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処刑人の花嫁

作者: cfmoka
掲載日:2026/11/02

今回は、いつもの短編より少し長めのお話になりました。

最後までお楽しみいただけましたら嬉しいです。

「──誓いますか」


神官の問いに、白い仮面をつけた男が静かに頷いた。


「誓います」


王都の大聖堂。

色鮮やかなステンドグラスから差し込む光が、白い婚礼衣装を柔らかく照らしている。


その日、皇太子の元婚約者である公爵令嬢、アレクサンドリーヌ・ド・ヴァルモンは、結婚式を迎えていた。

相手は、代々王国の『処刑人』を務めてきた伯爵家の当主である。


この婚姻は、彼女との婚約を一方的に破棄した皇太子自身が命じたものだった。

黒衣に身を包み、顔の上半分を仮面で覆った花婿の姿は、神聖な婚礼の場にあってさえ異様だった。


参列した貴族たちは、声を潜めていた。

この婚姻が何を意味するのか。

それを理解している者ほど、軽々しく言葉を発することができなかったのである。


だが、花嫁だけは違った。

彼女は今、胸の高鳴りを抑えることに必死だった。


(……まさか)


自分の横に真っすぐ立つ男。

その仮面の端から、わずかに覗くこめかみ。


そこには、目元に届くぐらいの古い傷痕があった。


(そんな……)


──十二年前。

誘拐された幼い自分を助けてくれた少年。

あの日、彼は自分を庇って傷を負った。


忘れられるはずがない。


横顔も。あの傷も。差し伸べられた手も。

自分を固く抱きしめた両腕も。


(……ああ)


胸の奥が、たまらなく熱くなった。


(神様……!)


ずっと会いたかった。

けれど、きっともう会えないだろうと、十二年間、ただひとり想い続けてきた人。

その人が今、自分の横に立っている。


しかも。


(わたくし、この方の妻になるのね……!)


頬が、みるみる熱を帯びていく。

花嫁は思わず俯いた。


その様子を見た花婿は、わずかに眉を寄せた。

無理もない。

皇太子から婚約を破棄され、あまつさえ『処刑人』と恐れられる伯爵家に嫁がされたのだ。

恐ろしくないはずがないだろう。


男は、視界の端で俯く花嫁を見つめた。


せめて、この婚姻によって彼女がこれ以上傷つくことのないように。

自分にできることは、それくらいしかない。

そう考えていた。


まさか、彼女が歓喜のあまり顔を赤くしているなどとは、夢にも思わずに。


「それでは、誓いの口づけを」


神官の言葉に、花嫁は顔を上げた。

仮面の奥で、男が一瞬ためらう。

そして彼は、彼女の手を取ると、その甲へ静かに唇を寄せた。


触れるか触れないかの口づけだった。

花嫁の頬が、さらに赤くなる。

花婿フェルディナントはそれを恐怖のためだと受け取った。

アレクサンドリーヌはそれを、十二年間で最も幸せな瞬間だと思った。


こうして、二人の結婚生活は始まった。


互いの胸の内が、まるで正反対であることなど知らないまま。



***



婚礼の儀式を終え、アレクサンドリーヌが伯爵邸へ到着した頃には、すっかり日が暮れていた。

王都の中心部から少し離れた場所に建つ伯爵邸は、歴史を感じさせる重厚な屋敷だった。


馬車を降りる際、差し出された手にそっと自分の手を重ねた。


「ありがとうございます」


フェルディナントは、相変わらず白い仮面をつけていた。

その横顔を見つめるだけで、アレクサンドリーヌの胸は高鳴る。


(……本当に、夢ではないのね)


十二年間、何度も思い描いた再会。

けれど、実際にこうして彼の隣に立っていることが、まだ信じられなかった。

しかも、これからは同じ屋敷で暮らすのだ。

彼が帰ってくる場所に、自分がいられる。


(……なんて幸せなのかしら)


思わず頬が緩みそうになり、アレクサンドリーヌは慌てて表情を引き締めた。

公爵家の令嬢として、幼い頃から礼節を叩き込まれてきた身である。

いくら嬉しいからといって、いつまでも浮かれた顔をしているわけにはいかない。


「……何か?」


不意に声をかけられ、アレクサンドリーヌは顔を上げた。


「……いいえ。何でもございません」

「そうですか」


フェルディナントはそれ以上追及せず、彼女を屋敷の中へと案内した。

玄関広間には、使用人たちが整然と並んでいた。


「お帰りなさいませ、旦那様。奥様」


年配の執事が一歩進み出て、深々と頭を下げる。


「ありがとう。皆さん、これからよろしくお願いいたします」


アレクサンドリーヌが微笑むと、使用人たちは一瞬だけ驚いたような顔をした。

皇太子に婚約を破棄され、この伯爵家へ無理やり嫁がされた公爵令嬢と聞いていたが──

しかし、目の前の新しい女主人は、少しも悲しそうには見えなかった。

むしろ、ひどく嬉しそうである。


「お部屋へご案内いたします」


執事の言葉に頷き、アレクサンドリーヌはフェルディナントとともに階段を上がった。

案内されたのは、南向きの広い部屋だった。

淡い色合いの壁紙に、上品な彫刻が施された家具。寝台には真新しい天蓋がかかっていた。


「お気に召さないところがあれば、遠慮なく申しつけてください」

「とても素敵なお部屋ですわ。ありがとうございます」


フェルディナントは、少し間を置いてから口を開いた。


「……アレクサンドリーヌ嬢」

「はい」

「まず、お伝えしておきたいことがあります」


その声がわずかに改まったため、アレクサンドリーヌは背筋を伸ばした。


「この婚姻が、あなたの望んだものではないことは承知しています」

「……え?」

「皇太子殿下の命による婚姻です。あなたに選択の余地がなかったことも、理解しているつもりです」


アレクサンドリーヌは目を瞬いた。


「ですが、どうか安心してください」


フェルディナントは彼女から少し距離を取った。


「私は、あなたに妻としての義務を強いるつもりはありません」

「……義務、でございますか?」

「ええ」


白い仮面の奥から、落ち着いた声が響く。


「この婚姻は、あくまで政治的なものです。あなたに愛情を求めるつもりもありません」

「…………」


アレクサンドリーヌは、しばらく言葉を失った。

フェルディナントは、その沈黙を悲しみのためだと思った。


だが、実際は違う。


(……困りましたわ)


アレクサンドリーヌは、心の中で小さく首を傾げた。


(もう、とっくにお慕いしておりますのに)


