ヒロインに成り代わったら解釈違いでした
中世ヨーロッパ風ファンタジー恋愛小説の世界に飛ばされた成り代わりヒロインが自家中毒を起こしたお話。
あ、痛い。頭をぶつけたかな嫌だな凄い勢いでぶつけたんじゃないかな滅茶苦茶痛いなえっワンチャンMRIとか受けなきゃいけない感じかな面倒臭いな。
と、そこまで考えたところで、セヴァリー男爵令嬢リナははたと頭を起こした。
MRIって何だっけ。
一瞬だけそう考えて、馬鹿か、と自分に突っ込む。MRIって言ったら病院にあるアレに決まってるでしょう、実際に受けたことはないけれど。
リナは自分の状況を確認した。リナは、廊下で座り込んで蹲っているようだった。見覚えのない床だ。造りはなかなか立派で、少なくとも現代日本の家賃の安さしか取り柄のない1DKでは無縁のものであることは明らかだった。
「ちょっとリナ、いつまで休んでいるの?」
女の言葉と同時に、ばしゃり、と頭から何かがかけられた。ぱたり、ぱたり、と髪の先から水が滴る。雫でも判るほど汚れた水だった。酷い臭いが漂う。
「ちょっとリナ、何をやっているの! 廊下が汚れたじゃない」
痛い、と思った。痛い。頭が痛い。背中が痛い。手足が痛い。指先なんか感覚がほとんどなくて、指先がひび割れているのかいないのかも判断がつかなかった。
痛い。頭が痛い。
「聞いているの、リナ? 相変わらず使えない子ね。お屋敷を今日中に掃除しておかないとまた食事は抜きですからね」
誰かが一方的に喋っている。頭が痛かった。背中が痛かった。手足が痛かった。
どこもかしこも痛すぎて、相手が何を言っているのかいまいち理解できなかった。ただ耳障りだった。
ややあって、女の声が止まった。すぐ近くにあった気配が遠のいていく。それからようやく、リナは体を起こした。
痛かった。頭が痛かった。背中が痛かった。手足が痛かった。
よくよく指先を見れば、無事なところを探すほうが難しいほどあかぎればかりだった。爪の先から血が滲んでいる。
ゆる、と頭を動かす。すぐ近くに階段が見えた。あの階段から転がり落ちたのだ、と思い出した。先ほど好き勝手に喋っていた女に突き落とされたのだった。
逆に頭を動かす。頭が痛くて、痛くて、頭が痛くて、ただそうやって動かすだけでも酷く頭が痛んだ。
階段とは逆の壁には大きな窓があった。廊下は明るくて、反対に窓の外ですでに日は暮れかけていて、だから座り込む少女、リナ自身の姿がよく見えた。
リナは瞬いた。窓に映るリナも瞬く。驚きのあまり、ぱかりと口が開く。
「……これ、リナ・セヴァリー? 少女小説のヒロインじゃない……!」
そこでようやく、日本で生きていた里奈は、中世ヨーロッパ風ファンタジー恋愛小説のヒロインに成り代わっていることに気づいたのだった。
* * *
リナ・セヴァリーは、掃除なんて放り出してよろめく足取りで敷地の隅にある粗末な物置小屋に逃げ込んだ。リナ・セヴァリーには部屋がなくて、だからこの物置小屋がリナの寝床だった。
ただ歩くだけでも、音を上げそうにあちこちが痛かった。ちょっと見てみたら、足の裏は傷だらけになっていた。切り傷ではない、みみず腫れのようだ。先ほど声をかけてきた女に鞭を打たれた痕だった。
入り込んだ物置小屋の床には埃が積もっているし、リナが少し動くだけで埃が舞った。ハウスダストとか気になるな、と現代知識を思い出したリナはぼんやりと考えた。
否、と考える。思い出したという表現が正しいのか判らない。リナは里奈で、何の変哲もない社会人で、日々愚痴を吐きながらも働いていて、死んだ覚えなんかなくて。
「死ん、だ……わたし、死んだ?」
口に出したと同時に、思い出した。そういえば、会社からの帰宅途中に猫の親子を見かけて、好奇心いっぱいの仔猫が突然に道に飛び出して、そこに車が通りがかって。
思わず。そう、思わず。
助けようとした覚えはある。けれど日頃から運動を怠っていたアラサー女性社会人がいきなり動けるわけもなく、ただみっともなく車の前に飛び出しただけで終わった、ような。
「いやー……ダッサ」
はは、と乾いた声が漏れた。せめてあの仔猫が助かっていれば良い、と思う。そうでなければ、里奈が浮かばれない。
「それに、リナは、……リナ?」
リナは、そっと、自分に呼びかけてみた。
答えは返らない。リナはどこにもいない。あぁ、と嘆息する。
リナ・セヴァリーは、死んだのだ。きっと、階段から突き落とされたときに頭の打ち所が悪くて死んでしまったのだろう。
いまもずきずきと痛む頭を押さえて、リナはそう思った。
