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月光恐怖症 (原作:春野天使先生『恐くない幽霊』)



 例えばピーマンを嫌いな人がいて、食べるどころか見るのも嫌だと思ってたとしても、それは「ピーマン恐怖症」とは云わない。それは単なる「ピーマン嫌い」だ。


 では犬が大嫌いな人がいて、犬を見るのも、吠え声を聞くだけでも身がすくむほど苦手だったとしたら、これは程度によっては「犬恐怖症」かもしれない。


「学校恐怖症」というのもある。

 不登校とは異なり、これは対人恐怖症のひとつで、登校時に身体の不調を訴えたり、パニックを起こしたように暴れたり、自分の世界に閉じこもってしまったりする。



 かくいう僕は、ピーマンは大好物だし、好き嫌いはほとんどない。

 犬は小さい頃飼ってたし、散歩は僕の担当だった。

 学校にはインフルエンザとノロウィルスに罹ったとき以外は小・中・高と皆勤賞に近かった。



 そんな僕も今年で二十歳になるが、いまだにひとつだけ克服できない“怖いもの”があった。


 そしてこの“恐怖症”は、たぶんこれは、努力や治療でなんとかできるようなものではない……。




 まぁ、それはそれとして――。




 世の中全く奇妙なことが起こるもんだ。



 たいがいのことでは驚かない僕なのだが、これにはほんの少し驚いた。


 そして、あきれた。





 昨日から降り始めた雨が今日も降り続いている。


 僕としたことがうっかりしていた。ゼミの発表の準備で帰宅するのが遅れた。


 冬の日暮れはやっぱり早い。雨が降っているともなると、夕方はもう真っ暗だ。


 僕はいつも使ってる特大サイズの黒い雨傘を差して家路を急いだ。



 僕が住んでいる寮の近くの、川縁の歩道。


 街路樹は柳の木だ。


 この辺りの町並みはとても古くて歴史がある。川縁の歩道もずいぶん古くからある道を最小限の舗装でそのまま使っていると聞いたことがあった。



 独特の、肩胛骨から首筋に抜けるぞくりとする感触――空気の変化を感じた。



 云っていなかったが、僕は霊感が強い。体質的に、金縛りにもよく遭うし、交通事故の現場などではリアルな、見分けのつかないような亡者の姿を視ることもある。そういった“瘴気”の多い場所では頭痛や、吐き気に見舞われることも多々あった。

まったく不便な体質だと我ながら思う。


 そう。

 霊視能力ってのは、能力ではなくてやっぱり“体質”だ。


 静かに音もなく降りしきる雨の中。


 柳の木の陰ら辺に、空間のゆがみのような、昏い、白っぽい影が見えた。



 女だ。

 年齢は分からない。

 酷い怪我をしている。


 顔面は二つに割れ、つぶれた眼球が頬にこびり付いている。


 多量の血液で凝固した長い黒髪がごわごわと不自然なヘアースタイルを形作っている。

 左の肩から鎖骨にかけては完全にひしゃげており、左腕はかろうじて外れずにぶら下がっている、といった具合だった。


 僕の足が止まった。


 立ち止まろうと思って止まったのではない。勝手にストップさせられたのだ。


 僕は機嫌が悪くなる。


 いつものことだが、無差別な霊障なんて止めて欲しいと思う。

 テロである、こんなもん。


 いや、無関係じゃなくても(以前は僕の五代前の先祖の悪事が原因で祟られたことがあった)、成仏せずにタナトスでネガティブなエネルギーとして現世にこびり付いているこれら“幽霊”の存在を、僕は嫌悪し忌み嫌っていた。


 女の幽霊は、僕の方に潰れていない右目の眼球を動かして、視線をくれた。


 僕は苛立ちを目力に込めて睨み返した。


「……ぅ……っ」


 気のせいか、幽霊はたじろいだかのように見えた。


(――消えろ――っ!!)