しかも十二年も前からである。結構根深い。

今さら愛さなくてもよいと言われたところで、どうすればよいのだろう。


「あなたの許しなく、この部屋に立ち入ることもありません」

「……そう、でございますか」

「生活に不自由がないよう、できる限りのことはいたします。何か必要なものがあれば、遠慮なく申しつけてください」


彼は、どこまでも真摯だった。

自分との婚姻を不幸だと思っている彼女を、少しでも安心させようとしている。

その気遣いが、アレクサンドリーヌには嬉しかった。


けれど。


(……少しだけ、寂しいですわね)


ようやく会えた人。

ずっと想い続けてきた人。

その人は、どうやら自分との間に、随分と大きな距離を置くつもりらしい。


「……旦那様」

「はい」

「ひとつ、お願いをしてもよろしいでしょうか」

「もちろんです」


アレクサンドリーヌは、胸の前でそっと両手を重ねた。


「わたくし、こちらへ嫁いでまいりましたからには、伯爵家の妻として、できる限りのことを務めたいと思っております」

「……ええ」

「ですから、どうか、わたくしにも旦那様のお役に立つ機会をいただけませんか?」


フェルディナントは、少し驚いたようだった。


「……あなたが、そのようなことを気にする必要はありません」

「ですが、わたくしは旦那様の妻ですもの」


アレクサンドリーヌは微笑んだ。


「せめて、お帰りをお迎えするくらいは、させていただきたいのです」

「……帰りを?」

「はい」


彼女は、少しだけ頬を染めた。


「旦那様が無事にお戻りになるのを、毎日お待ちしておりますわ」

「……それは」


しばらくして、彼が口を開いた。


「あなたのお好きなように」

「まあ!ありがとうございます」


思わず弾んだ声が出てしまい、アレクサンドリーヌは慌てて口元を押さえた。


「……失礼いたしました」

「いえ」


フェルディナントは小さく首を振った。


「では、今夜はゆっくりお休みください。……明日の朝食は、ご一緒しても?」

「もちろんでございます!!ぜひ!!」


今度こそ、声が弾んでしまった。

フェルディナントは一瞬だけ動きを止めたが、やがて静かに頷いた。


「……おやすみなさい、アレクサンドリーヌ」

「はい。おやすみなさいませ、旦那様」


彼が部屋を出ていく。

扉が閉まるのを見届けたアレクサンドリーヌは、その場でしばらく立ち尽くした。


そして。


「…………ふふ」


小さな笑い声が漏れた。


「ふふふ……!」


両手で頬を包み、寝台へ腰を下ろす。


(明日も、お会いできるのね)


明後日も。

その次の日も。

同じ屋敷で暮らし、朝食をともにし、帰りを待つことができる。

そんな日々が、本当に自分のものになったのだ。


「……夢みたい」


誰もいない部屋で、アレクサンドリーヌは幸せそうに呟いた。




***




翌朝。

アレクサンドリーヌは、いつもより少し早く目を覚ました。

見慣れない天蓋を眺めながら、しばらくぼんやりとしていたが、やがて昨夜の出来事を思い出す。


(……そうでしたわ)


結婚したのだ。

しかも、十二年間想い続けてきた、あの人と。


「……ふふ」


昨夜はなかなか寝つけなかった。

目を閉じれば、白い仮面の奥から覗く横顔が浮かぶ。手の甲に落とされた口づけを思い出しては頬が熱くなり、ようやく眠れそうになった頃には、今度は朝食の約束を思い出してしまった。


(今日は、一緒に朝食!!)


そう考えただけで、胸が弾んだ。

ほどなくして侍女が訪れ、身支度を整えてくれた。

髪を結い上げてもらいながら、アレクサンドリーヌは鏡の中の自分を見つめる。


「……少し、派手ではないかしら」

「いいえ。とてもよくお似合いでございます」


侍女が選んだのは、淡い青色のドレスだった。

せっかく彼と顔を合わせるのだ。

できれば少しでも綺麗だと思ってもらいたい。


(……いえ、やだ。何を考えているのかしら)


昨夜、愛情を求めるつもりはないと告げられたばかりではないか。

でも──。


(……わたくし、諦めないわ)


結局、アレクサンドリーヌはそのドレスを選んだ。

朝食の時間より少し早く食堂へ向かうと、すでにフェルディナントが席に着いていた。

白い仮面に、黒を基調とした上着。

昨日とほぼ変わらぬ姿である。


「おはようございます、旦那様」


アレクサンドリーヌが声をかけると、フェルディナントは顔を上げた。


「おはようございます。昨夜はよくお休みになれましたか?」

「はい。おかげさまで」

「それならよかった」


フェルディナントは静かに頷き、向かいの席を勧めた。

アレクサンドリーヌは礼を述べて静かに腰を下ろす。

使用人たちが手際よく朝食を運んできた。

焼きたてのパンに、卵料理。季節の野菜を使った温かなスープ。小皿には色鮮やかな果物も添えられている。


「お口に合えばよいのですが」

「まあ、とても美味しそうですわ」


アレクサンドリーヌは嬉しそうに微笑みながら、ふと顔を上げた。

向かいには、夫がいる。

それだけで、彼女の笑みが深くなっていった。


(……本当に、いらっしゃる。夢じゃない)


昨夜も同じことを考えた気がする。

けれど、何度確かめても嬉しいものは嬉しい。


「……アレクサンドリーヌ?」

「はい!」

「何か、気になることでも?」

「いいえ!何もございませんわ」

「……そうですか」


フェルディナントはわずかに首を傾げた。

昨夜から、彼女は時折こちらを見ては微笑んでいる。

屋敷に不自由がないことを喜んでくれているのだろうか。

それなら何よりだが、どうにも腑に落ちない。

少なくとも、望まぬ婚姻を強いられた女性の様子には見えなかった。


「……何かご不便があれば、遠慮なく仰ってください」

「ありがとうございます。ですが、何も困っておりませんわ」

「そうですか」

「はい。皆さんにも、とても親切にしていただいておりますし」


アレクサンドリーヌは、目を伏せ頬を染めた。


「それに、こうして旦那様とご一緒にお食事ができますもの」

「…………」


フェルディナントの手が止まった。

彼女は、心から嬉しそうに微笑んだ。


「とても幸せですわ」

「…………」


フェルディナントは返す言葉を失った。

彼女は、公爵家で何不自由なく育った令嬢である。

皇太子妃となるはずだった女性だ。

それが、突然婚約を破棄され、自分のような男に嫁がされた。


なのに、なぜ。


ただ一緒に朝食を取るだけで、これほど嬉しそうに笑えるのだろう。


(……気丈な方なのだな)


フェルディナントは、そう結論づけた。

きっと、屋敷の主人である自分に気を遣ってくれているのだ。

新しい環境に馴染もうと、懸命に努力しているのだろう。

ならば、こちらもできる限り、その気遣いに応えなければならない。


「……よろしければ、今後も朝食はご一緒しましょう」

「まあ!」


アレクサンドリーヌの顔が、ぱっと輝いた。


「よろしいのですか?」

「ええ。私が屋敷にいる朝だけにはなりますが」

「もちろんですわ!」


嬉しい……!

