竹取物語 1969
記念リクエスト作品 原案:あやの様
下仕えの天人が申し訳なさげに項垂れている。
「そう、ご苦労様。もう下がっていいわよ」
無表情で答えた。
――地上でお世話になったお婆様がいたでしょう。名前が思い出せないの。貴方、分かるかしら。
無理難題を突き付けて、東奔西走させた者にこの対応。
今の自分はきっと、薄情でひどい女なのだろう。
昔はもう少し感情豊かだった様に思うが、天の羽衣のせいか、どうにもその感覚が思い出せない。
お爺様の名前は讃岐造。それだって古い記録の中にあったから『思い出した』に過ぎない。輝夜は育ててもらった地上の老夫婦の名前を忘れていた。顔も、もうはっきりとは覚えていない。
地上にいた時の自分の悪業――求婚してきた男達に無理難題を突き付け袖にした記録――を読み返した時も、ああそんなこともあったなと思う程度だった。
屋敷の広縁に立ち、ふと空を見上げる。
ここは月の都。
地球から見た場合、月の裏側に位置している。自転の関係で、かつて居た地上が見えることはない。
音も、色も、生命の気配すらない月の上空はどこまでも暗く、昏い。
地上にいたころの空はもう少しにぎやかで綺麗だったように思うが、当時の自分はそれをゆっくり見ることもほとんどなかった。当たり前は、失って初めて気づく。
地上から月に帰ってきてからずっと、輝夜は静かに座して時が流れるのを待っていた。
月の最上位者となった自分だが、その役目はただの象徴、お飾りに過ぎない。老病愛苦のない月の都は変化が乏しい。自ら立ってすべきことなど、もう何も残っていない。
ため息をひとつ。
ああ、とそこで輝夜はわずかに頷いた。
いまの生は、そういうものなのかもしれない。
月の民として永遠の命を持つ自分のこの膨大な時間。ほかの何もすることもない空白の時間はもしかしたら、過ぎ去りし日々を思い返すためにあるのかもしれない。
大昔の様に、自室にこもり面会謝絶の札を掲げる。
瞠目。
長らく久しぶりに、物思いに耽ることにした。
たとえば、地上の事を想起したりしながら。
◇ ◇ ◇
平安時代。
美しい女性はしばしば花にたとえられる時代だった。
芍薬、牡丹、百合の花
その美しい花々を手折り、手元において愛でるのが男の本懐。
そんな世においてしかし、輝夜姫は花ではなかった。
齢十五になる頃には輝夜の美しさは完成されており、見るものが畏怖するほどの絶世の美女となっていた。のみならず破格の品と教養に、芸の才まで持ち合わせている。
その一方で彼女は、年相応に異性に惹かれることも覚えはじめていた。まあ、誰とも付き合うことはなかったのだけれど。
天女の様に美しく、楊貴妃の様に気まぐれで傲慢。嫉妬した他の貴族の娘からは「人の心が分かっていない」なんて陰口をたたかれる、そんなお姫様。しかしふとした瞬間に砂子細工のごとき繊細さを見せ、未来が限られているかのように寂しそうな顔をする、儚げな少女のようにもなる。
女に不自由していない男ほど、そういう女に弱い。
この頃の輝夜は他人から愛されることこそ疎ましく思っていたが、老夫婦をはじめ、見知った人には比較的心を許すところがあった。硝子細工の様に繊細で危うい彼女の内面を垣間見て、のめりこまない男はいなかった。
そんな男ほど、最初はちょっと火遊びをと言うような面白半分で輝夜に手を伸ばし、やがて彼女に捨てられて大やけどを負うことになった。
尻軽や飽き性と言うよりも、他人からの執着を疎ましく思っているところがある様子だった。その日限りを楽しく過ごすことを望む輝夜姫にとり、誰かの執着は邪魔でしかないらしく、相手が情を傾けるそぶりを見せると、彼女は相手との関係をスッパリと切るのだ。
「我こそが夫に相応しい」
ある時、国の五大皇子たちが、口々にそういって彼女に求婚したことがあった。
「では、この難題を」
甲斐性を試すように試練を課す輝夜姫。
