龍彦さん
翌朝、龍彦が目を覚ますといつの間にか窓が閉じられカーテンが引かれていた。体にはタオルケットが掛けられている。多分佳苗叔母が掛けてくれたのだろう。
時計を見ると7時過ぎを差している。道場も今日から盆休みを兼ねた休みに入っている。朝稽古もないこんな日はもう少しゆっくり寝ようかとベッドの上でゴロゴロする龍彦だが、習性とは恐ろしいもので何やらそわそわと落ち着かない。
不意に龍彦は階下から伝わってくる朝餉の支度の気配が気になった。ご飯が炊ける時のほんわかあったかくて清々しい匂い。滋味たっぷりの味噌とだしの香り。鮭や鯵、鰯の丸干しなどの油が焦げる香ばしい煙。いつもの湯沢家の朝餉の香りだが、醸す雰囲気がどこか違う。龍彦は階下の様子に意識を集中する。違和感の原因はすぐに分かった。声だ。佳苗叔母のしゃべり声が聞こえる。普段は包丁とまな板の刻む音や鍋とお玉の触れ合う音、フライパンの爆ぜる音しか聞こえないのだが。話し相手の声には聞き覚えがある。しかし朝餉の支度の場面には違和感がある声だ。
龍彦はTシャツにハーフパンツのままで階下に降りる。台所から佳苗叔母の楽しそうな声が聞こえてくる。
「だし取り用の煮干しは取り出さなくていいよ。最後に龍彦のお椀に入れてあげて」
「はい。龍彦さん、煮干しが好きなんですか?」
「まさか。いつもブウブウ文句を言われるよ。成長期だからカルシウムを取らせなきゃ。鰯の頭も残させるんじゃないよ」
「はい」
台所で割烹着姿の佳苗叔母と志乃が朝食の支度をしていた。龍彦に気づいた志乃が笑顔で朝の挨拶をしてくる。
「あ、龍彦さんお早うございます。よく眠れました?」
「いやぁ、お蔭様でぐっすり」
状況が飲み込めずにとんちんかんな答えを返す龍彦。
「もうすぐ用意できますから」
「う、うん―」
いつもなら「早く顔を洗え」とか「朝からだらしない恰好するな」とか必ず何か言ってくる佳苗叔母が今朝は何も言ってこない。それどころか龍彦の方を見ようともせず、湯気の上がる鍋に味噌を溶き入れようとしている。「あ、叔母さんあたしがやります」と志乃が言うと「そうかい」と素直に味噌の入ったお玉を志乃に手渡す。家庭の味の基本である味噌汁作りは普段絶対人任せにしないのだが。
龍彦は耕太郎叔父に「お早う」を言って、自分もリビングのソファに腰かける。耕太郎が読んでいた新聞の影から困ったような、嬉しいような、微妙な表情の顔を覗かせる。
「おい、どういうこったよ、これ」
「これって何のこと?」
耕太郎は顎で台所を指し、尻でいざって龍彦の横に移動する。
「とぼけるんじゃねぇ、いつからだ?いつから付き合ってんだ?」
龍彦は慌てながらもかぶりを振り抑えた声で言う。
「付き合うって、僕が?その、志乃さんと?」
「だからとぼけるなっつうの。他に誰がいるんだよ?え?志乃とうちのババァしかいねぇだろうが」
「ババァで悪かったわね」
間髪入れず台所から佳苗叔母の声が上がる。耕太郎は一瞬ビクッと肩を竦め、更に声を低めた。
「お前なぁ、そういう大事なことは早く言えよ。知ってるか?志乃はなぁ、京都の弐鬼様や広島の兼次様なんかからも手合わせの話があるんだぞ?」
「手合わせ」というのは、男女で試合形式の演武を行い互いの鬼虫の相性を見る、いわば鬼士同志のお見合いのようなものだ。
「まぁお前はそういうのに疎いから知らんのだろうが、鬼士同士がくっつくってのは結構大変なんだぞ?」
「いや、まぁ― 大変なことくらいは知ってるけど―」
「なら何で早く言わねぇんだ、え?あれか?虫が鳴き出したら結婚しようとか、そういうことになってたのか?そうなのか?え?」
不意に耕太郎が手に持った新聞がバサッと引き抜かれ、佳苗叔母がクールな顔で二人を見下ろしていた。
「朝ごはん、用意できました」
