【第4章】カフェ
あの後、体調が回復した私はお礼を言い、飲み物代を払おうとした。すると、彼はそれを断り、代わりにカフェに行かないかと誘ってきた。
少し戸惑ったけれど、私は彼に興味を持っていた。話をしてみたい気持ちがあった。待ち時間、いつも彼のことを眺めていたから……。
それにしても、こんなお洒落なカフェに来るとは思わなかった。
そこは美容院から近く、歩いて行ける場所にあった。
カフェの外観は深緑色をしていて重厚な雰囲気を醸し出していた。
入口の上には店名が英語で書かれており、扉の両端には植木鉢が置かれ、綺麗な花が咲いている。
店の前には、メニュー表の看板が置かれていたが、彼はそれを見ずに扉を開けた。
カランカランと扉に付いた鐘が鳴る。
入った瞬間、コーヒーのいい香りに包まれた。
店内は薄暗く、奥に向かって縦長い。
天井には小さなシャンデリアの形をした照明が控えめに灯っている。
茶色の椅子は全てソファで4人席と2人席がある。カウンター席もあり、髭を生やしたマスターがコーヒーを淹れていた。
壁には、立派な額縁に入ったアーティスティックな絵が飾られていて、流れている音楽はクラシック。店の雰囲気にとても合っていた。
店員さんが「いらっしゃいませ」と言いながら、歩いてくる。
お客さんも少なかったので、私たちは奥の4人席に案内された。
カフェと言うから、てっきり全国チェーンの店に行くのかと思っていた。
私は男性と二人きりでカフェに来るのは、これが初めてだった。
中学生の時から、歌手や役者などの『表現者』になりたくて、ダンススクールやボイスレッスンに通い出した。
かなり厳しいスクールで、レッスンは夜遅くまで続いた。
特に私は、他の子たちと比べて習い始めたのが遅かったから、よく先生に怒られていた。
悔しい想いを糧にレッスンに励み、それに学業も合わさって、男の子と付き合う余裕などなかった。
たくさんのオーディションを受けたけれど、全て不合格。唯一受かったのが、アイドル事務所だった。
憧れていたのは、アイドルではなかった。正直、興味もなかった。
けれど、ことごとくオーディションに落ちた私に他の道はなく、与えられた場所で頑張ることにした。
そして、暗黙の了解である恋愛禁止も受け入れた。
つまり、私は男性と付き合ったことがない。二十五歳にもなって、そのことを自分でも恥ずかしく思っている。
私たちは、コーヒーを注文した。
この店は、マスターがこだわりの強い人で、注文から席にコーヒーが運ばれてくるまで、時間が掛かるらしい。けれど、一度飲んだら他のコーヒーが飲めなくなると彼は語った。それほど、美味しいらしい。
「お洒落なカフェですね。よく来るんですか?」
男性と二人きりで話すことに緊張しながら、私は訊ねた。
「美容院の近くだから、たまに来ます。他のカフェにも行きたいから、頻繁ではないけど。僕、カフェ巡りが趣味なんです」
彼は、いつも美容院にいる時と変わらない、明るい声で話す。
しかし、カフェ巡りが趣味というのは、ちょっと意外だった。もっと、アクティブなアウトドア派かなと思っていたからだ。それでも、趣味があるのは羨ましい。
「いいですね。私は、趣味や特技がないから、そういうの憧れます。持ちたいとは思ってるんですけど……」
ついつい、自分に否定的な言葉が出てしまう。
ああ、私はいつからこんな風になったのだろう。アイドルを始めてから、すっかり性格が変わってしまった。自分に自信がなくなり、もともとの元気だった私はどこにいったのだろう。
私は少しうつむいた。
「佐藤さん、歌上手いじゃないですか」
彼は、カラッと晴れた青空を見るような声で言った。
「え?」
私は、反射的に顔を上げる。
「『青春まるぐりっと』」
彼のその言葉に、私は凍りついた。
「『青春まるぐりっと』の、かほるんですよね?」
時間が止まった気がした。店内にはクラシックが流れているはずなのに、何も聞こえない。
