白い鳩はどこへ行く
早朝から広幸と妹の千晶、永都と末の弟翔太の二組に分かれて鳩のトラッキングは始まった。鳩は地磁気と地形を使って自分の位置と方角を知る。山田の家から一旦大阪湾まで南下し、そこから海岸沿いに西へ飛んだのではというのが広幸の読みだ。
広幸はサイドカー付バイクに乗り横籠の中には千晶が乗る。普段ここには翔太が乗ることが多いのだが、まだ虫が騒ぎ出していない翔太ではなく繊細な探知能力を持っている千晶を乗せることにしたのだ。翔太は永都のモタードバイクの後ろに乗っている。車を使うこともできたが車よりもオープンで微細な鳩の鬼風や痕跡を感じやすいバイクにした。できるだけゆっくりと行きつ戻りつしながら走って痕跡を探す。四人とも山田の家にあった鳩小屋に残っていた鳩の鬼風をじっくり感じて記憶している。鬼士が相手の鬼風、鬼力の特徴を覚えるのは、普通の人が写真を見て相手の顔を覚えたり、警察犬が犯人の匂いを覚えたりするのに似ている。顔や体臭と同じで鬼力にも鬼士それぞれの特徴があるのだ。
時折気になる鬼風が感じられたがバイクを停めてよく感じてみるとどれも違う。明け方から数時間、途中コンビニに立ち寄り飲み物を飲んだだけだ。そろそろ昼になる。バイクは大阪藩を抜け兵庫藩に入っている。
「ヒロ兄、やっぱり無理だよ。相手は鳩だよ?ちっちゃすぎるんだよ。それにもう二日も経ってるし。鬼風の名残も消えちゃってるよ」
「文句が多いぞ千晶、集中しろ」
円谷広幸がサイドカーの中の妹を叱咤する。翔太以外の三人は無線のヘッドセットを着けているのでバイクに乗っていても会話に苦労しない。
「永都、そっちはどうだ?」
一瞬間があって永都の少し萎れた声が流れた。
「ダメだぁ、兄貴。全く何にも感じねぇ。きっとどっかの山奥で野たれ死んでんだよ」
「死んでた方がむしろ探しやすいはずだ。死体は動かねぇし鬼虫は宿主が死んでも数日は生きてるからな。鬼虫が死んで黒漿水がぶちまけられたらもっと強い鬼風が残るし。それに鷲も野犬も伝信管までは喰わねぇから中身は無事なはずだ。とにかく諦めずにやるんだ」
しばらくして千晶が躊躇いがちに口を開く。
「ねぇ、ヒロ兄」
「どうした?」
「今日ってさ、何だか街が凪いでるっていうか、鬼風がほとんど吹いてないよね?鬼がいなくなっちゃったみたいな感じがしない?」
そんなことも知らないのかと思うと広幸は妹の無邪気さが逆に不憫に思えた。冬には一七歳になる千晶はこの春に鬼虫が鳴き始めている。本来なら錬成院か防衛大学校、警察大学校の鬼道科に入学するか入学の準備をしていなくてはいけない。なのに千晶は普通の高校にすら通えていないのだ。
「あぁ、神戸で紅珠武闘会っていう大きな鬼士の武闘大会をやってるんだ。全国から力のある鬼士が集まってくる。みんなそれを見に行ってるんだろう。会場の近くにいけば普段感じたことがないような台風並の鬼風が吹いてるはずだ」
少し間があって千晶がぽつりと呟く。
「そうなんだ」
「見に行ってみるか?」
「いいよ。鳩を探す方が大事だもん」
それきり千晶は黙りこくった。鳩の鬼風を探すのに集中しているようだった。無線の向こうで永都が息を詰めて聞いている気配が伝わってきた。広幸は黙ってバイクを走らせた。
目の前に初戦の相手、橙蓮台天神流の五代貴志が立っている。鋭い赤紫色の眼で龍彦を見据えている。自分の瞳の色は今何色に染まってるのだろうかと考えてみる。龍彦の瞳は冷静に客観的に物事を見ているときは薄く青みがかった鋼色になる。強い興奮や怒りを感じたときは臙脂色に、気持ちが高揚し期待感を感じたときは縁の方だけ蜜柑色で中央は赤くなる。冷静と興奮のバランスが取れている時は深い瑠璃色になる。今、自分の瞳が瑠璃色だとよいのだがと思いながら大きく鼻から息を吸い込み大気の精を臍下と丹田に送り込む。三度四度と繰り返すと丹田が赤く焼けた炭の様に熾り始め、赤い炎が小さな銀河の様に渦を巻き始める。陣内のように自在に気を操り空気砲のように錬気を打ち出せるわけではないが、体内で気を練り上げ、丹田を燃やすことくらいなら龍彦にもできる。錬気を使うと鬼虫をコントロールしやすいのだ。
