序章
彼女は誰よりも自由を求めていた。
他人が聞けば、それは高望みだときっと呆れるだろう。事実、彼女は屋敷の中に鎖で繋がれているわけでもなく、用を足すにも使用人の付き添いを必要としているわけではない。彼女は屋敷の中を自由に歩けたし、時には外出する事もあった。それでも彼女は、己を不自由な身だと信じて疑わなかった。彼女は屋敷にある勇者の冒険譚を、特に好んで読んでいた。その影響があったのかもしれない。あるいは彼女は、屋敷の外に出る事は許されていたが、外の人間との接触は禁じられていた。その影響が大きかったのかもしれない。いつしか彼女は、誰よりも自由を欲するようになっていた。
ここは、アシュー大陸の南西部・ローガ地方。その中央に位置するアルメラ山脈の南端にそびえるポークン山。ものがたりは、この麓の農村から始まる。
村はずれの小高い丘に建てられた白亜の屋敷。その屋敷を訪ねる村人はいない。これまでも、今日も、そしてこれからも。
「見て、サンチョス! 今日の獲物はウサギが三匹よ!」
屋敷の裏手から快活な女性の声が響く。そこには声の主を思しき若い女性と、薪割りをしていた背の低い中年男性がいた。
「あぁ……お嬢様、またドレスを汚されて……」
中年男性の視線を追うと、見目麗しい女性が立っている。午後の日差しを受けて輝く栗色の髪と、つり上がった大きな瞳が印象的だ。その姿を見ると、純白だったと思わせるドレスは泥と草の汁に塗れていて、膝のあたりは擦れて破けていた。右手には大型のブーメランを持ち、この日の成果を誇らしげに左手で掲げる姿は、『お嬢様』と呼ぶよりさながら『野蛮人』の様だ。
「ドレスが汚れるのはいつもの事じゃない?それを分かっててドレスしか用意しないサンチョスの方に、問題があるわ」
鼻の下をブーメランを持った小さな手でこすりながら、彼女は異議を唱える。それに対して、サンチョスと呼ばれている男が、自身の正当性を主張する。
「ドレスを着たまま、狩りに出かけるお嬢様が問題です!」
「あら、この前読んだ本には『狩りには正装で臨むのが、淑女のあるべき姿です』と書いてあったけど?」
彼女はウサギ達をサンチョスに投げ飛ばしながら、さらなる反証を試みる。サンチョスは持っていた斧を手離して、ウサギ達を抱きかかえる。
「淑女はブーメランを担いで狩りなどしませんよ……?」
サンチョスの主張に、彼女は頭を抱える。
「サンチョス! あなたまで私に口うるさく言うの?」
「……その、もう一人の『口うるさい』方が帰っていらっしゃいますけど……?」
折れない彼女に観念したサンチョスが、事後報告でお茶を濁す。突然の吉報に、驚きを隠さない彼女。
「それを早く言って!」
慌てて屋敷に入る彼女が、思い出した様に顔だけ扉から出す。
「この事はナイショよ、サンチョス」
「解っておりますよ」
微笑むサンチョスの顔を見て、和解が成立した事を確認した彼女は、サンチョスにとびきりの笑顔を置いてその場を立ち去る。
「さて……」
階段を駆け登る彼女を見つめていたサンチョスは、視線を胸元のウサギ達に向ける。
「今夜は御馳走だな」
大慌てで自室に戻り、さっと着替えを済ませた彼女は、何事もなかった様子で客間に続く階段を降りてきた。その佇まいは凛として、ガラス細工の様な脆さと美しさを垣間見せていた。きれいに洗われた顔は白磁の様に透き通っており、それが唇にさした深紅の紅を一層引き立てていた。
客間には彼女を待っていたであろう男性が一人、冷めかけていた紅茶を一口だけ口に含んでいた。
「お帰りなさいませ、ドクター・ジーク」
彼女はジークと呼んだ男に挨拶をする。その姿は貴婦人の様でもあった。その貴族式の挨拶を、ジーク博士は溜め息を吐きながら受け止める。
「慣れない事をすると、ボロが出るものだな……」
『博士』という称号が似つかわしくない程に若く見えるジーク博士が、こめかみに手を添えながら呟く。
「はい?」
聞き返す彼女の両足を指差すジーク博士。
「スカートを上げ過ぎたな、マイネ」
はっと何かに気付かされた彼女は、スカートを捲り上げて、自分の両膝についた擦り傷を確認した。
「あちゃあ……」
彼女ーーマイネーーは、思わず頭を抱える。
