【第5章】別人
ひとしきり泣くだけ泣いて、私はハッと我に返った。
ここがカフェであることを忘れていた。彼のことも考えられなかった。突然、目の前で泣き出したりして……。
「ごめんなさい」
私は両手で涙を拭いながら、彼の方に視線を上げた。その時だった。
そこには、さっきまでとは違う彼がいた。
顎を少し引いて、こちらをじっと見つめている。そこに笑顔はなく、雰囲気もどこか暗くて、思い詰めているような顔だった。
私は慌てて、また謝る。
「ごめなさい。いきなり変な話をして、泣き出したりして……」
彼は表情を変えず、黙ったまま、こちらを見つめている。
ああ、やってしまった。
私はひどい後悔の念に襲われた。思わず視線を逸らして、また下を向いてしまう。
「佐藤さん」
彼が名前を呼ぶ。
私は申し訳ない気持ちを抱えて、うつむいたまま視線だけを向ける。
「佐藤さんは、ツラかったんだ……」
彼は落ち着いた口調で、そう呟いた。
まるで「やっと気づいたよ」と言うように……。
私は戸惑ってしまった。
否定してきた想いをどこか肯定してもらえたような感じがしたからだ。
「頑張ったね」
彼は無表情のままだったけれど、優しい目をしてそう言った。
聞き間違いではないかと思った。
今まで「頑張った」なんて言われたことがない。いつも「足りない」「もっと努力しなさい」と言われてきた。
「知らなかったんだ、ごめん」
謝る彼に、私は「いいえ」と言うように首を横に振った。
そこへ、コーヒーが運ばれてきた。
店員さんは「お待たせしました」と言って、私と彼の前にそれぞれコーヒーとミルクを置いた。
白くてシンプルなデザインのコーヒーカップの表面には、お店の名前が書かれている。
彼は、運ばれてきたコーヒーを飲む。私も同じように一口飲んでみる。
コーヒーの香りが鼻に広がった。深い味わい。あとからくる強過ぎない苦味。ミルクも一緒に運ばれてきたけれど、このまま飲むのが正解だと分かる。
「美味しい」という表情を彼に向ける。
そして、「ありがとう」とお礼を言った。彼は「うん」と頷いた。
その様子を見て、私は急に彼が幼い子供のように見えてきた。
まるで、母親に叱られるのではないかと、どこか恐れている子供のように萎縮している感じがした。
その後、私たちは黙ったままコーヒーを飲んだ。
彼は目線を下げて、何かを考えている。
私は本当に悪いことをしてしまったと思いながら、頭の中は彼の言葉が繰り返されていた。
「頑張った」と言ってくれた。
私は確かに頑張った。けれど、他の人から褒めてもらえるほどのことを、果たして出来たのだろうか。
頑張る方向を間違えていたのではないか。自分をいじめるように頑張り、傷ついたのは自分勝手な行為だ。私はもっと賢くなって頑張る必要があった。
でも、実際にはもうこれ以上できない自分がいた。
彼は、たくさんメンバーがいる中で、私を見つけて覚えていてくれた。
彼が言った「頑張った」という言葉は、目に見えるものだけを言っているのではない。
何か、もっと私の深い部分に触れたのだ。だから、こんなにも認めたくない気持ちが出てくる。
彼の言葉は、私の何に触れたのだろう?
結局、その日はそれ以上の会話はないまま、私たちは店を出た。
外は、昼を過ぎて夕方の空気を連れてきていた。それでも、まだ蒸し暑い。
「また会おう」
帰り際に、彼がはっきりとした口調でそう告げた。
それが美容院で会うという意味ではなく、また二人で会いたいという意味だと私にも分かった。
「……うん」
曖昧な返事をする。
私たちは、連絡先を交換して別れた。
カフェでの出来事が、現実ではなかったように思えてくる。お洒落な空間が、その気持ちを更に濃くしていた。
しかし、夏の暑さが私を現実へと引き戻す。また熱中症にならないように、私は駅へと急いだ。




