序章に代えて~この物語の世界観「昔々、とある村で」
鬼が憑いた。
西の端の辰之助に鬼が憑いた。
半刻ほど前、辰之助の父、善三が息を切らしてやってきて、手拭いで額の汗を拭いながら言った。
「辰之助のやつ、鬼虫が憑いたようで」
「憑いたか!そうか!ついに虫が憑いたか!」
弥兵衛は湧き上がる歓喜を抑えきれず、下手くそな舞でも舞うかのように、おろおろと上がり間口を行ったり来たりした。
「あの、村の者も集まってますんで、庄屋様も」
「お、おぉ、そうじゃな、すぐ支度せねば」
妻の糸に手伝わせながら慌てて支度をすると、家を飛び出た。
「善さん、おめでとう。女子衆も後から行きますよ」
こちらも興奮を隠しきれない様子の糸に見送られながら、小走りに村の西の端にある善三の家へと向かう。弥兵衛の大きな風呂敷包みを抱えて前を行く善三の背を追って、稲刈りが終わったばかりの田の間を縫うように畦道を急ぐ。
それににしても、ほんとに百姓らしくない、さっぱりした奴じゃな―
善三は見た目の男っぷりもそうだが、物腰や態度に百姓らしからぬ品があるのだ。畑仕事で泥まみれになっていても、どこかしら凛とした、涼やかな気配がその身を包んでいる。今も弥兵衛の荷物を抱え大汗をかいて走っているが、着物の裾をからげて時折り弥兵衛を振り返りながら走るその姿からは野卑な感じは微塵も感じられない。さすがは鬼筋の女に見染められるだけのことある。いや、ひょっとすると善三も鬼の血筋なのかもしれない。
遠くに善三の家が見えてきた。慌ただしく出入りする村人の姿が見える。もう皆辰之助に鬼虫がついたことを知っているのだろう。家に近づくと戸口から人の笑い声が漏れてくる。当然だろう。皆嬉しいのだ。辰之助に憑いた鬼虫は辰之助やその家族だけでなく、村全体に福をもたらすのだから。期待と興奮の熱気で溢れている家に入る。落ち着かない村人たちの間から、板の間に座って、春先に生まれたばかりの赤ん坊を抱いて微笑むお菊の姿が見えた。この村に住まう鬼の末裔。田畑や川、村人たちに鬼の血を垂らし、恵みと豊穣、命を分け与える鬼使様の血脈を継ぐ女。菊の視線の先に、村の子供たちに囲まれ目をきらきらさせながら話す辰之助がいた。大きな目をくりくりと動かしながら、身振り手振りを交えて弁をふるっている。どうやら鬼虫が憑いたときの様子を語って聞かせているらしい。子供たちは食い入るように辰之助の話に聞き入っている。
ふと、辰之助が話を止め弥兵衛のほうを見た。目が合うと身内を風が通り抜けたような気がして、弥兵衛はそくりと震えた。
「あ、庄屋様」
辰之助は立ち上がり、ぺこりと弥兵衛に向けてお辞儀をする。辰之助の声に、初めて弥兵衛の来訪に気づいた大人たちが口々に挨拶を寄こした。
「わざわざありがとうございます。庄屋様」
辰之助が他人を引き込まずにはおかない、華のある笑顔で言う。
「なんの、盆と正月は毎年来るが鬼はそうはいかん。鬼虫が憑いたそうじゃな。めでたい。本当にめでたいことじゃ。」
本当に聡い子だー
笑顔で挨拶する辰之助を見ながら弥兵衛は思う。鬼の血のせいなのか、それとも善三と菊の育て方がよいのか、辰之助は愛嬌があって優しい性格の子だった。頭もよい。寺の和尚などは、もし鬼使になれなければ自分の師がいる京の寺に修行に出してはどうかと言っているほどだ。京の寺で認められれば道が開ける。広くて大きい、こんな田舎の農村出では決して望めない高い所へと続く道だ。この子なら登っていけるのではないか。分別のある僧侶にさえそう思わせるだけの何かを辰之助は持っていた。