言ったのは志乃のほうだ。耕太郎と龍彦はそそくさとソファから立ち上がる。テーブルに着こうとした龍彦はいつもの自分の席に置かれている茶碗と箸を見て戸惑う。置かれているのは佳苗叔母の箸と茶碗だ。
「今日から龍彦の席はお父さんの前だよ」
耕太郎の横に座った佳苗がさらりと告げる。これまで佳苗が座っていた耕太郎の正面の席を見ると、龍彦がいつも使っている飯茶碗と檜の塗り箸が置いてある。そして横には見慣れない女物の茶碗と箸が置かれている。
「さっさとお座りよ龍彦。朝から出かけるんだろ?あたしと志乃も塔夜様と一緒に御苑流さんにご挨拶に行かなきゃなんないんだから」
龍彦は湧爾郎と耕太郎と一緒に神戸城内にある鬼士院神戸分院で記者会見を行い、その後、紅綬武闘会での加藤勇樹を名乗るサイキックと陣内大輝の起こした場外乱闘の件について聴取を受けることになっている。龍彦はこのまま突っ立っているわけにもいかず席に着く。待っていたかのように志乃が横に座る。
「じゃあ、いただきます」
と龍彦が言うが早いか志乃が龍彦の茶碗を横から取り上げる。テーブルに置かれたお櫃からご飯をよそってくれる。普段龍彦は自分でよそっている。龍彦は志乃が自分の茶碗にご飯を盛ってくれるのを待つ間、もう気恥ずかしくてたまらない。
「はい、どうぞ」
志乃も少し恥ずかしそうに微笑みながら龍彦の眼を見ないまま茶碗を差し出す。
「あ、ありがと」
龍彦は黙々と食べ始める。どこからどう見ても志乃のこの態度は自分に好意を持っているとしか考えられない。しかし普通はこうなる前に「好きです。付き合ってください」とか「龍彦君、付き合ってる人とか、いる?」などといったプロローグがあるのではないか。目覚めるといきなり家にいて朝食を作ってくれ、横でお給仕までしてくれるとは。龍彦は自分がクロックアップしたせいで時間の経過が狂ったのではないかと本気で心配になった。
「龍彦さん、玉子―」
志乃が遠慮がちに言う。目の前にポーチドエッグが入った小鉢が置いてある。
「あ― うん」
しどろもどろになりながら返事をした龍彦は食べかけのご飯の上にポーチドエッグを載せ箸で突き崩す。白い飯の上にとろりと黄身が広がる。
「成功、成功。志乃、上手だよ」
龍彦の茶碗を覗き込んだ佳苗が満足げに言う。
「龍彦さん、白身大丈夫ですか?残ってません?」
「うん。大丈夫」
龍彦はもぐもぐと口を動かしながら、ぼそりとそう呟くのが精一杯だ。試合会場の医務室で目覚めて以降、志乃は自分を「龍彦さん」と呼ぶようになっていた。「龍彦君」と呼んでいた時とは声音も顔つきも変わっている。耕太郎は嬉しいような困ったような表情で龍彦と志乃を見比べている。何か言いたげだがテーブルの下で佳苗に足を蹴られるので我慢して黙っているようだ。
志乃は照れた様子を見せながらも空になった龍彦の茶碗を取りおかわりをよそってくれる。龍彦はぶっきらぼうに礼を言い飯とおかずと味噌汁を一気にかき込んだ。
「ごちそうさま」
とにかく早く食卓を離れたい龍彦に佳苗が声を掛ける。
「龍彦、美味しかったかい?」
「あぁ、美味かったし―」
龍彦は言い捨てて席を立つ。背後で佳苗叔母が志乃に何か言ったが、龍彦はとにかく早くその場を離れたかった。顔を洗い歯を手早く磨く。逃げるように自分の部屋に駆けあがる。
結局龍彦は、そわそわと落ち着かないマレー熊のように部屋の中を行ったり来たりし、階下の音に耳をそばだて、まだ志乃は下にいるだろうかと気にしながら自室で過ごした。出発までまだ三〇分以上あったがやることもないので鬼士袴に着替える。パリッと糊のきいた鳩の羽根色の筒袖の単衣。明るい白灰色の鬼士袴。まだ鬼道士の免状を受けていない龍彦は単独では帯刀を許されないが、今日は湧爾郎と耕太郎が一緒なので街中でも帯刀を許される。つまり霧雨丸を差しての初めての外出ということになる。龍彦は右腰やや低い位置に刀を差すので革製の剣帯を使う。クローゼットの奥から細長い桐の箱を取り出す。箱が小さく震えている。龍彦の手が震えているわけではない。震えは箱の中から伝わってくる。箱の蓋を取る。鏡の様に滑らかな漆塗りの黒鞘に収まった霧雨丸がバネ仕掛けのように箱から飛び出した。龍彦は右手で受け止める。良い刀は鬼士の鬼力を整え、安定した強い鬼力を引き出すのを助けてくれる。そして鬼力を拡散させることなく一定方向に集中させる。エネルギーの集約、伝達、放射を行う鬼力発射装置なのだ。