不思議と、里奈がリナに転生したとは思えなかった。それはきっと、小説で知るリナが里奈とはあまりに違う人間だからだろう。
小説で知るリナは、捻くれた性格の里奈から見てあまりに可愛らしいヒロインだった。何にでも一生懸命で、好奇心旺盛で、いつも健気だった。目まぐるしく変わる自分の立ち位置に驕ることなく、いつだって自分に何ができるかを考えていた。
実際に里奈がリナに転生してたったいま記憶を思い出したのか、成り代わったのかは里奈には判らなかった。けれど、いまここにいるのは里奈で、だからリナ・セヴァリーがもう、どこにもいなくなってしまったのは事実だった。
魂が同じであろうと違おうと、里奈になってしまった時点で、リナとは別の人間になってしまったのだ。
「あぁ、……あぁ、リナ……」
里奈はリナが好きだった。自分にない優しさを持つリナが好きだった。創作だからと言ってしまえばそれまでだけれど、誰にでも優しくて、可愛くて、一生懸命で、奇跡みたいな女の子だった。
だから、里奈は泣いた。リナを喪ってしまったことが、ただ悲しかった。
しばらく泣いて落ち着けば、思い出したように体がまた痛みを訴え始めた。里奈、リナは思いついて、自分に回復魔法を使った。あっという間に体が癒やされていく。何年も何年も続いていた痛みが、瞬く間に消えていく。
「おぉ、本当にあるのね、魔法……」
ちょっと感動して、リナは呟いた。以前のリナは魔法を使えなかったけれど、里奈の記憶を持ついまのリナには簡単なことだった。
さて、と心を落ち着かせる。そうして、この世界を舞台にした小説の内容を思い浮かべた。
ありきたりといえば、ありきたりな恋愛小説だった。後妻の継母に虐げられていた男爵令嬢が救い出され、第二王子と出会って心をかわし、様々な活躍をしたのちに結ばれるというストーリーだ。
第二王子には婚約者はいないが、悪役令嬢の役回りは存在する。第二王子の婚約者候補の侯爵令嬢だ。様々な功績を重ねるなかで王家の覚えもめでたくなったヒロインに対して嫌がらせを繰り返し、やがて危害を加えたとして、侯爵令嬢は社交界から追放されるのだ。
第二王子は作中に描かれる限り、極めて有能で親しみやすい、恋愛小説に描かれる理想の王子様だった。第二王子と男爵令嬢は恋に落ち、やがて身分差を乗り越えて婚約するのだ。
さて、とリナは考えた。これからどうするか。
リナはいま十四歳。この世界が小説のストーリーに沿うならば、あと半年ほどでこのセヴァリー男爵家の寄親貴族の不正が暴かれ、その中で虐待された男爵令嬢の存在が明るみに出る。リナが極めて強い魔力を持っていたことから、王家の保護を受けて学園に通うことになるのだ。
その学園で様々な問題に巻き込まれ、流れで第二王子と懇意になり、互いに惹かれ合い……という流れだったはずだ。
そこまで思い出して、リナは思わずといったように口に出した。
「えっ、解釈違いなんだけど」
そう、リナはリナが第二王子と結ばれることは解釈違いだった。正確に言えば、いまの里奈の記憶を持ったリナが、だ。
里奈はリナが好きだった。健気で優しくて可愛くて可愛くて可愛くて、お花ちゃんみたいな見た目なのに芯の強い女の子であるリナは里奈の理想だった。憧れだった。
里奈は、リナみたいな女の子にはなれないことを自分で知っていた。
里奈はそれなりに性格の捻くれたアラサー社会人である。中学時代には親に反抗をしてさんざんに迷惑をかけたし、高校時代には思う存分に遊び回ったし、大学時代にはお酒や夜遊びを覚えた。男性経験だってそれなりにあるし、当時の恋人と特に理由なく自然消滅したことも、利己的な理由で勝手に相手を切ったことだってある。逆に、彼氏に浮気されて捨てられたこともある。見栄を張りたくて友だちと話すときにちょっと大げさに言うことも、自分に都合の良い嘘を吐くこともある。
里奈は現代日本においては平均的な、どこにでもいる女性だった。だから、里奈は知っていた。
里奈は、リナにはなれない。
里奈はリナが好きだった。リナが大好きだったから、第二王子との恋愛模様にあれほどにのめり込めたのだ。リナは理想のヒロインで、可愛らしくて優しくて、複数の男性を天秤にかけるような真似も、同情を引こうとして不幸な身の上をひけらかすような真似もしない。そんな女の子だから、第二王子だってリナに恋をしたのだ。
たとえば、と里奈は思った。よくあるネット小説だったら、ヒロインに成り代わった現代日本の女性が第二王子と結ばれることもあるかも知れない。その中で、それこそよくあるネット小説みたいに同じく転生者や成り代わりの悪役令嬢と対決することもあるかも知れない。