「みんな、ちょっとすまないな。庄屋様に座っていただこう。辰、座布団を」
善三が土間を埋めた村人に声を掛け、弥兵衛はようやく履物を脱ぐことができた。辰之助が運んできてくれた座布団の上にそっと膝を折る。
「おめでとう辰之助、虫がついたんだそうだな。よかったな、善三、お菊。どれ、私にも見せておくれ」
弥兵衛の言葉に辰之助がこくりと頷いて弥兵衛の前に正座する。すっと首を伸ばして弥兵衛の前に顔を突き出す仕草を見せた。弥兵衛は辰之助のツンと形の良い顎先を指先でつまむと、もう一方の手を辰之助の頬の辺りに添える。そっと顔を近づけ辰之助の眼を覗き込む。
「おぉー」
弥兵衛が思わず歓声を漏らす。那智黒石のようだった辰之助の瞳の色が薄い茶染めの色に変わっている。
「朝起きたら小判みたいな山吹色になっとったって」
「さっきは少し空みたいな色に変わっとったよ」
「外にでると墨を流したみたいにすうっと黒くなるんよ」
口々に言い合う子供達の言葉にうんうんと頷きながら、弥兵衛はためつすがめつ辰之助の瞳を覗き込んだ。
猫眼だー
間違いない。辰之助には鬼虫が憑いたのだ。鬼虫が憑くと最初は高熱が出る。高熱が二晩ほど続いた後けろりと治ってしまうのだが、熱が引いた後、虫が憑いた者には分かりやすい外見上の変化が起こる。瞳の色が変わってしまうのだ。体調はもとより感情の高ぶりや天候によって瞳の色がくるくる変わる。色が変わるだけでなく視力が抜群によくなり、暗闇でも見えるようになる。猫の眼になってしまうのだ。傍目に分かりやすいために鬼虫憑きであることが簡単に判別できてしまう。瞳の色以外に、めったにいないが角が生えてくる鬼虫憑きもいると聞いている。色も質感も歯にそっくりで、大きくても子供の小指の先程度のものらしいが、生えて何年か経つと乳歯のようにぽろりと抜け、何度でも生え変わる。抜け落ちた角は珊瑚や真珠にも勝る宝玉として帝や大名たちへ献上されるのだそうだ。辰之助は年齢的にはそろそろ髷を結ってもおかしくないのだが、まだ前髪も落とさず後ろで束ねただけの総髪にしている。ひょっとして角を隠すためではないかという疑念がちらと浮かんだ。掌で軽く頭に触ってみるが、角が生えているような感じはない。
「にしても、すごい眼じゃな。」
弥兵衛は辰之助の瞳を覗き込んだままつぶやく。鬼の持つ力。鬼憑きの血筋。それがもたらすのも。それにひれ伏す者たち。富と力、命と安らぎ。皆が血眼になって欲しがる鬼の力が弥兵衛の鼻先にある。
「すごい。この眼、一晩で?」
弥兵衛は善三を振り返って聞く。善三が無言で頷いてみせる。
「父、辰之助と口吸いしたいんか」
辰之助の顔からなかなか手を離さない弥兵衛に、息子の総太郎が面白そうに言う。周りの子供たちも一緒にげらげらと笑った。自尊心の強さと臆病さがないまぜになったような性格の総太郎は、庄屋の息子ということで敬遠されるせいもあってか上手く村の子供たちと馴染めないでいる。そんな総太郎も辰之助がいると上手く子供たちの輪に溶け込めるようだった。他の子供と分け隔てなく付き合ってくれる辰之助の存在は、総太郎にとってだけでなく、親である弥兵衛と糸にとってもありがたい存在であった。
「阿呆なこと言っとらんと、ちょっとその荷物を取っておくれ」
善三が家から運んできてくれたくれた風呂敷包みを解く。中には綺麗に畳まれた羽織袴と黒塗りの鞘に収められた脇差が入っていた。
