まだ陽が残っている時間だが夕食にすることにした。ピザの箱を開け、フライドポテトとサラダを並べる。コップを二つ用意し、達哉はビール、龍彦はコーラを注いだ。龍彦は手を油とチーズまみれにしながらピザにかぶりつく。

「お母さん、鬼士だったの?」

 龍彦が達哉を見上げながらモグモグと尋ねる。達哉はビールを小口に空けながら思い出すような表情になった。

「そうだ。もっともお父さんと知り合った時にはもう鬼士をやめてたんだけど。悪い鬼士と戦って鬼力を無くしたんだそうだ。時々だけどすごく悪い鬼士がいるのは知ってるだろう?」

 網戸越しに蜩の声が聞こえる。夏の夕暮れの風と一緒に線香の甘い香りがふわりと漂ってきた。今、お母さん帰ってきたのかな―と龍彦は部屋の天井辺りを見渡した。虫が憑くと眼が良くなるという話は聞いたことがあった。事実、この数日でこれまで意識もしなかった物が見えることに龍彦は気づいていた。自分の部屋の窓から外を眺めると、自宅の上を旋回するトンビが狙っている庭木の葉の上の青虫や、国道を行く車のナンバーはもちろん車中の人の表情まではっきりと見えるのだ。ひょっとしたら幽霊も見えるかもと思ったら、ピエロのディッキーの顔が浮かんできた。龍彦は慌ててピザに意識を戻す。

「ところで龍彦、あの刀どうやって見つけたんだ?」

「呼ばれたんだ」

 龍彦はフライドポテトをモゴモゴやりながら答える。答えてから頭の変な奴と思われないかなとちょっと心配になった。

「その、音が聞こえたの。リンリンって」

「ふぅん、いつ頃からだい?」

「雨丸を見つける三日くらい前から。夜中ずっと聞こえて眠れなかっよ」

 達哉は少し不審げな顔をした。

「お店が終わってからも聞こえたかい?父さん、全く気が付かなかった」

「ちょっと― 不思議な音だったし… 雨丸は僕に話しかけたかったんだよ、きっと」

 達哉がにっこり笑って頷く。

「かもな。鬼士には聞こえる音だったんだろうな。あ、それとあの刀な」

 達哉は電話の置いてあるサイドボードから白いメモ用紙とペンを持ってきて、一文字ずつ丁寧に何か書いた。龍彦にメモを手渡す。

 霧雨丸

 龍彦はジッとメモを見つめた。あの箱に書いてあった漢字。読めないが直感的に刀の名前が書いてあるのだと思っていた。

「きりさめまる―と読むんだ。もう分かってるだろうけどあの刀の名前だよ」

 霧雨の意味は何となく分かる。あの刀を抜いた時の虹色の輝きと冷やりとした剣気。霧雨という名前がぴったりだと思った。

「母さんの使ってた剣なの?」

 達哉は困った顔になる。

「違うと思う。母さんは鬼士だった頃の話をあまりしなかったんだけど、鬼士にはそれぞれ得意な武器があってね、母さんは笛が得意だったんだそうだよ」

「笛?どうやって使うの?」

「さぁ、父さんには分からないな。自分で調べてごらん。野原先生なら知ってるんじゃないか」

 達哉は龍彦が通う剣道場をやっている鬼士の名を出した。

「ふぅん― じゃぁあの剣、霧雨丸は誰の刀なんだろ」

「うーん、使ってなかったにせよ母さんが貰うか預かるかしたものだろうけど―」

 なぜ、わざわざ隠し棚に隠していたのか分からない―という言葉を達哉は飲み込んだ。

「父さんも少し調べてみたんだけど、あの刀、父さんみたいな素人が見ても立派なものだと分かる。普通、鬼士が使うような銘の入った立派な日本刀は持ち主や来歴がすぐ分かるものなんだけど。霧雨丸は分からなかった。そういう名前の日本刀は、父さんのような普通の人の眼にも触れるような、表の世界には出てきていない」

 少しがっかりした様子の龍彦に達哉は少し赤くなった顔で言う。

「でも龍彦なら調べられるかもしれないな。鬼虫が憑いた鬼筋の人間だ。父さんには行けないところにも行けるし、父さんには分からないことも知ることができる」

 龍彦は、もうお前は父さんの子じゃないと言われたようでなんだか寂しかった。

「母さんが鬼士だったこと、内緒だったの?」

「内緒というわけじゃないんだが― 母さんは鬼力を殆ど失くしてたし、父さんは普通の人だろ?お前に虫が憑くかどうか分からなかった。もちろんまだ虫が憑いただけで虫が騒ぎ出す―って言うのかな?鬼力を使えるようになるかどうか分からないけどな。とにかく、期待してダメだったときにお前がショックを受けるんじゃないかと思ってな。母さんがお前を妊娠しているときに二人で話し合ってな。そう決めたんだ」

「そう」

 龍彦は少し冷めかけたピザを口に押し込んだ。これまで極力考えまいとしていた母のことを、今は知りたくてたまらない。

「霧雨丸、返さないといけないのかな?この家にあるって分かったら持ち主が取りにきたりする?」

 達哉は冷蔵庫から二缶目のビールを取り出してくる。プシュッとプルトップを引いて、親指にかかった白い泡を舐める。コップにビールを注ぐ。

「霧雨丸がお前を呼んだんなら、それは多分お前を気に入ったからだ。もうお前のだよ、あの刀は。鬼士の剣というのはそういうものらしい」

 龍彦は少しほっとした。もう霧雨丸と離れることは考えられなかった。霧雨丸に対して傍らに寄り添う愛犬に対して感じるような愛着を感じていたからだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