90. 夜空に浮かぶミラーボール
夜空に浮かぶミラーボール
回転するミラーボールが、やけに広いベッドと、気まずい俺たち二人をキラキラと照らし出している。シャワーを浴びて出てきた後輩の夏川は、ホテルに備え付けの、いかにもな薄手のガウンを羽織っていた。濡れた髪から清潔な石鹸の香りがふわりと漂ってきて、俺はごくりと喉を鳴らす。
「先輩、あの……ドライヤーってどこですかね?」
「あ、ああ、多分テレビの下の棚あたりに……」
しどろもどろに答える俺の声は、自分でも情けないほど上ずっていた。夏川は「ありがとうございます」と小さく会釈すると、てちてちと歩いてドライヤーを探し始めた。ガウンの裾から覗く、驚くほど白く、細い足首がやけに目に焼き付く。駄目だ、意識するな。意識すればするほど、全身の血液が沸騰していくのがわかる。
ここは、どう見ても、いわゆる「ラブホテル」というやつだった。
テレビはやたらとデカいし、ベッドは円形でご丁寧にゆっくりと回っている。壁には意味のわからない抽象画が飾られ、天井には星空が描かれていた。俺と夏川が、こんな場所に二人きりでいる。その事実だけで、理性のネジが何本かまとめて吹き飛んでしまいそうだった。
夏川がドライヤーの温風を髪に当て始めると、ゴオオオという音と共に、シャンプーの甘い香りが部屋中に拡散された。その香りが、まるで目に見えない手のように俺の心を掻き乱す。
仕事中は、あんなに頼りになるのに。俺の突拍子もない企画案にも「面白いじゃないですか!やりましょうよ、先輩!」なんて言って、目を輝かせながら誰よりも熱心に協力してくれる。仕事が立て込んで俺がデスクで死んだ魚のような目をしていると、「先輩、これどうぞ。糖分足りてないんじゃないですか?」なんて言って、そっとチョコレートを置いてくれる。その気遣いが、どれだけ俺の荒んだ心を癒してくれたことか。
お互いに家庭がある。だから、この気持ちは墓場まで持っていくただの「憧れ」なんだと、そう自分に言い聞かせてきた。会社の飲み会で隣に座っても、出張の新幹線で席が隣になっても、俺たちは常に完璧な「先輩」と「後輩」を演じきってきたはずだった。
それなのに。
「先輩も、シャワー浴びてきたらどうですか?風邪ひいちゃいますよ」
ドライヤーを止め、櫛でしっとりとした髪をとかしながら、夏川が言う。鏡越しに目が合った。潤んだ大きな瞳が、不安と、そしてほんの少しの期待を込めて、俺を射抜いているように見えた。
もう、限界だった。
俺は無言で立ち上がると、夏川の細い腕を掴んだ。
「えっ、先輩……?」
驚く彼女をぐいと引き寄せ、そのまま壁に押し付ける。いわゆる、壁ドンというやつだ。少女漫画でしか見たことのないシチュエーションを、三十四歳妻子持ちの俺が、まさか会社の部下相手に実践する日が来るとは。
「ごめん。もう、無理だ」
掠れた声でそれだけ言うと、俺は彼女の潤んだ瞳に吸い込まれるように、その唇に自分のそれを重ねていた。
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事の発端は、数時間前に遡る。北関東のクライアント先でのプレゼンを無事に終え、俺と夏川は意気揚々と帰路についていた。完璧な連携で勝ち取った大型契約。駅のホームで買った缶ビールでささやかな祝杯をあげながら、気分は最高潮だった。
「いやー、今日の夏川は神がかってたな。あのデータ、よくぞ一瞬で出せたもんだ」
「先輩のフォローがあったからですよ。部長の無茶振りには肝が冷えましたけど」
「全くだ。まあ、結果オーライってことで!」
ガチン、と缶を合わせる。そんな他愛ない会話ですら、夏川と話していると不思議と心が弾んだ。性格が合う、という言葉だけでは片付けられない、特別な心地よさが俺たちの間には確かに存在していた。仕事の相性も抜群で、俺が企画を立て、夏川がそれを完璧な資料とデータで補強する。この「阿吽の呼吸」で、いくつものプロジェクトを成功させてきた。