 僕はありったけの敵意を込めて心の中で念じた。


「……ひぃ……っ!」


 今度は明確に、たじろいだ。


 僕は辺りを見渡して他に通行人がいないのを確認して、女幽霊に告げた。


「どけ」


 我ながら、ドスの利いた低い声が出た。


「お前が邪魔してるんだろ。俺は本気で急いでるんだ。通せ」


 幽霊の表情に怯えの色が走った。


「……あの……」


 幽霊は、腐ったトマトが腐敗ガスを出すときのような弱々しい声でつぶやいた。


「なんだよ」


「い、いえ、あの……」


 見ていてイライラする怯えた崩れ果てた顔面で、聞いてて殺意を覚えるような声を出す。


「わたし、……恐くないでしょうか……?」


「どけろ。俺は急いでるんだ。どけ」


 幽霊の意味不明な質問には取り合わずに僕は力ずくで幽霊の潜む柳の木の前を通過しようとする。


――が、


 動けない。


 情けない顔と声をしているが、この地縛霊、そこそこの霊力は有しているようだ。



 僕は内心かなりの焦りを覚えていたが――僕は一刻も早くアパートの部屋に戻らなくてはならないのだ!――地縛霊の方を睨み直して云った。


「何の用だよ。俺は急いでるんだ。悪さするんなら他を当たってくれないか」


「すいません……わたしも、焦ってるんです……」


「死んだ人間が、何を焦ることがあるんだよ。さっさと昇天しろ、この腐れモンが!」


「ひっ……酷い……」


「家路を急いでるだけの善良な通行人を強制的に足止めさせてる地縛霊に酷いなんて云われたかないな。さっさとどけこの破れ雑巾!!」


「ぅっ……うっ……っ!!」


 地縛霊は、僕の悪態に耐えかねて嗚咽を漏らし始めた。鬱陶しいことこの上ない。


「…………わかった。俺は急いでる。しかしお前がどうしてもなにか云いたいのなら、さっさと云え。用があるんならさっさと済ませよう」


 まだ雨は降っている。このまま雨がやまなければ心配は杞憂に終わるが、もし雨がやんでしまったら……俺が最も恐れている状況になってしまう。


 想像しただけでも身の毛がよだち、悪寒が走るような気がした。


「じ、実は……」


 幽霊はすがるような目で僕を見て、云った。


「わたしを見て、怖がってもらえないでしょうか……?」


「……は?」


 女地縛霊は絶命寸前のカラスのような声で事情を説明し始めた。



 無理矢理急かして聞き出した内容はこうだ。


 女はもう二百年も前に、貧しい家の食いぶち(子どもが七人もいたらしい)を減らすために自ら命を絶ったらしい。高い崖から身投げして顔面と左肩から地面に激突して死んだ。

 しかし自殺した者の魂は自然には成仏できず、なんだかんだで、生前思いを寄せていた男と逢い引きをしたこの柳の木の下に想いが縛られて地縛霊になったそうだ。


「……で、成仏するための条件に、108人の人間を怖がらせないといけないって……脈絡がねぇな」


「生きている人との繋がりを通じて、地縛の“厄”のようなものを、払っていただく必要があるのです。難しく云うと、生者の和魂にぎたまを以て死者の荒魂あらたまを中和する、という……」


「ややこしい話は聞きたくねぇっつってんだよ! ――だから! 俺は幽霊とか驚かないんだ。慣れてるんだ! だから驚けって云われても驚けねぇんだよ!」


「わたしだって、別の方に頼れるなら待ちますよぉ……。もう二百年も待ってるのですから。……でも、今回の満月の今宵までに108人目に達しなければ、わたしは永遠に現世に囚われ、転生することも叶わなくなるのです……!」


 幽霊は必死だった。


「今宵、貴方のような霊を視ることの出来る御方にお逢いできたのは、まさに千載一遇の機会なのです。この機を逃せば、もうわたしは現世を彷徨える無意味な人魂に成るしか御座いません。どうか、どうかわたしを助けると思って――お力をお貸し下さいぃ! 助けてください……ぃっ!」


 まったく、鬱陶しいことこの上ないと正直思っていた。だが、この江戸時代から紙魚のように現世にへばり付いてるこの女幽霊を成仏させて、可及的速やかにこの場を離れ、自分のアパートまで帰ることが、今の僕のとっては最優先すべき事柄であることは間違いない。


 激昂しそうになる自分の感情を、理性を総動員してコントロールし、――だいたい今日は昼間からいつもと調子が違っていたのだ――僕は、地縛霊に協力してやることにした。


「わかった。協力する」


「ほ、本当ですか……! ありがとう御座います、……助かります……!」


 僕は一度川の方を向くと、それからゆっくりと幽霊の方を見た。


 潰れた方の眼球を観察する。

 眼窩の奥からはみ出した、灰色に濁った汚いプラスチックのような目玉が崩れた顔面に張り付いているのはなかなかに不気味だと思った。

 僕は、


「うわあぁ!」


 と叫んで、傘を持ったままその場に膝をついた。


「キショ……じゃなかった、コワ……!」


 自分ではできる限り怖がったつもりだった。


 だけど、幽霊に変化は訪れない。


 幽霊は、恨めしそうな視線で僕を見下ろしている。


「……駄目、です……。本気で怖がってくれませんと……」


 僕は頭にきた。


「無理! どけ、もう協力せん!」


「ああっそんなご無体な! 見捨てないでくださいまし!」


「知るか! 離せっ! 俺は一刻も早く家に帰らないといけないんだっ!!」


「堪忍してくださいよぉ! お願いしますぅぅ!!」


 馬鹿な押し問答だ。くだらない! しかし、これ以上時間がかかるのは本気でマズイ。


「……あ」


 雨が――!


