4.押し掛け婚約者に、隙を見せるな(2)
「マーシャが出て行った後すぐに俺もモルガナ姫の部屋を出た」
ぼそっと零すように言い、ひと呼吸ついてからアーサーはマーシャを睨みつける。
「ひどいじゃないかっ! この国のドルイダスとしても最悪だが、弟子を置いて行く師匠がどこにいるんだ! それに何よりマーシャは……っ」
「仕方がないじゃない!」
マーシャはアーサーの非難の言葉に重ねるように大声を上げた。
「だって、怖かったんですもの!」
「マーシャは俺の心を踏みにじった!」
「なんでそうなるのよ。モルガナ姫って、すごい美女じゃない。あんな美女が薄着で迫ってくるなんて、男なら、すごくすごく美味しい状況なんじゃないの?」
「俺はあんな女いらないっ!」
まあまあ、と大声を上げて怒鳴るアーサーの肩を軽く叩きながらカイが二人の間に割って入った。
「何事もなくて良かったじゃないか。いやぁ、実は、何か起こるんじゃないかと思ってアーサーを捜していたんだ。マーシャの部屋に行くと聞いてたからマーシャの部屋にまで行ったし。そしたら、そこに二人ともいないだろう? あちこち随分と探したんだぞ」
「……」
「アーサーも、それからマーシャも無事で良かった良かった」
まだまだ怒鳴り足りないのだろう。ぐっと堪える表情をしてマーシャをひと睨みしてから、アーサーは青い瞳をカイに向ける。
「何が起こるっていうんだ?」
「さぁ、それは分からん。だが、ほら、河で悪魔が出ただろ? 思い出してみたんだが、あの悪魔、どうもアーサーを狙っていたように思うんだ」
「あっ、それ、あたしもちょっと不自然に感じたわ」
アーサーの怒気が紛れることを期待しつつ、マーシャが大きく頷くと、カイは自分の言葉に自信を抱いたようだ。
「立ち話もなんだ。マーシャを部屋まで送ろう」
カイに歩みを促されながらマーシャは河での出来事を思い出しながら言う。
「最初、モルガナ姫を標的に襲ってきたかのように見えたのに、アーサーたちが助けに向かうと、すぐ近くにいるモルガナ姫じゃなくてまだ距離のあったアーサーたちの方に向かって行ったわ」
「そして、俺たちが剣を向けると、俺の剣は受け流して、アーサーのことばかり攻撃していた」
「そうだったか……?」
「未だかつてログレスに悪魔が現れたことがあったか? モルガナ姫がやってくると同時に彼女を襲わない悪魔が現れるなんて不自然極まりないだろ」
「まるで彼女と悪魔が関係のあるような言い方だな」
「はっきり言えば、俺は彼女が悪魔を連れて来たんじゃないかと思っている」
まさか、とアーサーは驚きとも否定とも取れる短い言葉を発してカイを見やる。
それから意見を求めるようにマーシャに目を向けたので、マーシャはアーサーを見つめ返して言った。
「ただの人間が悪魔を連れて来るなんてことは考えられないわ」
「ただの人間じゃない場合は?」
「ただの人間じゃない場合は……、たとえば悪魔と契約した人間だったら可能ね」
ぶーん、と耳を掠めるように羽音が聞こえてマーシャは眉をひそめ、頭を左右に振った。
また蝿だ。迷い込んだのだろうか。ここに食料などないというのに。
「モルガナ姫、もしくは、彼女に近しい者が悪魔と契約しているとしたら、狙いは何だと思う? 当然、アーサーとログレスだ。アーサーを亡き者としてログレスを崩壊させるのが一番の目的だろう。だが、それが叶わないとなれば、ログレスに難癖をつけて戦争に持ち込むのが狙いだろう」
