鶏鳴の夜
「随分明るい光が差しているな」
自分の声がひどく間が抜けたものに聞こえた。考えたことをそのまま呟いてしまったらしい。頭の上から「あ、気が付いた」と佳苗叔母の声が聞こえる。
「龍彦さん、気が付かれましたか?」
視界の左半分に志乃の顔が現れる。数秒して、自分は仰向けに寝かされているのだと気づく。
「龍彦さん、これ飲んでください」
志乃がストローの刺さった紙コップを龍彦の口元に近づけてくる。言われるがままストローを加えて一口吸う。甘い。
「ブドウ糖を溶かしたミネラルウォーターです。もう少し飲んでください」
もう一口大きくブドウ糖水を吸い込んで、龍彦は大きな溜息をついた。
「ふぅ、旨い」
志乃が龍彦の口元に垂れた滴をカーゼハンカチで拭う。
「でしょう?鬼力と脳内のブドウ糖を使い果たしてしまったので体が欲してるんです」
志乃はいつもまにか髪をポニーテールに戻している。先程見た感情剥き出しの表情は消えているが眼はまだ喜色に輝いている。
「よぉ、お疲れ」
視界の右半分に陽造の顔がにゅっと現れる。なぜか陽造はにやけそうになる顔を必死に引き締めている。
「おめでと。しかしえらいタイミングで虫が鳴いたもんだな」
そうだった。ついに自分の虫が鳴き始めたのだ。
「おめでとうございます、龍彦さん。志乃、すごく嬉しいです」
志乃の顔がやたら近いと思ったら、どうやら志乃は龍彦の寝かされているパイプベッドの脇に膝をついて龍彦の顔を覗き込んでいるらしい。
「龍彦、よかったねぇ。あたしはもう試合なんてどうでもいいよ」
佳苗叔母の顔が志乃の横から割り込んでくる。こちらは志乃と反対に涙目だ。
「そうだ、試合は?」
反射的に起き上がろうとする龍彦を志乃と佳苗叔母がそっと抑える。
「試合はもう終わりました。もちろん龍彦さんの勝ちです」
「え、僕の勝ち?次は?次の試合は?」
志乃が龍彦の肩口をそっと押さえる。
「二回戦は龍彦さんの勝ちです。試合開始の時点で虫は鳴き始めてませんでしたから。それに相手もサイキックであることを隠してましたし。龍彦さんの一本勝ちか、反則勝ちかはまだ判定が出てませんけど。ただ、残念ですけど虫が鳴き始めた以上準々決勝には出られません」
青葉の組は鬼力を使えない者のクラスなのだ。
「ベストエイトなら大したもんだよ」
達哉の声が頭の上の方から聞こえ頭をクシャクシャと撫でられる。
「お父さんの言う通りだぜ。立派なもんよ」
耕太郎叔父の声。どうやら男性陣は遠慮深く見守ってくれているらしい。
「しかしすげぇな、いきなりクロックアップとは」
陽造が龍彦の脇腹をゴツンとやる。かなり本気のパンチで龍彦は低く呻く。
「クロックアップって?」
「超高速鬼動のことです。鬼力を使った神経加速ですね。オーバークロックとかニューロブーストとも言います。ほらゴブリンレンジャーに出てくるゴブリンレッドの得意技です。」
志乃が分かりやすく説明してくれる。鬼力が過給的に発揮されることにより体の外側に一定時間継続的に高次元フィールドが形成され、脳活動、知覚能力が通常時の二〇倍近くに、運動能力は一〇倍以上に高められる。どうりで周りが止まって見えたわけだ。超高速鬼動のことは話に聞いたことはあるが見たことはない。一般市民の不安を煽るということで映像も出回っていないはずだ。
「できる人、なかなかいません。公の場での無許可のクロックアップは禁止されてますから、志乃も生で見たのは人生で二回目です」
「俺も。柊ん家の新年会で見せてもらって以来だな」
陽造が真面目な顔に戻って言う。佳苗叔母がとても感情的かつドラマチックにその時の様子を話してくれたところによると、