当然、社内では「あの二人、デキてるんじゃないの?」なんて噂がまことしやかに囁かれたこともあった。その度に俺たちは「いやいや、ただの仕事仲間ですよー」なんて笑ってごまかしてきたけれど、心のどこかでお互いを意識していたのは事実だった。
そんな浮かれた気分の俺たちに、自然の猛威が牙を剥いた。突如として空が真っ黒な雲に覆われたかと思うと、バケツをひっくり返したような豪雨が降り注ぎ始めたのだ。あっという間に電車は運転見合わせ。駅のアナウンスが「復旧の目処は立っておりません」と絶望的な宣告を告げた時、俺たちは顔を見合わせた。
「マジか……」
「どうしましょう、先輩。これじゃあ、今日中に帰るのは無理そうですね」
駅前は、同じように足止めを食らった人々でごった返している。タクシー乗り場には長蛇の列。ずぶ濡れになりながら、それでもなんとか一台のタクシーを捕まえたのは、もはや奇跡に近かった。
「運転手さん、すみません!この辺で泊まれるところ、ビジネスホテルとかありませんかね!?」
乗り込むなり、俺は切羽詰まった声で尋ねた。運転手さんはバックミラー越しに俺たちをちらりと見ると、気の毒そうに首を横に振った。
「お客さん、運が悪いねえ。こんな田舎町に、今から空いてるビジネスホテルなんかないよ。この雨で、みんな考えることは同じだからねえ」
「そ、そんな……」
絶望に打ちひしがれる俺の隣で、夏川も不安そうな顔をしている。その時だった。運転手さんが、何かを思い出したようにポンと手を打った。
「あー、そうだ。ビジネスホテルじゃないけど、ホテルなら一軒だけ、たぶん空いてると思うよ」
「本当ですか!?お願いします、そこで!」
藁にもすがる思いで食いついた俺に、運転手さんは少し言いにくそうに続けた。
「いや、でもねえ……いわゆる、その……ラブホテルだけど、いいのかい?」
「「…………え?」」
俺と夏川の声が、綺麗にハモった。車内に、気まずい沈黙が流れる。ラブホテル。その単語が、俺たちの間に見えない壁を築き、同時に、決して開けてはならない扉の存在をくっきりと浮かび上がらせた。
どうする。どう断るべきだ。いや、しかしこの豪雨の中、他に選択肢があるのか?俺が脳内で必死の言い訳グランプリを開催していると、隣から凛とした声が響いた。
「運転手さん。そこで、お願いします」
え、と夏川の方を見ると、彼女はまっすぐ前を見据えていた。その横顔は、いつもの仕事の時のように、覚悟を決めた美しい表情をしていた。
そうして俺たちは、ネオンきらめく城、もとい、ラブホテルへと導かれたのだ。
部屋に入った瞬間の気まずさと言ったら、人生最大級だった。無駄に広い部屋、無駄に豪華なシャンデリア、そして部屋の中央に鎮座する、円形の回転ベッド。二人して「はは……すごいですね」なんて乾いた笑いを漏らしながら、お互いに目を合わせようとしない。
先にシャワーを浴びてきた夏川の、いつもと違う無防備な姿を見た時、俺の中で何かがプツンと音を立てて切れた。ずっと心の奥底に押し込めて、固く蓋をしていた感情が、まるで決壊したダムの水のように溢れ出した。
唇を重ねた瞬間、夏川の肩がビクッと震えた。だが、彼女は俺を拒まなかった。それどころか、おずおずと俺の背中に腕を回してきた。その小さな反応が、俺の最後の理性を吹き飛ばした。
家庭がある。お互いに守るべきものがある。そんなことは、頭では痛いほどわかっていた。でも、この非日常的な空間と、降りしきる雨の音が、俺たちを現実から切り離してしまった。今この瞬間だけは、ただの「男」と「女」でいることを、神様も許してくれるんじゃないか。そんな都合のいい言い訳を、心の中で何度も繰り返していた。
その夜、俺たちは越えてはいけない一線を、踏み越えてしまった。
翌朝、嘘のように晴れ渡った青空が、窓から差し込んでいた。けたたましい鳥のさえずりが、やけに頭に響く。隣で眠る夏川の寝顔は、ひどくあどけなくて、俺の胸を罪悪感で締め付けた。
なんてことをしてしまったんだ。