「また狩りにでも出かけていたのか?」
ジーク博士の尋問に、苦笑いを浮かべるマイネ。
「あ、サンチョスが忙しそうだったから……そう、私は手伝ってあげたの!」
必死に弁解するマイネを、ジーク博士は冷やかに見つめていた。
「マイネ……」
ジーク博士が口を開くと、マイネの背筋が硬直する。
「お前の力を解放させてはいないな?」
ジーク博士の問いかけに対して、マイネは背筋だけではなく表情さえも硬直させる。
「つ、使ってないわよ! 今日はね……」
ジーク博士が再び溜め息を吐く。
「マイネ……お前はまだ、ストーナーとしての自覚が無い様だな……」
「……」
ジーク博士の言葉に、マイネは返す言葉も無かった。
ストーナー(Stoner)とは精霊王の血をひく、肉体をもって生まれた精霊である。アシュー大陸では、精霊はマナが集約されて自然発生的に誕生される。その中で数パーセントのマナが、肉体を持つストーナーとして誕生するとされている。
「いいかい、マイネ。お前が生を受けたこと自体が、アシュー大陸の奇跡なんだよ?」
「それは何度も聞きましたわ」
マイネはジーク博士の言葉に、若干の鬱陶しさを感じていた。
「私、マイネが生まれた事が大陸の奇跡であり、私こそが大陸の至宝……なんでしょ?」
マイネは、ジーク博士が口癖のように言い続けている言葉を、まるで呪文を唱える様に呟いた。
「その通りだ」
ジーク博士が静かに頷く。「だからこそ」と、博士は俯きながら言葉をつなぐ。
「お前は、自分の能力が他のストーナーよりも優っている事を自覚しないと」
「そんなの無理です!」
マイネがぴしゃりと言い切る。
「だって、私は自分の力を使う事も許されず、屋敷の人間以外と会う事すら許されていないんですよ? どうやって自覚しろとおっしゃるのですか?」
マイネは大きな身振り手振りで、やや芝居がかった長台詞を吐きながら、ソファに座っているジーク博士に迫る。ジーク博士は視線を落としたまま、マイネの反論に動じる様子を見せない。
「このままでは、私は箱庭で安穏と暮らすコマネズミと変わりませんわ!」
動じる様子を見せないジーク博士を無視する様に、一気にまくしたてるマイネ。その言葉が途切れると同時に、ジーク博士は顔を上げる。
「見事な演説だな、マイネ」
皮肉っぽい笑みを唇の端に浮かべるジーク博士。
「……で、コマネズミが望んでいるものは何だ?」
「自由です」
皮肉を言い放つジーク博士に、物怖じせずに要求を告げるマイネは、矢継ぎ早に要求の詳細を語り出す。
「外の人と話す自由、好きな所に出向く自由、そして……マスターを選ぶ自由です」
ここアシュー大陸では、一般的に人間より強大な能力を持つストーナーに対して、いくつかの『枷』が用意されていた。その一つが主従制度である。ストーナーは、一人の主人に絶対的な忠誠を誓い、仕える事で、その能力を主人の命令以外で行使する事を制限されている。そうした教育は、ストーナーが幼児期に徹底して行われる。
「……マスターを選ぶ事が、自由になるとは限らんがな……」
ジーク博士は、怨嗟を込めて呟いた。
ジーク博士の『博士』たる所以は、ブリーダーとして確固たる地位を獲得した事にある。ブリーダーとは、ストーナーの育成と教育を生業にするものを指す。ローエンマイヤー=ジークと言えば、『四大ブリーダー』の一人として、アシュー大陸にその名を轟かせている程の大人物である。当然、これまでに幾人ものストーナーを輩出していたが、その多くが戦禍に巻き込まれて、貴重な命を落としている。生存が確認されている者でも、主従制度という枷につながれて、決して人生を謳歌しているとは言い難い状況下にあった。それを知っているからこその、怨嗟の呟きだった。それに対して、「でも」とマイネは再び反論する。
「マスターの為にその生涯を賭ける人生なんて、素敵だと思いますわ!」
マイネはティーポットの置かれたテーブルに手をつけ、前のめりになってジーク博士に迫る。
そんなものは人間側が作り出した幻想でしかない、そう言いかけたジーク博士は、マイネの真摯な眼差しに、思わず言葉を飲み込んだ。そしてジーク博士は熟考を始める。その姿を見たマイネは、ジーク博士が発する次の言葉に、淡い期待を抱き始める。