「最初にあの加藤という卑怯者がサイキック波動を放った時は、何が起こったのか会場のほとんどの人は分からなかったでしょうね。でもあたしには分かったわ。何か大変なことが龍彦に起きようとしているって。でも龍彦、よくあれをかわしたわね。錬気でサイキックパワーを弾くなんて、なかなかできることじゃないわ。その後、志乃が加藤がエスパーだって叫んだわけだけど、もちろんあたしにはその前から分かっていたわ。だってあのパワーって透明だし、鬼風が吹いた感じがなかったし。それにしてもあの小僧が二度目のサイキック波動を放とうとした時はもう― あぁ、ありがとう、お父さん(大きな鼻をかむ音)、あの時は心臓が二秒、いえ三秒くらい止まったわね。え?嫌ねお父さんたら、本当に決まってるじゃない。でも次の瞬間龍彦の姿がパッと消えて、畳がこうババーンとひっくり返って、あの時の小僧さんの慌てっぷりったらざまぁなかったわね。で、次の瞬間龍彦があいつの後ろに立っていたの。体から綺麗な瑠璃色の鬼風を出しながらね。龍彦の虫が騒ぎ出して超高速鬼動したんだってピンときたわ。父さんなんか訳が分かって無くて、お、回り込んだぞ―とか言っちゃって、恥ずかしい。それにしても龍彦の鬼風とっても綺麗ね。毎日茎ワカメを食べさせた甲斐があったわ…」
と、こんな感じだ。
「でも今考えると最後は危なかったです。龍彦さんよく最後の一撃を出す力が残ってましたね。クロックアップは物凄く消耗が激しいから― 上手くアップ、ダウンをコントロールできるように練習しましょう」
クロックアップの状態を限界まで続けると鬼力が尽きるか、脳内のブドウ糖が尽きたところで自分の意思に関係なくクロックダウンしてしまう。ブドウ糖切れの場合は脳が強制的にシャットダウンしてしまう。つまり気を失うか眠り込んでしまうのだ。クロックアップしているうちに勝負を決めてしまわないと逆に大ピンチに陥ることになるのだ。
「おぉ、お前が最後の一撃で加藤を吹き飛ばした時はもう場内総立ちでよ。もっとも俺の方は佳苗の金切り声で鼓膜が破れないかそっちのほうが心配だったがな」
白いパーテーションの向こうから白衣姿の医師が顔を覗かせる。
「そのくらいにして少し休ませてあげなさいよ。怜門君、もう少し甘い物摂って少し寝なさい」
陽造が再び龍彦の脇腹に一撃を加える。
「俺、そろそろ行くわ。昼から準々決勝だし」
「頑張れよ」
「おう」
「じゃ、大人しく寝てるんだよ、龍彦。後でリンゴ剥いてあげるからね」
「まったく、入院するわけじゃあるまいし」
「あの―」
達哉が遠慮がちに声を上げた。
「龍彦の、ここ―」
自分の額の上の辺りを指で示す。まだベッドの脇にいた志乃がこっくりと頷いて龍彦の髪をまさぐる。
「龍彦さん、ここのところ触ってみてください」
志乃の指が触れたところにコリコリとした違和感を感じた。龍彦は自分の指で確かめてみる。
「あ―」
志乃がにっこりと笑う。
「角が生えてきてるんです」
紅綬武闘会は青葉の組で起こったサイキックのなりすまし出場以外は大きな問題もなく終了した。加藤勇樹の参加申請を行った緑仙流は、加藤勇樹は紅綬武闘会のために他流派から太刀担ぎ、いわゆる助っ人として呼び寄せた人間であり、途中で入れ替わったことに気づかなかったとコメントを発表した。詳細は調査中であり判明次第鬼士院に報告するとしている。また、武闘会担当責任者である緑仙流本部鬼士長宿坂哲司の平鬼士への降格、減給四分の一を三カ月という処分を発表した。