「後で辰之助に着せてやってくれ。丈を合わせんとな。その脇差は 辰之助への祝いじゃ。わしの爺様の代にもこの村から一人鬼使が出てな。その時に鬼道院から爺様が拝領したものじゃ」
「ありがとうございます。」
善三と菊、辰之助が深々と頭を下げる。ただ、善三と菊の表情は少し曇っている。当然だろう。弥兵衛が持ってきたのは旅立ちの日に向けた支度の品々なのだ。
弥兵衛は静かに切り出した。
「見ての通り、誰の目にも明らかじゃ。辰之助には鬼虫が憑いておる。町奉行様に届け出ねばならん。」
善三と菊が視線を落とした。鬼虫が憑いた者が出た場合、速やかに町奉行に届け出る決まりだ。届け出はすぐさま京の鬼道院に取り次がれ、村に使者がやってくることになる。虫の憑いた者を鬼使見習いとして迎えに来るのだ。辰之助にはもう旅立ちの日がそこまで迫っているのだ。
「悲しむまいぞ、善三、お菊。辰之助の門出じゃ。村中で祝ってやろう。笑って送り出してやろう」
善三とお菊が黙って頭を下げる。弥兵衛は優しく頷きながら
「わしは明日の朝発つとしよう。夕刻前には奉行所に着く。鬼道院への知らせはその後になろう。院からの使者がやってくるのは早うても二十日くらいはかかろう」
せめて鬼道院の使者が到着するまでの間、ゆっくりと名残を惜しんで欲しいとの思いだったが、鬼道院の反応は予想外に早かった。弥兵衛が奉行所に鬼虫憑きが出たことを告げてから四日後、奉行所の役人が早馬を飛ばしてやってきた。三日後に鬼道院から迎えが来るという。
「我らもこんなに早いとは思わなんだ。何でも位の高い鬼使が文に添えらえた髪を見て、この者を早う呼べということになったらしい」
役人は、鬼道院への使いの者から聞いた話を弥兵衛たちに話して聞かせた。
鬼道院の受付処で長く手間のかかる報告を済ませ、やれやれと帰ろうとする役人の後ろから受付の鬼使が追いかけてきた。
「この髪はそなたが提出したものか」
鬼使はこよりで束ねられた二十本足らずの髪を示しながら尋ねた。虫憑きの届けには証として髪をひと房添えることになっている。鬼使が見ればその髪の主が鬼虫憑きかどうか分かるらしい。役人はその髪を一目見て自分が出したものに間違いないと答えた。役人は預かったひと房の髪を取り違えないよう、髪を束ねるこよりの端に小さく「辰」の字を書いておいたのだ。
鬼使は髪を懐にしまうと、
「副院長様がこの者を早う呼べとおっしゃってな。わしらには分からんのだが、何か感じるものがあるらしい」
そう告げた鬼使はちょっと困った様子で顎をさすりながら
「副院長様は鬼力は強いのだが少し変わったお方でな。とにかく早くこの者を連れてこいとおっしゃる。一度言い出すと聞かぬのだ。実は副院長様は占いがお好きでな。この者を占って何か変わった卦でも出たのかもしれん」
鬼使が溜息をつきながら懐から暦帳を取り出す。一番早い引越し吉日となると今月十五日。辰之助の住む神部村に鬼道院からの迎えが到着するのは一二日。とすると辰之助のもとに迎えが行くまであと六日しかないではないか。慌てる役人に
「もう迎えの使者の準備も副院長から命が下っておる。我らの早馬を貸すゆえ早く報せてやってくれ」
飛ぶように走る馬のおかげで二日で奉行所に帰り着き、奉行への報告を慌てて済ませ、翌日神部村に来たということらしかった。
「なんと、三日後とは」
