とある日の企画室
珍しく、甘いシチュエーションを宗吾に与えてみようと思ったのですが――
「久我、サンプルデータが一箇所違ってる」
既に誰もいない企画室、夜の九時。
間宮さんは、終業時刻に帰ったけれど。
いつもなら斉藤さんも哲もいるはずの、金曜日。
二人とも外回りに出ていて、今企画室には課長と私だけがいた。
「え、どこですか?」
課長と二人で進めている企画は、順調に売上を伸ばしていた。
日本古来の色をメインに、季節ごとにアイテムを追加提案していく。
シリーズものだから売り場も安定しているし、売上も安定してる。
だからこそ、飽きられないようにイレギュラーアイテム投下等、いろいろ提案をしているわけだけど。
今週の週報と来週の予定をエクセルに打ち込んでいた私は、課長に視線を向けて腰を浮かした。
「あぁ、俺がそっちにいく。サンプルデータ、立ち上げろ。企画書はネットワークフォルダに入れたからそれも」
「あ、はい」
そっか。サンプルのデータ自体私のデスクトップに入ってるから、こっちのPCで確認した方が早いか。
相変わらず、頭の回る課長だよ。
なんとなく悪態をつきながら、PCに向き直る。
三月の人事異動の時期も乗り越えて、企画課は変わらない面々のまま新年度に入った。
そして、五月。
付き合い始めて、もう三カ月過ぎた。
けれど忙しい毎日で、あまり二人の時間は無い。
それを寂しいと思っているのは、自分だけなのかなと、さっき目が合った無表情に少しだけ落ち込む。
まぁ、仕方ないんだけどね。
頭を整理して小さく溜息をつくとマウスを操作してデータを立ち上げ、フォルダから企画書を引き込む。
その間に紙媒体の企画書を手に、課長が私の横に立った。
「二ページ目の右から二つ目。商品記号RS-155」
言われるままそれを表示させ、ついでに詳細データの入ったエクセルからソートして、問題の商品番号を検索する。
カタカタと軽い音と課長が確認するために紙媒体の企画書を捲る音が、なんとなく耳に心地いい。
やっぱり、仕事って好きだわ。
自分しか出来ない仕事をしたい、いつかは。
課長のように。
「あ、ホントだ。すみません、RSじゃなくてPSのデータ入れてました」
久しぶりのケアレスでも、やっぱり落ち込む。
PC上の企画書に、正しいサンプルデータを移して保存する。
それをフォルダにコピーして、課長を振り仰いだ。
「……」
それは、一瞬。
触れそうなほど近くにいた課長に、慌ててPCに向き直る。
「――えと、すみません」
後ろを見ずに、振り向いちゃいまして。
顔に、血が集まっていく。
それを誤魔化すように、PCの画面を指先で叩いた。
「修正して更新しましたから、確認してください」
「……どれ」
小さく呟いた声とともに、身体を囲うように課長の両手がデスクに付く。
背中に課長の体温を感じて、身体が強張っていく。
「……あ、の」
「ん?」
びくり、と肩が震える。
耳元で呟かれた声に、背中がぞくりとして何かが感覚を支配していく。
ありえないほど鼓動が早くなっていくのを感じながら、右の人差し指でPC画面を指差した。
「これ、です。更新分て、入ってる方……」
「あぁ、これな」
右側についていたその手を伸ばすと、おもむろに私の右手を包み込む。
赤いよ、顔きっと真っ赤だよ!
ちょっ……さっき寂しいとか頭の中で考えましたけど、スキンシップを望んでるわけじゃんくてそうじゃなくて、……いやそうじゃないわけじゃないんだけど。
できれば、ゆっくり仕事じゃない話をしたいとかそんなことを考えていたわけでっ!
「あ、の。課長……?」
今にも叫びだしそうな声を何とか抑えて課長を呼ぶと、どうした? なんて耳元から返事が聞こえてきて。
いつもより甘さを含んだその低い声に、全身から変な汗が噴出してる感じがする!
「近い、です」
「嫌か?」
そう囁くと、私の右手を引き寄せてその甲に口元を寄せた。
「……!」
耳元近くで響くリップ音に、私の羞恥心は限界を超えた。
えぇ、それはもう棒高跳びの世界王者でも狙えるんじゃないかってほどに。
慌てて右手を引っ込めようとしたら反対に力をこめて引っ張り上げられて、椅子から立ち上がらされた。
そのまま課長を支点にくるりと身体が回転させられると、背中に冷たく硬いものが触れる。
「……」
抵抗するとか言葉で突っ込むとかそんなことを考える暇も無いまま、壁に追い込まれた。
何が起こったのかわからないほど、頭の中はパニック状態だった。
ていうか、課長のスイッチどこで入った!?
うわーっ、寂しいとか思ってすみませんってば!!