青葉の組は黒川慶と吉福尚大の春嵐式同志の決勝となり黒川慶が優勝を飾った。春蘭式は大樹の組も京煌院高市丸海星が制し二冠となった。詩苑流では草花の部に出場していた陽造が全国の錬成院から集まった猛者どもを相手に三位に喰い込んだ。出場選手中一年生は陽造を含めて二人だけ。八強に残ったのは陽造以外全て四年生であったから三位は大健闘と言っていい。
しかしこの大会一の話題はやはり龍彦の試合だった。試合中に虫が騒ぎ出すのも珍しいが、無意識とはいえ超高速鬼動を発動しサイキックを撃退して見せたのだから注目が集まるのも当然だろう。
閉会式が終わり控室に戻って荷物を片付ける龍彦に他流派の選手たちが次々に声を掛けてくる。青葉の組の準優勝者である吉福尚大が祝福してくれる。黒川は優勝者インタビューやら祝勝会やら後の予定が立て込んでおり先に帰ったそうだ。
「おめでとう怜門君。こんなところでニューロブーストを見られるなんて思わなかったな。黒川が羨ましがってたよ。あいつの家、親父さんも兄貴もニューロブースト使えるから」
「それなら黒川君も使えるようになるでしょ?」
「うん、それがあいつお母さん似でね。火焔剣も使えないかもって」
吉福が人差し指を口元に当てながら小声で言う。名鬼門には良くある話で、父方の血が出るか母方が出るかで随分と立場が変わってくる。火焔剣と超高速鬼動は柊家の代名詞になっており、それが使えないとなると春嵐式を継ぐのは難しいだろう。弟として兄の補佐に徹するか。流派を出て軍や警察、政府機関に活躍の場を求めるか。名鬼門出身で剣の腕も一流の黒川のような男にとっても人生は時として残酷なものなのだ。吉福と連絡先を交換する。少し離れた所から隠岐が遠慮がちに手を上げて挨拶する。もう私服に着替え大きなドラムバッグを肩から下げている。龍彦は隠岐に近づいて手を差し出す。隠岐が龍彦の手を握り返した。
「ありがとう、助かったよ」
「余計なお世話が過ぎるってよく言われるんだ」
「夏休み中に遊びに来てよ。盆明けには実家から道場に戻ってるし。世話になってる家の人が妹さんと一緒に泊まりに来てもらえって」
「あぁ」
隠岐は照れくさそうに笑った。連絡先を交換して別れる。龍彦も荷物を詰め込んだエナメルバッグを肩に下げ控室を出る。
「怜門さん」
声のかかった先を見るとそこに立っていたのは泉川蘭だ。赤いチェックのスカートに白いシャツ。女子選手は別の部屋で着替えるので龍彦が出てくるのを待っていたのだろう。泉川は二回戦で優勝した黒川に敗れている。
「おめでとうございます。怜門さんの鬼風、とっても綺麗ですね」
「え、そうかな、ありがとう」
締まりのない顔で笑いながらふと泉川の背後に眼をやると、七三分けにサマースーツの男と目が合う。男が「やぁ」と軽く会釈して寄こした。
「あの、疲れてらっしゃると思うんですが、父がどうしてもご挨拶したいって」
泉川が申し訳無さそうな表情で脇に避けると男が頭を下げながら進み出てきた。
「いやぁ、ごめんね怜門君。今日は仕事抜きで娘の応援だけのつもりだったんだけど、あの試合を見たらもうじっとしてられなくてね。えーと―」
男はジャケットのポケットをあちこち探って「あぁ、あった」と名刺入れを取り出す。お辞儀しながら両手で名刺を龍彦に差し出す。上質の漉き紙を使った名刺には銀色の鈴のマークが描かれている。
「泉川です。どうぞよろしく」
銀鈴鬼士団広報室室長 泉川俊郎。
「どうも― 怜門龍彦です」
曖昧に挨拶する龍彦。龍彦の戸惑いを感じたのだろう。泉川が
「あ、別に他意はないから。単なる青田買いぐらいに思ってくれる?まだ今日虫が鳴いたばかりで先のことなんて考えられないだろうけど、青田買いなんて先が考えられないうちにするもんだしね、はは」