あまりにも嬉しい!!


アレクサンドリーヌは、ぐっと堪えて、上品に微笑む。


「ありがとうございます、旦那様」

「……いえ」


フェルディナントは、わずかに視線を逸らした。

仮面の奥で、何とも言えない表情を浮かべていることなど、アレクサンドリーヌは知らない。

ただ、夫が朝食をともにすることを約束してくれた。

それだけで、今日という日が素晴らしいものになった気がした。


やがて朝食を終え、フェルディナントが席を立った。


「申し訳ありませんが、今日は外せない仕事がありまして」

「まあ。そうでございましたか」

「ええ。執務を済ませてから外出する予定です。帰りは夕刻になると思います」

「承知いたしました」




フェルディナントは、屋敷の執務室へ向かった。

机の上には、昨夜のうちに届けられた書類が積まれている。

王家に仕える伯爵家の仕事は、決して少なくない。表向きの領地経営に加え、王命による任務もある。人目に触れてはならない仕事ほど、処理には慎重さを要した。


フェルディナントは書類に目を通し、必要なものに署名をしていく。

やがて一区切りついたところで、椅子の背に身体を預けた。


ふと、窓の外へ目を向ける。

執務室からは、屋敷の庭園がよく見えた。

季節の花々が咲く小道を、一人の女性が歩いている。


裾が優雅に翻っていた。

アレクサンドリーヌだった。


彼女は庭師と何かを話している。やがて小さな花束を受け取ると、嬉しそうに微笑んだ。


(……随分と楽しそうだな)


フェルディナントは、思わずその姿を目で追った。

昨日まで、彼女にとってこの屋敷は縁もゆかりもない場所だったはずだ。

それなのに、もう庭師とも打ち解けているらしい。

すると、不意にアレクサンドリーヌが顔を上げた。


仮面をつけているのに、不思議と目が合ったと思った。

次の瞬間。


彼女の顔が、ぱっと輝いた。

そして、両手を大きく振り始めたのである。


「…………」


フェルディナントは、しばし固まった。

公爵令嬢として厳格な教育を受けてきたはずの女性が、まるで幼い少女のように、こちらへ向かって両手を振っている。

しかも、ひどく嬉しそうに。


(……私に、か?)


左右を見るも、ほかに誰もいない。

どうやら、そうらしい。


フェルディナントは少しためらった後、そっと片手を上げた。

すると、アレクサンドリーヌは花開くように微笑んだ。

その笑顔につられるように、彼の口元もわずかに緩む。


「……旦那様」

「!」


背後から声をかけられ、フェルディナントは振り返った。

執事が、書類を手に立っていた。


「奥様は、庭園がお気に召したようでございますね」

「……そのようだ」

「旦那様も、いつになく楽しそうでいらっしゃいます」

「…………」


フェルディナントは無言で机へ戻った。

執事は何事もなかったように書類を差し出す。


「こちら、ご確認をお願いいたします」

「……ああ」


その声が、いつもよりわずかに低かったことについて、執事は何も言わなかった。



***



その日の午後、フェルディナントは王宮へ向かう馬車の中にいた。

窓の外を流れる街並みを眺めながら、今朝の出来事を思い返す。


『とても幸せですわ』


妻は、そう言っていた。

皇太子から一方的に婚約を破棄され、望んだわけでもない相手に嫁がされたというのに。

もっとも、皇太子の判断には、宮廷でも疑問の声が上がっていた。

ヴァルモン公爵家は、王国でも有数の名門である。

その令嬢との婚約を一方的に破棄したばかりか、格下の伯爵家、それも『処刑人』へ嫁がせるなどあまりに軽率な振る舞いだった。


表立って異を唱える者は少ないが、皇太子に不満を抱く貴族は決して少なくない。


(……いや)


フェルディナントは、そこで思考を打ち切った。

自分の役目は、命じられた仕事を果たすことだ。

それ以上でも、それ以下でもなかった。


ただ。


今朝の妻の笑顔だけは、どうにも頭から離れない。

彼女は本当に喜んでいるのだ。


だが、何を?


(……分からないな)




