風花の君
すべてのドアは、ここではない別の場所へと繋がっているものです。
あなたの心はしばしの間、この不思議な空間へと入って行くのです。
最悪の気分だった。
牧田志郎は、電車を降りると、重い足取りで街のささやかな繁華街へと歩を進めた。
呑まないではいられない。
このまま家に帰る気分ではなかった。
三〇年勤めた会社から、解雇通告を受けたのだ。
好きで続けた仕事ではなかった。
生活のために、仕方なく働いていたことは確かだ。
それでもしっかりとした仕事をして来たという自負はあった。
それなのにこの仕打ちは何だろう?
志郎はまるで自分が世界から拒絶されたような気がした。
路地を曲がると、そこに見慣れない店の看板があった。
レンガづくりの古いビルの角に、地下へと続く階段があり、
「BAR風花」
と記された看板がほのかな光を発していた。
その光に、どこか心惹かれるものを感じて、彼は狭い階段を降りて行った。
階段を降りきったところにある、重い木の扉を開けると、中はカウンターだけの狭い店で、客はいず、カウンター内には髪の長い、色白の女性がいて、志郎を迎えてくれた。
美人だが、どこか幸薄そうな風情が、今の気分にぴったりとフィットしているように感じられたので、そのまま店の中に入ると、いちばん奥の席に坐った。
無言で差し出されたおしぼりで手を拭くと、ハイボールを注文した。
ママとおぼしき女性は「はい」と小さな声で応じると、無言で注文の品をつくり、「どうぞ」と差し出した。
その間、会話もなく、BGMもなく、ただ沈黙が続いた。
志郎は入る店の選択に失敗したなと思った。
グラスの酒を半分ほど飲んだ時、沈黙に耐えかねて口を開いた。
「風花って、雪のことだよね? 確か、晴天の時に降って来る……」
「はい。私の名前が風花と書いて〃ふうか〃と読むんです」
「じゃ、店の名前は〃ふうか〃なのか」
「いえ、店の名前は〃かざはな〃です」
「変なの」
くだけた口調で言うと、やっと相手はかすかな笑顔を見せた。
淋しげな、それゆえに人の心を惹きつけるような、そんな微笑だった。
それが誘い水となって、志郎は自分の今の状況を、ぽつりぽつりと話し出した。
風花は、特に相槌を打つわけでもなく、黙って聞いている。下手に何か言われるより、その方がかえって心地良かった。
「今度は君の話を聞かせてくれよ」
二杯目の酒を呑み干す頃には、心にわだかまっていた感情をすっかりと吐き出して、すっきりした気分になっていた志郎は、話を相手に向けてみた。
この不思議な魅力のある女性の素性に興味を持ったからだ。
「いいんですか?」と風花は言った。「帰れなくなるかも知れませんよ」
こちらの心をのぞき込むようなまなざしに射すくめられて、志郎は身震いをした。
「望むところだ」と強がりを言って、三杯目のハイボールを注文した。
「あたしもいただいていいかしら?」
「どうぞ」
何に捧げるともなく乾杯をすると、風花はハイボールをひとくち呑み、ちょっと呼吸を整えてから話しはじめた。
「雪女の話はご存じ?」
「あの、小泉八雲の……」
「そう」
「それなら学生時代に読んだことがある。うろ憶えだけど、確か、雪の夜に二人の木樵が雪女に会うんだけど、年寄りの木樵は冷たい息を吹き込まれて凍死してしまうんだが、若い方は、このことは誰に言ってもいけないと言われて命拾いして里へ帰る。それからしばらくして、お雪という美しい女がその若い木樵の妻になる。ある日その姿が以前見た雪女に似ているので、ついあの夜のことを妻に話してしまう。するとその妻が実はあの時の雪女だった、って話だっけ?」
「そう。だけど、約束を破った木樵が、どうして殺されなかったのか、憶えてる?」
「そういえば不思議だな。どうしてだっけ?」
「それはね、二人の間に子供がいたからよ。八雲さんお話では、十人」
「十人!」
「その子供たちはもちろん、半分雪女の血を受け継いでいた。もちろん、女の子にだけだけれど。そしてそれぞれが成長して、家庭を持ち、子孫を増やして行ったとすれば、雪女の血筋は、絶えることなく、今も受け継がれているとしたら……」
「それが君だと言うのかい?」
冗談めかして言うと、風花は真顔でうなずき、そして今までにない妖艶な笑みを浮かべた。
それを見て志郎は、ぞくりと背筋が凍りつくように感じた。
三杯も酒を呑んでいるのに、ちっとも身体が温まらない。
エアコンからは雪のような白いものが吹き出して、あたりに舞っている。
「試してみる?」と言って風花は、眼を閉じて、そっと唇を差し出した。
冗談にしては少々手が込んでいる。
誘いに乗ったら、取り返しのつかないことになるかも知れない。
それも、いいだろう。
志郎は、ゆっくりと深呼吸すると、彼女の美しい唇に、自分の唇を唇を重ねた。
了
古くから語り継がれて来た物語には、何かしらの真実が隠されているものです。
今夜もどこかで、雪女の末裔たちが、あなたを待っているのかも知れません。
それではまたお逢いしましょう。