高揚感と幸福感に満たされていた昨夜の自分が、まるで別人のように思える。残ったのは、ひどく現実的な後悔と、消すことのできない一夜の記憶だけだった。
帰り道は、お互いにほとんど口を利かなかった。気まずい沈黙が、新幹線の中に重くのしかかる。
会社に戻ると、状況は最悪の方向へと転がり始めた。誰がどこで見ていたのか、俺と夏川が二人でホテル街に消えていったという噂が、あっという間に社内を駆け巡ったのだ。火のないところに煙は立たぬ、とはよく言ったもので、元々「仲が良すぎる」と噂されていた俺たちだ。疑惑の炎は、凄まじい勢いで燃え上がった。
もちろん、俺たちは上司に呼び出され、詰問された。「断じて、そのようなことはありません」と、二人で声を揃えて嘘をつき通した。だが、一度広まった噂は簡単には消えない。
結局、会社は「示しがつかない」という理由で、俺たちを別々の部署に異動させることを決定した。俺は営業推進部から、閑職と名高い総務部へ。夏川は、本社から離れた支社へと飛ばされることになった。
最終出社日、俺は夏川に何も声をかけることができなかった。ただ、遠くから彼女が同僚たちに挨拶をしている姿を、目で追うことしかできなかった。最後にちらりとこちらを見た彼女の瞳が、少し潤んでいるように見えたのは、きっと気のせいだろう。
一夜の過ちの代償は、あまりにも大きかった。
やりがいを感じていた仕事、信頼できる最高のパートナー、そして、会社での居場所。そのすべてを、俺は一瞬で失ったのだ。
総務部の仕事は、退屈そのものだった。毎日、決まった時間に書類を処理し、備品を発注する。クリエイティブな要素は皆無で、俺の心は日に日にすり減っていった。かつて企画書作成に費やしていた情熱は行き場を失い、ただ虚しく空回りするだけだった。
部署が違えば、社内で夏川の姿を見かけることもない。風の噂で、彼女が新しい支社でもバリバリ働いていると聞いた時は、少しだけ安心したと同時に、自分だけが取り残されたような惨めな気持ちになった。
家に帰っても、心は晴れない。妻の優しい言葉も、どこか上滑りして心に届かない。俺は、空っぽの抜け殻になってしまったようだった。
そんな空虚な日々が、数ヶ月続いたある日のことだった。
仕事帰りに、ふと一人で飲みたくなって、普段は行かないようなガード下の立ち飲み屋に吸い込まれた。安っぽいテーブル、飛び交う怒号のような笑い声、タバコの煙。そんな雑多な空間が、今の俺にはなぜか心地よかった。
焼き鳥を片手に、ぬるいビールを呷る。何の味もしない。ただ、アルコールが喉を通り過ぎていくだけだ。
「……あれ?」
その時、ふと聞き覚えのある声がして顔を上げた。人いきれの向こう側。カウンターに寄りかかって、同僚らしき女性と笑い合っている横顔。
見間違えるはずがなかった。
「夏川……?」
思わず、声が漏れた。すると彼女は、俺の声に気づいたのか、ゆっくりとこちらを振り返った。そして、大きく目を見開いた。
「せ、先輩……?」
偶然だった。何千、何万とある東京の飲食店の中で、こんな場所でばったり会うなんて。俺たちは、まるで時間が止まったかのように、しばらくの間、ただお互いを見つめ合っていた。
先に口を開いたのは、夏川の方だった。
「ご、ご無沙汰してます。お元気ですか?」
「あ、ああ……なんとかやってるよ。夏川こそ、支社はどうだ?」
「はい、おかげさまで。だいぶ慣れました」
ぎこちない会話が、数回往復する。彼女の同僚が気を利かせて席を外してくれ、俺たちはカウンターで隣り合わせになった。久しぶりに間近で見る彼女は、少しだけ大人びて、綺麗になったように見えた。
沈黙が怖い。何か話さなければ。焦った俺は、一番言ってはいけない言葉を口にしてしまった。
「……あの時は、本当にすまなかった」
俺の言葉に、夏川はきょとんとした顔をした。
「俺のせいで、夏川のキャリアをめちゃくちゃにしてしまった。異動先でも、大変だったろ。本当に、申し訳ないことをしたと思ってる」
後悔と自責の念が、堰を切ったように溢れ出す。俺があの夜、理性を保っていれば。俺がもっと強ければ、彼女をこんな面倒に巻き込むことはなかったんだ。