「そうですね。自分でも全く予想してなかったんで」
龍彦は適当に合わせておく。蘭は気まずそうに「もう、お父さん」と泉川の背を小突く。泉川は意に介さず嬉しそうに笑っている。
「そうだよね、あれ突然だもんね。僕もねぇ、学校の授業中に急にフラフラっときちゃって。居眠りしてるんだと思われてなかなか気づいて貰えなくってねぇ。ところで怜門君、将来の夢とかは?鬼士団に興味あったりするかな?」
「うーん、今はまだ自分でも頭を整理できてなくって」
蘭が父のジャケットの袖をクイクイと引っ張る。
「お父さん、怜門さん疲れてるんだから」
「そうだよね、そりゃそうだ。わはは、夢中になると周りが見えなくなっちゃう性質でね。申し訳ないねぇ」
「あの、よければID交換していただけませんか」
遠慮がちに頼んでくる蘭とSNSのIDを交換する。薙刀の腕前はともかく本人はいたって普通の女子高生のようだ。
「いやぁ、いいなぁ若い人は自然に連絡先を聞けて。大人になると色々考えちゃってねぇ。その、怜門君、私もここに連絡していいかなぁ?娘経由で」
龍彦は苦笑いを浮かべながら泉川ともIDを交換する。泉川のユーザーアイコンは首に鈴を付けた可愛らしい猫のイラストだった。
「うれしいなぁ。いやぁ、ありがとう。それにしても怜門君の剣捌きってオリジナリティがあるよね。いやね、一番上の兄貴が小太刀を使うんだけどさ、あ、ちなみに兄貴、鬼士職採用で今大阪藩で仕事してるんだけど、剣を差すの腰の後ろなんだよね。小太刀使う人は大抵そこじゃない?背中側の高い位置に斜め掛けか低い腰の位置に斜め掛けか。怜門君みたいなスタイル見たことないなぁ。誰に教わったの?お師匠さんはどなたなのかな?」
にこにこ顔でまくしたてる泉川。蘭が「怜門さんお疲れのところすみませんでした。今度一緒に稽古させてください」とお辞儀をしながら父を力強く引きずっていく。苦笑混じりに二人を見送りながらホールに向かう。詩苑流の皆が待っているはずだ。
五六人の記者が龍彦の姿を見つけて近寄ってくる。一回戦の後、廊下で見かけた記者だ。
「鬼道マガジン寺本です。怜門選手おめでとうございます。初めて鬼虫の合唱を聴いてみてどんなお気持ちですか?」
龍彦は少し考えて言葉を選ぶ。
「とにかくびっくりしてます。虫が鳴かなかったらどうしようか真剣に考え始めてる時でしたし」
「クロックアップした時の感触はどうでしたか?」
「まだ頭が整理できていないのでうまく言えませんけど、水の中を歩くみたいで動き辛かったです」
寺本の横にいた記者が間をおかずに質問をする。
「ゴブリン通信畑山です。ご両親は超高速鬼動を使われますか?」
「いえ。父は虫を飼っていませんし、母もクロックアップ能力者だったとは聞いていません」
さすがにこの場で「今お母さまはどちらに?」と尋ねる記者はいなかった。どちらにしろこの後龍彦の家族や親類縁者関係は根堀り葉掘り調べつくされることになるのだろう。
インタビューはまだ続きそうな気配だったが、少し遠巻きに見守っていた湧爾郎と耕太郎叔父が近づいてきて、翌日改めて場を設けるからと約束して龍彦を記者たちから解放してくれた。駐車場に向かって歩きながら湧爾郎が龍彦の肩を叩く。
「おめでとう龍彦。ゆっくり休ませてやりたいが打ち上げに少しだけ顔を出してくれ。お前が出ないと皆収まらんだろう。皆の前で一言喋ってもらうから考えておけよ」
この後試合会場近くのホテルで青光院流派合同の打ち上げパーティが開かれることになっている。