「美咲」
上体を屈めているのか耳元近くで囁かれる名前に、思わず目を瞑る。
かかる息にさえ、何かを呼び起こされそうで顔を俯けた。
「美咲?」
「は、離して、く……」
「なぜ」
恥ずかしいから!
お願い、心の準備とかそーいうものをさせては貰えないでしょうか!!
「……触れたいと思うのは、俺だけか」
悲しそうな声に、俯けていた顔を上げて課長を見た。
そこには……
「騙された――」
にやりと口端を上げて笑う、課長の顔がありました。
「別に騙しちゃいない。お前の心の準備とかそんなもの待ってたら、いつまでたっても触れないからな」
「触れないとか言うな! 恥ずかしいですっ!」
どこのエロ親父だぁぁぁっ!
ていうか、私の頭の中を読まないで頂きたい!
それでもさっきよりは顔に集まっていた血もあるべき所に戻っていったのか、頬の熱さが取れてきた気がする。
あぁ、少しは冷静になれそう。
課長の手から自分の右手を奪還すると、私は目の前の身体を目一杯押した。
「とりあえず、離れてください」
少し後ろに下がった課長にほっと息を吐いた瞬間、両手ごと壁に押し付けられて落ち着いたはずの顔に血が上った。
「離れる意味がわからない。俺は、お前に触れたい」
ぶぁぁぁっと擬音が見えるなら、きっと私の近くにそれが掲げられるだろう。
それくらい、血が顔に向かって急上昇してくる。
「お前は、ストレートに言わないと気付かない奴だからな」
そういうと、右手がゆっくりと頬を撫でた。
指先が首筋を擽る。
「やっ、やめ……」
「……ない。こんな時の否定の言葉は、俺を煽るだけだ」
「あっ、あお……!?」
言葉じゃないなら、どうしろと!?
沸騰したような頭の中で、ぐるぐると思考が巡る。
自分だって、課長に触れたいでしょ? とか。
でも、仕事場じゃ嫌だとか。
じゃあ、他ならいいの? とか――
とにかく、自問自答状態。
「何を、考えてる?」
右手に力が入って、上を向かせられた。
思ったよりも近くにある課長の顔に、鼓動が早くなる。
「あ、あの……」
何を言えばいいのかさえも、分からない。
頭が、まったく働かない。
余計な事考えなくていいから……、と課長の目が熱っぽく眇められた。
その視線に捉えられて、瞬きさえも忘れてしまう。
「……俺だけ、見てろ」
ゆっくりと近づいてくる課長に合わせるように、私は瞼を閉じた――
「おつかれーっす。誰かいる……ん、で……」
「!!」
大きな声とドアの開く音に、身体がびくっと震える。
ドアに視線を向けると、ノブを掴んだまま目を丸くして固まっている斉藤さんの姿。
「――斉藤」
ぼそりと呟いた課長の、怖いほどに低い声。
一瞬にして、状況を把握した。
最大の羞恥心に襲われて、思わず目の前の腹筋に拳を叩き込む。
「離せぇぇぇっ!」
「……っ」
よけられなかったボディーブローに、課長は思わずといった感じで腹筋を右手でさすった。
その隙に、課長の腕の中から脱出する。
「さっ、斉藤さん! お仕事ですか!? コーヒー飲みます? 淹れて来ます! 任せてくださいっ!!」
「あ、あぁ……」
勢いで頷く斉藤さんの脇をすり抜けて、私は給湯室に走り去った。
美咲が出て行った後の企画室では。
呆然と立ったままの斉藤に、課長が溜息をついて声を掛ける。
「今日は直帰じゃなかったのか」
その言葉にやっと意識が覚醒したのか、斉藤はぶんぶんと頭を縦に振った。
「その予定だったんですが、……その、近くまで来たから仕事してかえろっかって……」
「そうか」
自分のデスクに戻った課長からは、冷気が漂っていて。
斉藤は、自分のやってしまった間の悪い行動に、一気に青ざめた。
じりじりと足を後ろに下げると、
「お邪魔しましたぁぁぁぁっ!!」
叫んで、走り去ってしまった。
それにちらりと視線を向けると、課長は深々と溜息を零した。
自分でも言い慣れない甘い言葉を、美咲に触れたいが為に言い募ったのに。
もう少しだったのに。
溜息が止まらない。
斉藤。
今更帰っても、遅い。
帰ってきて斉藤がいないと知った美咲が取る行動は、たった一つ。
それを思い浮かべて、止まらなくなった溜息にやっぱり溜息をついた。
そして五分後、美咲は淹れてきた三人分の珈琲を課長一人に押し付けると、留めようとするその手から素早く逃げて鞄を掴むと、一目散に企画室を飛び出していった。
後日――
「ねー、なにやってんの? 斉藤てば」
課長と美咲が二人で残業しているだろう日は、神奈川支社の真崎のブースで仕事をする斉藤の姿がしばらく見られたとさ。
ダメだった(笑
宗吾、頑張ったのにねぇ……