私は固まったまま、彼の顔を見つめる。
綺麗な二重のくるりとした大きな目が無邪気に笑っている。
私はどんな顔をしているだろう。多分、目を見開いて驚きを隠せない表情をしていたと思う。
「何で……」
思わず声が漏れる。
『青春まるぐりっと』は、私が所属していたアイドルグループの名前だ。そして『かほるん』は、私のニックネームだ。
なぜ、この人がそれを知っているのだろう。アイドルには興味なさそうに見える。
何より私はいつも端で踊る戦力外メンバーだ。
卒業の時も、センターに立っていたメンバーの子と同時卒業だったので、その子ばかりが注目されていた。
私のことを知っているのは、コアなファンだけで、あとは記憶にも残らない存在だったのに……。
彼は、私の動揺に気づいていないようだった。変わらない表情と声で、平然と言う。
「友達にアイドルファンのやつがいて、そいつの推しの卒業ライブに誘われたんです。初めてアイドルのライブに行ったけど、ステージの上に佐藤さんがいました」
最悪だ。この人は、アイドル時代の私を知っている。
一人ひとりに独特の自己紹介があって、私が卒業ライブでもやっていた、
「かわいい、かわいい、かほるんるんるん! 佐藤香穂子です」
と言うのも、この人は見ている。
「いつから……、気づいてた?」
声がか細くなり、震えてしまう。私はつい敬語でなくなってしまっていた。
「最初に店に来た、支払いの時に」
彼の言葉に被せるように、私の声は大きくなる。
「忘れて」
お願いするように、吐き捨てる。
「今すぐ、忘れて」
私の中で、あの頃の気持ちが鮮明に蘇っていた。
後悔はしていないと思う。たくさんの人たちに支えられて、家族にも長い間応援してもらった。本当に感謝している。
でも、あの頃の私を忘れて欲しい。
「何で?」
彼が不思議そうに訊ねる。
「私は、本当の私は……。あんな、全然、可愛くなんかないから」
もう気持ちが止まらない。
今までの想いが溢れ出して、私は堰を切ったように喋り出した。
「表では、みんなに笑顔振りまいて、可愛い子ぶって媚びを売ってきた。それは本当の私なんかじゃない。
でも、そこを離れたら、どこにも居場所なんてないことが分かっていたから……。
最初から分かってたんだ。それなのに無理を重ねてきた。その分だけ、結局全部自分に跳ね返ってきた。自業自得だよ」
私は、とにかく頑張っていた頃を思い出していた。自分をいじめるような頑張りを、当時は誇らしく思っていた。
大丈夫、私は成長している。強くなっていると言い聞かせてきた。とんだ勘違い。私は何を信じてきたのだろう。そして、自分自身を失ってしまった。
「アイドルを辞めても、前の自分に戻れる訳じゃない。明るくて元気だった頃の私は、もうどこにもいない。これからも、この自分を抱えて生きていくしかないんだ」
そう決めたはずだった。
だから髪を切った。メイクもファッションも、全部変えた。
それなのに、心は未だに引きずっていることに気付く。
「自信があった。この道を行こうって、決めたのは自分だから。弱音は、全部ただの言い訳だった。
見つけてもらえると思っていた。例え、端の方でも、きっと誰かが見てくれている。いつか夢は叶うって……」
ふと私の中で、何かが切れた。
目からは大粒の涙が、ボロボロと溢れてきた。唇や声も震えて、涙を隠すように顔を下げた。まばたきをすると、余計に涙はこぼれた。
「でも、どんなに頑張っても足りなくて……。私は、どれだけ頑張ることができれば良かったんだろう。どれだけ強くなれれば良かったんだろう。でも、もう無理だった。無理だったんだよ……」
誰にも、どこにも、言えなかったことが涙と一緒に流れていく。
誰にも言えなかったのは、みんなも頑張っていたから。どこにも言えなかったのは、この道を行くと決めたのは自分だったから。
私は下を向いたまま、泣き続けた。荒れ果てた大地に雨が降り続くように、涙は止まらなかった。