出発一〇分前になったのでそろそろ下に下りようかと考えていたところに耕太郎の声が聞こえた。
「龍彦、そろそろ出かけるぞ」
「分かった」
返事をした龍彦はスマートフォンと財布だけ信玄袋に入れて左肩に引っ掛ける。一つ深呼吸して部屋を出る。階段を下りて居間に入るとこちらも鬼士袴姿の耕太郎と佳苗、志乃が待っていた。女性二人はまだ普段着のままだ。
「照れてんじゃねぇよ」
「よく似合ってるよ」
「わぁ、かっこいいです、龍彦さん」
三人がそれぞれ感慨深げに龍彦を見るもので、龍彦はますます態度がきごちなくなる。志乃が自分のスマートフォンを佳苗に手渡す。
「叔母さん、お願いします」
志乃が龍彦の左側に立つ。志乃の肩が龍彦の腕に触れる。シャンプーの良い香りがふわりと漂う。
「笑ったほうが男前だよ、龍彦」
佳苗がスマートフォンの画面を覗きながら言う。シャキューンと音がして佳苗が画面を志乃に示す。「わぁ、ありがとうございます」と志乃が喜び端末をポケットにしまうと、今度は佳苗から一眼レフを受け取る。耕太郎と佳苗が龍彦両脇から挟むように立った。
「はい、スマイルですよ、いいですか?」
カシャンとシャッターが切れる音。「もう一枚行きます」と志乃。龍彦は四苦八苦しながら何とか笑顔を作る。
「よし、じゃ行くか」
耕太郎が巾着袋一つ持って部屋を出る。龍彦はホッとしながら耕太郎の後を追う。佳苗と志乃が後に付いてくる。
「龍彦さん行ってらっしゃい、気をつけて。はい、これ」
志乃が小さな布巾着を龍彦に手渡す。
「鬼下がりです。その格好で外に出ると必要になるかもしれません」
鬼下がりというのは街中でちょっとした親切を受けたり、鬼士に対して敬意を示してくれた相手に渡すお礼のことで、鬼士によってまちまちだが大抵は手作りの飴や千菓子、清め塩、手書きのお札などを渡す場合が多い。鬼力を注ぎながら手作りするので老若男女問わず喜ばれる。
「レモン飴です」
巾着を空けて中身を一つ取り出す。碁石ほどの大きさの白い和紙の包み。表に小筆で「龍」と書かれている。わざわざ龍彦のために作ってくれたらしい。「一つ食べていい?」と断って包みを開ける。粉砂糖をまぶした透明な楕円の粒が現れた。指先でつまんで口に入れる。
「あ、美味い」
「うふ、良かった」
志乃が少し照れたように笑う。龍彦はニヤニヤ笑いを必死に堪えている耕太郎に気づき急に恥ずかしくなる。佳苗が龍彦の肩口をパシッと叩く。
「あんたがビクつく必要ないんだからね。聞かれたことにしっかり答えればいいんだから」
「おい、俺にも早く帰ってねぐらい言えよ」
「ご飯四合、洗って水につけといて。それから知らない人に付いて行くんじゃないよ。お昼はどっかで食べといで。あたしらは五時頃になるから」
耕太郎は平気な顔で「へいへい、四合ね」と呟く。佳苗は玄関脇の棚から火打石と火打鎌を取って、耕太郎と龍彦の背中越しにカチカチと切り火を切る。
「じゃあ行ってくる」
二人は家を出て事務所へ向かった。龍彦がほっと溜息を吐く。
「溜息吐きたいのはこっちだぜ。何か気を遣っちまって朝から肩が凝ったぜ」
耕太郎はグルグルと肩を回し大きく伸びをする。
「ふう、暑いな今日も」
と独り言を言う耕太郎の顔はどこか嬉しそうだった。
