八年前
一年以上前に書いた作品です。現在執筆中の作品の代わりに投稿してゆく予定です。
赤い炎が煌々と燃えていた。
火の粉が遥か天を目差して爆ぜ散ってゆく。その熱風が自らを揺らすたび、不快な匂いが広がった。次いで、何かが焼ける音もする。
広場に飾られた油絵が引火した。清潔だった筈の広場も、今や二つの赤が織り成す空間へと変わっていた。空気を歪める灼熱と、鉄錆の匂いをばらまく鮮血だ。
「熱い……」
惨状となった広場の中心。熱気に相反する冷たい声が響く。声の主は八歳ぐらいの少年だった。温かい橙色の髪を持つ幼い子供だ。しかし、その両目は一切の光を宿していない。
少年は不意に涙を流す。
「どうして。……何で…………?」
炎の燃焼より小さい呟きを聞く者は誰もいない。少年はここに両親と共に来ていた。
――その二人はすぐ近くで横たわっている。物言わぬ、亡骸の状態で。
両親には致命傷と思われる深い切り傷があった。そこに意志を持ったかの如く炎が注ぎ込まれる。間もなく発火。二人の体は燃え上がり、人が焼ける音がまた生まれた。
「う……ぇ……」
二人の死を確信し、子供が血で赤くなった広場を這い始める。その幼い眼は再び雫を流していた。数多くの死体を押し退けて生き延びる行為に、無限の恐怖を感じる。
炎から生暖かい風が生まれる。少年の顎下に落ちた水滴も、高温に晒され気体に変わろうとした。
不意に水滴が翳った。
何かが光を遮ったのだ。紅に染まった床が影で黒くなっている。
少年は頬に涙の跡を残したまま、最後の気力で顔を上げる。残された体力はあと僅か。気を失うのも時間の問題だった。
見上げたその先で、真紅の炎が二つに分かれていた。高い密度で編まれた業火が左右で揺らめいている。透明な隔たりが遮っている様だった。
中心には、屹立する一つの人影。その小さな体格からして少年と同年代に近い。
灼熱の風に黒い柳が揺れる。長い黒髪だ。また、人影はドレスのような格好をしている。
眼前に立ち尽くしたのは、一人の少女だった。
「…………」
少年は思わず声をかけた。しかし、喉が上手く震えず、音を出すことを拒んだ。
掠れた呼吸の最中、彼を見下ろす少女は静かだった。
直後。きぃん、と高音が周辺に響く。
黒衣の少女の周囲には神秘的な光景が広がっていた。何もかも燃やし尽くす火炎が、少女を意図的に避けているのだ。その姿は神々しくて――――異常の塊だった。
万物の一つである炎。それさえも恐れる程の威圧感を少女が放っている。幼いたった一人の少女が、だ。
時に光が周囲を照らした。炎によるものではない、もっと神聖で輝かしい光だ。
光は少女を中心に展開している。それは少女の肩甲骨の辺りから広がっていた。まるで天使が持つ翼のようだ。徐々に光は拡大して、ついには少女の数倍の大きさになる。
光の穂先が炎に触れた。直後、炎はガラスの如き細かな破片と化した。そのまま炎は空気に溶け込み、その存在を完全に消す。
少女は、炎を超えた化け物だ。それを少年が察する。だが、正体を知ったとしても、少年には逃げ場がない。
「ぁ………………」
少年の右手が動く。その手は助けを請うかのように、黒衣の少女へと伸びていった。
灼熱に堪える姿はとても痛ましい。伸びた手が少女を求めていたのは確かなはずだ。
黒衣の少女はそれでも無言で少年を見下ろしていた。身体も微動だにしていない。一見、人形が立っているかのようだ。だが、人形は翼を生やさない。炎を、壊せない。
視線をぶつける少年。少女はそこで初めて動揺した。表情が微細ながら変化したのだ。
「*****」
少年が残された力で何かを告げた。発せられた言葉は力ない呟き程度だった。けれども、少女は確かに反応する。
そこで少年は限界を向かえる。瞼が重く閉じ始めた。体中が言うことを聞かない。
やがて目前が真っ暗になる。
少年の体が温かさに包み込まれた。擦り切れた意識の中、安らぎを感じられる。それが炎による死の世界への誘惑だろうとも、少年を咎める者はもう誰もいない。終末を感じさせながら、安らぎが溢れる世界。そして憎しみが渦巻く場所で、彼は眠りについた。
何かを求める手を伸ばしたまま。
その何かが、救いか、はたまた別の何かかは、誰にも分からない。
――八年後の、彼自身でさえ。
そして、鐘は響く。
塔樹街の第三層。ある貴族が設けた宴で、悲惨な事件が起こった。
『神名殺し』。その名の通り、神を殺した事件だ。だが、神と言っても、正義をかざす純粋な神ではない。悪の根源である、穢れた魔神である。
神と魔神が争う時代。神と人の天敵である魔神の中には、人の姿に化ける者もいた。人々は彼らを忌み嫌い、蔑んだ。やがて感情は限界を迎えて爆発する。
その矛先が『神名殺し』という名を持った。この事件で魔神たちは一掃という名の虐殺を施された。無論、その魔神たちを匿った者たち諸共。
しかし、人々は知らない。
人に化けた魔神達は、神との争いに疲れた者だったことを。魔神達は、ただ静かに暮らしていたかったのだ。例えその身が汚れていたとしても、手を差し伸べてくれる人はいる。
結果、更なる被害が人々を迎えた。同胞の死に憤慨した一部の魔神が、無差別に人々を襲撃し始めた。襲撃による死傷者は多数に及んだという。
また、『神名殺し』には奇怪な噂が存在する。魔神一掃に携わった騎士達が述べた話だ。
あの虐殺の宴の場には、魔神のような黒衣を身に纏った神、『黒衣の死神』がいたという。
そしてもう一つ。魔神も人も全て死んだというが、たった一人の幼い子供が生き残ったらしい。橙色の髪をした少年、名はラウネ・ユースティティア。彼の父は普通の人。だが、母は人の形をした魔神であった。
――当時の魔神信仰者、及び関係者の中で唯一生き残った少年。彼は人間と魔神の存在が半々に入り混じった、混血だった。
次回は数日後に更新しようと思います。