出場選手の半分が試合を終え十六強の内八人が決まったところだ。ここで主審と立会人、見届人が交代する。副審を兼ねた見届人の一人は志乃だ。髪をツインテールにまとめた志乃を見るのは初めてだ。化粧っ気のない顔は少し汗ばんでいるようで、頬が紅を差したようにほんのり赤く染まっている。さすがにここで話しかけたりするわけにもいかない。対戦相手の五代に視線を戻す。五代は十メートル四方の白い枠線の角の所で龍彦に背を向けて膝の屈伸を行っていた。両足を大きく左右に開き深く腰を落とす。次に前後に大きく開く。片足を畳んで片足を伸ばして爪先を持つ。この動きを見ただけで分かる。強い相手だ。バランスの良さ。柔軟性の高さ。芯の強さ。剣だけでなく拳も十分に鍛錬を積んでいるだろう。
龍彦は両手を組んで指と手首をほぐす。そのまま組んだ手を返して天井に向かって突き出し肩周りの筋肉と筋を伸ばす。腰、膝、足首と順に試合前の緊張を解いていく。この間も丹田呼吸は続けている。試合の緊張と昂ぶりのせいか今日は丹田の燃え方がすごい。呼吸のたびに刀鍛冶がふいごで炉に空気を送り込むように丹田がゴォと音を立てて燃え上がり、透明な炎が背骨に沿って吹き上がっていくのが感じられた。これならつい二十分程前に倉庫の中で冷や汗をかかされた陣内の錬気にも引けを取らないのではないかと、試合直前にも関わらず龍彦はなんだか嬉しくなって「おっしゃ」と気合を発した。五代がちょっと怪訝な表情でこちらを見ていた。
「選手、整列」
主審が選手二人を場内に招き入れる。龍彦と五代が開始線を挟んで向かい合う。
「赤、一九番怜門龍彦君、白、二〇番五代貴志君」
龍彦と五代が面防具越しに視線を交わしながら「はい」と返事をする。龍彦は濃紺の鬼甲帯に赤い帯を巻き、小太刀の木剣。五代は黒の鬼甲帯に白い帯、長刀の木剣。主審が二人の剣をチェックする。通常鬼甲帯を着た時は剣帯を巻いてそこに剣を差すが、試合でシリコンラバーのガードが付いた木剣を使う際は剣帯から抜きづらいため、クリップ式のホルダーに木剣を挟んでおく。龍彦は小太刀を右腰やや下に。五代は左腰だ。
「二人とも正々堂々、悔いなく闘いなさい」
五代が剣をホルダーから外し右正眼に構える。龍彦はホルダーに挟んだままだ。主審が開始線の間から身を引く。
「始め」
ドン―と試合開始の太鼓が鳴る。二人とも動かない。五代が滑らかな足取りで左に回り始める。龍彦は両手をリラックスさせて足を使い始める。客席から二人への声援が聞こえ始める。地元だけあって龍彦への声援の方が少し多いようだ。声援の中に佳苗叔母の声が聞こえる。会場の隅でこっそり見るとか言いながら、声はメインスタンドの真ん中から聞こえてくる。そのすぐ側から、佳苗叔母よりも若干遠慮がちな父と耕太郎、陽造の声も聞こえてくる。龍彦は佳苗叔母の表情まで見える気がして面防具の中で苦笑した。
五代は少し焦れたように剣先を小さく動かし、前足の爪先で軽く畳を叩いて誘いのフェイントを入れた。見える。五代の動きがよく見える。攻めへの小さな躊躇いが漂う引き足の膝。龍彦の小太刀への警戒のせいで伸びやかさを欠いた左肘。自分から行くべきか龍彦を待つべきか、足の運びが逡巡のせいで僅かに波立っている。龍彦のタイミングを盗もうと細かく揺れる目線。龍彦がステップを刻むたびにそわそわと逆立つうなじ。浅く少し早めの呼吸。脈打つ心臓。全てが良く見える。まるで瞳を覆っていた薄膜が剥がれ落ちたようだ。そして足も軽い。相手だけでなく自分の体のコンディションも手に取るように分かる。ならば、迷うことはない。
「っしゃぁぁ―」
気合と共に五代に向かって踏み込む。剣を抜く。剣先が龍彦を追い越して五代の前足へ伸びていく。五代が動く前から、五代の足、膝、腰を見て左に回り込むつもりだと分かる。龍彦の思考を追いかけるように五代が左に動く。龍彦は五代の動きに合わせて踏み込んだ左足で畳みを捉えると、五代が動き直せないタイミングで右へ跳ぶ。五代はほとんど左手一本で太刀を振るい龍彦の小太刀を弾こうとするが、これも先読みしていた龍彦の小太刀に上手くいなされ畳を叩いた。同時に痛烈な一撃が五代の脛に叩き込まれる。
「一本!」
主審が声と同時に副審二人が揃って赤旗を上げる。
「やったー」
佳苗叔母の甲高い声が響き場内から拍手が降ってきた。開始三十三秒。龍彦は初戦を突破した。