事務所に入るともう湧爾郎が事務員と世間話をしながら待っていた。湧爾郎も鬼士袴姿だ。
「二人とも盆休み中にご苦労だな」
「じゃあ裏門に車を廻しときますから」
耕太郎が社用車の鍵を預かり事務所を出ていく。今日は耕太郎が運転手役を務めることになっている。
「龍彦君良かったね、おめでとう」
「虫が鳴いたどころかクロックアップだもんな。すごいよ」
「鬼道マガジンの表紙に載るかもよ」
休日にもかかわらず出勤していた古株の事務員たちが嬉しそうに声を掛けてくれる。
「霧雨丸もようやくお披露目だな。良く馴染んでるじゃないか」
そういう湧爾郎も今日は帯刀している。左腰に長刀を一本差し。朱塗りの鞘が艶やかだ。剣の銘は「鷹爪」。言うまでもなく猛禽類の鷹の鋭い爪をイメージした銘であり、唐辛子の原料である鷹の爪は関係ないのだが、先代の所有者である湧造が持ち前の茶目っ気を発揮し「鷹の爪といえばやはりこの色だろ」と朱い鞘に収めたところ、これがすっかり定着してしまったのだ。ちなみに陽造はこの鷹爪の兄弟剣である「鷹羽」を使っている。鞘は普通の黒鞘だ。
事務員に見送られて湧爾郎と龍彦は耕太郎の待つ裏門へ。黒塗りのレクサスのセダンが停まっている。回り込んでドアを開けようとする耕太郎を制して湧爾郎は自分でドアを開けて後部座席に乗り込んだ。龍彦は助手席に乗り込む。
「耕さん、休みなのに悪いね。埋め合わせはさせてもらうから」
「いいんですよ。どうせ今年は何も予定が無かったんで」
耕太郎は滑らかにレクサスを発進させる。
「龍彦、記者会見ではまず俺が簡単に挨拶をしてからお前に振るから。挨拶、考えておいたか?」
龍彦がハイと返事をする。
「挨拶の後は聞かれたことに簡単に答えればいいから」
「対戦相手の悪口とかは言うんじゃねぇぞ。陣内と加藤のことを聞かれても感情的になるなよ」
耕太郎が注意する。龍彦は少し辟易した表情で「分かってるって」と答える。昨夜から何度となく同じことを言われているのだ。
「はは、龍彦もそうむくれるな。耕さんはお前のことを心配して言ってるんだから」
湧爾郎の言葉を聞いて一つの考えが龍彦の心に浮かぶ。耕太郎と佳苗は自分達の息子のことを思い出しているのではないか。自分の息子が邪鬼になり親である自分たちが討伐隊に加わった時のことを。邪鬼の親として、討伐隊の一員として記者から質問を浴びせられ、マイクを突き付けられた時のことを。辛辣であけすけな質問を浴びたときの苦しい思いを。
「大丈夫だよ」
龍彦は静かに前を見たまま答える。
「何を聞かれても慌てたりしないよ。返事に困った時は、緊張してて覚えてませんとか―言っとけばいいんだし」
「困った時は私も助け舟を出すよ」
三十分ほど車を走らせると神戸城が見えてきた。兵庫藩の行政事務を取り仕切り藩政の中心となる城である。兵庫藩主の池村智昭は現在2期目、鬼力こそ発揮できないものの虫持ちで、同じく虫持ちの長女は藩付きの鬼士と結婚している。そのせいもあり鬼界とのパイプを複数持ち鬼士院との関係も良好だ。藩の事務方トップである城主は茨丘聡。兵庫藩の藩校である神戸高校から東京大学法学部に進み二年間の銀行勤務を経て兵庫藩へ入城。茨丘は虫持たずだ。鬼界絡みの問題には中立的な立場を取ることが多い。つまり鬼贔屓でもなく鬼嫌いでもないバランスの取れたよい官僚ということだ。
城の正門前で湧爾郎と龍彦は車を降り、耕太郎はそのまま地下駐車場に車を移動させる。城に入るとエントランスゾーンで鬼士院神戸分院の職員が待っていた。耕太郎が車中から到着を知らせたらしい。
「神薙様、ご苦労様です」
顔見知りの事務員が軽く会釈しながら近づいてくる。
「花畑さん、今日は手間を取らせて申し訳ない」
「なぁに、あの試合を見せられたら誰だってインタビューしたくなります。こちら昨日FAXしました記者レク用資料です。お目通しいただきましたか?」