里奈はリナが好きだった。本当に本当に好きだった。
だから、里奈はリナのフリをして生きていくなんてできなかった。
だって、解釈違いなんだもの。
里奈の記憶を持つリナも、リナではない女性と恋をする第二王子も解釈違いだった。里奈はリナと同じくらいリナと第二王子のカップルも大好きだったので、二人には真実の愛を貫いて欲しかった。
もしかしたら何かのネット小説みたいに、悪役令嬢、ないし別のご令嬢にも現代日本の記憶があるかも知れない。そうしたら上手く立ち回って、そのご令嬢が学園入学時点で第二王子と婚約しているかも知れない。リナ以外の誰かを愛している第二王子なんて見たくなかったし、かといって既に決まった婚約者を裏切ってリナを愛する第二王子も見たくなかった。
もしかしたらリナの他には現代日本の記憶を持つ人間なんていなくて、状況はストーリー通りに進むのかも知れない。リナは里奈の記憶を持っているから、小説の通りに振る舞えば第二王子はリナに恋をするのかも知れない。もしかしたら恋なんてしないのかも知れないけれど。
けれど、リナは里奈の記憶を持っているからリナではない。そんな、ただ決められた台詞を諳んじているだけの少女に恋をする愚かな第二王子なんて見たくなかった。けれど、リナに恋をしない第二王子も見たくなかった。
何もかも解釈違いだった。里奈の理想とする世界には、里奈の存在が邪魔だった。だから、リナは決めた。
「……よし、逃げよう」
リナには莫大な魔力があるし、冒険者なり魔法使いなりの弟子にでもなれば食うには困らないはずだ。この男爵家にも、最初から思い入れなんてない。
リナは決めて、その日のうちに逃げ出したのだった。月の光は、ひとりぼっちの少女の背中をそっと押した。
お屋敷から逃げ出す寸前に、一瞬だけ、リナは振り返った。
一人の少女を思い出す。死んでしまったリナ。愛されなかったリナ。奪われてしまったリナ。里奈の愛したリナ。
もうどこにもいないリナのことを、里奈は決して忘れないだろう。
「ばいばい、リナ」
* * *
リナはそれからすぐに、王都の外れに住む偏屈な女性魔法使いに弟子入りすることになる。リナは見る見る頭角を現したが、半ば世捨て人のような師匠とは異なり、たびたび世俗の厄介ごとにそうと知られないように首を突っ込んだ。
ときに第一王子妃が受けた呪いの解除に必要な特別な魔法植物を持ち帰って第一王子妃の枕元に届け、ときに突如発生した魔獣の大量発生で現れた最も強大で凶暴な魔獣の頭を一撃で砕き、ときにとある公爵家で行われていた違法亜人奴隷売買の罪を白日に晒した。決して姿を見せないまま偉業を行うのが女性だというのだけはどこからか噂で漏れ出して、人びとはいつしか彼女を聖女と呼んだ。
聖女と呼ばれた少女が、いつだかに助け出した猫獣人の猛攻に陥落するのは数年後のことである。その猫獣人は、里奈がかつて見かけた小さな仔猫と同じ灰色の毛並みをしていた。
ところでこの国の第二王子だが、彼は一時期、取り憑かれたように聖女の行方を捜していた。第二王子の様子に気づいたのは彼とごく親しい側近たちだけだったけれど、彼らは女性に追い回されるあまり女性を疎んじていた第二王子にようやく春が訪れたと喜んでいた。
けれど第二王子が聖女を捜し当てることはなく、数年後に第二王子は、それなりに釣り合った家格のご令嬢と婚約してほどなく婚姻した。
第二王子は誰もが理想とする姿のまま、一つの隙もない笑みを生涯崩すことはなかった。
めちゃくちゃ大好きな恋愛小説の世界に転生なり成り代わりなりしたとして、「やったーわたしがヒロインだ!」ってなる偽ヒロインのお話をたまに見るけれど、あんまりそうはならなくない? ヒロインとヒーローが結ばれるのが良いんであって、成り代わった自分とヒーローが結ばれるとか解釈違いじゃない?? むしろ転生できるならヒロインとヒーローを見守るメイドとか、そのへんに転生したくならない?? っていうかむしろ床とか壁になりたくない?? って思ってたので書きました
ちなみにですが、第二王子は実は聖女を捜し当ててます。でもそのときには、猫獣人が隣にいたので第二王子はそっと身を引きました。
来世あたりで、ヒロインのリナと第二王子は運命の出会いを果たすのかも知れません。二人は真実の愛なので。それでリナと里奈は姉妹とか親友になるかも知れませんね。
【追記20250326】
活動報告を紐付けました。もごもごしてます
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