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4.押し掛け婚約者に、隙を見せるな(1)

 

「ダメよ! どこにも行かせないわ。政治の道具にするために呼び寄せたわけではないのですから!」

 さながら子を護る獣のように、彼女の姉は彼女の両手を握り締めて夫に非難を帯びた瞳を向ける。

 常には夫に従順な姉の稀な姿に、彼女の夫は気圧された様子だ。

 むっとした表情を浮かべたのは一瞬のこと。すぐに薄く笑みを浮かべて娘ほど年の離れた妻の機嫌を取ろうと、優しく宥めるようにその男は言った。

「とても良い縁談だと思うがね。それに上手くいけば彼女のおかげで平和が保たれ、皆が幸せになれる。そうは思わないか?」

 嘘ばかりだと、彼女は思った。

 平和が保たれる? そんなこと微塵も望んではいない。彼は戦争を仕掛けたくて堪らないのだ。

 オークニーのロット王。――この男は自分こそが、かつてブリタニアの王の一人であったウーゼル王の後継だと自負している。

 ロット王は、ウーゼル王が病に倒れた時に彼に代わって彼の軍勢を率い、敵と戦ったこともあるほどウーゼル王からの信頼が厚く、ウーゼル王たっての願いで彼の養女を王妃に迎えている。

 ウーゼル王には息子がおらず、王妃が前の夫と設けた三人の娘を養女としていた。その三人の娘のうちの長女アンナを妻に迎えた自分こそウーゼルの後継だというのがロット王の考えであった。

 ロット王は、今は亡きウーゼル王の領土ログレスは自分のものであると長らく主張し続けてきたが、その主張を認める者は皆無で、ウーゼル王の死後十数年間ログレスには王不在の状況が続いていた。

 事は急に。誰もが思いがけないかたちで起こった。ログレスに王が誕生したのである。それもたった十五歳の王で、ただ石から剣を引き抜いただけの少年である。

 当然、ロット王が少年の即位を認めるはずがなかった。彼は何としてでも少年王からログレスの地を奪い取りたいのだ。

 そして思い至ったのが、王妃の妹の存在だった。

 彼女はとても美しかったが、ロット王にとって、いくら美しかろうと義妹である。加えて、義妹は常に妻と行動を共にしていて、寝室まで同じだった。

 まったく手が出せないのである。

 手が出せない女が美しければ美しいほど苛立ちが募り、しだいに目障りになってくる。

 自分の女にすることが叶わないのならば、いっそ駒として使おうと考えたのである。

「君も知っているではないか、アンナ。彼はとても魅力的な青年だ。賢く、とても思いやりがありそうだった。わたしたちの大切な妹を粗末に扱ったりしないはずだよ」

 夫に諭され、彼女の姉――アンナは妹の両手をぎゅっと握り締めながら眉を下げ、瞳を揺れ動かした。

 アンナは三年ほど前にログレスの少年王と対面しており、その時のことを思い出してロット王の言葉にも一理あると考え始めている様子だ。

 先ほどロット王を非難した勢いはどうしたものか、しゅんと肩を落としながら最後の抵抗とばかりに言った。

「けれど、もし戦争になったらどうするのです」

「ならないために行くのです、姉上」

 きっぱりと言い切ったのは彼女だった。アンナは青い瞳を大きく開いて妹を見つめる。信じられないとその瞳が言っていた。

 彼女は姉の手をそっと退けて、ロット王をまっすぐ見据える。

「ログレスに参ります。義兄上と姉上にはとても良くして頂きました。その恩を返させて頂きたいのです。ログレスに行かせてください」

「おお、よく申した! モルガナよ、それでこそ我が義妹だ!」

 ロット王は弾けたように大きく笑い、大股で歩み寄って来ると、大きな手で彼女の両肩をがしりと掴んだ。続けて数度軽く叩く。

「わたしは幸運だ。良い義妹に恵まれた! 加えて、モルガナのこの美しさ。必ずやログレスの若造の心を奪えるものと信じておる」

 上機嫌なロット王に向かって、彼女は贅沢なほど布を使ったドレスの裾が花開くようにお辞儀をしてゆっくりと顔を上げた。

 目が合うと、アンナは未だ不服そうで、物言いたげな表情を浮かべていたが、ここで足を引っ張られては台無しである。彼女はアンナから視線を反らし、自分の意思が固いことを無言のうちに姉に知らしめた。

 ようやくログレスに行ける!

