おうじさまとの出会い
兄の友達は、王子様みたいな人だった。
『はじめまして、柚ちゃん』
真っ黒な髪は柔らかそうで、耳にかかるほどの長さ、前髪は左目にだけ少しかかっていて、襟足が肩くらい。黒縁の眼鏡は弦がオシャレにチェック柄。涼しげな目元はいつも浮かべている微笑のおかげで、優しくて、イケメンと噂される(らしい)兄よりもずっとカッコいい。何よりも声が、ほっと落ち着くようなだのに色気のあるテノール。これが王子様か、と私は目がキラキラした。
『は、初めまして。吾妻柚希です』
『ゆずき、なんだ。理希がゆずゆず言うから、柚ちゃんだと思ってた』
しかし悲しいかな、ここまでの度が過ぎたイケメンは観賞用にしか見えない。クラスメイト達ときゃーきゃー騒いでいた方が楽しいだろうなぁなんて思いながら、私は冷蔵庫の中身を思い返す。今日は父が夜勤だ。
『あやちゃん、遊びに行くの?晩ご飯いらない?』
母は、物心ついたときからいなかった。だから家事は私の役目だ。父と兄はたった一人の女である私を溺愛しているようだが、あまり家事は上手くない。私が家庭科の授業を受けるようになってからは、吾妻家の台所は私が預かっている。
『あー柚、カラオケ行く?』
『え?カラオケ?』
『ん。柚一人にしたくないしね』
『えーとあやちゃんの友達は?』
『俺?一緒に来たらいいよ。理希と2人は飽きるほど行ったし』
『尭葵のアニソン熱いからさー』
なんとこの王子の名前は"たかき"と言うらしい。"ゆずき""あやき""たかき"……うーん"き"だらけだ。
『じゃあ行こうかな?お父さん夜勤だし』
『久々に柚とカラオケー』
『恥ずかしいからやめて』
『割りといつも通りだから大丈夫』
クスクスと笑う尭葵さん。いつも通りとはどういう事だろう。もしやうちの兄は彼の前でもシスコン全開なのか。なんたる事だ聞いていない。
『なんかこう……兄がいつもすみません』
『理希から柚ちゃんの話ずっと聞いてたから、初めてって気がしない』
『で、出来れば兄の話は忘れてくれると……』
『いやー無理かなー。見たことない柚ちゃんが夢に出るくらい聞かされてるからね』
それは大変な悪夢だ。平謝りしながら、兄の手を引っ張る。先程からこのシスコンの兄は手を離してくれない。彼女だっている癖に、事ある毎に私を優先するものだからフられているのだ。兄の大学では、私はのび太くんに対するジャイアンのように高い壁らしい。いやいや、ジャイアンだって劇場版ではのび太くんを助ける良い子だ。手助けは惜しみませんとも。
『大学で悪評が立つわけですよ……』
『うーん、否定は出来ないけど、俺は柚ちゃんが良い子って知ってるし』
『え?』
『あの討論会では怖いくらい理知的な理希が骨抜きだしね、話に聞いてると柚ちゃんがワガママ言ってるんじゃなくて理希が言ってるんでしょ?』
そうなんですとも!あのワガママ放題の兄にこんな素敵なお友達がいるなんて!私は感激のあまり、兄の背中を叩いた。
『お友達マジいい人。仲良くしなきゃダメだよあやちゃん』
『尭葵でいいよ』
『はぁ?柚もコイツの王子キャラに騙されたの?ダメだよ、柚は柚だけを大事にしてくれる奴じゃないと』
『理希、人聞きが悪い。柚ちゃんに誤解させないで』
『特定の奴を作らないで愛想振りまいてるだけじゃないの』
『そんなんじゃないよ』
『俺は全員に思わせぶりな態度をする方が罪だと思うけどね』
なるほど。性格面でも王子様なのか。そりゃあモテるわ、モテオーラ漂ってるもの。感心しながら尭葵さんを見ると頬を染めている。
『あの、尭葵さん?私はその尭葵さんのこといい人だと思ってますし!こんなあやちゃんと付き合ってくれるだけ王子とは言わず王様のような懐の深さを感じるし、それはマリアナ海溝より深いと思います』
『マリアナ……ぶふッ』
しゅんとしていた尭葵さんを慰めると、笑いが返って来た。マリアナ海溝がツボに入ったらしいのだが、残念ながら私はマリアナ海溝の深さがどれくらいか知らない。思ったより浅かったらどうしよう。