緑風院緑仙流 加藤勇樹と紫水台防人の会 御木本雅人の対戦は開始二六秒で加藤の勝利に終わった。加藤が御木本が突っかけてきたところにカウンター気味の巻き上げ技を決め、御木本の木剣を場外に弾き飛ばし、そのまま素手になった御木本の左肩に一撃を決め一本勝ちとなった。木剣勝負で巻き上げや巻き落としといった巻き技が決まることは珍しい。加藤が巻き上げを決めた瞬間は場内がかるくどよめいたほどだ。そしてそのどよめきが消えぬ間に加藤の剣が御木本の肩を叩いていた。力感こそあまり感じないが木剣をしなやかに素早く操るその剣裁きに、場内の目利き達も加藤の豊かな天分を認めないわけにはいかなかった。
勝負に勝った加藤が少し上気した表情で控室に引き上げてくる。細身で小柄。漆黒の髪にはゆるくウェーブがかかり、前髪が汗で額に張り付いている。色白で繊細な整った顔立ち。鬼士というよりステージでダンスパフォーマンスでもしている方が似合いそうだ。
「加藤―」
アリーナから控室への途中、廊下の隅から声が掛かった。緑仙流の宿坂だ。
「何?怜門龍彦が勝ったことなら知ってるけど」
顔に似つかわしく声も細い。ただ、その話しぶりは見た目にそぐわないふてぶてしさを感じさせた。それでも宿坂の方へ歩み寄った加藤の顔に薄く皮肉っぽい笑みが浮かぶ。
「何だ、来てたんだ」
宿坂の後ろに弓歌の姿を認めた加藤は、汗を拭った手を宿坂のスーツでゴシゴシとやってから宿坂を肩で壁際に押しやり弓歌と向かい合った。二人並ぶと加藤は大柄な弓歌よりも拳一つ分背が低い。肩幅も弓歌の方が広いようだ。
「来ないと思ってたよ。いいの、誰かに見られちゃって?」
弓歌はその問いに答えずサングラスのフレームを指先で軽く触って鼻の位置を直す。クラシカルなレイバンの男物が良く似合う。
「怜門をこれ以上勝ち進ませるわけにはいかない。名誉もチャンスも彼に与えてはいけない」
加藤はフンと鼻で笑って「もうよしてくれ」とでも言いたげに顔の前で軽く手を振る。粗野な仕草にも冴え冴えとした色気が漂う。
「知ってるよ、あんたが奴を嫌ってるのは。とにかく、勝てばいいんでしょ?」
「やりなさい」
弓歌の言葉の意味を探って加藤は少し押し黙った。
「やる―って?」
弓歌はまたサングラスの位置を指先で直す。珍しく苛立っているように見えた。
「JINが怜門を壊してくれる予定だったのだけど。バックアップを用意しておいて正解だった。代わりにあなたがやるの」
「壊すって言っても相手はまだ虫が鳴いていないけど鬼だよ。どんな壊し方をしたってケロッと治っちゃうよ。それにそんなことしたら僕、どーなるの?この世界では生きにくくなっちゃうよ」
弓歌は意外なことを聞いたように「まぁ」と声の出さずに口だけ動かす。
「あなたに生きやすい場所なんてあるの?それに加藤勇樹は今日を限りにこの世から消えるのよ、晃太君」
加藤のどこかあどけない顔が歪み眼に怖い色が浮かぶ。加藤は壁際の宿坂のネクタイを掴みしゅるりと解くと乱暴に顔と首筋を拭ってから廊下に捨てる。
「その名前出すなって言ったろ?」
弓歌が満足そうに笑う。ようやく少し余裕が出てきたようだった。
「おぉ、怖いこと。その元気なら大丈夫そうね?」
加藤の強い視線がふと緩む。
「怜門龍彦かぁ― 結構好みなんだけどな、彼。気が進まないよ、彼を潰しちゃうのは」
弓歌の笑みに若干残酷さのエッセンスが混じる。
「潰してからペットにすれば?一生面倒見てあげればいい」
「ふふ、それもいいかも― でもなぁ」
弓歌は加藤の言葉尻が気になって尋ねた。
「でも、何?」
加藤がサングラスの奥の弓歌の表情を読み取ろうと、無遠慮に上目遣いの視線を弓歌に搦める。
「ふふ、聞きたい?」
「言いなさい、早く」
サングラスの内側から金色の光が漏れ始める。加藤は無邪気な笑顔を見せて口を開いた。
「早瀬川さんは信じる?運命とか天命とか、宿命とか」
「それがどうしたと言うの?」
「人にはやっぱりそういうものがあると思うんだ。抗えない運命とか、逆らえない宿命とか。早瀬川さんは怜門君を誰の眼にも触れない所に閉じ込めておきたいんだろ?彼という存在が朽ち果てるまで」
「まぁそうね。今すぐ朽ち果ててもらっても問題は無いのだけれど」
「無理だと思う」