ある皇子は失敗して恥をかき、ある皇子は挑戦するも重傷を負った。
手を伸ばしても決して自分のものとならぬ存在。
一等星に例えてもなお足りぬ輝き。
そんな彼女を男達は『月』に例え、恋愛ではなく、やがて崇拝の対象として見るようになった。
しかし、5人の求婚者の失敗は輝夜にある変化をもたらしていた。
当初、求婚者の失敗を冷たく笑い飛ばしていた輝夜だが、5人目の石上の中納言の頃には「ちょっと可哀そうなことをしたかしら」と同情を示すようになっていた。そんな彼女はやがて、帝の求愛に情を伴った対応をするようになる。
これは、彼女の心の成長を告げるものに他ならない。
それはまた、彼女に帰国が近いことを告げるものでもあった。
帝は地上において神にも等しい権力を持っている。
しかし彼は、私欲でその権力を行使することは決してない人物だった。
帝は他の貴族の様に、うわさを聞きつけて輝夜を一目見ようと無理に押しかけたり、権力をかさにきて求婚を迫るようなことはなかった。彼女の事を重んじ、心を通わせることを目的とした文を何通も寄こしてくる。
まず、それが輝夜には新鮮な経験だった。
「帝がわたくしをお妃にしてくださることなんか、べつに恐れ多いともおもいません。この国に生きるものが従わないことは許されないと言うのであれば、さっさと殺して。」
使者に対してそんなつれない返事をしたのに、帝は、四季折々の木々や草花につけて歌を詠み、輝夜まで届け続けた。擦った墨の色合いに、ふわりと匂い立つよう紙につける香、一つ一つの言の葉に込められた想い。そういった物を噛みしめるうち、彼女の内心にある感情が芽生えた。
それは輝夜にとって喜ばしいことであると同時に辛いことでもあった。
彼女の頬を、悲しみが伝う。
「条件を満たし、月に帰らないとならなくなりました。」
どういうことだと取り乱し、嘆き悲しむ老夫婦に彼女は秘密を伝える。
自分は月の支配者となる運命にある娘で、原罪に対する禊のために地上に送られて来たのだと。
『原罪による穢れ』
それが生き物に寿命を与え、生命を短くした。生死の入れ替わりの激しい世界の影響は魂すらも摩耗させ、精神もまた時間と共に黒く塗りつぶされていく。人よりもはるかに長い寿命を持つ天人すらも、神の理からは逃げられない。いずれ限界が来る。
だから今代の月の都の支配者は、次世代の姫を永遠に君臨させるため、原罪を回復し穢れを無くすことを考えついた。
輝夜が地上に送り込まれた理由。
それは彼女を、月の都にはない老病愛苦に触れさせ、人間として成長させるためだった。
原罪は死と復活により赦される。
地球の民として成長させた人間の身体を『不死の薬』、地上の親と恋人を愛する人間の心を『天の羽衣』によってそれぞれ殺し、天人として復活させるのだ。
それを原罪への禊とすることで、輝夜姫は本当の不老不死となる。
十五夜。
輝夜が天人たちと月へ帰る日となった。
護衛の者たちは眠らされ、意識があるのは老夫婦と帝のみ。
天人のひとりが、二つの箱を持っていた。
ひとつには不死の薬が入っていて、もう一つには天の羽衣。
薬を一口なめさせ、羽衣を着させようとする天人に輝夜は言った。
「天の羽衣を着て人間の心を失う前に、お別れと形見の用意をさせて」
泣き伏せている老夫婦には、脱いだ着物と手紙を遺した。
遅いといらいらしている天人を、そんな情け知らずなことを言わないでとなだめ、帝にも最後の別れの挨拶をする。
「お迎えが来ました。私は、月へと帰らなければいけません」
「頼む、行かないでほしい。私は、君の居ない世界なんて……」
「帝、これを」
余った不死の薬。
厳密には、地球の民の身体を天人にする薬。不老長寿にはなるが、厳密には不死とまではいかない、そんな薬。
「飲んでも、人に譲っても、あるいは捨ててしまっても構いません。どうするかは私が帰った後、よくよく考えてから決めてください。」