俯いて謝罪を繰り返す俺に、夏川は困ったように笑った。
「やだ、先輩。謝らないでくださいよ」
「でも……」
「私、ぜんぜん後悔してないですよ?」
顔を上げた俺の目に映ったのは、いつかと同じ、まっすぐな瞳だった。
「もちろん、異動になった直後はちょっと大変でしたけど。でも、あの夜のこと、私、一度だって後悔したことありません」
「な……なんでだよ。俺たちのせいで、お互いめちゃくちゃになったじゃないか」
信じられない、という顔をする俺に、彼女は悪戯っぽく微笑んだ。
「だって、すっごく楽しかったし、すっごく幸せでしたもん、あの夜。……ダメですか?」
その言葉は、まるで魔法のようだった。俺の心を長らく覆っていた、分厚くて冷たい後悔の氷が、パリンと音を立てて砕けていくのがわかった。
「私たちは、ただ……タイミングが悪かっただけなんです。出会うタイミングが、ちょっとだけ、神様のイタズラでずれちゃっただけ。それだけですよ」
夏川は、熱燗をくいっと飲み干すと、ふう、と小さな息をついた。その頬は、アルコールのせいか、それとも別の理由か、ほんのりと赤く染まっていた。
「私、先輩のこと、好きでした。仕事のパートナーとしても、一人の男性としても、ずっと。だから、あの夜のことは、私にとっては素敵な思い出なんです。宝物、みたいな」
「夏川……」
「だから、先輩ももう自分を責めないでください。あんなに楽しそうに仕事してた先輩が、総務部で死んだ顔してるなんて噂、私、聞きたくないです」
どこでそんな情報を仕入れたんだ、と突っ込む気力もなかった。ただ、彼女の言葉の一つ一つが、乾ききった俺の心にじんわりと染み込んでいく。
そして、彼女はとどめの一撃を放った。
「だから、約束してください」
「え?」
「もし、来世っていうものがあるなら」
夏川は、くるりと俺の方に向き直ると、小指をすっと差し出した。
「今度は、タイミング間違えないで、一番に私を見つけてください。そして、ちゃんと捕まえてくださいね?そしたら、今度こそ、誰にも文句は言わせませんから」
その笑顔は、豪雨の夜に俺を射抜いたあの時のように、不安と、そしてとてつもなく大きな期待に満ち溢れていた。
俺は、呆然と彼女の小指を見つめていた。来世?なんだそりゃ。途方もなさすぎるだろ。でも、なぜだろう。その途方もない約束が、今の俺には何よりも確かな希望のように思えた。
俺は、ゆっくりと自分の小指を伸ばし、彼女のそれに絡めた。
「……わかった。約束だ」
指切りげんまん、なんて子供じみたことをしながら、俺たちはどちらからともなく笑い出した。腹の底から、こんなに笑ったのは、本当に久しぶりだった。
その夜、夏川と別れて一人で見上げた空には、まん丸い月が浮かんでいた。
「来世、か」
思わず、苦笑が漏れる。なんて気の長い話だろう。でも、不思議と心は軽かった。数ヶ月間、俺の心を覆っていた分厚い霧が、すっかり晴れてしまったようだった。
彼女は、後悔していないと言った。宝物だ、とまで言ってくれた。そして、未来に、それも来世という途方もない未来に、約束をくれた。
それだけで、十分だった。
俺はもう、過去を悔やんで立ち止まるのはやめよう。空っぽの心で、死んだように生きるのはもう終わりだ。
夏川に笑われないように。来世で胸を張って彼女を見つけられるように。俺は俺の人生を、もう一度、全力で生きてみよう。
ポケットからスマートフォンを取り出し、総務部の部長の番号を呼び出す。明日の朝一番で、新しい企画を提案してやろう。閑職だろうがなんだろうが、俺が面白くしてやればいいだけの話だ。
「もしもし、部長。夜分にすみません。俺です」
受話器の向こうの、訝しげな声にも構わず、俺は続けた。
「明日、俺に30分だけ時間をください。会社の備品管理システムを、根底から覆す画期的な企画、思いついちゃったんで」
夜空に浮かぶ月が、まるで回転するミラーボールのように、キラキラと輝いて見えた。