***




それから数日後。

仕事を終えて帰宅したフェルディナントは、玄関広間でアレクサンドリーヌに迎えられた。


「お帰りなさいませ、旦那様!」

「ただいま戻りました」


いつものように、妻は嬉しそうに微笑んでいる。

しかし、今日は少し様子が違った。


両手を背中に隠し、何やら落ち着かない様子でこちらを見上げている。


「……どうかなさいましたか?」

「い、いいえ。その……」


アレクサンドリーヌは、視線を左右にせわしなく動かしている。

何か言いたいことがあるらしい。


「何でも仰ってください」

「……実は」


彼女は少し迷ってから、背中に隠していたものを差し出した。


「刺繍を、その」

「刺繍、ですか?」

「はい。旦那様に、何かお贈りしたくて……」


差し出されたのは、一枚の白いハンカチだった。

端には、黒と銀の糸で何かの模様が縫われている。


「…………」


フェルディナントは、それをじっと見つめた。

鳥のようにも見える。

いや、植物だろうか。

翼らしきものが左右に広がっているが、片方は妙に短く、中央には何とも形容しがたい曲線が走っていた。


「……?」

「伯爵家の紋章ですわ」

「…………」


フェルディナントは、もう一度ハンカチを見た。

伯爵家の紋章。


……いや。


「……ふっ」


思わず、声が漏れた。


「……ふ、っ」


こらえきれずに、もう一声漏れてしまった。


「だ、旦那様!?」


アレクサンドリーヌの顔が真っ赤になる。


「いえ、失礼」


伯爵家の紋章を、ここまで独創的に表現したものは初めて見た。


「私のために?」

「……はい」


アレクサンドリーヌは、両手で顔を覆った。

耳まで赤い。


「……ありがとうございます」


彼は、ハンカチを丁寧に畳んだ。


「大切に使わせていただきます」


アレクサンドリーヌは、そろそろと指の隙間から彼を見上げた。


「……本当に?」

「ええ」


フェルディナントが頷くと、アレクサンドリーヌの表情がゆっくりとほころんだ。


「……よかった」


小さく呟き、彼女は嬉しそうに笑った。

フェルディナントは、その笑顔をしばらく見つめていた。



***



その日の夕食、フェルディナントは、ふと気になっていたことを思い出す。


「ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか」

「もちろんですわ」


彼は、少し言葉を選んだ。


「あなたは、なぜ……そのように明るくしていられるのですか?」

「……明るく、ですか?」

「ええ」


フェルディナントは、静かに続けた。


「皇太子殿下との婚約を破棄され、私との婚姻を命じられた。あなたにとって、決して喜ばしい出来事ではなかったはずです」


アレクサンドリーヌは、少し驚いたように目を瞬いた。


「それなのに、あなたはいつも笑っていらっしゃる」

「…………」

「無理をしているのではないかと、気になっていました」


その言葉に、アレクサンドリーヌは目を伏せた。


そして、ふっと微笑んだ。


「……旦那様は、本当にお優しいのですね」


アレクサンドリーヌは、少し考えるように間を置いた。


「……実は、わたくし、幼い頃に誘拐されたことがございますの」


フェルディナントの手が止まった。


「……誘拐?」

「ええ。十二年前のことです」

「…………」

「王宮での出来事でした。詳しいことは、今でもあまり覚えておりませんけれど……」


アレクサンドリーヌは、遠い記憶を辿るように目を細めた。


「とても怖かったことだけは、覚えています。箱の中に閉じ込められて、どこへ連れていかれるのかも分からなくて……」


フェルディナントは、黙って耳を傾けていた。


「でも、助けてくださった方がいたのです」

「……どなたですか?」

「分かりません。お名前も、何も」


彼女は、目の前の自分を、妙に懐かしげな眼差しで見つめていた。


十二年前。

王宮。

誘拐された少女。

フェルディナントの胸の奥で、古い記憶が静かに動き始めた。


「その方は、わたくしを庇って、お怪我をなさいました」

「……どこに?」

「こめかみです。目元にかかるほどの傷を……」

「…………」


フェルディナントは、息を止めた。

脳裏に、十二年前の光景が蘇る。


薄暗い通路。

震えていた箱の中の小さな少女。

彼女を抱き寄せた瞬間、顔の横を走った鋭い痛み。


『……』


あのとき、少女は目の前で血を流す自分を見て目を見開いていた。

だから、彼は言ったのだ。


『大丈夫。必ず、助けるから』


「……その少年は」


フェルディナントは、慎重に口を開いた。


「その後、どうなったのですか?」

「分かりません」


アレクサンドリーヌは、静かに首を振った。


「気がついたときには、もうお姿がなくて……。どれほど探しても、見つからなかったのです」

「…………」

「でも、忘れたことはございません」


彼女は、胸の前でそっと両手を重ねた。


「あの方が助けてくださらなければ、今のわたくしは、ここにいなかったでしょうから」


フェルディナントは、何も言えなかった。

あの少女が。

自分の腕の中で震えていた、小さな少女が。

今、目の前にいる。

しかも、自分の妻として。


「皇太子殿下との婚約がなくなったときも……悲しいとは思いましたけれど、どこかで、これも運命なのかもしれないと思いましたの」


彼女は、柔らかく微笑んだ。


「殿下とは、きっとご縁がなかったのでしょうね」

「……そう、ですか」

「ええ」


アレクサンドリーヌは、それ以上は語らなかった。

一方、フェルディナントは、静かに息を吐いた。

十二年前、確かに助けた少女がいた。


その後、彼女がどうなったのか、詳しいことは知らされなかった。

無事に保護されたとは聞いていたが、名前も、身分も知らなかったのである。


(……そうか)


生きていた。

無事に成長していた。

そして、こうして笑っている。


「……お話しくださって、ありがとうございます」

「いいえ。こちらこそ、聞いてくださってありがとうございます」


アレクサンドリーヌは微笑んだ。


そして、少し身を乗り出した。


「それより、旦那様」

「……はい?」

「わたくし、ひとつお伺いしたいことがございますの」

「何でしょう?」

「旦那様は、どのようなお料理がお好きなのでしょう?」


あまりに突然の話題に、フェルディナントは目を瞬いた。


「……特に、好き嫌いはありませんが」

「まあ。では、一番お好きなものは?」

「……そうですね」


フェルディナントは、しばし考え込んだ。

これまで、食事に特別な関心を払ったことはなかった。

空腹を満たせれば、それでよかったのである。


「……焼き菓子は、嫌いではありません」

「焼き菓子!」


アレクサンドリーヌの顔が輝いた。

彼女は、まるで大切な秘密を教えてもらったかのように、嬉しそうに微笑んだ。


「旦那様のお好きなものを、ひとつでも多く知りたいのです」


アレクサンドリーヌは、真っすぐに彼を見つめた。

フェルディナントは、また言葉に詰まった。


十二年前の少女。


あの少女が目の前で、こうして微笑んでいる。

その笑顔を見つめながら、フェルディナントは胸の奥に芽生えた、まだ名も知らぬ感情を持て余していた。



***



翌日。

フェルディナントは、王都の外れにある一軒の屋敷を訪れていた。

そこは、先代伯爵が隠居後に暮らしている別邸だった。


「珍しいな。お前が訪ねてくるとは」


書斎で迎えた老人は、穏やかに笑った。


「お久しぶりです、おじい様」

「何かあったのか?」

「……少し、お尋ねしたいことがありまして」


フェルディナントは、祖父の向かいに腰を下ろした。


「十二年前の、自分が関わったあの誘拐事件についてです」


窓の外では、木々の葉が静かに揺れていた。



***



その日の夕刻。

伯爵邸へ戻ったフェルディナントを、アレクサンドリーヌが笑顔で迎えた。


「お帰りなさいませ、旦那様!」

「……ただいま戻りました」


目の前にはいつもと変わらぬ妻の姿がある。


「……アレクサンドリーヌ」

「はい?」

「少し、お時間をいただけますか」

「もちろんでございます!」


彼女を連れて向かったのは、二人でくつろぐために用意された小さな居間だった。

フェルディナントは、彼女と向かい合って立った。


「……実は、ひとつお願いがあります」

「まあ。何でしょう?」


フェルディナントは、静かに仮面へ手をかけた。

アレクサンドリーヌは、目を見開いた。

これまで、誰の前でも素顔を見せたことはない。

傷痕もある。


けれど。

あの少女を──


仮面越しではなく、直に見たいと思ってしまった。



白い仮面が、ゆっくりと外される。

端正な顔立ち。

落ち着いた深い赤い色の瞳。


そして、こめかみから目元にかけて走る、古い傷痕。


アレクサンドリーヌは、息を呑んだ。


(……ああ)