慌ただしく使者を迎える準備が始まった。その気ぜわしさは辰之助と家族にとってはむしろ良かったかもしれない。別れの寂しさを感じる間もなく時は過ぎ、その日がやって来た。
迎えの鬼使は年の頃二十歳ぐらい、黒い馬に跨り、黒い簡素な羽織に裾を絞った裁付袴、背には斜めに長刀を挿している。多くの鬼使がそうであるように髷は結っておらず総髪の頭に墨染の布を巻き付けて長い髪を束ねている。後ろに辰之助を乗せるつもりなのか、鞍を付けた馬を曳いているがこの馬も黒い。首に下げた鬼使であることを示す数珠飾りだけが朱かった。
遠巻きに村人たちに囲まれながら、辰之助、善三、菊、弥兵衛の四人は家の前に立ったまま馬上の鬼使に向かって頭を下げた。
あの氷みたいな玉は何だろうー 大真珠でも珊瑚玉でもなさそうだしー
辰之助は鬼使の首に掛けられた数珠飾りの中に、氷のように透き通った玉を見つけ、視線を気取られぬよう気を付けながら玉を監察した。真珠よりずっと大きく、珊瑚玉のように赤くも白くもない。もっとも辰之助はそのどちらも本物を眼にしたことはないのだが。
鬼使は四人の前まで来ると、笑顔を見せながら馬を止め、ひらりと地上に降りた。
「鬼道院から参りました青光院雨宮凛静と申します」
鬼使名を名乗り辰之助に笑いかける。
「お前が辰之助か。急がせてすまん。父母に甘える暇もなかったろう」
「いえー」
言葉に詰まる辰之助を見て凛静の笑みが更に深くなる。
「子供が親を恋しがるのは当たり前。恥じることではない」
凛静は馬の鞍から行李を外すと、中から絹にくるまれた小さな箱を取り出し善三に差し出す。
「院長様からの文が入っています。それからこれを」
凛静は懐から小さな革袋を取り出し善三に渡す。大豆ぐらいの粒がぎっしりと詰まっているのが分かる。ずしりと重い。中身は粒金だろう。
「これまで辰之助を大切に育てていただいたお礼です。今日から辰之助は我々が育てます。大和の国の子になるのです。」
善三は黙って手の上の革袋を見つめた。
「それからこれは」
凛静は懐からもう一つ革袋を取り出した。遠巻きにこちらを見つめている村人たちに見えるよう軽く掲げてから弥兵衛に手渡す。
「村のために使ってください。村の皆も辰之助を見守ってくださったのですからね。皆で分けてもよし、田畑を広げるもよし。あなた方のご自由になさってください」
凛静が辰之助に笑顔を向ける。
「さてと、行くか」
えっ、もう?という言葉を飲み込んで、辰之助は不安げに両親の方を見た。菊がおずおずと、
「鬼使様、長旅でお疲れになったことでしょう。汚いところですがお上がりになってください」
凛静は優しく頷きながら
「ありがたいが先を急ぐとしましょう。なにせ副院長様が辰之助とやらを早く連れて来いと駄々をこねておりまして。辰之助の髪の毛を見て何かを感じ取られたご様子。あぁ、それと、もう辰之助と呼ぶのはやめましょう。副院長様が良い名を付けてくださいましたから」
凛静は一旦言葉を切って皆の顔を見渡し、少し得意げな表情で言った。
「龍之。これがお前の鬼道院での名だ。では、これにて。行くぞ、龍之。お前、馬は?」
「い、いえ、乗れません」
「そうか。案ずることはないぞ、馬も剣もすぐに扱えるようになる」
凛静は今日から龍之と呼ばれることになった少年をひょいと抱え上げて馬に乗せると、龍之の後ろに自分が乗った。
「龍之、父母に挨拶しろ」
龍之は堪え切れずにぽろぽろと大粒の涙を流す。別れの言葉は出てこなかった。