「はい」
志乃と陽造が近づいてくる。
「何なら俺も親友代表で一言スピーチするよ。まさか彼がクロックアップ能力者だなんて思いもしませんでした―とかさ」
「じゃぁあたしはマネージャー役を。そろそろ時間ですの会見はここらで終了させていただきます―とか」
龍彦はニコリと笑って応じたが、次の瞬間ぶるっと武者震いする。
「もしあそこでクロックアップしてなかったら、僕どうなってたと思う?」
志乃も陽造もただ笑って何も答えなかった。少し間があって志乃が静かに言う。
「あったかいもの食べて、偉い人たちに挨拶だけして、とっとと消えることにしましょう」
「それがいいや。帰って試合の録画観ようぜ。俺が準々決勝で優勝候補の一角を倒した名勝負をさ、本人の生解説付きで」
駐車場に停められたマイクロバスの前で佳苗叔母が早く早くと手を振っていた。
ラブラドールレトリバーが二頭、満面の笑顔で舌を垂らしながら、良い子にお座りをして広幸たちを見上げている。一頭はバタークリームのような毛並み。もう一頭はビロードのような漆黒。そしてもう一頭、ジャーマンシェパードが永都のブーツにまとわりつきながらクンクンと鼻を鳴らしている。三頭とも首輪はしているがリードは着けていない。三頭とも鬼力を持った犬、つまり使鬼だ。
昨夜の夜、永都と千晶、翔太が焼き肉屋から自宅に戻ると広幸はまだ帰っていなかった。千晶は録音しておいたラジオの英会話番組を聞き始める。永都は翔太に漢字の書き取りドリルをやらせ、自分は新聞に目を通し始める。三人とも学校にはろくに通えていないが、そのせいもあって勉強というものに強い憧れがあった。もぐりの鬼士を続けていくにしても最低限の知識と学力は必要だ。三人がそれぞれの自習を終え、翔太はそろそろ寝ようかという頃、裏の駐車場から広幸の車のエンジン音が聞こえてきた。
「ヒロ兄帰ってきた」
千晶と翔太が外に出る。少しして「わぁ」と押さえた小さな歓声が聞こえた。三人がハイツの階段を上ってくる音。三人にしては足音が多い。永都が玄関のドアを開けると。三頭の犬が部屋の中に飛び込んできた。千晶と翔太は大喜びだ。
「おい、静かにしろ。近所から文句が出るぞ」
永都は後ろ足で立ち上がりながらじゃれついてくるシェパードを抱えながら広幸に尋ねる。
「使鬼を借りに行ってたんだ?」
「あぁ。あの森林公園で鳩の痕跡を探すのは俺たちだけじゃ無理だしな」
広幸は弟と妹に犬の名前を教えた。クリーム色のレトリバーがレオン、黒がロビン、シェパードがモモだ。レオンとロビンは雄、モモが雌だ。
「呼ぶときはちゃんと名前で呼ぶんだ。じゃないと言うことを聞いてくれない」
突然の来客に千晶と翔太は大はしゃぎだ。
「二人とももう寝るぞ。明日は五時起きだ」
「えー、もっと遊びたいよ」
「遊ぶのは明日仕事が終わってからだ。さぁ、歯を磨いて着替えろ」
広幸が車から運び込んだ犬用のクッションを部屋の隅に並べる。
「レオン、ロビン、モモ、ハウス!」
広幸がコマンドを発するとレオンとロビンは素直にクッションの中で丸くなる。モモだけが永都の足元にじゃれついたまま従おうとしない。
「しょうがないな。永都、一緒に寝てやれ」
「犬とかよ」
と言いながらもどこか嬉しそうな永都。八畳間のリビングに布団を敷き詰め兄弟四人と三頭の使鬼で眠る。翌朝、目覚ましのアラームに起こされると三頭はすでに目を覚ましていた。モモは永都の布団の中で永都の顔を舐めている。顔と歯を磨いただけで車に飛び乗り、車中で食パンを齧る。一時間後、広幸は夜明けの光に包まれた兵庫藩立甲山森林公園の駐車場に車を停めていた。三頭の犬も車から下りる。広幸が下向きにした人差し指でクルクルと円を描いてハンドサインを送ると、犬たちは近くの草地でお気に入りの場所を探し排尿と排便をすませた。