「既にログレスでモルガナ姫の侍女が死んでいる。難癖の材料になる」
「だろ? だから、どうにかモルガナと悪魔と関係を明かすことはできないだろうか。でないと逆にログレスが悪魔と関係していると、ありもしないことを言い出しかねない。ログレスは悪魔の国だ、周辺諸国で一致団結して悪魔の国を滅ぼそう! ってな」
カイの言葉にアーサーは眉を顰めた。
「嫌な話だ……。モルガナ姫が悪魔と関わりがあるなしに関わらず、どのみち今回の悪魔の出現をただの不運な偶然にして捨て置かずに慎重に調べる必要がありそうだ。悪魔など、そう意味もなく易々と姿を現すものではないからな」
ぶーん。周囲を大きく回って戻ってきた蝿がマーシャにまとわりついてくる。煩わしさと耳障りな羽音に不快感を覚え、マーシャに苛立ちが募ってくる。
廊下の角をアーサーとカイが曲がり、その後ろをマーシャが続くと、マーシャに与えられた部屋が見えてきた。
モルガナの客室とは異なり、ごくごくありふれた造りの木製の扉だ。彫刻も装飾品もない。大人の男なら簡単に蹴破れるのではないかと思うような薄い扉だ。
だが、これが普通なのだ。城内に多くあるだろう普通の部屋の扉である。
「今宵はもう休め。調査は明日からだ。――手伝ってくれるよな?」
おや、とマーシャはアーサーを見やった。ずいぶんと下手に出てきたからだ。
ああ、そうか、とすぐに思い至った。マーシャを悪魔の専門家として必要としている一方で、マーシャの出自について気にしているのだ。
(アーサーって、変なところで遠慮するのね)
だけど、そういうところが憎めない。マーシャはアーサーに向かってわずかに口角を上げて頷き、部屋に入ろうと扉に手を伸ばした。
ぶ~ん。
まただ。本当にうるさい。早くどこかに行けばいいのにと思いながら黒髪を左右に揺らし、扉を開いた時だった。
マーシャは目の前の信じがたい光景に両腕の肌が粟立つ。
咄嗟に両手で口と鼻を塞いだのは、本能が思考より早く身を守ったとしか言いようがなかった。
醜悪な無数の黒い点が、それぞれ耳障りな羽音を鳴り響かせ、部屋中を縦横無尽に飛び回っているではないか。
ひとつひとつは指先に墨をつけたような点だ。それがひとつの大きく生き物であるかのように、あるいは、夜明け前の重く深い霧のようなものが渦となって蠢いている。
「蝿かっ」
吐き捨てるように言った直後、カイは大きく咳き込んだ。口を開いたわずかな間に一匹の蠅が彼の口の中に飛び込んだのだ。
薄く涙を滲ませながらカイは、ぺっと蠅を手のひらに吐き出すと、その手のひらを上着の裾に擦りつけた。
普通ではない。――誰が見てもそれだけは明らかだった。
これほどの大量の蠅がひとつの部屋に集まるなんて自然ではない。かといえ、人間の手でなせるわざでもない。いや、百歩譲って大人数で蠅を集め、マーシャのために用意された客室に放ったとしよう。だが、その意図が不明である。とても労力に見合うサプライズとは思えない。
(……悪魔)
人間ではない。妖精は醜悪な悪戯はしない。考えられるとしたら悪魔の仕業だ。
だとしたら、マーシャの部屋を狙った理由も分かる。マーシャに己の存在を誇示したい悪魔がいるのだ。
マーシャは左手の袖で口元を塞ぎながら蠅の渦の中心に向かって声を荒げ、右手をかざした。
「姿を現せ、悪魔めっ!」
―― ぶーんっ‼ ――
一段と喧しく羽音が響く。