「……それならば……」
しばしの沈黙の後、口を開いたジーク博士が、慎重に言葉を選びながら、その言を続ける。
「ひとつ試してみようか?」
ある提案を胸に秘めたジーク博士を、マイネは怪訝な表情で見つめる。
「お前の生涯をかけて仕えるに相応しい人物がいるのか、その目で確かめてみると良い」
ジーク博士の提案に、テーブルから手を離し肩を落として落胆するマイネ。
「今さら、披露式典でも催そうとおっしゃるのですか?」
吐き捨てる様なマイネの物言いに、ジーク博士は反射的に上体を仰け反らせる。
披露式典とは、ストーナーが成人した際にマスターとなる者を選ぶ為に開催されるパーティのことである。特殊な事例を除いて、ストーナーはこの式典に参加した者の中から、自身のマスターを選ぶことになっている。
上体を仰け反らせたジーク博士の姿勢を、反論と捉えたマイネは、自らの提案を示すべくさらに言葉をつなぐ。
「あんな退屈な事をされるのなら、私に暇を戴けませんか?」
「何を企んでいる?」
ジーク博士は姿勢を元に戻しながら、両肘を膝の上に乗せる。
「暇を戴けるのなら、大陸中を歩いて博士も納得されるようなマスターを探してみせますわ!」
大見得を切ってみせるマイネを、ジーク博士は溜め息まじりに見つめる。
「またその話か……」
今度はジーク博士が、肩を落として落胆する。
「何度でも言いますわ! 私は旅に出たいです! この目で、もっと世界というものを知りたいです!」
ジーク博士は無言でマイネを見つめる。マイネも負けじと、ジーク博士を見つめる。
「旦那様!今晩はウサギを料理しますが、塩焼きと香草焼きのどちらになさいますか?」
緊迫した客間の空気を、サンチョスの一言が打ち壊す。笑顔だったサンチョスの表情が、客間の情景を見て凍りつく。それと同時に、ジーク博士とマイネの間に流れていた、緊迫した空気が一気にほぐれていった。
「もう、サンチョス!」
マイネがサンチョスに苛立ちをぶつけると、ジーク博士は「香草焼きを頼む」という一言を残して、二階に続く階段へと歩き始めた。
「待ってください博士、話は終わってませんわ!」
冷静を努めようとしたマイネだったが、苛立ちが言葉の端から覗き見える。
「その話なら、もう結論が出ているはずだが……?」
ジーク博士がマイネを一瞥しながら、念を押すように告げる。その迫力に負けたマイネは、返す言葉も出なかった。それを確認したジーク博士は、階段を登って行く。マイネには、黙ってそれを見届けるしかできなかった。
その日の晩餐は、ジーク博士の注文通りにウサギの香草焼きが食卓を飾った。使用人のサンチョスが腕をふるった料理を、機械的に口へと放り込むジーク博士とマイネだった。二人とも何も語らず、ただ食器の当たる音だけが、広い食堂に響いていた。
「旦那様、ワインはいかがですか?」
この雰囲気に耐えきれなかったサンチョスが、ついに声を上げる。
「あぁ、いただこうか」
落ち着いた口調でジーク博士がグラスを差し出す。博士の左側に座っていたマイネも、突然グラスをサンチョスに差し出す。
「サンチョス、私にもちょうだい」
「飲み過ぎだぞ」
棘を含んだ物言いで、マイネをたしなめるジーク博士。桃色に染まった頬をしたマイネが、ジーク博士を睨みつける。
「誰のせいで、こんなに呑んでると思ってるんですか?」
ほろ酔い加減のマイネは、とうとうジーク博士にくだを巻き始める。
「まったく……自由なんて、あったもんじゃないわ! 何が自由よ!」
ジーク博士のグラスに注いでいたワインが、ここで途切れてしまい瓶が空いた事を知らせる。
「お嬢様、ちょうど空いた事ですし、そろそろ他の物にしましょうか……?」
「サンチョス! すぐにワインを用意しなさい!」
酔った勢いで、サンチョスを怒鳴りつけるマイネ。サンチョスはちらりとジーク博士に視線を送る。
「サンチョス、水を用意しなさい」
サンチョスの視線に気付いたジーク博士が助け舟を出すと、「ただいま」と言ったサンチョスが、足早に厨房へと駆け込む。
「サンチョス!」
マイネの呼び声虚しく、サンチョスは厨房へと姿を消した。
「もう……人生って、こんなにも退屈なものなのかしら!」
