【序章(2)】彼女
僕は、ずっと彼女を名前で呼びたかった。
彼女の名前を呼んだ時、何とも言えない気持ちになった。今まで抱えていた違和感が解けていく感じがした。
僕は笑っていた。
生まれて初めて、僕は笑ったのだ。
彼女と駅で別れたあと、家までの長い帰り道で想いを巡らせた。
さっきまで降っていた雪は、もう止んでいる。それでも、冷たい風が頬をさす。
5階建てのマンションの4階に僕は住んでいる。
エレベーターはない、オートロックもない、家賃の安いマンションだ。
階段を上り、通路奥の角部屋に帰り着いた。
扉を開けると、真っ暗で静かな部屋が広がっている。カーテンはなく、窓からは月明かりが差し込んでいる。テレビも、電子レンジも、ベッドもない。あるのは、小さな冷蔵庫と洗濯機だけ。
ワンルームの部屋は狭いけれど、家具や家電がほとんどないため、広く感じる。
ただ、小さなクローゼットに収まらない派手な服が、部屋の隅に積まれている。
僕は灯りも点けないまま、部屋の真ん中に行き、そのまま仰向けに寝そべった。
違和感の無くなった心は、帰り着いた頃には充実感に変わっていた。
その気持ちは、ああ、そうだ……。
「香穂子」
暗い部屋で、またぽつりと呟く。
この辺りは静かで、外からの音はほとんどなく、隣の部屋も今は空いている。たまに、上の階に住む人の足音が聞こえるくらいだ。
この家賃で、この静けさは有り難かった。
僕は丸くうずくまってみた。
この世界で、この現実で出会えた、懐かしい人……。
いつの間にか、僕は眠っていた。
夢の中で香穂子が笑っている。やっと、僕は安心できる場所を見つけたみたいだ。
もう迷子にならないように、僕は彼女と手を繋いだ。離れないように、しっかりと。