そして次の瞬間、渦をつくっていた蠅たちの動きがぱたりと止まり――いや、止まったかのように見えたのはおそらく錯覚で――皆が皆、一匹残らず部屋の中央に向かってお互いにぶつかり合うように飛び始めた。
実際、彼らはぶつかり合っていた。ぶつかり、ぶつかり、ぶつかると、くっつき、溶け合い、二匹がひとまわり大きな一匹になる。更にぶつかり合って、融合して、やがて彼らの中心に大きな大きな黒い塊ができた。
そして、それはしだいに縦に長く長く、ぬぅっと大きく伸びていく。
マーシャは息をのんだ。両手を降ろすと、不気味な黒い塊を睨みつける。それは人間のシルエットのような形になっていた。
冷や汗が流れた。必死に睨みつけていなければ、得体の知れない恐怖に引きずり込まれそうだった。
「お前は……」
誰だと問いかけて悪魔が己から名乗るわけがないことを思い出す。嘘を付かれる可能性も大きかった。悪魔に翻弄されないためには、自らその悪魔の正体を暴かなければならない。
対峙しただけで正体が分かる悪魔は、マーシャよりも力の弱い悪魔だということ。撃退して名が分かる悪魔も同様。それ以外の悪魔は、マーシャよりも強力な力を持っているということなので、つまり、戦っても勝てる見込みがない相手だということだ。
そして、今、マーシャの目の前にいる悪魔はまさに『それ以外』の方だった。
戦っても勝てる見込みがない。逃げ出す隙さえ与えて貰えるかどうか。いや、逃げるのは不可能だ。マーシャひとりならともかく、今は後ろに護るべきアーサーとカイがいる。
マーシャはなんの武器も持たずに猛獣の前に突き出されたような心地だった。
(手がかりはあったはずよ。悪魔の正体を暴く手がかりが。……そう。たとえば、蠅)
ずばり名前を言い当てられなくとも、なんとなく誤っていなければ悪魔は会話に応じるはずである。
薄氷の上に一歩、足を踏み出すような気持ちでマーシャは、そっと言葉を放つ。
「蠅の王」
ほぉ、と低く唸るように男の声が響いた。不気味な黒い塊から暗闇が砂のようにさらさらと流れ落ち、悪魔の姿がはっきりと見えてくる。
細身で、背の高い男だ。漆黒のブリオーを身に纏い、銀のベルトを緩やかに巻いている。
癖のある柔らかそうな黒髪。穏やかな黒い瞳。
薄く口ひげを生やしているが、けして不潔感はない。むしろ、その端正な顔立ちから、育ちの良さや優美な印象を受ける。――もっとも悪魔に対して育ちの良さを感じるなんてじつに馬鹿げているのだが。
マーシャは最初の一手を誤らずに打てたことを知って、ほっと胸を撫で下ろす。
だが、それもわずかの間。次に口にすべき言葉も慎重に選ばなければならなかった。
「蠅の王、お前がなぜここにいるの? 目的は何?」
男の姿をした悪魔がマーシャを見やる。その視線はまるで値踏みするかのようにマーシャの頭のてっぺんから足の先へと移動していく。マーシャは不快感と不安感、そして、肉食獣の前に放り出された小動物のごとく焦燥感を覚えた。
やがて悪魔は黒い瞳を細めて穏やかな声音で言った。
「わたしの花嫁を迎えに来た」
「花嫁? えっ、花嫁?」
予期せぬ返事だった。マーシャは不意を突かれ、悪魔への警戒が緩む。悪魔の方もどうやらすぐさまマーシャに襲い掛かってくる様子はなさそうだ。
そして、花嫁と聞いてマーシャが、ぱっと脳裏に思い浮かべたのはモルガナの美しい姿だ。
(花嫁って、モルガナ姫のことかしら?)