「何が?なぜ無理だと思うの?」
「単なる勘なんだけど。僕のペットになる運命ならそうなるだろうし、朽ち果てる運命ならそうなるんだろうね。でも彼が乗ってる運命のレールは別の所に彼を連れて行こうとしてるんじゃないかなって思う。人間が小賢しい策を弄しても結局はいつの間にか行くべきところに行っちゃうんだよ」
係員が試合を終えた選手は控室に戻るようにと呼びかけていた。同門達と勝利の余韻を楽しんでいた選手、敗北を慰められていた選手が控室に戻り始める。
「無駄だから止めておけと言いたいのかしら?」
加藤は控室に戻るため弓歌に背を向けた。
「未来なんて本人にも他人にも分からない。潰れる運命あれば潰れる。生きる運命であれば生きる。世に出る運命なら世に出る。彼が導かれている先を知りたければ何か仕掛けてみるしかない」
「じゃあ仕掛けなさい。次の試合で。あなたの予言が当たるかどうか見てあげる」
加藤は立ち止まると振り返って笑った。
「予言じゃないよ、単なる勘だって。僕には予知能力は無いし。でも結構馬鹿にできないんだよ、サイキックの勘って」
宿坂が手に持っていたネクタイが突然蛇のようにのたうち、宿坂の腕に螺旋状に絡みつきながら顔の方へ這い上ってきた。
「ひっ」
宿坂がヒステリックな悲鳴を漏らし、狂ったように腕に絡んだネクタイをはたき落とす。床に落ちたネクタイはそれきり動かなくなった。加藤はバイバイと手を振って控室へと戻っていく。
「宿坂、お前は本当にダメね」
弓歌は「ダメね」の所に力を込めて言った。観覧席に戻るため歩きだした弓歌はわざとネクタイを踏む。宿坂は床にしゃがみ込むと、両手で慈しむように弓歌のヒール跡の残ったネクタイを拾い上げた。
初戦を突破した龍彦は控室に戻り、試合が終わってから噴き出してきた汗をボディペーパーで拭き取り身支度を整えると、帰り支度をしていた五代貴志に挨拶をした。五代と握手を交わし「これも何かの縁だから」ということで電話番号とメールアドレスを交換する。
次戦まであと十五分ほど。もうすぐまたあのアリーナに出ていくのだと思うと龍彦の体は期待に打ち震えた。初めて経験する全国大会。紅綬武闘会には道場での練習や詩苑流内の試合にはない特別な雰囲気があった。まず、会場全体、アリーナ全体にとんでもない密度の鬼風が満ちている。まだ鬼力を使えない龍彦も鬼力を感じることはできる。ワールド記念ホールに近づくとホールを中心に巨大な鬼風の渦ができているのを感じる。会場の中ではその密度は更に高まり、試合場のあるアリーナに入るとまるで熱い湯の中に潜ったような感覚を覚えるほどだ。
場の違いだけではない。相手も違う。龍彦の出場している青葉の組はまだ虫が鳴かないか、虫が憑いていない者の組だ。鬼筋の人間を倒してチャンスをつかもうとする虫無しの猛者達はいるものの、基本、鬼筋の人間の新人戦クラスといった位置付けだ。それでもやはり、流派を代表して紅珠武闘会に参加する道場生は強い。剣の腕だけではない。心も強い。目の前の相手を瞬時に理解する能力。相手の技を見切り対応する能力。そして恐れず躊躇わず自身の技を存分に繰り出す能力。それら全てが日々の稽古で鍛えられた柔軟で強靭な精神力の上に成り立っているのだ。
この紅珠武闘会という場で全国からの選りすぐりを相手に、技と力と精神力で相手を攻略し圧倒することにこの上ないスリルと興奮を覚えているのは龍彦だけではないだろう。
「一七番から三二番、二回戦に進む選手は集合して下さい」
スタッフの声が控室に響いた。一回戦で負けた選手のほとんどは控室から消えている。後半の山の一六人のうち二回戦に進む八名は、緑仙流 加藤勇樹、詩苑流 怜門龍彦、洛北式 鬼武誠也、ヘヴィワークス 隠岐和仁、神明流 団淳一郎、緑仙流 新実秀行、春嵐式黒川慶、銀鈴鬼士団 泉川蘭。ほぼ順当な勝ち上がりと言っていいが、龍彦と加藤の勝ち上がりはやはり番狂わせと見られているようだった。共に全国的には全くの無名。その無名の二人が一回戦で結構派手な勝ち方をしたのだから注目が集まるのも無理はない。