 雨足が弱くなってきている――!?


 空を見る。

 日が沈んだ暗い夜空。

 雨雲に、切れ間がある――!


 僕の全身を恐怖が貫いた。


「あ……あ……ッ!」


 見てしまう。

 浴びてしまう。

 遮るものが、ない。


「……あ、貴方、今とてもいい表情をされていますよ……! その調子で、怖がってくださいまし」


 幽霊の言葉は、ほとんど僕の耳に入ってきていなかった。

 僕はすでに軽くパニック状態だ。


 僕は、

 月が、怖いのだ――


 やばい。

 急げ。

 空を見るな、傘で守れ。



 しかし――――


 幼い頃の記憶がフラッシュバックする。


 雨傘ぐらいでは、本当は防ぐことなんてできないのだ。


 完全遮光の厳重カーテンをしている自室の中に入らないと、――――あの時のようになってしまう!!


 脳裏をかすめる、血飛沫と絶叫の記憶――



 そして、



 雨が上がった。


「うわあああぁっっ!!」


 僕は恐慌状態に陥りつつあった。

 まだ、身体は自由には動けない。

 この腐れ女が呪縛してやがるからだ!!

 幽霊は、そんな僕を期待の眼差しで見つめているようだった。

 怒りが頂点に達した。


「離せぇこのやろおぉぉ!!」



 満月の光。



 柳の枝が、雨上がりの風に吹かれて揺れる。



 僕の目に、幼い頃に見たっきりの、まん丸の月の光――満月の――月光が――目に入った。


「ぐわああああああアアっッ!!!」


 凄まじい声が僕の喉から迸っていった。


「ぐうう、ぐあああ……グ……グワアアアあああッッ!!」


 恐怖にゆがむ、僕の顔。

 恐怖に硬直する、僕の身体。


 意識が、遠くなっていく――


(――ありがとう、御座いました……!)


 そんな声が聞こえたような気がした。


 倒れ込んだ僕の視界に、女幽霊の安らかな表情が見える。


 崩れた顔や飛び出した眼球は元どおりになり、生前の、古い美人の顔つきの女がゆっくりと僕の方にお辞儀をしているのが見えた。


 でも、そんなこと気にしている余裕はない。


 意識が、僕の意識が――!


(グウウ……グウウウ……!)


 僕の声ではないような声が、僕の喉から発せられている。


 魔獣の、咆哮。


 嫌だ。


 変わりたくない。


 あんな風になって人を殺しまくるのはもう嫌だ……!


 僕の右腕にはびっしりと毛が生えてきていた。


 顔もだ。獣のように、黒い剛毛が全身を覆っていくのが自分でもわかる。


 衣服の下に、毛がみっしりと生えていく感覚が妙にリアルで――



 僕は、僕でなくなるのだ。



 満月の光の下。



 血を求める狼男に変化した僕はこのあとどんな行動に出るのだろう。



 頼む、

 あの時のように、

 人を殺しまくることだけは、

 やめてくれ――っっ!!








 『月光恐怖症』  完








いかがだったでしょうか?


原作者様のリメイクに際してのご要望は、「もう少し個性的な主人公にして欲しい」、「オチを毛虫以外のものにして欲しい」という2点でした。

登場人物の差し替えなどはせず、主人公も幽霊も、基本的な性格はそのままに、個性を煮詰めるというか捻って膨らませてみました。

オチについては……皆様のご感想をお待ちしております(笑)。


お読みいただきありがとうございました!


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― 新着の感想 ―
[一言] うん、面白かったです。 二人の掛けあいが軽妙でいて絶妙でした。結末もストンと落ちていて楽しませてもらいました。 やや地の文が堅く、会話の方と印象のギャップがあった気もしますけど(私だけかも?…
[一言] リメイクありがとうございました! 最初はただ月光が怖いだけなのかと思ってましたが、そういうオチだったんですね! 考えつきそうで考えつけないオチでした。良いオチだったと思います。幽霊さんは変身…
感想一覧
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