――だとすると、河に現れた悪魔は、やはりモルガナを狙って現れたもので、彼女は悪魔の契約者ではないということなのだろうか。
くすりと悪魔が口元に笑みを浮かべた。マーシャがびくりと肩を跳ねさせ悪魔を見やると、悪魔はまるで床の上を滑るように靴音を立てずにマーシャに歩み寄る。
そして、マーシャの正面に立つと、流れるような優美な仕草で床に片膝を着き、マーシャに跪いた。
マーシャは目を見張り、声が出ない。悪魔はさらに笑った。
「何を驚く。そなたは皇女だ。そなた以外にわたしの花嫁に相応しい者はいない。さあ、わたしと共に……」
「ちょっと待て!」
悪魔がマーシャに向かって手を差し伸べたと同時にマーシャは強く腕を引かれ、アーサーの背にかくまわれた。
「マーシャはどこにも行かない。俺の、ログレスのドルイダスだ!」
「そのようなこと知ったことではない」
「昔から言うだろ、先着順! 早いもん勝ちってな! マーシャは先に俺と約束をしたんだ」
「ほぉ。ならば、わたしの方が先だ。わたしは彼女の父君が人間の女に子を産ませると決めた時に、もしその子が女子ならわたしの妻にと契約したのだ」
ほら、わたしの方が先だと微笑を浮かべ、得意げに言う悪魔にマーシャは思わず声を上げた。
「はぁ~⁉ それ、どういうことなの⁉」
マーシャがアーサーの後ろから顔を出して悪魔を仰ぎ見ると、悪魔もマーシャだけを見つめながら言う。
「君の父君とわたしは古くからの友人なのだ。君の父君は、神が人間の女に子を産ませたと知ると、己も人間の女に子を産ませることを決めた。そして、そのことを知ったわたしともうひとりの友人がそれぞれ父君と契約した。もし男子ならばその友人が、もし女子ならばわたしが産まれた子を伴侶に迎えると。その代わり、わたしと友人で君の父君に相応しい人間の女を探したというわけだ」
「……」
「君は女子だ。だから、わたしの伴侶となる。そういう契約なのだよ」
本当に……と、マーシャは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、溜めに溜めていた想いが爆発したかのように叫ぶ。もはや悪魔への恐怖など粉々に吹っ飛んでいた。
「あんたたち悪魔は、人の人生を踏みにじってぐちゃぐちゃにしてくれるわよね! こっちは必死に生きているのに‼ あんたがっ、つまり、あんたたちがあたしの母親の人生をめちゃくちゃにして苦しめた張本人ってわけね! その上、あたしの人生を勝手に決めてくれちゃったわけ? 何がそういう契約よ。あたしがどこでどうやって生きて、誰の妻になろうと、それはあたしの勝手でしょ! なんでいつもいつも悪魔がしゃしゃり出てくるのよ! 生まれる前から決まってた? はぁ~⁉ ふざけんじゃないわよっ!」
アーサーの体を横に押し退けてマーシャは悪魔の前に立つと、人差し指を突き立てて声を荒げた。
「あたしが生まれる前からって言うなら、どうしてあたしが塔に閉じ込められている時に来なかったのよ! あの時だったら……。仮にあの時に、お前を迎えに来たとか言って現れたのなら、もしかしたら――ううん、たぶんきっとあたしはあんたに救い出されたと思って、たとえあんたが何者であろうと簡単に付いて行ったと思うわ」
それほど塔での日々は長く、孤独で、辛かったのだ。
「どうして今更っ!」
悪魔と関わりがあるせいで閉じ込められていたのだ。だからべつに悪魔の助けが欲しかったわけじゃない。事実、悪魔はマーシャに何もしてくれず、マーシャを助けてくれたのは『騎士』様だった。
そして、マーシャは自分を塔から救い出してくれた少年を恋い慕い、ずっと探しているのだ。たとえ彼がどこの誰であろうと、今度はマーシャが彼の力になりたいと思って――。
「あたしを伴侶にと望んでおきながら、あたしが一番苦しかった時に何もしなかったあんたにあたしが黙って付いて行くと思う? 思わないわよね⁉ てか、ありえないわよね? だから消えて。悪魔なんて大っ嫌い!」
悪魔は僅かに眉をひそめたようだった。小さく唸ると、人間とまるで変わらない仕草で腕を組む。
「なるほど。わたしにも言い分はあるが、言われてみればその通りかもしれぬ」
「……」