 長い長い年月を耐え、ようやく自分の刃が相手の喉元に届く場所に行けるのだ!

 そのために姉を踏み台とし、ロット王の野望を利用することに何ら感慨もなかった。

 彼女は己の胸元を飾る大きな紅い宝石ルビーの首飾りをぎゅっときつく握りしめて、その赤い宝石のような血だまりに沈む憎き相手の姿を思い浮かべた。

 やっと会えるのだと思うと高揚感に足元が浮き立つ。

 薔薇のように頬を染めた彼女の様子は、姉夫婦の目には、将来の夫を想い、早くも恋焦がれている乙女の姿に映ったに違いない。

 あながち間違ってはいない。

 かれこれ十数年もずっと彼だけを想ってきた。彼を想う時間はとても充実していて、生き甲斐であった。

 どうやって殺してやろうかと、何通りもの殺し方を夢想する。

 彼の死にざまを思い浮かべている時ほど楽しくて幸せな時間は他になかった。

 ずっとずっと会える時を待ちわびている。

 会いたくて。会いたくて。胸を焦がす。

 この想いがどうして恋焦がれる乙女の想いに劣るだろうか。

 彼女――モルガナは、ついにログレスへの道を手に入れて、唇から零れ落ちる笑みを抑えることができなかった。



 ◇◇  ◇◇ 



 闇が揺らめいていた。

 食事を済ませたマーシャはアーサーと共にモルガナが待つ部屋に向かう。さほど遠くはないとアーサーは言ったが、長い廊下をいくらか歩かなければならなかった。

 左右に迫ってくる石壁。重く押し潰されそうな石造りの天井。そして、ひんやりと冷たく固い石床。

 どこに目を向けても息苦しいほどの閉塞感に、まるで洞窟の中を進んでいるみたいだとマーシャは思った。

 石壁の高いところに腕木を突き出させた燭台が等間隔にあり、そこに入れられた松明の灯りが闇をそっと掻き分けている。

 廊下の隅へと押し退けられた闇は卑屈そうに身を縮め、ざわざわと揺らめきながら、薄明かりの中を歩いて行くマーシャたちの動向を固唾を呑んで見守り、隙あらば自分たちの勢力を取り戻そうとしていた。

 ひとつの扉の前でアーサーの足が止まる。大きくて頑丈な造りの木の扉だ。その細工の華麗さを見れば、ただの客間ではなく、国や王にとって重要な客人をもてなすための部屋だとひと目で分かった。

 コン、コン、コン、と音を薄闇に響かせてアーサーが扉を叩く。しばらくして両開きの扉の片側がすぅっと細く開いた。

 はっとアーサーが息を呑んだ気配がした。

「既にお休みでしたか。失礼した」

「構いません。中へどうぞ」

 さらに扉が開かれ、マーシャはアーサーが驚いたわけを知る。薄暗い部屋の中から姿を現した女は、肌が透けて見える白い肌着を纏っているだけの姿だった。

 不思議なことにその姿を見て、はしたないとか、だらしないとは思わなかった。

 むしろ、見てはならぬものを見てしまったと背徳感がわく。そう思わせる艶っぽさが彼女にはあった。

 再び部屋の奥へと戻った彼女が部屋の中央に置かれたテーブルの傍らに立つと、その上に置かれた燭台の灯りが彼女の背中を覆って豊かに広がった金髪をキラキラと照らした。

(彼女がモルガナ姫なんだわ)

 姫君と呼ばれるに相応しい容姿だった。アーサーに続いて部屋の中に足を踏み入れたマーシャは、まるで魂を抜かれてしまったかのように彼女の姿に見惚れる。

 眉はペン先で描いたかのように形が良く、サファイアの瞳は長い睫毛に縁取られている。

 すっと筋の通った高い鼻。朝露に濡れたバラのような唇。そして、つんと尖った顎。それらどれを取っても美し過ぎる造形をしており、まるで妖精たちに幸福を与えられたかのような恵まれた美貌だ。

