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おうじさまとその理由

「起きろ、柚。飯だよ」

「う、うーん……なんじ?」

「9時半過ぎ」



微睡みの淵にいた私にかけられた兄の言葉は、私を一気に覚醒せしめるのに十分だった。こよなく睡眠を愛する私の心に冷水を浴びせかけられるようなもの。日本語にならない叫びをあげて、身勝手にも兄を糾弾する。



「どーして起こしてくれないの?!」

「どーして俺が起こさなきゃいけないかな。デートとか行かなくて良いよ」



そういう兄はスーツだ。これから仕事だから、私と尭葵くんと一緒には行けない。



「デート云々はおいて置いて、卒論の指導がありますので!」

「高杉ちゃんなら大丈夫だよ。どうせ前の奴の指導が延びるんだし」



確かに高杉教授はお話好きだが、だからといって指導に遅刻して良い訳がない。



「着替えるのでお仕事へ行ってください」



起きてキビキビとクローゼットに寄る私を、兄はしっかりと抱きしめた。この切羽詰まった状況では、非常に邪魔である。



「あやちゃん」

「ゆっくりで良いよ、柚」



そう呟くと、兄はつむじに唇を落とした。

ゆっくりで、良い訳がない。尭葵くんは10時にお迎えに来るのだ。脇腹を擽ったら、ぶほっと笑って兄は離れる。



「ほら、あと20分」

「うわぁあぁああ!」








ぴんぽーん。

お間抜けなチャイム音が鳴った。化粧をしていた私は、叫ぶことも出来ず手を動かす。多分、兄が相手をしてくれるだろうことを願って。



「やぁ、尭葵」

「おはよう、理希。柚ちゃんは?」

「意地悪してやったから、あと少しかかるかな」

「意地悪?」

「寝起きと着替えを邪魔してたんだよ、……邪悪な(ツラ)しないでくれる?柚の兄は俺だよ?」



いつも柔和な笑みを浮かべる顔が、眉根を寄せて不快感を表している。彼は同性の理希から見ても整った顔だな、と思う。実際、理希と尭葵が原宿なんて歩けばモデルへの誘いが多くて嫌になったものだ。逆ナンといわれるものも多かった。



「尭葵の柚好きはまぁ、引き合わせたときからだから分かってはいるんだけどね。よもや寝起きや着替えの邪魔を疎まれるとは」

「理希」

「柚は聞いちゃいないよ、ドアが閉まってたら聞こえない」



理希は目の前の友人を見据えた。今日も如才ないカジュアルファッションだ。ミリタリー風のブーツが細身のパンツとよく合っている。彼の完全オフの時の格好は本当にセンスが良かった。尭葵に言わせれば、雑誌の撮影に使った物を買い取ったりしているのだ、とのことだが。