「そう、つれない顔をしないで欲しい。君を閉じ込めていた塔の結界は不愉快なものだったのだ。だが、破れぬものではなかった。つまり、もっと早く迎えに来ようと思えば来られた。しかし、それを怠ったのは、わたしの落ち度だ。認めよう」
悪魔はこれまでマーシャが知るどの悪魔よりもずっと素直で、紳士的だった。マーシャは目尻に浮いた涙を手で拭い、数度大きく瞬きをする。
「あたし、……貴方とは行かないわ」
「致し方ない」
「諦めるの?」
「今は引くしかないと理解した。だが、君はわたしのものだよ」
「ふざけたことを!」
声と共に見つめ合う二人の間にアーサーが割って入る。マーシャは再び腕を引かれアーサーの背に隠された。
「マーシャはお前のものじゃない! とっとと失せろ、この悪魔めっ!」
だが、そんなアーサーを無視して悪魔はマーシャだけを見つめてさらに語りかける。
「いつでも呼べば現れよう。そして、次こそ君の助けとなろう。ただし、わたしは『蠅の王』とは別に名が数多ある」
「蠅の王と呼ばれるのは好まないってこと? なら、なんて呼べばいいの?」
「……」
「答えないのなら、蠅の王と呼ぶわ」
アーサーの影から出て、両手を腰に添えて言えば、悪魔はあからさまに眉を歪め、困ったような表情を浮かべる。
そして、次の瞬間、マーシャに向かって一歩踏み込んできた。とっさに逃げようと一歩退いたマーシャの腕を掴んで、僅かに体を屈めた悪魔がマーシャの顔に己の顔を寄せる。
「『高き館の主』――と呼ぶ者たちもいる」
そっと耳元で囁かれた言葉に驚いてマーシャは小さく繰り返した。
「高き館の主……?」
少し考え込んで、はっとする。
(まさか)
そう呼ばれていたかつての神がいたことを古い書物で読んだことがある。それは今ではもう『神』と崇めてはならない存在に堕ちてしまったが、とても力のある神だったのだという。
(たしか名前は……)
「――バアル・ゼブル(高き館の主)」
マーシャはかつての神の名を口にして悪魔を見やる。だが、すでにそこに悪魔の姿は無かった。
だはぁーっ、とその場の空気を一変させる声が響く。ぎょっとしながらマーシャが振り向くと、カイが肩を大きく上下させながら深呼吸を繰り返していた。
まるでずっと息を止めていたかのような様子だ。実際、そうだったのかもしれない。悪魔が去ったと知って、緊張が解けた表情をしている。
「やばい。やばい。姿は人間なのに妙な威圧感があったよな。優しい顔をして穏やかな話し方をしているのに、なぜか空気がピリピリしてたぜ。お前たち、よくあんなのと平然としゃべっていられたよな」
「めちゃくちゃ腹が立ったからね!」
怒りが恐れを凌駕した。そうでなければ、悪魔に対してあんな口の利き方はできなかったはずだ。一瞬で消される恐れがあるからだ。
いや、でも。きっとそれだけではない。
いくら腹が立ったからとはいえ、他の悪魔であったら、あのような口の利き方はできないだろう。悪魔とのやり取りは、死の綱渡りだ。
ところが、あの悪魔の持っていた独特な雰囲気は、マーシャがどのような態度を取っても許してくれるのではないかと思わせた。
「なんか、なんか、変な悪魔だった!」
上手には言えないが、こちらに対して敵意がなく、無理強いしたり、騙したり、何かを奪おうとする様子もない。あっさり去っていくあたりは、いったい何のために現れたのかと首を傾げたくなる。
悪魔は基本的に自分からは名乗らない。なのに、マーシャが聞くと、自分の名前に連なるヒントを口にした。というか、あれはもうヒントというより、ほぼ答えだ。名乗ったようなものである。
あり得ない! 悪魔として本当にあり得ない!
マーシャに対して無防備過ぎやしないか?
信頼されているのではない。信用を得ようとして、悪魔の方が己の持ち得るすべてをマーシャに捧げようとしているかのように見えた。
「よく分からない! なんなのあの悪魔!」
「そんなことより、マーシャ!」
ぐるぐると頭の中を混乱させて、今まさに起きたことを整理している最中だというのに、それを妨げるが如くアーサーがマーシャの両肩を掴んで揺さぶる。
「お前、あの悪魔に心を許し始めていただろ?」
「はぁ⁉」
またまた何をいっているのだ! 阿保らしくて怒りの矛先がアーサーに向きそうになる。
悪魔に心を許すなんてあり得ない!