十二年間、何度も思い描いた顔。

記憶の中の少年は、いつの間にか立派な青年になっていた。

間違いない。

あの日、自分を助けてくれた人だ。


「……旦那様」


声が、少し震えた。

フェルディナントは、彼女の反応を慎重に見守っていた。


やはり、傷が気になるのだろうか。

そう思ったとき。


「……嬉しい」


アレクサンドリーヌが、小さく呟いた。


「……え?」

「お顔を、見せていただけて……とても嬉しいですわ」


彼女は、目元を潤ませながら微笑んだ。


「ありがとうございます、旦那様」

「…………」


傷痕を見ても、彼女は少しも怯えなかった。

それどころか。

まるで、長い間待ち望んでいたものをようやく手にしたかのように、幸せそうに笑っている。


「……怖くは、ありませんか?」


思わず尋ねると、アレクサンドリーヌは不思議そうに首を傾げた。


「……この傷が」


フェルディナントは、こめかみに触れた。


「見苦しいとは、思いませんか」

「いいえ」


返事は、驚くほど早かった。

アレクサンドリーヌは、真っすぐに彼を見つめた。


「その傷は誰かを守った勲章なのでしょう?」

「…………」

「それに旦那様のお顔を、こうして拝見できることが、とても嬉しゅうございます」


彼女は、あの日の少女だった。

それだけでも十分に驚くべきことなのに。

今、目の前にいる妻は、十二年前の記憶とは関係なく、自分の心に少しずつ入り込んでいる。確実に。


フェルディナントは、ようやく微笑んだ。

仮面に隠されていない、穏やかな笑顔だった。

それを見たアレクサンドリーヌは、胸の前で両手を握りしめた。


(……笑ってくださった)


あの日の少年が。

今、自分の目の前で。

こんなにも優しく笑っている。


「……旦那様」

「はい」

「これからも、お屋敷では……そのお顔を見せていただけませんか?」


フェルディナントは、少し驚いたようだった。


けれど、すぐに頷いた。


「……あなたの前でしたら」

「まあ……!」


アレクサンドリーヌの顔が、ぱっと輝いた。


「ありがとうございます!」


その笑顔につられるように、フェルディナントもまた微笑んだ。



***



伯爵邸での暮らしにも、少しずつ慣れてきた頃だった。

アレクサンドリーヌのもとに、王宮から一通の書状が届いた。


差出人は、王妃。

茶会への招待という形式ではあったが、実質的には呼び出しである。

アレクサンドリーヌは、封書を見つめた。


皇太子との婚約が破棄されて以来、王妃と顔を合わせる機会はなかった。

今さら何の用だろうか。

けれど、王妃からの招待を無下に断るわけにもいかない。

アレクサンドリーヌは、指定された日に王宮へ向かうことにした。






「久しいわね、アレクサンドリーヌ」

「ご無沙汰しております、王妃陛下」


王妃の私室に通されたアレクサンドリーヌは、深々と礼を取った。

彼女は長椅子に腰掛け、優雅に茶器を手にしている。


「伯爵家での暮らしはどう?」

「皆様によくしていただいております。おかげさまで、何不自由なく過ごしておりますわ」

「……そう」


王妃は、わずかに目を細めた。


「あなたには、気の毒なことをしたと思っているのよ」

「……と、おっしゃいますと?」

「息子のことよ。あの子も少々、性急だったわ」


アレクサンドリーヌは、静かに王妃を見つめた。


「けれど、今からでも遅くはないと思うの」


王妃は、茶器を置いた。


「伯爵との婚姻を解消なさい」

「…………」

「あなたほどの令嬢が、あのような男の妻でいる必要はないでしょう。ヴァルモン公爵家の令嬢にふさわしい縁談なら、いくらでも用意できるわ」


アレクサンドリーヌは、一瞬だけ目を瞬いた。

そして、穏やかに微笑んだ。


「お気遣い、ありがとうございます」

「では――」

「ですが、お断りいたします」


王妃の表情が止まった。


「……何ですって?」

「わたくしは、旦那様との婚姻を解消するつもりはございません」

「アレクサンドリーヌ。あなた、自分の立場を理解しているの?」

「はい」


アレクサンドリーヌは、真っすぐに王妃を見つめた。


「わたくしは、フェルディナント伯爵の妻でございます」

「……あの男が、どのような人間か知っているのでしょう?」

「もちろんですわ」


王妃の眉がわずかに動く。


「この国の『処刑人』よ。人々から恐れられ、忌み嫌われる男なのよ?」

「存じております」

「ならば、なぜ――」

「旦那様は、とてもお優しい方ですもの」


アレクサンドリーヌは、迷うことなく答えた。


「わたくしを大切にしてくださいます。いつも気遣ってくださいますし、何より、わたくしは旦那様と過ごす時間が大好きなのです」

「…………」

「ですから、王妃陛下」


彼女は、丁寧に頭を下げた。


「どうか、わたくしの幸せを奪わないでくださいませ」


王妃は、しばらく何も言わなかった。

ヴァルモン公爵家と、王家の処刑人を務める伯爵家。その結びつきを、このまま放置するわけにはいかなかった。

やがて、冷ややかな声が落ちる。


「……後悔しても知りませんよ」

「ご心配には及びません」


アレクサンドリーヌは、顔を上げた。


「旦那様の妻でいられることを、わたくしは誇りに思っておりますから」


その微笑みは、最後まで揺らがなかった。



***



同じ頃。

フェルディナントもまた、王宮へ呼び出されていた。

相手は、皇太子である。


「単刀直入に言おう」


執務室の椅子に深く腰掛けた皇太子は、フェルディナントを見据えた。


「アレクサンドリーヌとの婚姻を解消しろ」

「……理由を伺っても?」


フェルディナントは、黙って皇太子を見つめた。


「ヴァルモン公爵家は、王国でも有数の名門だ。その娘をいつまでも『処刑人』の妻にしておくわけにはいかん」

「……殿下が、お命じになった婚姻ですが」

「母上がうるさくてな。事情が変わったのだ」


皇太子は、不機嫌そうに眉を寄せた。


「よいから、離縁状にサインしろ。公爵家への説明はこちらで行う」

「……ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」

「何だ」

「それは、妻の望みでしょうか」

「……は?」


皇太子は、眉をひそめた。


「アレクサンドリーヌ自身が、婚姻の解消を望んでいるのでしょうか」

「はッ、本人に聞くまでもないだろう」

「……そうですか」


フェルディナントは、静かに頷いた。


「でしたら、お断りいたします」

「何だと?」

「妻が望まぬ限り、離縁するつもりはございません」

「貴様……誰に向かって口を利いている!」


皇太子が声を荒らげる。

だが、フェルディナントは少しも動じなかった。


「殿下。私は、妻を不幸にするために娶ったわけではありません」

「…………」

「婚姻を命じられたのは殿下です。しかし、今は私の妻です」


白い仮面の奥から、静かな声が響く。


「その意思を確かめることなく、手放すことはできません」

「……後悔するぞ」


フェルディナントは一礼した。


「ほかにご用がなければ、失礼いたします」


執務室を辞した後も、彼の胸には皇太子の言葉が残っていた。


婚姻を解消しろ。


以前の自分なら、どう答えていただろう。

迷わず離縁したはずだ。

彼女が自由になることこそ、最善だと思っていた。


だが、今は。


(……手放したくない)