今日は元々紅珠武闘会への試合潰し及びサイキッカー潜入の件で聴取を受けることになっていたのだが、花畑が気を利かせて聴取の前に記者発表の段取りと場所の提供をしてくれたのだ。記者に配布するレクチャー用資料まで作ってくれたらしい。
「えぇ。資料まで用意していただいてありがとう」
「ありがとうございます」
龍彦も礼を言って頭を下げる。
「おめでとう怜門君。やっぱりサイキックにクロックアップってのはインパクトあるんだねぇ。鬼界だけじゃなくて一般マスコミも何社か来るみたいだよ。君、結構男前だから人気出ちゃうかもよ。どうする?」
「えっ、そうなんですか― ちょっと、緊張しますね」
「まぁ心配しなくても大丈夫だよ。神薙様も一緒だし、司会進行は私だから。ワイドショーとかでやってる芸能記者相手の記者発表とかはあれ自体がショーだから一緒にしちゃダメだよ。そんなに構える必要ないよ」
花岡が湧爾郎と龍彦に再生紙に印刷された資料を手渡す。今日のスケジュールが簡単に書かれている。
「九時四五分から一〇〇一号会議室で記者発表です。一〇分前に会議室前にお願いします。お時間四五分取らせていただいてますが案件は怜門君の事だけですから多分三〇分前後で終わるでしょう。一〇時三〇分から八〇二号会議室で分院長の聴取を行います。予定は一時間です。後ろに予定が入ってますから時間には終わるはずです」
湧爾郎と龍彦は資料を目で追いながら花岡の説明を聞く。
「実はその聴取の後なんですが」
花岡が湧爾郎の資料を指差す。空欄に花岡の手書きらしい文字で追記がしてあった。
「兵庫藩の鬼士長様からぜひ皆さんにご挨拶差し上げたいと今朝方連絡がありまして。聴取の後一〇分でよいので部屋を訪ねて欲しいとのことです」
「なるほど、分かりました」
湧爾郎はそう答えて資料を折りたたみ懐にしまう。
「会見までまだ三〇分弱ありますので事務室でお茶でも差し上げましょう」
早朝から城の見学に訪れていた外国人観光客が「ゴブリンだ」と囁きながらカメラを向けてくる。湧爾郎は嫌な顔一つせず手を振り一緒に並んで記念撮影に応じる。龍彦も一緒に写真に納まる。湧爾郎に倣って隣にいた一〇歳くらいの男の子に志乃が持たせてくれた鬼下がりを渡す。男の子は眼を輝かせながら慣れないお辞儀をして謝意を示した。
三人はエレベータに乗り込む。ドアが閉まりきる瞬間まで湧爾郎は笑顔で手を振っていた。鬼士に求められるのは剣の強さや鬼風治療だけではない。こうしたちょっとした安らぎや喜びを与えることこそが鬼士の存在理由なのだと龍彦は思った。
記者会見は龍彦のようなまだ錬成院にも入学していない虫持ちの会見にしては盛況だった。鬼界のマスコミが四社、一般マスコミは新聞が三社、スポーツ系の雑誌が一社だ。
陣内に襲われた件に関しては「地下格闘技家が武闘会に潜り込み出場者を狙った目的は何だと思うか」「地下格闘技を見たことがあるか」「陣内は強かったか」等々。
加藤勇樹絡みの質問は「サイキックに狙われる心当たりの有無」から「サイキックと闘った印象」「超能力者協会に抗議したか、あるいは抗議する予定は」等々。
龍彦は陣内について「全く目的は分からないし心当たりもないが非常に強かった、地下格闘技は見たことがない」と答えておいた。陣内の目的が龍彦だったことは外部には伏せられているのだ。
