8月10日ー3
坂を下り、あの家も川の堰も離れていく。記憶にある場所を離れていくとその記憶が過去のものであることを強く実感する。
しばらく道なりに進んで代り映えしない山の景色を抜けると、自分たちがいたあの川の何倍もの太さのものが目の前に現れる。どうやらあれが本流らしい。
そこから、木々に囲まれた脇道に逸れる。どうやら目的地についたらしい。
すぐそこというわりにはかなり長く乗っていた気がする。
「ここから先は歩き、な。でもすぐ見えるから」
そう親父が言って車を道路脇に停める。
俺たちは各々で車を降りてその道を進む。その先に「沈下橋」とやらは存在した。
見かけは、橋というより道だ。川に浮いた道路がかけられている。向こう岸までずっと300メートルはあるだろうか、そこまで道路でつながっている。
海を渡る線路のようなロマンを感じて、冒険心がくすぐられる。
と、さきに行っていたすずがこちらに手招きしてくる。
「汐音みてみて、すっごい。川が緑色、落っこちたら助からなそう」
すずの言う通り橋から見えるその川の色は吸い込まれるような深い緑色をしていて、川の底が見えない。知っている言葉で表すのならエメラルドグリーン、とかだろうか。
海の青とも、川の青とも言えないその色は自分の中にある底が見えないことによるタラソフォビアのような、恐怖心を煽るものだった。
「ねぇ汐音」
「なに?」
「……わっ!!!」
「お、おま、ぶっとばすぞ」
「あはは、ごめんごめん。はい、カメラ」
そう言いながらすずが、昨日買ったデジタルカメラをポーチから取り出した。なんという早業なのか、いつのまにか俺のショルダーバッグの中から取り出してポーチに入れていたらしい。
まぁそのショルダーバッグはいま車の中にあるので、持ってきてくれたのは大正解なのだけど。
「持ってきたのか、またその存在を忘れてたとこだったけど」
「わたしもたまには役に立つでしょ」
「うんうん、やくにたつよおまえはえらいなー」
「もう、汐音はわたしには素直になれないんだから」
素直に褒めれないのは、褒めたらお前が調子に乗るからだろ。と思いつつも正直天邪鬼な一面があるのは否定できない。
「雪華ー、親父ー、写真撮らないか?一枚」
三脚なんて持ってないので、風景と合わせてみんなを撮るってのは少し難しい。
まずは一枚、すずと雪華と親父の写真。
「はい、チーズ」
絵になりそうなその光景は、レンズ越しに見るとその世界はまた違う色をする。
それはまるで家族写真で、親父の車の鍵についていたキーホルダーのあの写真とほとんど相違ないものに感じられた。
……。
彼らの母である絵里香さんは、どうして亡くなったのだろうか。
今までの情報から推察できる2年前のそれには、俺も関わっていたのか。
俺が関わっているのなら、なぜ俺の死体が見つかっていないのか。
怜奈の死体があって、なぜすずが目の前にいるのか。
絵里香さんの死体があって、なぜ絵里香さんの姿は今目の前にないのか。
単純にクローンなど適当な仮説をするならば、俺の死体はただ単に見つかっていない、絵里香さんの身体は作られなかったと考えるの方が確率論としても自然なのかもしれない。
だが、これに意図を感じてしまうのは自分が単純にこの状況に一種の夢を見ているのか、それらしい別の理由を考えたいからなのか。
答えは出ないままだった。
「お兄ちゃん、すずさんとツーショットにしましょう」
「え、こいつと?なんでだよ」
「記憶喪失組!いえーい!」
「言っとくけど、時間が経ったからってそれの事態の深刻さは薄れてないからな、ずっと警報音鳴り響いてるから」
「汐音の脳内ってそんなにうるさいんだね……」
「ものの例えだってのに」
「お兄ちゃん、呆れた顔してないで笑顔!1+1は?」
「に、にぃ……」
小学生のときにやったなこれ。小さい頃なら純粋に受け取れたのだが、今となっては稚拙に感じてしまって微妙な感情が混じってしまう。
「お兄ちゃん、変な顔……まぁこれもこれでいいや、次私とすずさんで」