その思いが、あまりにも自然に胸に浮かんだ。


帰れば、目の前に彼女がいる。

お帰りなさいませ、と笑ってくれる。

そんな日々が、いつの間にかかけがえのないものになっていた。


(……そうか)


フェルディナントは、ようやく気づいた。


自分はもう、あの屋敷に彼女がいない暮らしなど、考えられなくなっているのだ。





フェルディナントは、先日祖父の暮らす別邸を訪ねたときのことを思い出していた。

先代伯爵は、孫をじっと見つめた後、窓の外に視線を移した。


「……何か、気になることがあるのか」

「ええ」


フェルディナントは頷いた。


「妻が、なぜ狙われたのか。それを知りたいのです」


先代伯爵は、ゆっくりと息を吐いた。


「……あの事件には、王妃の意向が関わっていた」

「…………」

「当時、王妃はヴァルモン公爵家の影響力を疎んじていた。自分の息子の婚約者を、別の家の娘に替えたかったのだ」

「……それで、誘拐を?」

「動いたのは王妃の周囲にいた侯爵家だ。だが、連中には別の思惑もあった」


老人の声が、低くなる。


「あの娘を、隣国へ売り飛ばすつもりだったのだ」

「…………何?」

「連中は、裏で人身売買に手を染めていた。公爵令嬢であれば、身分を隠しても高値がつくと考えたらしい」


フェルディナントの指が、静かに握り込まれた。


「……王妃は、それを?」

「人身売買の計画までは知らなかったはずだ。少なくとも、王妃がそれを承知していた証拠はなかった」

「…………」

「公爵令嬢が誘拐された等、表に出すわけにはいかなかった。事件は、禁止されていた人身売買の罪を問う形で捜査が進められた。結果、侯爵家は取り潰された。侯爵は王妃の指示だったと証言した。だが、それを裏づける証拠は見つからなかった」


老人は、孫を見つめた。


「それ以上、追及することはできなかったのだ。だが王妃一派の力を削ぐことはできた」


フェルディナントは、何も言わなかった。


十二年前。

箱の中で震えていた少女。

自分を見上げていた、大きな瞳。


あのまま助け出せなければ。

彼女は、遠い異国へ売られていたのかもしれない。

二度と、故郷へ帰れなかったかもしれない。

あの時、自分は間に合ったのだ。


「……おじい様」

「何だ」

「お話しいただき、ありがとうございました」


フェルディナントは、静かに立ち上がった。

あの日、その声は驚くほど穏やかだった。




だが今──


フェルディナントの赤い目が細められた。



***



その夜。

王妃の私室に、ひとつの影が現れた。

灯火の揺れる室内。

窓は閉ざされ、扉の外には衛兵が控えている。

それにもかかわらず、黒衣の人物は音もなくそこに立っていた。


「……何者っ」


王妃の声が震えた。

顔全体を覆う黒い仮面をつけた男は、静かに一礼した。


「王の影――『烏』」

「……烏?」


王妃の顔色が変わった。


王の影。

噂だけだと思っていた。

国王の命によって動き、王家に仇なす者を密かに処断する存在。


「わたくしに何の用です」

「十二年前の事件について」

「……十二年前?」

「ヴァルモン公爵令嬢の誘拐事件です」


王妃の指先が、わずかに動いた。


「……何の話か分からぬ」

「ご存じのはずです」


男は、淡々と告げた。


「あの誘拐を命じたのは、王妃陛下。あなたですね」

「無礼者!」


王妃が声を荒らげる。


「証拠もなく、このわたくしを愚弄するつもりか!」

「……証拠がないからこそ、十二年間、何事もなかった」

「…………」

「だが、それもここまでだ」


男は、一歩だけ前へ進んだ。


「これ以上、私の妻に手を出すことは許さない」

「……妻?」


王妃が眉をひそめた。


その瞬間。

男は、ゆっくりと黒い仮面を外した。

灯火に照らされ、こめかみから目元へと走る古い傷痕が浮かび上がる。


「…………!」


王妃は、息を呑んだ。


「お、お前は……!」


見覚えのある顔。

十二年前に不慮の事故で死亡したとして王家から姿を消した、かつての第一王子。

国王の側にいる、憎いあの女の生んだ赤い目の──。


「……カイエル……!」

「お久しぶりです、王妃陛下」


フェルディナントは、静かに微笑んだ。


「まさか……お前が、『烏』……!?」

「ええ」

「…………」

「王家の一員として、あなたの行いを見過ごすわけにはいきません」


彼は、王妃を見据えた。


「十二年前のことも、今回のことも」

「……何をするつもり」

「今夜は、警告を」


静かな声だった。

けれど、そこには一切の迷いがなかった。


「これ以上、アレクサンドリーヌに関わるな」

「…………」


フェルディナントは、わずかに目を細めた。

暗闇の中で赤い目だけが光っている。


「次は、ない」


王妃は、何も言えなかった。

目の前の男が、ただの伯爵ではないことを、今ようやく理解したのだ。


王の影。

死んだはずの第一王子。

そして、アレクサンドリーヌの夫。

そのすべてが、一人の男だった。


フェルディナントは、再び仮面をつけた。


次の瞬間には、黒衣の姿は闇の中へ消えていた。

王妃は、しばらく動けなかった。

ただ、閉ざされた窓を茫然と見つめたまま──



***



十二年前。

まだ第一王子カイエルだったフェルディナントは、常に命を狙われていた。

毒を盛られ、事故を装われ、幾度となく死の危険に晒されてきた。

側妃の第一王子という身分は、彼を守るどころか、命を狙われる理由になっていた。


そんなある日、刺客から逃げた先の王宮の隠し通路に、人が通った形跡を見つけた。

不審に思い、王宮の外へ続く痕跡を追った先で、箱に閉じ込められた少女を発見したのだ。


少女を助け出そうとした際、犯人たちから彼女を庇い、顔に傷を負った。十二歳の少年に、侯爵一派を相手にする力などなかった。

そこへ駆けつけたのが、祖父の率いる『烏』たちだった。



祖父が『処刑人』だけでなく、国王の影『烏』をも率いていると知ったのは、そのときだった。

彼らは犯人一派を制圧し、すぐさま事件の収束に動いた。

その姿を見て、カイエルは思った。


(……力が欲しい)