(すごい美女……。こんな人がこの世に存在しているなんて)

 アーサーほどの美形はいないと思っていたが、どうしてモルガナもアーサーに負けず劣らずの美形だ。男なら当然、女だって皆、マーシャのように見惚れてしまうに違いなかった。

 そのような美人が何という魅惑的な格好をしているのだろう。

 薄い肌気から見え隠れする乳白色の肌は、思わず触れてみたくなるほど、きめ細かく滑らかだ。豊かで柔らかそうな胸元には、その場所に視線を惹きつけようとするかのごとく、大きな紅い宝石の首飾りがある。赤子の拳ほどの大きさの宝石だけでも価値は高そうだが、精巧な金細工まで施されており、この世に二つとない首飾りであるように見えた。

 じっと見つめ過ぎたようで、マーシャの視線に気付いたモルガナの青い瞳がマーシャを映す。

「貴女がログレスのドルイダスですか?」

 女性にしては低めだが、不思議と耳にすっと入ってくる心地の良い声だ。一瞬、聞き惚れてしまい、反応が遅れてしまったが、マーシャは一歩進み出ると、膝と腰を曲げてモルガナに対して礼を取った。

「オークの賢者メルディンの四番目の弟子、マーシャです。モルガナ姫に精霊のご加護を」

「メルディンの弟子……なのですね。河でのこと心よりお礼を申します」

「いえ、できることをしただけです。――メルディンをご存じなのですか?」

 モルガナがメルディンの名を口にした時、僅かに含みがあったように感じられて聞き返すと、彼女は緩く頭を左右に振った。

「面識はありません。ですが、噂を耳にしたことがあります。とても多くの知識を持ったドルイドだとか。――ドルイドの力は悪魔にも対抗できるのですね。あれは悪魔だったのでしょう?」

「はい、そのようです」

 ドルイドの力で悪魔を退けたわけではないが、マーシャはモルガナに多くを語る必要はないと判断して、素知らぬ顔で彼女の言葉を肯定した。

 それから立つようにと促されてマーシャはゆっくりと体を起こし、モルガナと対面するように立ち上がる。

「ログレスの領内で雇った船頭がまさか悪魔だったとは、とても驚きました。侍女にも可哀想なことをしてしまいました。連れて来なければ良かった」

 モルガナは声を震わせ、目を伏せる。肩を落とした様子はまるで泣いているかのようで、見ているマーシャは心苦しくなって頭を深く下げた。

「申し訳ございません。お助けすることが叶わず」

「ログレスにはよく悪魔が現れるのですか?」

「それは……」

 マーシャは言葉を詰まらせた。

 マーシャの知る限り、悪魔たちはログレスを避けている。もともとこの地には、神でもなく悪魔でもない第三の力が眠っており、神も悪魔もその力を忌みつつも長らく黙殺していた。

 先に手を打ってきたのは神の方だった。カンタベリー寺院の石に出現した聖剣がそれだ。この聖剣が宿す聖なる力がログレスを守護したため、ますます悪魔はログレスに手が出せなくなったのではないかとマーシャは考えている。

 ところが、アーサーが聖剣を手に入れて三年。マーシャが見たところ、聖剣は聖剣としての力を失っている。悪魔が現れたこともログレスの地が神の守護を失いつつあることを意味しているのではないだろうか。

「ログレスに悪魔が現れたのは今回が初めてです」

 言葉を詰まらせたマーシャに代わって、アーサーがモルガナの問いに答えた。

 モルガナはいっそ顔を曇らせる。口元を抑え、声を震わせた。

「侍女は不運だったのですね。本当に可哀想……」

「ええ、とても不運な出来事でした」

「アーサー王、今宵は可哀想な侍女の死を一緒に悼んでくださいませんか?」

 マーシャと向かい合って話していたはずのモルガナが、いつの間にか、アーサーの正面に立って、アーサーをまっすぐ見つめている。

 もはやマーシャなどその瞳に映っていない。そうと気付いたその時、白い手が――。

 生々しいほどに白い手が、すっとアーサーの胸元に伸ばされる。縋るように。艶めかしく。

 マーシャはまるで情事の一部を覗き見てしまったかのような心地になり、どきりとして思わずモルガナの顔を凝視してしまう。

(あっ)