「犬の扱い方はさほど難しくない。まずしっかりと鳩の匂いと鬼風を覚えさせる。探し始めるときはゴー、立ち止まらせる時はストップ、戻ってこいはカム。とりあえずそれだけ知っていればいい。探し始めたら犬を自由にさせていいがあまり離れ過ぎないようにな。途中で何度か呼び戻して匂いを嗅がせろ。見つけたら電話か口笛だ。携帯を使えない陰地も多いからな」
広幸が永都と千晶にビニール袋を渡す。中には山田教授の家から持ってきた鳩の糞と羽根が付いた新聞紙が入れられている。
「俺がレオンと組む。永都はモモ、千晶と翔太はロビンだ」
モモがアオンと吠える。
「分かった」
永都は自分になついたモモが可愛いのか嬉しそうにモモの首筋を撫でてやる。
「見つけたら小遣いだよ、ヒロ兄」
「遊びじゃないぞ翔太、真剣にやれ。見つけたときの褒美は考えとく」
四人はそれぞれのパートナーの鼻面にビニール袋を近づける。三頭の犬は心得たもので袋に鼻を突っ込むとターゲットの臭いと鬼風を覚え込む。
「俺はこのまま真っ直ぐ北へ進む。永都は西側、千晶と翔太は東側のコースだ。自分がいる位置をよく把握しろよ」
広之が永都と千晶に地図を手渡す。
「ゴー」
コマンドと共に三頭の犬は鼻を地面まで下げると、鳩の痕跡を求めて森の中に消えていった。
結局、ホテルでの打ち上げは結局檀上からの簡単な挨拶だけでは解放されず、龍彦と陽造、志乃は湧造や湧爾郎に連れられて会場内を回り青光院各流派の幹部たちに挨拶とお酌をして歩かねばならなかった。詩苑流の次代を担う陽造と志乃、それに武闘会で印象的な試合をして見せた龍彦の顔見世的な意味もあるのだろう。龍彦にとっては試合よりもずっと気疲れのすることだったが、どの鬼士達も龍彦のことを覚えていてくれ口々に祝いの言葉を投げかけてくれた。サイキックの潜入とクロックアップ能力の発現となれば印象に残るのも当然だろう。またほとんどの鬼士が祝いの言葉だけでなく「鶏鳴御祝い」と書かれた祝い封筒を手渡してくれた。虫が鳴き始めたことを祝ってくれているのだが、普通は正月のお年玉同様家族や親類間でやりとりするものだ。紅綬武闘会という晴れやかな場でサイキックに狙われるという災難に見舞われたことへの労いと超高速鬼動という特殊能力を見せたことへのご祝儀なのだろう。結局会場を後にしたのは十一時前だった。帰りの車の中で数えてみると祝い袋の数は二十枚近くになっていた。後で御礼状を出さなければならないので袋を捨てないようにと志乃が教えてくれる。陽造の試合DVD鑑賞は後日ということになり、龍彦は湯沢家に戻って夏場ではあったが湯船にとっぷりとつかる。温かい湯の中につかっていても体の中に昨日までは感じなかった鬼虫の息遣いを感じることができる。そして生えかけの小さな角。これまで髪を洗うときにも意識したことはなかったが、指摘されてみると確かに頭皮の下で育ってる小さな突起を感じることができる。今日一日で人生が百八十度変わってしまった。大学受験に向けて予備校通いを考えていたことなど遠い昔のことのようだ。龍彦は風呂から上がるとそのまま歯を磨いて髪も乾かさずにベッドに横になる。先程からピロリン、ピロリンと携帯の着信音が何度も鳴っている。タイトルを確認すると道場や高校の友人たちからのお祝いメールのようだった。返事をするのは明日でいいかと考えながら、龍彦は眠りに引きずり込まれていった。




