【序章(1)】彼
その子供のような笑顔が忘れられない。いや、彼の場合「子供のような」ではなく、「子供そのもの」なのだ。
もう30歳になるのも近いのに、彼の外見はあまりに若かった。さすがに10代には見えないが、20代、いや年齢不詳という言葉が一番似合うだろう。
背も低く、私とほとんど変わらない。若く見える彼が、てくてくと歩く姿はどこか可愛らしかった。けれど、それを言うと彼はきっと嫌がるだろう。
髪を金色に染めていたこともあった。少し癖のある巻き毛がかった髪。今ではずっと黒髪でいるけれど、私もその方が彼には似合っていると思う。
ハンサムであることは間違いない。しかし、若く見えるのは、その顔が童顔だからではない。大きな二重の目に、高い鷲鼻、口は上品に小さく、眉は太い。一つひとつを合わせるとバランスが悪いように思えるが、なぜか綺麗に顔に収まっている。普通にしていれば、どこか冷たさを感じる顔だ。
しかし、彼は底抜けに明るかった。
友達も多く、いつも笑って仲間たちの場を盛り上げていた。子供時代は、アニメや漫画を見たり、友達とゲームで遊んだり、思春期に入れば初恋をして、部活動にも励んでいただろう。
私は彼のそんな昔話は、ほとんど知らない。けれど、何となく想像できた。社会人になってから、どうだったのかは知らないが、コミュニケーション能力が高い彼は、これからもその道を歩んでいくのだろう。
それなのに、なぜ彼は私と一緒にいるのだろう?
私と接する時の彼は、他の人と接する時の彼とまるで違う。別人だった。
彼は私の前では決して笑わず、いつも伏し目がちだった。
着ている服も普段は派手なものが多いのに、私と会う時はほとんど黒と白できめていた。シャツにパンツ、そして長めの羽織りで簡単にまとめたファッションだったが、よく似合っていた。どちらの服も完璧に着こなす彼は、お洒落な人だった。
「香穂子」
初めて名前で呼ばれた時のことを覚えている。それまで、ずっと苗字に「さん」付けで呼ばれていたのに、突然名前で呼ばれたのだ。
私たちは、いつもカフェで会っていた。彼自身がカフェ好きで、いろんな店を巡るのが趣味だった。
私とは、普通より少ないくらいの会話しかしない。ほとんど喋らない時もあれば、全く黙る時もある。ぽつりぽつりと話す声は、顔に似合わず低かった。いつもは明るく高い声を出すけれど、多分こちらが彼の本当の声なのだろう。
彼は、私に何か尋ねることはあっても、きっと興味はないと思っていた。
「じゃあ、またね」
そう言って、私は駅の改札口に向かった。
その時に、後ろから初めて名前で呼ばれたのだ。反射的に振り返ると、そこに笑っている彼がいた。
それがどこにも、誰にも見せたことがない表情だとすぐに分かった。仲間たちの前で見せるとびきりの笑顔でも、いつも私に見せていた無表情の顔でもない。穏やかで、寂しげで、そして……。
「ありがとう」
そう言って、彼は手を振り、またてくてくと歩いて夜の街に消えていった。
幼いとは思っていたけれど、もう充分大人である。それでも、その時の笑顔が私の心を掴んで離さなくなった。
子供のような笑顔。
愛おしさが胸に広がっていく。私の目からは涙がこぼれていた。初めて見た笑顔なのに、なぜか懐かしく思えた。