一回戦を終え控室に戻る途中、龍彦は鬼道マガジンの記者から呼び止められ人生初取材を受けた。両親のことや得意技、一回戦の相手五代の印象などを簡単に質問されただけだが、試合後の興奮もあってあまり上手く話せなかった。いつも陽造が取材を受け、ペラペラと良く喋る様子を見ていたのであんなものかと軽く考えていたが、相手の質問の意図を瞬時に汲み取り、簡潔に自分の言葉で返答するというのは思ったよりも難しいことだった。ある程度の慣れと訓練、事前準備が必要なのだと気付く。
アリーナの扉が開き熱く濃密な鬼風が噴き出してくる。スタッフに先導されてアリーナ内に入る。すぐ斜め横に加藤がいる事に気づき何気なくそちらを見ると加藤と目が合った。加藤のピスクドールの様に整った顔に拍子抜けするくらい屈託の無い笑顔が浮かび「次、よろしく」と小声で囁きながら二本指をこめかみの辺りにちょこんと当ててくだけた敬礼を送ってくる。龍彦も笑顔で小さく会釈を返す。心ができているということなのだろうか。加藤には緊張の欠片も見られない。試合前にこれだけリラックスしているというのも実際どうなのだろう。
先程の鬼道マガジンの記者は龍彦に取材ついでに次戦の相手となる加藤の一回戦での闘いぶりをかいつまんで教えてくれながら少し困ったような表情を見せていた。
「加藤君ガードが固くってさ、全然取材できないんだよね。控室の様子とかどんな感じなの?」
顔見知りの緑仙流関係者に尋ねても何も教えてもらえないのだという。「俺、虫持たずだからこういうことよくあるんだけどね」とこぼして見せて龍彦の反応を伺っている。この記者は加藤の出場には何か鬼界の事情が絡んでいると考えているようだった。龍彦は「控室には大勢選手がいるんで」と適当に返事をしておいた。
龍彦は加藤に小さな違和感を抱いていた。全国レベルの実力があっても無名の鬼士は大勢いる。だが全国レベルの実力があり、なおかつルックスが良いとなると話は違ってくる。どの世界にもマニアックなウォッチャーはいるものですぐにネットの動画サイトなどで話題になるものだ。なおかつ先程見せたような明るい人を惹きつける性格であれば無名のままでいることは難しい。マスコミかファンか、あるいは流派の人間が光を当てようとするからだ。
「一七番加藤勇樹君、一九番怜門龍彦君、準備してください」
試合五分前。龍彦と加藤は試合場に上がり四角い枠線の対角線上に控えて待つ。龍彦はいつも通り丹田呼吸をしながら、爪先から踝、膝と、下から順に体を解していく。一方の加藤は畳にすとんと正座すると自分の膝を見てボーッとしたり、天井を見上げたりしている。試合前の気持ちの高め方は人それぞれだが、加藤が変わった選手であることは間違いない。
主審が一礼して試合場に上がる。副審も同様に一礼し、枠線に沿って歩くと、選手と反対側の対角に置かれた椅子に腰かける。副審の一人は志乃だ。心なしか少し緊張しているようだ。
「選手、整列」
龍彦と加藤が開始線の前に立つ。加藤は少し寝起きのようなぼんやりした表情で龍彦の方を見ている。緊張のせいだろうか。
「赤、一七番加藤勇樹君、白、一九番怜門龍彦君」
主審が加藤に言う。
「加藤君、準備いいね?」
加藤がこくりと頷く。主審はもう一度、加藤と龍彦の顔を見ると、二人の間から身を引いた。
「始め」
ドン。太鼓が鳴る。龍彦は様子を見るために距離を取ったまま、足を使って加藤の周りを回る。加藤はまだ放心したような眼をしながら龍彦を追うでもなく、ただ龍彦の方へ剣を向けている。剣からも危険な剣気は感じられない。日々の稽古のせいで体が勝手に龍彦の動きに反応していると言った感じ。
ひょっとすると不調なのだろうかと考えてみる。そんなことはないはずだ。不調の相手が一回戦のような勝ち方ができるはずがない。なら誘っているのだろうか。同じ誘うにしてももう少し上手いやり方があるはずだ。
龍彦の中にいくつかの事実の断片が浮かんでくる。組合せ表を見たときに感じたほんの小さな違和感。鬼道マガジンの記者の話。先程の加藤の笑顔。会場内で微かに香った覚えのある香水。志乃の表情。龍彦の中でいくつかのピースが重なり合い一つの形を成しつつあった。
まさか、こいつ―
龍彦の心に芽生えたていた小さな疑念が確信を得て急速に膨らみつつあった。同時に、加藤の様子にも変化が表れ始めていた。どこか頼りなくフワフワとした様子に見えた加藤の体に棘が生えつつあった。無論本物の棘ではない。体から棘のようにピリッと尖った気配が発散され始めたのだ。その棘は見る間に育ち、長く鋭い槍となってヤマアラシの背の様になり、何千本もの鋭い切っ先が龍彦に向かって絞り込まれていく。