『マリアナ!関係ないよね、マリアナ!あはははは!』
爆笑された。彼は美貌と讃えられるような相好を崩しまくり笑い出す。
『こいつの王子キャラっぷりはヤバイからねーアニメが大好きなのに微塵も見せずに趣味はドライブとか言っちゃうからね』
『ドライブも趣味だよ』
『私もアニソンとか好きです。赤荻亜希とかライブ行く位ですし』
『赤荻亜希いいよね。柚ちゃんはアニメとか見るの?』
『あんまり詳しくないんです。亜希ちゃんが声優してるやつは見たりするんですけど、後は友達に勧められた奴とか』
『そっか。じゃ一緒に赤荻亜希歌おう』
『おーい、尭葵?俺の許可無しに柚を誑かさないでくれる?』
カラオケ前で兄が尭葵さんに喧嘩を吹っかけた。一緒に歌うくらいいいじゃないか、滅多にこんなに王子様的な人と歌うなんて出来ないのだから。すると尭葵さんも負けてはいない。
『何で理希の許可が必要?』
『何で必要じゃないと思うの?』
これは間違いなく兄の方が理不尽なことを言っている。何故妹とのデュエットに兄の許可を得ねばならないのだ。
『理希。俺決めたよ。もうそういう偽りは無しにする。俺は自分の夢を追いかける。目下の目標は柚ちゃんが知るレベルになること』
『それはいい事だと思うけど……まさか』
『私がどうしたんですか?』
何故私の名前が出て来たのだろう。知るレベルってもうお知り合いにはなれたと思うのだけど。私の傾げる頭を撫でて、尭希さんは微笑んだ。
『俺ね、ちょっと無理してたんだけど、……柚ちゃんに会えて良かった。楽になったよ』
『よく分からないですが、尭葵さんが楽になれて良かったです』
この後兄が頭を撫でたと尭葵さんに詰め寄ったり、彼とカラオケで一緒に亜希ちゃんの歌を歌ったりした。尭葵さんは恐ろしくうまかった。天は二物も三物も彼に与え過ぎである。
兄が大学を卒業する迄は、尭葵さんとよく三人で遊んだと思う。彼と兄と赤荻亜希のライブに行ったときは、私はサイリウムを50は折った。それを楽しげに一緒にやってくれたのだから、本当に尭葵さん……いや尭葵くんは王子様だ。そう、丁度その頃"親しい呼び名にしよう"って提案されて、くん付けになった。兄は不服そうな顔をしていた。
私はその後兄を追い掛けるように同じ大学に入ったが、兄や尭葵くんは4年になって大学に来ていなかった。兄は弁護士になる夢のため、尭葵くんも夢のためらしい。この頃は時々メールしていた。彼のメルアドは"マリアナ海溝"が入っている。よほどツボだったのだろう。彼らはやはり凄まじい人気だった。まぁ私も先輩に聞いただけで詳しくは知らないのだが、彼らが食堂にいるだけであのデカイ食堂がいっぱいになって行列だとか。嘘みたいな本当の話らしい。
私にとっては尭葵くんは観賞用王子様で、兄はちょっとウザい兄だった。王子様と恋愛する気はさらさら無い。だって王子様を追い掛けている女子たちはコワーイのだ。芸能人じゃなくてなまじ近くにいるから、我先にと昼休みのパン争奪戦レベル。そこには割って入りたくない、入れないし。
兄が忙しくなって、私は尭葵くんと疎遠になった。彼も社会人だ、忙しかろう。そんな風にして、私の中の"尭葵くん"は王子様のまま、伝説になったのである。——
————2年後。
「柚ー!おはよー」
「おはようー」
ニコニコと嬉しそうな友人に連れられ、某イベント会場にいる。周りには浮き足立った女の子たちがきゃいきゃいと今日のイベントに向けて逸る心を思い思いに語っている。
「タカの単独イベント待ってたんだよー!」
「あれ、あれ聞いた?ささやきのヤツ!」
「聞いたーッ!超かっこ良かったー!」
「握手できるとか!間近でタカ見たら私死んじゃうかも!」
すごい人気だ。"タカ"は。
私は浮いてやしないかとキョロキョロした。
「柚どうしたの?」
「なんか、ファンクラブじゃない私が浮いちゃいないかと思って……」
「大丈夫ーだって付き合ってもらってるの私だしね」