乱暴にワイングラスをテーブルに置きながら、マイネは語気を荒げて呟く。ジーク博士は、マイネを静観している。
「世界は広いというのに、私が行けるのは屋敷が見える範囲だけ……」
それまで語気を荒げて語っていたマイネだったが、急に己の境遇を悲観して涙声になる。堪りかねたジーク博士が、マイネに問いかける。
「それほど、つまらない人生か?」
「つまりませんわ!」
マイネは椅子から飛び跳ねるように体を起こして、ジーク博士に即答する。
「何もない人生にこそ、本当の幸せがあるという見解もあるんだが……?」
「そんなものは、人生をおりた老人の言葉ですわ」
ジーク博士の問いに、吐き捨てるように答えるマイネ。
「私はただ、自分の生まれた意味を感じたいだけですわ……」
ころころと表情を変えるマイネが、再び涙声に転じる。
「……少し、過保護が過ぎたかな……」
ジーク博士が初めて、マイネに対して憐憫の情を見せる。それを見たサンチョスが、思わず息を飲み、食堂に戻るのをためらう。
「他の子に叶えてやれなかった、自由というものを満喫してから、マスターを見つけるのも悪くはない……か……」
ジーク博士の独り言を聞き流していたマイネが、ようやく意識を博士の言葉に向ける。
「マイネ」
「はい?」
「その目とその耳で、『世界』というものを感じてくると良い」
「それは、つまり……?」
この晩餐で初めて、マイネの表情が明るくなる。
「あぁ、マスターを探す旅を認めよう」
ジーク博士の観念したような言葉を聞いたマイネが、破顔一笑して歓喜の声を上げる。
「やったー! ありがとうござます博士!」
ジーク博士に抱きついて感謝の言葉を述べたマイネは、そのまま厨房で見守っていたサンチョスに駆け寄って、その手を取ると小躍りを始める。ジーク博士は溜め息を吐いてマイネを見つめていたが、その表情はどこか嬉しそうだった。
数日後、ジーク邸の前には、すっかり身支度を整えたマイネが立っていた。
「サンチョスー! 早く荷物をおろしてちょうだい!」
マイネが門前から声をかけると、サンチョスは大きな旅行鞄を引きずりながら、階段を降りてきた。
「お嬢様、これは荷物が重すぎるんじゃありませんかね?」
息を切らせたサンチョスが、マイネに尋ねる。苛立った様子で、マイネはサンチョスから旅行鞄を取り上げると、それを片手で引っ張りあげる。
「このくらい、どうって事ないわよ?」
「お嬢様がストーナーだったのを、すっかり忘れていました……」
ストーナーの人間と異なる特徴の一つに、このような身体的能力の高さが挙げられる。
不意に、マイネが周囲を見渡す。
「どうされましたか?」
それに気付いたサンチョスがマイネに尋ねると、マイネは肩をすくめて答える。
「ううん。しばらく、この風景ともお別れと思うと……ね……」
感慨深げな表情を浮かべるマイネ。それを見つめるサンチョスの目に、うっすらと涙が浮かぶ。
「出立の日に、もう泣き言か?」
玄関から、ジーク博士の声が響き渡ると、マイネとサンチョスは玄関の方へと目を向ける。
「そんな事はありませんわ」
強がるマイネだったが、その瞳は涙で潤んでいた。
「ならば、なぜ泣く?」
尋問に似たジーク博士の言葉が、矢継ぎ早に続く。その言葉をマイネは、いつになく真摯に受け止める。
「これは、歓喜の涙というヤツですわ!」
気丈に笑顔を振りまくマイネを、ジーク博士は頼もしそうに、サンチョスははらはらとしながら見つめていた。
「それならば、送別の言葉は不要だな?」
「はい!」
ジーク博士を真っ直ぐに見つめて、マイネが即答する。しばしの間、マイネとジーク博士は視線だけを交錯させる。
「……それでは、行ってきます!」
マイネはジーク博士にお辞儀をしてから、サンチョスに微笑んで門を力強く開いた。
そんなマイネを、ジーク博士は無言で見送る。サンチョスは堪えきれずに涙を落としながら、マイネに手を振り続ける。
「お嬢さまーっ! どうかご無事でー!」
サンチョスの叫び声に気付いたマイネが、一度だけ振り返ると、すぐに前を向いて手を振りかえす。
「その目とその耳で、『世界』を感じてみるがいい、マイネ」
朝日を背に受けて、しっかりと歩を進めるマイネに、ジーク博士の言葉は届かない。