加藤勇樹についても「全く知らないしもちろん目的も分からない」で押し通した。これは事実その通りなので仕方がない。超能力者協会については連絡先すら知らないと答えると会場から小さな笑いが起きた。超能力者協会の連絡先は誰も知らない。そういった協会があることすら公式には確認されていない。ただ超能力者同士が協力し助け合う互助組織のようなものがあるのは確かなようだ。ごくごく稀にだが、漁師の針にかかるシーラカンスのように、警察や自衛隊、鬼士院に身柄を確保されるサイキックがいる。そしてそのことがマスコミにまで漏れてくることがある。情報管理のミスで漏れるのか、わざと漏らしているのかも分からない。確保されたサイキック達の最終的な処遇についても分からない。ここから先は現代の神話、都市伝説の領域だが、サイキッカーを捉えると他のサイキッカーからの反応がある場合があるらしい。らしい―というのは、それを直接目にするか耳にしたものが全く表に出てこないからだ。サイキッカーは直接関係者の前に現れるのだそうだ。手紙やメール、電話がかかってくる場合もあるという。そして彼らは自分が特別な能力の保有者であることを証明して見せると、例外なくこう言うのだという。
「我は協会の意を受けし者。協会からの言葉を伝える。捉われた仲間を開放せよ」
聞き入れないと関係者は事故にあうか忽然と姿を消したりするらしい。俗に言う「協会の男」伝説である。ひと昔前の鬼門の子供たちは親から「悪いことすると協会の男が攫いに来るよ」と言われたものだ。
その後は超高速鬼動についてあれこれ聞かれる。「クロックアップ中は世界はどう見えているのか」とか「家や道場で練習しているのか」など。龍彦は超高速鬼動は法の規制こそないものの、鬼士院規則で自身の生命に関わるような危機からの回避や公務中に必要に迫られた場合を除いて、鬼士院への事前届け出のない超高速鬼動は禁止されていると答える。聞いた記者もそのことを知っていて聞いているのだが。
「それにやりたくてもまだ自分でコントロールできるレベルではありませんから」
「もしサイキックに襲われなかったらできなかった可能性もありますか?」
「できなかったと思います。そもそもクロックアップしようなんて発想が浮かびませんから」
龍彦は素直に認めた。小さな規模の会見であり、スポーツ雑誌社を除いてどの社も記者がそのままカメラマンを兼ねている。最後に何枚か写真を撮られて、記者会見は三〇分少しで終わった。
龍彦ら詩苑流の三人はそのままエレベーターで八階に移動する。八階のフロアの半分は鬼士院神戸分院が占め、残りを兵庫鬼道士協会と兵庫保安執行事務所が分け合っている。
「お疲れ様です」
分院の事務局員たちと挨拶を交わしながら聴取が行われる会議室へ向かう。花岡が会議室の入口のドアを開ける。
「分院長はすぐ参ります。中でお待ちください」
楕円形のテーブルの長辺の真ん中に分院長と分院副長と書かれたプレートが置かれている。その向かいに詩苑流と書かれたプレートが三つ置かれている。
「宗家が真ん中で、奥が湯沢様、怜門君は手前でお願いします」
席に着くと若い女性事務員が緑茶の入った湯呑と菓子皿を持ってきてくれる。菓子皿にはカステラが一切れ載っている。分院とは言え鬼士院はいわば鬼士にとっての役所であり省庁であり、時には政府ですらある。聴取の相手が地元の有力流派の宗家であっても普通は茶菓など出さない。
「カステラですか―」
耕太郎が小声で湧爾郎に向かって呟く。
「うん」
湧爾郎も小さく答えてテーブルの下で人差し指を振って見せる。それ以上言うな―という合図だ。一旦閉められたドアがすぐに開き花岡が入ってくる。まだ時間五分前だ。その後ろから分院長の間瀬涼治、京煌院万橋英涼と副長の遠嶋清光、青光院吉斗良月光が入ってくる。吉斗良月光は現御苑流宗家吉斗良光流の父である。花岡は二人が席に着くのを見届けてから、一礼して会議室の外に出る。
「神薙さん、呼び立ててすまんね」
分院長の万橋が扇子をパンと開いて首筋を扇ぎ始める。細かい立て襞がたくさん入った白麻の半袖シャツを着ている。下はグレーのスラックスだ。
「宗家、事情はおおよそ聞いてるから。それほど時間はとらせんよ」
そういう副長の吉斗良は鬼士袴姿だ。
「ああいった事態ですし聴取は当然かと。ご協力は惜しみません。よろしくお願いいたします」