「泣くな。暫しの別れだ。正月には里帰りが許される。土産を山ほど抱えて里帰りするのだ。では」
馬が歩き出す。声が届かないところまで来ると凛静が静かに言った。
「寂しいだろうが少しの辛抱だ。すぐに慣れる。俺もそうだった」
龍之は無言でこくりと頷く。
「龍之。良い名だろう?副院長が直々に考えてくださるなんて無いことだぞ。もっとも副院長は考えたのではなく占いで決められたのだが」
「占い?」
「あぁ、副院長は占いがお好きでな。立派な鬼使と育つようあえて厳しい名を付けたと仰っていた」
「厳しい鬼使名なんですか?」
「はは。まあ立派な良い名だぐらいに思っておけ。それに龍之というのはまだ鬼使名じゃない。鬼道院での院生としての呼び名にすぎん。いい鬼風を吹かせる立派な鬼使になれたらお前も青光院の号と相応しい鬼使姓をいただけるだろう。それまではちょっとばかり重たい龍之という名の院生で我慢しろ」
「鬼道院での修業は厳しいのですか」
「はは、お前だけじゃない、俺も含めて皆にとって修業は厳しいさ。それに心配しなくても大丈夫、副院長様の占いはあまり当たらん」と言ってから慌てて「内緒だぞ」と口止めし、馬の歩みを少し早めた。
凛静の言った通り、次の正月に龍之は善三と菊、妹の節が待つ里に帰ってきた。旅立った日と同じように凛静に付き添われているが龍之も自分で馬に乗っている。小袖に羽織、紺色の袴姿だ。同じ年頃の少女が一緒だ。
「ここからはひとりで行けるな?俺は冬那を送ってから自分の里へ行く。四日に迎えに来る」
冬那と呼ばれた少女が少年のように歯を見せて笑う。
「たーんと母に甘えるがいいわ龍之。でも甘え過ぎると院に戻れなくなるかもね」
「甘えたくても妹がまだ赤子だし」
「それじゃ」と手を振って二人と別れた龍之は、神部村へと馬を進めた。村の端まで来ると父と妹を抱いた母の姿が見えた。思わず駆け出したい気持ちに駆られると、龍之の気持ちを読んだのか黒鉄が足を早めようとする。
「どう、どう、ゆっくりだよ黒鉄」
黒鉄は鬼力を持った鬼馬だ。分かったとばかりヒンと鳴いて歩を緩める。馬に乗り始めてまだ数か月。荒れた道で早駆けなどするなときつく注意されていた。父母の姿がはっきりと見えてきた。少し離れたところに弥兵衛と村人達の姿も見える。善三も菊も嬉しそうな表情で泣いているように見えた。
「辰之助―」
そう母の唇が動くのが見えた。「あ、そうか、俺って辰之助だったな」と龍之は思った。
次の年も、その次の正月も龍之は神部村に帰ってきた。帰るたびに父母に一枚、村に二枚の小判を持ってきた。もはや彼を辰之助と呼ぶのは家族だけで、村人は皆「龍之様」か「鬼使様」と呼んだ。
「ただの修業中の院生なんだけどな」
龍之は困ったように笑っていた。
その次の正月に帰ってきた龍之は、四年前、自分を迎えに来た時の凛静と同じ恰好をしていた。黒い羽織に裁付袴。背に長刀を背負っている。首には朱い数珠飾りが下がっていた。馬が2頭見える馬小屋を横切り、この4年で部屋数が一つ増えた生家に上がる。龍之は両親と羽織袴姿の庄屋の息子総太郎、窓や戸口で押し合いへし合いしながら中を覗き込んでいる村に戸たちに向かって手を付いた。
「院長先生から鬼使を名乗ることを許されました。青光院霧澄龍之です。ここまでこれたのも父様、母様、庄屋様、村の皆さんの支えあってこそ。心からお礼申し上げます」
両手を付いて挨拶をする息子の姿に善三と菊は涙が止まらないようだった。妹の節だけがきゃっきゃっと喜んでいる。