王子でいる限り、自分は命を狙われ続ける。

だが、祖父たちのような力を持てたなら。


自分の命も、誰かの命も守れるのではないか。

王位も、第一王子という名もいらなかった。


カイエルは、祖父にその思いを告げた。

祖父は、孫を王宮から遠ざけることを決意した。

やがて第一王子の死が偽装され、カイエルは王家から姿を消した。


そしてフェルディナントは伯爵家に迎えられ、『処刑人』と『烏』の道を歩み始めたのである。



***



王都の喧騒がすっかり静まり返った頃、フェルディナントは伯爵邸へ戻った。

王妃との対峙を終え、黒い仮面を白いものへと替えている。

馬車が止まり、フェルディナントは静かに降り立った。

玄関の扉が開く。


「お帰りなさいませ、旦那様!」


聞き慣れた声が響いた。

アレクサンドリーヌが、いつものように笑顔で立っていた。


「……ただいま戻りました」

「お仕事、お疲れ様でございました。今夜は随分と遅くなられましたのね」

「申し訳ありません。お待たせしてしまいましたか」

「いいえ!」


彼女は、嬉しそうに首を振った。


「旦那様がお戻りになるまで、起きていたかっただけですもの」

「……そうですか」


フェルディナントは、しばらく妻を見つめた。

命を奪うことも、奪われることも、常に隣り合わせだった。

だが、ここでは違う。


目の前の彼女は、ただ自分が帰ってきたことを喜んでいる。


(……帰る場所、か)


不意に、胸の奥が温かくなった。


「……アレクサンドリーヌ」

「はい?」

「少し、お話をしてもよろしいでしょうか」

「もちろんでございますわ!」


彼女は、何の迷いもなく微笑んだ。




***




二人は、小さな居間へ向かった。

暖炉には火が入れられており、室内は柔らかな暖かさに包まれていた。

アレクサンドリーヌが長椅子へ腰掛けると、フェルディナントはその隣に座った。

以前なら、向かいの椅子を選んでいただろう。

けれど今は、彼女の傍にいたかった。


「……旦那様?」


アレクサンドリーヌが、不思議そうに顔を覗き込む。


「何か、ございましたか?」

「……いいえ」


フェルディナントは、小さく首を振った。


「ただ、あなたにお伝えしたいことがありまして」

「まあ。何でしょう?」


彼は、白い仮面に手をかけた。

ゆっくりと外し、傍らの卓へ置く。


「……私は、これまで、自分の生き方に疑問を持ったことはありませんでした」

「…………」

「自ら選んだ道を進み、役目を果たす。それが私のすべてでした」


アレクサンドリーヌは、黙って耳を傾けていた。


「ですが、あなたと暮らすようになって……少し、変わったようです」

「……変わった?」

「ええ」


フェルディナントは、彼女を見つめた。


「あなたが笑ってくださることが、嬉しいのです」

「…………!」


アレクサンドリーヌの頬が、みるみる赤くなった。


「朝、一緒に食事をすることも。帰れば、あなたが迎えてくださることも」

「だ、旦那様……」

「今まで、そんなことを考えたことはありませんでした」


彼は、静かに微笑んだ。


「……あなたの待つ家に帰れることが、これほど幸せだとは思いませんでした」


アレクサンドリーヌは、しばらく何も言えなかった。

やがて、そっと手を伸ばす。

こめかみから目元へと走る、古い傷痕。

その上を、指先が優しくなぞる。


「……わたくしも、幸せですわ」

「…………」

「旦那様が、こうして無事に帰ってきてくださることが」


彼女は微笑んだ。


「わたくしにとって、何より嬉しいことですもの」


フェルディナントは、その手に自分の手を重ねた。


十二年前。

この傷を負ったとき、少女は目を見開き、そして泣きそうな顔で自分を見つめていた。


だが今は──


「……アレクサンドリーヌ」

「はい?」

「私は、あなたを守りたいと思っています」

「…………」

「これから先、何があっても。あなたが安心して笑っていられるように」


アレクサンドリーヌの瞳が、わずかに潤んだ。


「……旦那様」

「ですが」


フェルディナントは、少しだけ言葉を詰まらせた。


「……それだけでは、足りなくなってしまったようです」

「……え?」

「あなたと、一緒にいたいのです」


その言葉に、アレクサンドリーヌは目を見開いた。


「明日も、その次の日も。こうしてあなたと過ごしたい」

「…………!」

「……私のわがままを、許していただけますか」


アレクサンドリーヌは、両手で口元を覆った。


「……そんな」


声が震える。


「そんなこと……!」


彼女は、勢いよく首を振った。


「許すも何もございませんわ!」

「……え?」

「わたくしこそ、ずっと……!」


そこまで言って、アレクサンドリーヌは口を閉じた。

頬が真っ赤になっている。

フェルディナントは、そんな妻を見つめながら、ふと違和感を覚えた。

先ほど、彼女は迷いなく傷痕に触れた。


以前、初めて仮面を外したときもそうだった。


『その傷は誰かを守った勲章なのでしょう?』


あの言葉。

そして、十二年前の誘拐事件について語ったときの、妙に懐かしそうな眼差し。


(……まさか)