次の瞬間、龍彦の周りの空間がクニャッと捩れた。その捻じれを感じた瞬間に龍彦は加藤に向けて鋭く踏み込んでいた。同時に体内に溜め込んでいた錬気を一気に体外に放つ。龍彦の体の周りでバチバチと熱いフライパンに水滴を落としたような音が鳴っている。体に残った錬気を振り絞りながら加藤の足先に向けて小太刀を振るう。加藤は剣を右手に持ったまま、左手で後ろにトンボを切って龍彦の打ち込みをかわす。
「ワォ、弾かれちゃったよ」
加藤が目を文字通り真ん丸にして驚いている。龍彦の心臓がバルカン砲並みの速さで脈打ち、蛇口を捻ったように顔汗が吹き出てくる。龍彦は加藤が自分に何をしようとしたのか直感的に悟っていた。加藤はサイキックなのだ。サイパワーを使って自分に攻撃を仕掛けてきたのだ。
「怜門君てすごいや。錬気でサイコキネシス波動を弾き飛ばすなんて。あんなことできるんだね。僕初めて見たよ」
「褒めてくれてありがとう。僕も初めてなんだけどね。たっぷり錬気を充填しといてよかったよ」
加藤は楽しそうに笑いかけたが、すぐに顔色を曇らせる。
「あれ?ばれてたんだ、僕がサイキックだって。強い気を練って準備してたんだね?」
「どうして分かったと思う?」
今は時間を稼がねばならなかった。息を整え次の手を考えなければならない。加藤はすまなさそうな表情で龍彦を見つめた。木刀を畳に落とす。
「また今度教えてよ。今度があったらだけど」
何か得体のしれない物が加藤の体の中に集まり凝縮されているのが分かる。加藤の周りの空間が歪み、キラキラ光る何かを放とうとしている砲門が開きつつあった。
「これをかわせたら怜門君の奴隷になってあげる」
加藤が悲しそうな顔で言った。
「彼、エスパーです!」
志乃が両手に持った紅白の端を大きく打ち振りながら叫ぶのが聞こえた。主審が驚いた様子で二人の間に割って入ろうとする。加藤が顔は龍彦に向けたまま右手を「待った」の形で主審の方へ突き出す。主審はアクション映画で使うワイヤーアクションのように体をU字型に折り曲げながら隣の試合場まで吹っ飛んでいく。左手は龍彦に狙いを定めたまま。主審を攻撃した瞬間も龍彦に付け入る隙を許さない。
「ごめんね怜門君。仕方ないんだ」
来る―
細胞一つ一つが沸き立ち、毛穴という毛穴が開いた。逃げられないと感じて龍彦は反射的に木剣をブーメランのように加藤に向かって投げる。クルクルと回転しながら飛んでいく剣。加藤は簡単に顔を傾けて剣を避ける。龍彦は無駄と分かりつつも両腕で頭部を庇う。加藤が本当に申し訳なさそうな表情で開いた両手を龍彦に向かって突き出してくるのが見える。龍彦は歯を喰いしばる。腹の底から熱いものが渦を巻きながら口元にせり上がってくる。大量に放出されたアドレナリンのせいか視界がぼやける。
よく死の直前に走馬灯のように自分の人生がフラッシュバックすると言われるが本当だとは知らなかった。幼稚園の入学式、父と離れるのが心細く泣きべそをかいていたこと。霧雨丸を見つけたあの夜のこと。虫が憑いて一日飽きずに鏡を見て過ごしたあの日。道場のみんなと焚火を囲んで食べた焼き芋の甘さ。高校のサッカー部の対外試合で鬼士はダメだと文句をつけられたこと。佳苗叔母の作ってくれる朝食。その横で新聞を読む耕太郎叔父。思えば色んな出会いのある良い人生だった。でもできればもう少し生きていたかった。生きて父さんや耕太郎叔父、佳苗叔母に親孝行らしいこともしてやりたかった。彼女を作ってみたかった。彼女と過ごす夏休みを知らずに終ってしまうとは。錬成院とはどんなところだったのだろう。できれば通ってみたかった。
あぁ、できることなら―と考えて、龍彦は思った。この走馬灯随分長い。腕の隙間から前を覗く。視界がぼやけているのは左目だけのようだ。右目はクリアに見える。よく見ると左目の前に小さな銀色の粒が浮かんでおりそれが視界を遮っていたのだ。加藤のサイパワーが物質化したのかと顔を動かして避けようとする。すると銀の粒は頬に当たってペチャリと潰れた。その奇妙な感触に周りを見ると近くに沢山の銀の粒が浮いている。恐る恐る指先で触るとそれはビックリマーク型に弾けて消えた。水滴だ。その発生源は龍彦自身、龍彦の汗だ。
