佐和加奈子の一日 拍手お礼 1
「分かってるってば、もう、怖いよ佐和くん」
朝は、頭はいいくせにだらけようとする会長に、冷ややかな視線を送ることから始まる。
にっこりと笑みを浮かべながら、口を開く。
「怖いなんて、ご冗談を。会長がその気になれば、私など明日ここにはいないくらい矮小な存在」
そう言いながら、佐和の口が綺麗な弧を描く。
「どうぞ気に入らなければ、すぐに降ろしていただいて結構ですわ。私、広報部に戻していただいて結構ですが」
「あーあー、うるさいよ。悪かったよ、一年目にこっちに引っ張って。まだ根に持ってんのかよ、佐和くん執念深い」
「そうですね。明日から秘書課に行って? の一言で、突然異動辞令が下れば、誰でも根に持つと思いますわ」
ふふふと笑う佐和に、会長の柘植は深くため息をついた。
「まぁ仕方ないけどさ。悪いけど佐和くんを秘書課から出すつもりないから、諦めて」
ちっとも申し訳なさそうでもない柘植会長に、分厚いファイルを手渡す。
「えぇ、諦めておりますわ。ご安心ください。会長がその無駄にいい頭をフル回転させてくだされば、私に辞める理由はございません」
受け取ったファイルを嫌なものでも見るように、指先で摘みながら中を確認した。
そこには、神奈川支社にある企画広報部の報告書が、本社企画部のデータと共にファイリングされていた。
「あぁ、真崎のとこのか。これ全部俺に確認しろっていうの? 佐和、ドS?」
「ではMになって頂かないといけませんわねぇ、会長?」
「あー、うるさい。で、真崎は? 今日、来るんじゃなかったっけ?」
既にファイルを閉じて机の端に追いやった柘植会長に、佐和は手帳を開いてスケジュールを確認する。
「四時には本社に到着する予定です。それまでに、その資料をご確認願います」
「は? 今から?」
そのうちでいいと思っていた柘植会長は、目を見開いて座ったまま佐和を見上げた。
少なくとも三百頁以上の資料。四時までの六時間で、全て読み終えられるとは思えない。
「佐和、無謀だよ流石に……」
いつもなら、こんな詰まったスケジュールをとらないのに……と言外に含めると、佐和は手帳をぱたりと閉めて持ちかえる。
「昨日、会長が午後から姿をくらまして、尚且つ静岡に逃げていなければ既に終わっているはずのお仕事です」
途端、肩を竦めるようにしてさっきより縮こまる会長。
昨日、午後がフリーだと勘違いした会長は、佐和が事務課に行っている間に会長室から逃亡し、静岡にドライブへといってしまったのだ。
その言い訳は、佐和の怒りを煽るのに充分だった。
“うなぎと夜のお菓子を買いたいから!”
――取り寄せるか、近場で買いなさい。
佐和の冷たい声が、秘書課で響いたのは言うまでもない。
柘植はそれを思い出したのか、苦虫を噛み潰したような表情で項垂れた。
「佐和くんの言う通りにします、俺が悪うございました」
謝りの言葉を口にする柘植を、冷ややかな笑みで見つめる佐和。
「それでは、午後一時に、進捗状況だけ確認に来させていただきます。失礼いたします」
そう言うと、会長室から出た。
出たといってもドアのすぐ傍の所に佐和専用の机があるため、今日ばかりは柘植会長も逃げられまい。
佐和は頭の中を切り替えると、再来月にある会長の支社行脚のスケジュールをたて始めた。