フェルディナントは、息を呑んだ。


「……アレクサンドリーヌ」

「……はい」

「あなたは……」


彼は、慎重に言葉を選んだ。


「私が、十二年前のあの少年だと……気づいていたのですか?」

「…………」


アレクサンドリーヌの動きが止まった。

そして。

頬が、さらに赤くなった。


「……はい」


小さな返事だった。

フェルディナントは、言葉を失った。


「……いつから?」


アレクサンドリーヌは、そっと目を伏せた。

それから、恥ずかしそうに微笑んだ。


「……旦那様に初めてお会いした時から、ですわ」

「…………」


フェルディナントは、しばらく考え込んだ。

初めて会ったとき。

それは、結婚式のことだろうか。

いや、それとも……十二年前のあの日のことを言っているのだろうか。


「……それは」


問い返そうとしたとき、アレクサンドリーヌが彼の手を握った。


「わたくし、ずっとお会いしたかったのです」

「…………」

「十二年間、ずっと」


彼女は、真っすぐに夫を見つめた。


「お名前も知らず、どちらにいらっしゃるのかも分からなくて……。それでも、忘れられませんでした」


フェルディナントの赤い目に、必死に思いを伝えようとしている妻が映る。


「……あの日、あなたが助けてくださったから」


アレクサンドリーヌは、少しだけ涙を浮かべた。


「わたくしは、こうして生きています」

「…………」

「そして今、あなたの妻として、ここにいられるのです」


彼女は、幸せそうに微笑んだ。


「わたくしが、あの日からどれほどあなたにお会いしたかったのか」


その声は、少し震えていた。


「そして、今。わたくしがどれほど幸せなのか……」


フェルディナントは、彼女の手を握り返した。


「今日も、明日も、その次の日も……」


アレクサンドリーヌは、そっと身を寄せた。


「あなたのお傍にいられることが、わたくしにとって何よりの幸せでございます」

「……アレクサンドリーヌ」


彼は、ゆっくりと妻を抱き寄せた。

華奢な身体が、腕の中に収まる。


十二年前。


あのときも、こうして彼女を抱きしめた。

けれど、今は違う。


守らなければならない少女ではない。

自分と同じ未来を望んでくれる、大切な女性だった。


「……ありがとうございます」


フェルディナントは、彼女の髪に頬を寄せた。


「私を、待っていてくださって」


アレクサンドリーヌは、彼の胸元に顔を埋めた。


「……」

「そして、私の妻になってくださって」

「……旦那様」

「……私は、あなたを愛しています」


その瞬間。

アレクサンドリーヌは、ぴたりと動きを止めた。


「…………」

「……アレクサンドリーヌ?」

「…………」

「……どうなさいました?」


彼女は、ゆっくりと顔を上げた。


頬も、耳も、真っ赤だった。


「……も、もう一度」

「……え?」

「もう一度、仰っていただけませんか……?」


フェルディナントは、目を瞬いた。

それから、ふっと笑った。


「……愛しています、アレクサンドリーヌ」

「…………!」


彼女は、再び彼の胸に顔を埋めた。


「……どうしましょう!!」

「……何がですか?」

「幸せすぎて、どうしたらよいのか分かりませんわ……!」


フェルディナントは、とうとう声を上げて笑った。

その笑い声を聞いて、アレクサンドリーヌもまた、嬉しそうに笑った。



***



王都の外れ。

先代伯爵が暮らす別邸では、老人が一人、暖炉の前に腰掛けていた。

卓の上には、古い書類が一枚置かれている。


十二年前。

第一王子カイエルの死亡を告げた、王家の記録だった。

老人は、それをしばらく眺めていた。

あの事件の後、孫を王宮から遠ざけた。

何度も命を狙われ、幼いながらに死を覚悟していた少年。


力が欲しいと告げた孫に、自分はその道を与えた。

だが。

その道が、決して幸せなものではないことも知っていた。


『処刑人』。

そして、『烏』。


どちらも、人から恐れられる役目だった。

それでも、孫は一度も弱音を吐かなかった。


「……フェルディナント」


老人は、静かに呟いた。


「お前は、幸せになっていいんだ」


暖炉の火が、ぱちりと音を立てた。


「……諦めなくていい」


その声は、誰にも届かない。

けれど、老人は穏やかに微笑んだ。


「今ある幸せを、しっかり噛みしめろ」


窓の外には、静かな夜が広がっていた。



***



それから、しばらくして。

王妃は体調不良を理由に、王都を離れた離宮へ移ることとなった。

表向きは静養のためとされたが、王宮へ戻ることはなかった。


皇太子もまた、王妃という後ろ盾を失い、宮廷での発言力を大きく弱めていった。

一方、ヴァルモン公爵家は、変わらず王国の重鎮としての地位を保ち続けた。

フェルディナントは、そうした宮廷の動きに深く関わろうとはしなかった。


彼には、守るべきものがあった。

そして、何より。


帰るべき場所があったのだから。



***



ある日の午後。

伯爵邸の庭園では、アレクサンドリーヌが夫と並んで歩いていた。


「……旦那様」

「はい?」

「わたくし、ひとつ気になっていることがございますの」

「何でしょう?」


アレクサンドリーヌは、少しだけ首を傾げた。


「旦那様は、いつからわたくしをお好きになってくださったのでしょう?」


フェルディナントは、しばらく考え込んだ。


「……いつから、でしょうね」

「まあ!」


アレクサンドリーヌは、頬を膨らませた。


「そこは、覚えていていただきたいですわ」

「申し訳ありません」


彼は、小さく笑った。


「ですが、ひとつだけ確かなことがあります」

「……何でしょう?」

「気づいたときには、もう、あなたのことばかり考えていました」

「…………!」


アレクサンドリーヌの頬が赤くなった。


「朝、庭園で両手を振ってくださったことも」

「……あ」

「私のために刺繍をしてくださったことも」

「……そ、それは!」

「毎日、笑顔で迎えてくださることも」


フェルディナントは、彼女を見つめた。


「……すべて、忘れられません」

「…………」

「あなたが何を喜び、何を好み、どんなときに笑うのか。そんなことばかり、考えてしまうのです」


彼は、少し困ったように微笑んだ。


「……まるで、呪いのように」


アレクサンドリーヌは、目を丸くした。


それから。


「……まあ!」


嬉しそうに笑った。


「では、今度はわたくしの番ですわ」

「……え?」

「わたくしは、あなたのすべてが好きですけれど……その中でも――」


彼女は、そっと夫の手を取った。


「旦那様が、幸せそうに笑ってくださるお顔が、一番好きですわ」


フェルディナントは、言葉を失った。


「……それは」

「ですから、これからも、たくさん笑ってくださいませ」


アレクサンドリーヌは、満面の笑みを浮かべた。


「わたくし、旦那様を幸せにして差し上げたいのです!」

「…………」


フェルディナントは、しばらく妻を見つめていた。

そして、ゆっくりと微笑んだ。


「……では、私も負けていられませんね」

「まあ。何を競うのでしょう?」

「あなたを、どちらがより幸せにできるか、です」


アレクサンドリーヌは、目を瞬いた。


そして。


「……ふふ!」


楽しそうに笑った。


「それでしたら、わたくし、負けませんわ!」

「私も、そのつもりです」


二人は、顔を見合わせて笑った。

かつて、王宮で命を狙われ続けた少年。

そして、十二年間、自分を助けてくれた少年を想い続けてきた少女。



遠回りをして、ようやく巡り会った二人は。


今、同じ未来を歩き始めていた。


最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!

いつもより少し長めのお話でしたが、楽しんでいただけましたでしょうか。


十二年間も想い続けたアレクサンドリーヌ。

これからは旦那様と、存分に幸せになってもらいたいと思います。

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