友人の麻衣子。私を赤荻亜希オタクというならば、彼女は声オタ……つまり声優好きである。大学に入ってから連むようになり、声優の布教を受けているが、最近は彼の事しか話していない。
若手の声優、タカ。タカというのはいわゆるあだ名で、本当は"ユカワタカキ"という。なんでも物腰は王子様を体現したようなあり得ない人らしい。ちなみにあり得ないというのは私の感想である。タカについては二年くらい前にデビューして、脇役から今や何本もレギュラーがあって主役も張っているとか、あまりそちらには詳しくない私でも凄いと思う声優だ。
今日はファンクラブのイベントで、その中でも握手が出来るのは選ばれしファンのみとのこと。この隣にいる麻衣子もその一人であるが、一人が心細いというのでついて来るだけついて来た。握手権はないので眺めるのみになるが、声優のイベントに行くのは初めてなのでそれなりに楽しみである。
物販で"こっからここまで全部!"と息巻く麻衣子は、赤荻亜希ライブの私のようだ。私は全部!の他にTシャツは2枚は買う。近頃のサイリウム数はついに80くらいまできた。ウルトラオレンジがドームで輝く様は綺麗なのだ。
開場時間には、もうこの会場に入るのかというくらいの女子がいた。中学生とかもいるのではないか、みんな彼の為に来たのだろうからやはり、彼の人気はすごいものである。
入場し、オールスタンディング。熱気が凄い。ライブの前のこの時間は、ドキドキして興奮してしまう。これからめくるめく素敵なものが始まるというワクワクが込み上がって緊張する。
フッとライトが消えて、ジングル。次に歩いて出て来た人を皆が見た瞬間、大熱狂の声が上がった。
『こんにちは、お集まりいただきありがとうございます。湯川尭希です』
声がすごい。スタンディングのせいで前が見えない。割りと泣いてる声とか聞こえている。隣にいる麻衣子も"キャータカーッ!結婚してーッ!"などと勝手なことを泣きながら叫んでいた。私も赤荻以下略。
でもいい声なのは分かった。私は舞台を見るのを諦めて近い方のモニターを見る。
……もっと寄ってくれカメラ。王子様が見えない。
『今日は皆さんに会えて嬉しく思います。歌とかも歌わせてもらう予定なので、聞いていただけたらなーと思います』
「タカーッ!タカの歌!ねぇ柚、タカの歌凄いんだよ!」
「ほうほう、でもいまだにタカが見れて無いんだけど私」
『実はさっきまでレコーディングやってて……あ、これまだ言っちゃいけなかったんです?』
ボケをかまして場が湧く。CDを出すよってことを前倒しで発表しちゃったようだ。
「買う!保存用とインテリア用と舐める用と抱いて寝る用と布教用2枚買う!」
それは買い過ぎだ。用途が得体知れなさすぎる。舐める用は衛生的面でやめた方が良いと助言したい。
それにしても、字面に覚えがある。ユカワタカキって私の携帯のメモリーに入ってなかったっけ?頭のメモリーは呼び出させてくれないようだが……。
(王子様……王子様……)
——柚ちゃんに会えて良かった。——
「あ」
ふと脳裏を過る、思い出。私の中の王子様。
(でも字が……)
あの人の下の名前の字は尭葵だったはずだ。私や兄と同じ希ではない。
疑問に思いながらも見上げるモニター。
瞬間、カメラが寄り、大人気声優"湯川尭希"を映した。
「ッ!」
時間が止まったみたい。いや相変わらず凄い黄色い声は聞こえていたのだけど、どこか遠かった。
——真っ黒な髪は柔らかそうで、耳にかかるほどの長さ、前髪は左目にだけ少しかかっていて、襟足が肩くらい。黒縁の眼鏡は弦がオシャレにチェック柄。涼しげな目元はいつも浮かべている微笑のおかげで、優しくて、イケメンと噂される(らしい)兄よりもずっとカッコいい。何よりも声が、ほっと落ち着くようなだのに色気のあるテノール。
私は、この人を、知っている。
リフレインする"尭葵くん"の声。私を、呼ぶ声。
「麻衣子……私知ってる」
「え?」
「……この人、尭葵くんだ……」