「本気なの?」

「本気だよ、言ったでしょ?」

「遠慮しないとか聞いたね、柚の口から言わせるとかホント悪趣味だよ。俺がシスコンなの知ってるだろうに」

「……目下の敵は、理希だからね」



本音が出た。苦笑して、中へ促す。



「玄関じゃなんだし、入りなよ」

「すぐ出るよ。柚ちゃん卒論指導だろう?」

「不機嫌?」

「多少ね」

「兄に嫉妬とか、やめてくれよ」

「……俺は、お前に妹とは結婚出来ない事を再確認したい」

「俺弁護士だよ?」

「知ってるよ」

「結婚相手より、兄の方がいいさ。離婚したらそれまでだけど、妹は一生妹だ」

「そう、一生、妹だよ」

「俺柚とセックスしたいとか思ったことないよ」



ジロリ、と尭葵の眼が座ったので肩を竦める。本当のことを言えば殴られるかもしれないので、理希は黙っておくことにした。



「なんで、そんなに本気なの?」

「……分かってるんだろう?俺の家庭環境を知っていれば」

「タイミング、だけだと思うよ。正直ね尭葵」



理希は壁に手を着いた。傍から見れば脅迫現場か、カツアゲかという状況だろう。



「お前の"気まぐれ"に、柚を巻き込まないで」



尭葵と眼が合う。揺らがない瞳に、内心理希は舌打ちしたくなった。



「気まぐれ?俺がいつ、気まぐれって言った?2年間の俺を知ってて、よく言えるね」

「………」



確かに、彼のこの2年は夢を叶えると同時に吾妻柚希を手に入れるための2年でもあった。尭葵はあの日から何ヶ月か後、理希に頭を下げたのだ。



——柚ちゃんが好きなんだ。理希、俺が柚ちゃんに告白することを許して欲しい——



はっきりいって、勝手にやれば良かった。いくら理希がシスコンとはいえ、理希と柚希は別物だ。

いくらでも人間の嫌な面を見てきた彼にしたら、友人に変に筋を通そうとした尭葵は愚かでさえある。だが、その愚直さが、好ましかった。

——この男になら、この友人になら、柚希を任せても良い、と思うほどには。勿論、なんの制限もなく、とまではいかないけれど。



湯川尭葵。彼の家庭環境は、悪いという人もいるだろうし、良いという人もいるだろう。吾妻理希にしてみれば、最悪だと思う。よくもまぁ、彼が捻くれずに育ったものだ。


彼の両親は、学者だった。それこそ、人生における一片たりとも学者で、——親ではなかった。お互いがお互いに干渉し合わない、他人の様な家族であった。

幼少の頃の尭葵は、金だけはたくさん持っていた。彼の"親"は金さえ与えていれば、子供は死なない、と思っていたようだ。幸せな事に、彼はその使い方を知らなかった。友達と遊べない日は、勉強をしながらアニメを見ていたらしい。尭葵はそうやってズブズブとアニメにハマっていった。

そして、密かに声優になりたい、と思うようになったのだ。


理系の方が成績が良いくせに、そのときハマっていたアニメが法廷アニメだったからと志望先を決めたらしい。一応、尭葵と理希、そして今は柚希が通う大学は、一流の大学だ。最高峰に近い。そんな適当な理由で決められたなんて、ここに入るために浪人している人間が聞いたら発狂しかねない。


何にせよ、湯川尭葵の家庭環境は普通ではない。彼は、親の無償の愛を知らない。

彼にも幾人かの元カノがいたはずだ。しかし一様にして尭葵の顔が目当てだった。アニメが好きで、声優になりたいという彼を見つけた人間はいなかった。尭葵を好きな女性の中には、アニメが好きな人間もいたかもしれない。しかし彼女らは彼を遠巻きにして、やっぱり生身の湯川尭葵を知ろうとしなかった。その点において、前者も後者も大差ない。


湯川尭葵は孤独だった。

周りはそれを否定するだろう。彼にはたくさんの友人がいたし、楽しそうにしていた。

でも、やはり尭葵の中には、小さな頃から心の支えになっていたアニメの中の人——声優になるという夢が燻っていたらしい。

しかし世間は"オタク"というものに、変に厳しかった。面白おかしく取り上げて、笑い者にするメディアもあった。彼の周りにいた人間にも、そんな人間がいた。


夢を追う事を、取るか。大学生というモラトリアムの終わりが見えている今、現実的に堅実な職に就いて、そのまま一生を暮らすか。

声優なんて人気商売、成功するかは博打に近い。一生をかけた大博打を打つか否か。それとも堅実に生きて、いつか所帯を持ち、子供とアニメを見ながら、この"中の人"に憧れた日もあったなぁと思い出の残滓に浸り続けるのか。丁度、湯川尭葵が悩んでいたときだ。吾妻柚希と出逢ったのは。


彼女は、湯川尭葵を見ても、彼に傾倒する事はなかった。整った顔の身内がいたからだろう。その身内である理希は、柚希にベタ惚れで、事あるごとに彼女のことを尭葵に話して聞かせた。だから初めて会ったときから気易かったのもある。いや、初めてという気すらなかった。