状況を理解できず加藤を見る。加藤は今にもサイキック波動を龍彦に向けて放とうと両手を突き出すところだった。掌を開き肘を曲げた状態。眼は龍彦を見据え青みがかった黄色に染まっている。加藤はそんな状態で固まっていた。よく見ると固まっているのは加藤だけではない。自分の汗の滴も空中で止まっている。主審も、隣の試合場の選手たちもその動きを止めている。
なんだ、これ―
時が止まったとでもいうのだろうか。それともすでに絶命し霊体となってこの世を眺めているのだろうか。とにかくここでじっと寝ているわけにはいかない。果たしてサイキック波動というものが目標までの直線上を飛んでくるのかどうかも分からないが、精一杯の回避行動を取らなくてはならない。体を低くしたまま頭を両腕でガードしつつ加藤の左側に回り込む。龍彦は奇妙なことに気づいた。体が思うように動かない。重いわけではない。ただ自分がイメージする速さで体が動いてくれないのだ。水の中を歩いているようなもどかしさを感じながら加藤の後ろに回り込む。加藤はまだ腕を突き出そうとする体勢のままだ。少し余裕の出てきた龍彦は加藤をじっくり観察する。よく見ると腕が少しづつ伸びている。どうやら完全に止まっているわけではなく、極端にスピードが落ちた状態のようだ。このまま後ろから殴りつけたらどうなるのだろうか。龍彦は固めた自分の拳を見つめた。そして龍彦の眼が、今度は自分の拳に釘付けになった。青い小さな泡。瑠璃色の小さな粒子が自分の拳から煙草の煙のように立ち上っているのだ。気付くと手だけでなく、腕や足、鬼甲帯の襟元からも鮮やかな瑠璃の気体が立ち上っている。
鬼風だ―
ピッチを下げつつあった龍彦の鼓動がまた早くなる。鬼風だ。とうとう自分も虫が騒ぎ始めたのだ。それにしてもこんな時に虫が鳴き始めるとは、タイミングが良いのか悪いのか。とにかく目の前のサイキックをなんとかしなければならないが、龍彦はサイキック相手に有効な攻撃手段を一つしか知らない。鬼力だ。
この瑠璃色の粒子が龍彦の産み出す鬼力なのだろう。これを加藤に叩き込むのだ。とは言え鬼力をコントロールするのは生まれて初めてだ。
気付くと耳元で低いハウリング音が聞こえ始めている。戸惑っている龍彦に決断を迫るように凍り付いた世界が溶け始めているのだ。
やばい―
一旦溶け始めると世界が元の時空の流れを取り戻すのはあっという間だった。アフリカ象の呻き声のような重低音が場内の声援に変わったかと思うと、龍彦が立っていた場所の畳が二枚、割れてささくれ立ちながらひっくり返った。加藤は何が起こったか理解できず、一瞬立ちすくむ。なまじ目の前に龍彦がいたために視力に頼った攻撃をしてしまったのだろう。龍彦の存在自体を心でしっかり捉えて攻撃すれば外れなかったはずだ。
もう迷っている暇はなかった。腹の底の錬気を腕に流すイメージで、鬼虫に祈りながら右の掌底を加藤の背中、腎臓の位置に繰り出す。加藤が気配に気付いて振り返る。
腎臓から逸れて右の脇腹に当たった掌底から青い炎のような鬼力が溢れだす。瑠璃色の小さな星雲が加藤の半身を包む。加藤の体が弾かれたように吹っ飛び、畳の上を二度三度と転がった。龍彦の鬼力は雲の様に柔らかく加藤の体に絡みつきながら、すうっと尾を引くように消えていった。
加藤は畳に倒れたまま龍彦をキッと見据える。次の瞬間、日向ぼっこを邪魔されたトカゲの様に四つん這いで畳を這うように走り出すと、飛ぶようにアリーナの出口へダッシュする。途中、二人ほど鬼士をサイキック波動で弾き倒しながらアリーナから飛び出して行った。
龍彦は鬼力と気力を使い果たし畳にころんと仰向けになった。天井の照明が濃いオレンジ色に見える。一息つくだけのつもりが動けなくなっている。覗き込む志乃の顔が見えた。髪留めを外したのか髪が両頬を覆い両肩から流れている。室内にも関わらず、まるで向かい風を受けているかのように髪がふわりと逆立ち、ざわざわとたなびいていた。志乃の表情は心配しているようには見えなかった。志乃の顔には抑えようのない喜びの色が浮かんでいた。美しい金色の瞳で龍彦を見つめている。