「雪華もうちょっと笑顔できるか?」
「もうちょっと笑顔に……」
「よし、そういえば俺のこの髪といえば、その質のせいかな勝手に抜けてる気がして……」
「抜いて、かつらにしようと思ったの?」
「羅生門じゃねぇよ、どうにかハゲネタ作れねぇかなって思い立ったんだけど」
「ははは、汐音のセンス低い」
パシャリ。
おう、ダブルで苦笑いが撮れた。才能かもしれない。
「ねぇ、お兄ちゃん。きてきて」
「ん、なに?」
「お兄ちゃんとツーショット」
そう言いながら雪華が水色の手帳カバーをしたスマホを取り出して構える。
と、俺の左手が優しく、きゅ、と雪華の右手に握られる。
パシャリ。
少し驚きながらも、はにかんだ俺の表情が撮られた。
恐ろしい子である。妹と思っていなければやられていたかもしれない。
しばらく、満足するまで十分に写真を撮って、俺たちは沈下橋をあとにした。
帰りは行きより長く感じてしまって、すずと俺は寝てしまっていた。
「お兄ちゃん、起きて。ついたよ」
「んあ、……おはよう雪華。すず、ついたぞ、起きろ……」
少し身体をゆすってみるが起きない。自分は仮眠程度のものだったがすずは普通に眠ってしまったようだ。
「しゃーない、俺がおぶってやるか」
どのみち車からいつも寝ている和室までの距離。大した事はない。
すずの両手をつかんで自分の肩の前に回して、両腿をぐっと掴む。
「どうした汐音、ってすずが寝ちまったのか。じゃあ俺が荷物運びってわけね、了解」
話の早い人だ、役割分担が速攻で決まる。
と、すずを和室で寝かせようと思ったが、広々とした畳の空間が広がっているだけでいつも適当に置いている敷布団がない。
「あ、そういや行く前に布団片づけたわ」
ないのなら仕方ない、畳ならそのまま寝れるだろ。すずを和室の空間に、そぉれ。
「お兄ちゃん、すぐ布団敷くからちょっと待ってね」
親父の荷物運びを手伝っていた雪華が、和室の様子を見てそう言った。
「ん?あ、ああ。ありがとう」
ふむ、すずを放り投げずに済んだ。布団に優しく寝かせたあと、俺はいつもの客間に向かう。
そこから、俺は帰ってからゆっくりと客間で本を読み、雪華と隣でしばらくテレビゲームをする。しばらくして、目が覚めたすずも一緒になってゲームをしていた。
自分はゲームが得意ではないので頑な意思でやらない。
親父は、特に何もすることがないのか向こうの部屋で寝ているらしかった。
だんだんと辺りが黄昏染まってきて夕方になったことを告げる。夜ご飯やお風呂の準備を役割を分けて始める。
いつも通りにご飯を食べて、お風呂に入り、夜が更けてくれば歯磨きをして、寝所に入る。
なんでもない、日常の一つ。
面白いことも、面白くないことも、楽しいことも、どうでもいいことも、全てが一日として刻まれて、とあるただの一日として締めくくられその日の終わりを迎える。
ただの楽しい一日というものを事細かに記録する人というのは世間的に見れば少ないのだろう。
俺は、日記を書くのが苦手だ。どんなに楽しい日でも、いざ書こうとすると何を書けばいいのかわからなくなる。
ましてやなんでもなかった日なんて書くことすら思いつかない。
小学生には夏休みの課題として毎日日記なんてものが出るらしいが、おそらく今の俺が書けば最終日にまとめて書いて、大抵は捏造の記録になってしまうだろう。
楽しい日というのは輝きの集まりで、ずっと輝いているからこそ麻痺してしまってその一つ一つが美しい光を放っていることを忘れてしまう。
誰かが、なにかを言った。暑いからアイスを買ってその袋を開けた。なにもすることがなくて寝てしまった。そこに至る過程の行動、想い、細かな一瞬一瞬が記録されるべきであることに気づけない。
見慣れてしまった日々の中に、喜びが溢れている。それに気づくのは、人がなんでもない日を失ってからなのだろう。
俺は、過去を知り、なんでもない今この瞬間をそのうち失うことになる。決まっていたことなのかもしれない。
この日が、俺に与えられた最後の猶予だったのかもしれない。