「兄、えらくなったの?」
「偉くはないよ。でも大事な仕事を任せてもらえるようになったんだ」
「すごいね、節の兄すごいね」
善三も菊も笑いながら泣いた。
「鬼使様、いつも村のことを気遣っていただきありがとうございます」
紋付き袴姿の総太郎が頭を下げる。龍之は軽く手を振り、
「辰と呼べよ、総ちゃん。それより庄屋様― お父様は…?」
「あぁ、ちょっと具合が悪くてな」
総太郎は笑って答えたが、その表情に微かに走った影を龍之は見逃さない。少しためらうように声を落として言う。
「―良くないのか?」
「あぁ」
「後で家に寄るよ」
「すまん、辰」
夜、龍之の訪問を受けた弥兵衛はげっそりと頬がこけ、堂々としていた体も枯れ木のように痩せていた。龍之の姿に布団の上に起き上がろうとする弥兵衛を押しとどめ、龍之は大きく息を吸い込むと集中した表情で合掌した自分の手を見つめた。数瞬間があって、龍之が手を放すと、手と手の間にぼうっと青白い光が湧いた。
「おぉ―」
初めて鬼力を眼にした総太郎が嘆声も漏らす。
龍之がその光を弥兵衛の背筋に沿って体の中に押し込んでいく。施術が終わると弥兵衛は幸せそうな表情で眠り込んでいた。弥兵衛は翌日目覚めたとき、自力で布団の上に起き上がり、粥を食べられるほどの回復ぶりだったという。龍之は鬼道院に戻るまでの間、村の病人や老人を見舞っては鬼風を吹かせて回った。
「鬼使は命を授けるというが、その意味が良く分かったわ」
この後、弥兵衛はことあるごとにこの話を持ち出しては、西の端の鬼筋を大切にしろと総太郎に言い聞かせた。
次の年の正月も龍之は神部村に帰ってきた。出迎えに出た家族と村人たちは龍之の姿に思わず息をのんだ。美しい金糸銀糸で飾られた着物。彫銀飾りの付いた朱塗りの鞘に収められた長刀。馬の鞍にまで美しい金細工が施されている。善三と菊はその晴れ姿が何を意味するか何となく察しているようだった。
家に上がり帰郷の挨拶を済ませると、皆の間に沈黙が訪れた。それに耐えかねたように母の菊が口を開く。
「辰之助、お前、その姿―」
龍之が母を正面から見る。少し苦労して笑顔を作る。
「春から御門様にお仕えすることになった」
龍之は一旦言葉を切った。
「しばらくは、帰ってこれんと思う―」
帝に使える。鬼使にとって最高の名誉である。鬼力の強さだけでなく人格、教養、武術、あらゆる面で優秀と認められなければ御所に入ることなど許されない。龍之は選ばれたのだ。それはつまり、めったなことでは暇を許されないということでもある。優秀であればあるほど、死か死に近い病でも得ない限り帝の元を離れることは許されない。
「さぁ、こうしてはおれん」
湿っぽくなるのを嫌ってか龍之は立ち上がる。
「父、そこに寝てくれ」
父、母、妹に丹念に鬼風を注ぎ込むと、村の家を端から周り、村人たちに鬼風を吹かせて回る。龍之は眠る以外は施術を行い続け、食事も立ったまま握り飯にかぶりついた。そして最後の家を回り終えた後、やつれた表情に眼だげ金色に爛々と光らせながら、父と母に頭を下げた。
「父様、母様、どうぞお達者で。節、父母の言うことをよく聞いてな」
龍之はそのまま馬に跨り神部村を後にした。
今生の別れ。
誰もがそう思った。が、運命の神はこの後もう一度だけ、家族が再会する機会を授けることになる。ただ、それには二十年以上の時が流れ、時代が明治に改まるのを待たねばならなかった。