悪魔は嫌いなのだ。悪魔を憎んでいる。悪魔なんかに心を許すわけがない……。
(嘘)
マーシャは唇を噛んだ。
悔しいが、アーサーの言う通りだ。結局、マーシャは下手に出られると弱いのだ。
相手が高圧的であればあるほど反発するが、相手が引けばマーシャも折れてしまう。それが悪魔に対してもそうなのかと思うと、ほんと嫌になる。
俯いたマーシャの肩からアーサーは手を離した。
「とにかく気を付けろよ」
アーサーは部屋の中を歩き回り、悪魔の姿が本当に消えたのか確かめる。窓の外や寝台を三度も覗き見てうろうろする様子に、ついにカイが呆れた声を出した。
「アーサー、もうマーシャを休ませてやろう」
カイ自身も一通り部屋の中を確認してくれていて、異変はないと判断したようだ。あれだけ飛んでいた蠅も消え失せている。
「そうだな。……マーシャ、何かあったらすぐに俺の部屋に来い。どんな遅い時間でも構わないから」
「あたしよりアーサーの方が気を付けて。本当にモルガナ姫が悪魔と関りがあるのだとしたら、これから何かが起こると思う」
「もうすでに河で起きたじゃないか」
「ううん、これから起きるのよ。もっと何か……ろくでもないことが」
「分かった。マーシャがそう言うのなら気を付けよう」
アーサーとカイを見送って、マーシャは寝台に腰を下ろした。胸の奥がざわざわと騒ぐ。思えば、なんて一日だろう。
マーシャは今まで悪魔とは関わらないように生きてきた。悪魔から逃げてきたと言っても過言ではない。それなのに、どうして悪魔の力に頼ってしまったのだろう。
アーサーを見殺しにはできなかったのだ、仕方がないと思いながらも、使うべきではなかったという思いがしつこく心に残って燻る。
悪魔の力を使ってしまったがために地獄の父親に見付かり、父親が勝手に契約を交わした許嫁を名乗る悪魔まで現れた。もう頭の中がぐちゃぐちゃである。
自分がどうして生れることになったのか、母親がどんな悪魔たちの選定を受け、悪魔の中の悪魔、魔界の皇帝ルシファーに襲われることになったのか。ざっくりとだが、バアル・ゼブルに聞かされたことが頭の中で反芻される。
神が人間の女に子供を産ませたから、対抗して自分も人間の女に子供を産ませたですって? ――そんな理由で⁉
バアル・ゼブルともう一人の悪魔がルシファーのためにルシファーの子供を宿す人間としてマーシャの母を選んだ。どんな基準で、どうして母を選んだのかは分からないが、母を不幸に突き落とした悪魔がマーシャの目の前に現れたのだ。
もっと罵ってやるべきだったのに、どうしてそうしなかったのだろうか。
悪魔の力を使ってしまう自分がいるように、悪魔のことを拒絶し切れない自分がいるのだろう。
マーシャの母親は、産まれてきた娘がルシファーの子だと分かると、娘を殺そうと何度も何度も試みた。
だけど、マーシャは赤子の頃、強大な魔力で護られていて、刃物で傷付けてもその傷はすぐに塞がり、首を絞めて窒息させても必ず息を吹き返したのだという。
それでもマーシャの母親は諦めず、マーシャを拒絶し、殺そうとし続けた。それは教会の司祭がマーシャを母親から引き取り、塔に封じるまで続いた。
母親はマーシャを引き渡す時、悪魔に汚された己の身を厭い、悪魔の子を産んでしまった己の罪に嘆き、そして、悪魔の子を己の手で始末できなかったことを悔いていたという。
母親のようにマーシャも悪魔を拒絶するべきなのに。母親のように悪魔を殺しても殺しても殺し切れなくても殺し続けるくらい拒絶することが、マーシャにはできなかった。
「あたしが所詮、悪魔の娘だからなの?」
だから、悪魔を拒絶しきれないのだ。
マーシャは絶望に沈むように、背中から倒れるようにして寝台に横たわった。