第六五話
溢れかえっていた霊魂がどこか一カ所へ向かっていったかと思うと、突然嵐が来た。
嵐といっても雨風乱風ではない。
花びらや木の葉、雪の結晶から蛍のような光まで。
ことり達の間をすり抜けるようにして、不可思議な嵐が過ぎ去った。
幻想的や神秘的といった言葉がよく似合う光景だ。
「キレイ…」
美園の呟きに月子はこくこくと頷く。
ことりが目を覚ました時、すでに辺りは霊魂で溢れかえっていた。
弥生一人で浄化するには数が多すぎて追いつかず、三人掛かりで結界を張ったのだ。
ことりが目を覚ました後は四人で結界を張り脱出のタイミングを計っていた。
そんな時に現れた嵐は霊魂を浄化し、四人の心を奪った。
「一体、誰が?」
危険が無い事を確認して結界を解く。
周囲を見回しても嵐を起こしたと思われる人物は見あたらない。
「そんなのどうでも良いわよ」
「うんうん。早くここを離れましょ」
顔をしかめることりに対して、美園と月子はもうすっかり安全だと気を抜いているようだった。
弥生も安全ではあると感じていたが、念の為に霊具は手にしたままだ。
「そうね、何が起こるかわからないし、今のうちに…」
その時、足下が揺れた。
突き上げるような揺れと共に、ミシミシと軋むような音も聞こえる。
「な、なに?」
「今度はなによぉ」
美園と月子が顔色を変えた。
またパニックになりかけているようだ。
自分達を守る式神を喚ぶ事すら思いつかない。
「二人とも落ち着いて。ゆっくりここを離れるわよ。弥生」
「はい」
冷静な判断が出来そうにない二人を弥生が先導する。
ことりは周囲を警戒しながら後に続いた。
揺れは収まる気配がなく、走ればすぐにバランスを崩してしまうだろう。
慎重に、かつ急いでこの場からの避難を開始する。
ビシリ、とガラスにヒビでも入るかのような音がした。
シァア、という蛇の声らしき音も響く。
突き上げるような地面の揺れは強さを増している。
嫌な予感に鼓動が早くなる。
ガラスが砕けるような音が背後から聞こえてきた。
次の瞬間、四人の足元から地面を砕き何かが現れた。
それは蛇の胴体。
地面を引き裂き出現した胴体は四人を乗せて上昇していく。
咄嗟に飛び降りたことりに続き、月子が転げ落ちた。
バランスを崩して尻餅をついた弥生は腰を抜かした美園の手を引いて飛び降りる。
何とか受け身をとるものの、弥生は膝を打ってしまったようだ。
痛みに顔をしかめるも、すぐさま周囲に視線を走らせる。
蛇の胴体は何本も出現し、四人を包み込まんと蠢いている。
「なんなのよこれぇ!」
「愉比拿蛇でしょね」
泣き叫んだ月子に、ことりは視線を祠に向けながら答えた。
先程まであったはずの封印の勾玉がない。
代わりに何かの破片が転がっている。
先程聞こえた何かの砕ける音は、この封印の勾玉が砕けた音だったのだ。
そして封印は勾玉の崩壊と共に完全に解け、愉比拿蛇が復活したのだろう。
「何で胴体がこんなにあるわけ!?愉比拿蛇って八岐大蛇かなにかなの!?」
「どうは一つよ。ただ異常に長くてたくさんあるように見えるだけよ」
愉比拿蛇は蛇のモノノケの中で蛇神――『へびがみ』あるいは『じゃしん』――と呼ばれる存在である。
蛇一族の中でも強大な力を持つ存在で、蛇の力を継ぐモノノケ達の頂点として君臨していた、とされている。
人はそのような存在を畏怖の対象として『蛇神』や『鬼神』というように、神と呼び恐れた。
愉比拿蛇は人間や動物の体から魂を抜き取り喰らう。
喰われた魂は成仏も浄化もされず、ただ永遠に愉比拿蛇の力として吸収・利用されるのだ。
魂が抜かれればいくら心臓が動いていても二度と目を覚ます事は出来ない。
ただゆっくりと、体は死へと向かうのだ。
胴体の半分以上はまだ地面の中なのだろう、突き上げる揺れは収まらない。
次々と現れる胴の一部は四人へと迫り、徐々に逃げ道を塞いでいく。
このままでは出口は無くなり、四人とも掴まるだけだ。
脱出のチャンスは今しかない。
四人は胴の隙間を縫うようにして走る。
美園と月子が我先にと走り、弥生とことりは少しでも牽制になればと霊具を振るった。
だが効果はほとんどなく、仕方なく二人は攻撃を諦める。
ただここから脱出する事に専念した。
愉比拿蛇はあまり広い範囲まで出現している訳ではなく、啼々家の門をくぐると、その先は一切地面が揺れていなかった。
その事に気づき、四人は啼々家の敷地からの脱出を図る。
美園と月子が門外へ出た直後、門のすぐ前の地面下からうねる胴体が姿を現した。
上空は完全に胴体で塞がれている。
今見える範囲の出口は目の前だけだ。
まるで階段のように入り組み出現した胴体を弥生は必死に登った。
「ことり、早く!」
後ろにいることりに檄を飛ばす。
早くしなければ二人とも掴まってしまう。
出口が見えたのか、弥生がもう一度振り返ってことりを呼んだ。
その姿にことりが感じたのは安堵ではない。
(なぜ?)
疑問だった。
(どうして弥生が前にいるの?私は姫神……姫巫女の頂点なのよ?なのに、なぜ?なぜなの?どうして弥生が私の前を走っているの?)
極限状態に追い込まれていたのは美園達だけではなく、ことりも同じだった。
ほとんど何も考えられず、ただ胴体をよじ登り走る。
その中で思考はほとんど止まり、目の前にある弥生の背中がプライドを歪んだ形で刺激した。
姫巫女の頂点『姫神』として先頭に立っているのは自分だと。
皆が自分の背中を見るのだと。
目の前に壁などないと。
自分が頂点に立ったはずなのに、なぜ自分よりも弥生が冷静に行動しているのか。
なぜ自分が弥生に先導され、手を差し伸べられているのか。
(どうして弥生が「そこ」にいるの?その場所は、私の場所よ)
極限状態の思考は、嫉妬のような醜い感情を増幅させた。
「ことり、急いで!」
その一言で、ことりは手を伸ばして掴んでいた。
そして躊躇うことなく後ろへと引いた。
「え?」
間の抜けた声が耳元を過ぎ去る。
(私は姫神、弥生よりも優秀なのよ。この私が、ここで死んでいいわけがない!)
背後から聞こえたはずの悲鳴は耳には届かず、ことりは出口へと滑り込んだ。