吾妻柚希は、湯川尭葵に媚びる事も諂うこともなく、ただ彼を笑わせた。人の好意に——恐れという意味でも、求めて止まないという意味でも——敏感な彼にとって、柚希は安らぎだった。

アニメやゲームが好きな湯川尭葵を否定しない女の子。その子に出会って、彼は自分に枷を——或いは希望を——科した。


声優になりたいだなんて、夢だけ語るのは止めよう。行動に移して、彼女に自分を見てもらおう。湯川尭葵らしくないから、と、嫌われるのが怖かったから、と、偽りを述べるのはもう止めて。

アニメが好きだという自分を曝け出せた異性は、湯川尭葵の人生にはいなかった。臆病な尭葵は、深く付き合うべき"カノジョたち"に語る事もなかった。声優になりたい尭葵を見つけられなかったのは当然だ。何も、話さなかったのだから。最早悪いのは尭葵だったのか、"カノジョたち"だったのか、それはもう瑣末な問題だ。

だから、声優になろう。それを叶えるまでは、彼女が欲しいだなんて言わない。

柚希にだって声優になりたい湯川尭葵の話はしなかった。彼はそれこそを、枷にしたのだから。


彼に、それを与えたのは、吾妻柚希だった。

夢を認めることを。夢を曝け出すことを。夢から逃げ出さないことを。夢を、追いかけることを。


理希は尭葵を止めなかった。彼もまたありのままの尭葵を知る人間だったが、いかんせん自分の言葉が持つ影響というのを正しく理解していた人間だった。だから、夢を追いかけろ、なんて、その先全部に責任を持てないことは言わない。万が一、夢を叶えられず敗れた時、彼奴に夢を追えと言われたなどと責任をなすり付けられるのは真っ平ごめんだったからだ。大切なことは自分で決めろとしか思わない。そんな押し付けをしない理希だからこそ、尭葵は仲良くなったのだろう。



タイミングだなんて言った理希の言葉は強ち間違いではない。尭葵が最も悩んで弱っていた時期に柚希に出会ったのだから。


だがそれを、気まぐれなんかじゃ済ます事はできない。気まぐれなんかで、2年も理希が言った課題を乗り越えようと思わない。彼女に会わないまま、忘れられるかもしれないだなんていう恐怖と戦いながらなんて。



「……気まぐれは失言だった」

「タイミング、は否定しない。それでもね、理希——」

「尭葵くん!ごめんなさぁい!」



お姫様がやってくる。

王子のような湯川尭葵が焦がれてやまない、彼女が。

続きを紡ぐのを止めて、ふわり、と尭葵が微笑む。


もう柚希しか見えてなかった。

柚希の他にはいなかった。彼を認めさえすれば良いのか、初めて出逢ったのが柚希でなかったら?——それを考えるのはあまりに詮無いことだ。湯川尭葵の人生で初めて出会ったのは、吾妻柚希だった。それはもう変え難い事実だからだ。



「待たせたよね、ほんとにごめんなさい」

「いや?理希と話してたしね」

「あやちゃん余計なこと言わなかった?」

「……そうだね、そうかもね」

「おい尭葵」

「あやちゃん、大人になって大人に。じゃあ行きましょうか。ほんとに付き合ってもらって良いんですか?」

「もちろん」

「柚、早目に帰って来いよ」

「あやちゃん晩ご飯いるの?」

「家で食べるよ」

「はーい。いってきます」





それでも、きっと。もう一度人生をやり直して、吾妻柚希に出逢ったなら。それが、今と違った出逢いで、何番目だったとしても。


きっと、湯川尭葵は、恋に落ちただろう。

理希が黙っていたほんとのこと

「別にセックスしろっていわれたら出来るけど」


お待たせしました。

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