もしこれが物語の世界なら、自分の望む結末は都合が良すぎると笑われるだろう。
帝はきっと、不老長寿となって人の世を謳歌するか、あるいは輝夜がいない世界を嘆き不死の薬を廃棄して亡くなるか……ああ、それはとても綺麗な話だ。なんて美しい結末だろう。
それでも輝夜は、彼女のなりの秘めた望みを持って彼に薬を手渡した。そう、これは秘めた望み。
だって
彼と再会する可能性のない世界では生きられないと思ったから、いつか会えると信じないと耐えられなかったら、沢山ある物語の中に一つくらい、たった一つくらいは、そんな結末があって欲しいと願ったから
なんて、とても言えないから。
だから、どうするかは自分が帰った後よくよく考えてから決めて欲しいと伝えた。
(あなたのおかげで生きていけると信じられるのなら、あなた自身はいなくていいの。私のしていた恋って、そういうものなの)
五人の求婚を袖にしておいて、一人の男にこんなに固執して……自分はなんとめんどくさい女なのだと苦笑が漏れる。
妃として仕られなかったことも、このように面倒な身の上の女なのだから分かってほしい。求婚を強くお断りしてしまったことで、無礼な女と思われることだけが心残りだ。
「どうせなら、天の羽衣もつけてくれないか」
即答だった。
「……飲む気ですか?」
「飲むよ」
「着る気ですか」
「着るよ」
「後悔しない?」
「しない」
それはすなわち、人の身を捨てるどころか地上で今までに得た大切な感情までも捨て、輝夜と同じ永遠の命を手に入れるということだ。不老長寿などと生易しいものではない、終わりのない本当の永遠。
「……千年後も、同じように答えられると思いますか?」
「分からない」
「分かるわ。千年は人も、大切な思い出も、消えてしまうだけの時間だもの」
「そうかもしれない」
「その時になって、心底思い知った貴方が、私に大口叩いたことを撤回して泣きついてきても、私は許してやらない。だから、羽衣はまだあげない。」
「そうだね、じゃあ、その時になるまで、月で待っていておくれ」
――じゃあ、待ってる
――うん
◇ ◇ ◇
ぱちり、と目を開ける。
どれくらいの時間こうしていたのだろうか。
時間の感覚は曖昧だが、外の明るさを見る限り短い時間ではないだろう。
半日か、数日か、一年か、あるいは千年とか。
まあ、永遠の命を持つ自分にとっては大差ない。
ただ、冷えていたはずの心が今は少しだけ温かい。
何が温めてくれたか……説明はいらないだろう。
地上で過ぎし年月の光芒は、今もあえかに輝夜を照らしていた。
その感覚は、『喜び』とも『悲しみ』とも『切なさ』とも表現できるようでいて、しかしどうにも判別できないような不思議なものだった。
周りを見ると、天人たちが慌ただしそうにしていた。
一人を呼び止め、何があったのか尋ねる。
「どうしたの、騒がしいわね」
「ああ、輝夜様。ちょうど良いところへ」
地球から使者が来ました。それで――
音が聞こえた。
それは胸の音だったかもしれないし、吐き出した息の音だったかもしれない。
天の羽衣によって、地球で育った心は死んだはずだった。
今の自分は世話になった老夫婦の名前を忘れ、顔すら碌に思い出せない薄情者。
それなら――
彼らの名前を調べたのは、何故?
失ったものにため息をついたのは、なぜ?
本当は分かっていた。
だけど、言えなかった。
帝のことだってそうだ。
あの後、もし彼が本当に不死の薬を飲んで、もしずっと自分との再会を願っていて、もしいつか月に来る手段を得たならば——
わかっている。
それだけの「もし」を重ねてようやく叶う願いなど、可能性なんてゼロに等しい。
ただ、それでも
ここからまた何かが始まると信じていたい。
本当は今だって
抱きしめたいものが、泣きたいほどこの胸にある。
不完全な思い出も、痛みだす傷も、愛してる。
愛せてる。