湧爾郎は如才ない笑顔で頭を下げる。耕太郎と龍彦も「お願いします」と頭を下げる。万橋が龍彦を見ながら尋ねる。
「うん、じゃあ始めるとしよう。陣内大輝の件は左古君と隠岐君からも事情を聴いている。まず加藤勇樹を名乗るサイキックの方から行こうか。出会ったのは試合会場が初めてかい?」
「はい」
「だろうな。じゃあ控室で顔を合わせたところからでいい。怜門君の覚えている範囲で加藤の様子を順を追って話してくれ」
龍彦は覚えている限りのことを話す。と言っても試合以外で加藤の印象など、試合場へ移動する際に挨拶したことぐらいしか覚えていないのだが。一通り聞き終えて万橋がもっともらしく頷く。
「そうか。そうだよな。怜門君が分かることなどそれくらいだろうな。それ以外に知ってることは?」
「ありません」
龍彦の答えに万橋と吉斗良が同時に頷く。その様子に龍彦は軽い違和感を覚える。そういえばこの部屋に事務局側の人間は万橋と吉斗良の二人だけだ。書記役もいない。吉斗良が龍彦と湧爾郎の顔を交互に見ながら言う。
「緑仙流も何も知らないそうだ。発表を聞いたと思うが加藤勇樹は太刀担ぎでね。緑仙流の者とは元々面識がない。仲介人に金を払って腕の立つ人間を送り込んでもらった。それだけだそうだ」
龍彦はどう答えていいか分からず黙っていた。湧爾郎ゆっくりと確認するように尋ねる。
「つまり、緑仙流さんはこれ以上の調査はなさりようがないということですね?」
万橋と吉斗良が黙って頷く。万橋が扇子を閉じて両手の指先で弄び始める。
「そういうことだ。詩苑流と怜門君には見舞いを送ると言っていたよ。結果的には迷惑がかかってしまったわけだしね」
つまり緑仙流にはあまり手を突っ込んでくれるなということだ。
「宗家、勘違いしないでくれ。サイキックの調査は続ける。陣内の方もな。鬼門同士で揉める必要が無くなっただけだ」
「そうですか」
湧爾郎が感情の抜けた声で呟く。
「怜門君、加藤と陣内の件は我々に任せてくれるね?」
龍彦は湧爾郎にチラと視線を投げてから「はい」と返事をした。その後は龍彦の武闘会での闘いぶりに話題が切り替えられた。耕太郎は憮然とした表情だったが湧爾郎はすぐに切り替えたようだった。
「それにしても怜門君の鬼風は尻尾が長いな。あんなに粘る鬼風はめったに見んよ。二秒は超えてるんじゃないか」
鬼風にも各鬼士によって個性がある。色も違えば風合いも違う。雷やフラッシュのように速く瞬くような鬼風もあれば、海蛍や鬼火の様に長く漂う鬼風もある。二秒を超えるほど尻尾が長いとは龍彦の鬼風の残光時間の長さを言っているのだ。
しばらくして万橋がわざと三人に気づかれるように腕時計に眼を遣り、扇子を胸ポケットに仕舞った。
「怜門君も来年の春には錬成院だな」
「もし入学を許可されればですが」
万橋は優しく笑った。
「君なら許可されるさ。優秀だし宗家の後押しもある。貴重なクロックアップ能力者だしな」
万橋は立ち上がりながら続けた。
「私からも怜門君のことを鬼士院に話しておくよ」
吉斗良も万橋の後に続く。
「錬成院に入るなら馬があった方がいいね。息子のお下がりで良かったら使ってくれ。道場の方に届けておくから」
「ありがとうございます」
龍彦は素直に頭を下げておいた。
「あ、そうそう」
ドアの手前で万橋が振り返る。
「二四時間警護とはいかんがしばらく気を付けた方がいい。人を手配しておくよ」
「お気遣いありがとうございます」
お辞儀をして見送る三人を振り返ることなく万橋と吉斗良は廊下に消えた。入れ替わりに花畑が入ってくる。事情は花畑にも伝わっているのだろう。すまなさそうな表情で黙って頭を下げる。
「どうです、冷たい物でも召し上がられますか?よろしければカステラのお代わりも」
三人は揃って頷いた。