見つけた― 見つけた―
崩れるような満面の笑みでそう呟く志乃の顔を見ながら、龍彦は抗いようのない眠りに引きずり込まれていった。
以前に一度永都が「金貯めて戸籍を手に入れようぜ。そしたら千晶も翔太も学校へ通えるぜ」と言い出した時、千晶は小さな台所でラーメンに入れる葱とハムを切りながら「無理しなくていいよ、物凄く高いもん、戸籍って。エデンに入れられちゃう子だっているんだもん。あたしらはまだ恵まれてるよ」と素っ気なく言った。ただ、葱を刻む包丁の音が少しリズミカルになったのを広幸は聞き逃さなかった。
千晶は両手を開いて頭の上にかざしながら、鬼風を探り続けている。広幸はちらと時計に目をやる。
「そろそろ飯でも食うか」
「うん」
「永都、昼飯にするぞ。適当な店見つけたら知らせる」
「了解。翔太が肉喰いたいってさ」
広幸はできるだけ鬼風を感じないファミレスを探しながらバイクを走らせた。不意に千晶が両手を頭の上で大きく振って振り返る。
「ヒロ兄、今の所!」
「分かった」
広幸は感じなかったが千晶のセンサーに何か引っかかったらしい。朝からこれで三度目だ。次の信号でバイクをUターンさせ来た道を戻る。
「ヒロ兄、ゆっくり!」
広幸はウインカーを出しながら速度を落とし路肩にバイクを停める。千晶は籠から跳び出ると両手を前に突き出しながら歩道をトコトコ歩いていく。千晶が何かを見つけて小走りになる。道路脇にしゃがみ込んで振り返る。
「ヒロ兄!」
広幸が駆け寄る。千晶の肩越しにアスファルトの地面を覗き込む。千晶が道路端の電柱の根元を指さす。小さな灰色の羽根が地面にこびりついていた。千晶が指先で羽根をつまみあげ広幸の掌に載せる。
「あぁ、確かに似てる気がするな」
小さな灰色の羽根一片。だが確かに鬼風の名残を微かに感じる。
「同じだよ、絶対。あの鳩小屋に残ってた感じと」
どちらにせよ使鬼の鳩の羽根がそこら中に沢山落ちているわけはない。山田が飛ばした鳩の物だと考えるのが自然だ。羽根の根元にほんの少し赤黒い点が染みついている。血だ。ここで襲われたのか。
「永都、見つけたぞ。すぐ来い」
無線を通じて永都と翔太の歓声が聞こえる。
「今日はステーキにしねぇ?」
「まだ羽一枚見つけただけだ。浮かれんな」
最初の羽根を見つけた地点を中心に周囲を探っていく。すると三〇〇メートルほど北に上がったところでまた一片の羽根を見つけた。追手の猛禽に追われて北に逃げたのだろう。
「うーん、上手くねぇな」
「何が上手くねぇの、ヒロ兄?」
「まだ確証はないんだが」
広幸はノートパッドで地図を開く。
「いいか、ここが最初の羽根を見つけた地点。そして今ここだ。追手に襲われて進路変更したんだろう。海沿いの何も無い空で襲われたら逃げ場がないからな。追手の方がスピードも体格も上だ」
「あ、そうか」
千晶が地図上の緑色のエリアを指さす。
「自分より早くて強い相手から逃げようと思ったら、できるだけ細くて入り込んだ路地や住宅街を抜けながら―」
「げ、森かよ」
「そうだ。俺だったらここに逃げ込む。ここに逃げ込まれたら厄介だぜ。追手も、俺たちもな」
永都が溜息を吐いて天を仰ぎ、翔太が遠慮がちにお腹空いたよと泣き言を言う。
「晩飯は焼肉喰わせてやるから。頑張ってもう少し探すぞ」
コンビニおにぎりを齧りつつ更に周囲を探索した結果、更に北に八〇〇メートル程行った住宅街でまた羽根が見つかった。
「どうやら間違いないな。鳩は森に向かってる」
広幸はスマートフォンを取り出して電話を一本かけた。
「続きは明日にしよう。森を捜索だ。もちろん森までの経路も含めてな」
「森ったって、どんだけ広いんだよ」
永都がうんざりした声を出す。
「俺は明日の準備があるから。焼き肉はお前らだけで行ってろ」
広幸は使い込まれた二つ折りの財布から五〇円札を一枚引っ張り出し永都に手渡す。
「え、ヒロ兄どうすんだよ?準備なら俺たちも手伝うぜ」
「いいから二人に肉喰わせてやれ。俺は援軍を呼びに行ってくる。俺たち四人だけじゃ無理だ。なんせこの森林公園、八三ヘクタールもあるらしいからな」
広幸はパッドに緑色で表示された広大なエリア、兵庫藩立甲山森林公園をコツコツと指先で叩いた。