 視線が交わり、マーシャは慌ててモルガナから視線を逸らす。

 女ならではの勘。そういうものが本当にあるのだとしたら、今まさにそれがマーシャに働いた。

『お前は邪魔だ。出てお行きなさい』と、モルガナがわずかに寄越した視線でマーシャに告げていた。

 マーシャはいてもたってもいられなくなって、無言で一礼し、部屋の扉の方に足を向ける。

 アーサーを残して去っても良いのだろうか、という迷いが頭を過ぎらなかったわけではなかった。だが、それよりも美しくも妖艶なモルガナに圧倒され、彼女に従わざる得ない心情だった。

 もし今のマーシャを支配している気持ちを言い表すとしたら、女が女に抱く恐怖心に違いない。

 彼女に逆らってはならない。

 敵にしてはいけない。

 半端な反抗は己の身に不幸を呼ぶだけだ。火の粉が飛んで来ないように逃げた方がいい。そんな思いに追い立てられるようにマーシャは大慌てでモルガナの部屋を出た。

 再び洞窟のような廊下を歩き、マーシャはほっと息をつく。

 圧迫感のある石造りの廊下だというのに今はなぜか不思議と解放感が沸き立つ。

(狙いはアーサーだったのね)

 彼女はマーシャにお礼を言いたかったのではなかったのだ。最初からアーサーを自分の寝室に招き、誘惑する目的があって、マーシャはその口実に使われただけだったのだ。

(彼女の薄着姿を見てすぐに気が付くべきだった。あたしとしたことが……まったくもうっ!)

 すぐに気が付いていたら何らかの対処ができて、アーサーを置き去りにせずに済んだかもしれない。けれど、気が付くのが遅れ、モルガナに場を支配されてしまった後となっては無理だ。女が男に狙いを定めた時の独特な気配は、マーシャにとって恐怖でしかない。

 腹を空かせた肉食獣と化した女から、獲物である男を奪えるものだろうか。

 色恋の話といったら、塔から自分を助けてくれた『騎士』様とのことしかないマーシャには到底無理だ。

 では、どうするべきだったのか! 

 後の祭りではあるが、マーシャなりに反省してみる。

 モルガナには勝てない。最初から戦うことを避けるべき相手だ。だとしたら、アーサーと共に部屋に行くべきではなかったのだ。

 こんな夜更けに呼びつけてきた時点で気が付くべきだった!

「もう遅い時間なので、翌日、ご挨拶に参りますとかなんとか言伝を侍女に頼めば良かったのよ。第一、アーサーってば、仮にも王なのに、なんで使いっ走りみたいなことをしてるの? そこからがそもそもおかしいのよ! モルガナ姫が呼んでいるって、わざわざあたしに言いに来て、一緒に部屋までついて来なくて良くない? アーサーも来いってモルガナ姫に言われていたとか? だとしても行く必要がないのよ、夜遅いんだからさ。――あああああ‼ というかっ! アーサー、置いてきちゃったけど、大丈夫かしら!」

「アーサーがどうした?」

 はっとしてマーシャは振り返った。石壁に人影が映ってから男の姿が現れる。日に焼けた肌に、水気のないパサパサとした赤茶の髪。顎を上げて仰ぐほどの大柄で、鍛えられた体躯の持ち主だ。

「カイ」

「すっごい独り言だったな。大丈夫か? それで、アーサーはどうした? マーシャの部屋に行くと聞いていたから迎えに行ったのに、部屋が空っぽで探したぞ」

「どうしよう。アーサーをモルガナ姫の部屋に置いてきちゃった!」

「なんだと?」

「今頃たぶん、ちょっと際どい事態になっていると思うの」

「際どい?」

「際どいを超えてるかも⁉」

「はっ⁉ 本当かっ!」

「やっぱりマズイかしら?」

「分からん。これは一種の外交問題だ。俺には良いのか悪いのか。お前の不思議な力でどうにかならないのか?」

「どうにかって、例えば?」

「アーサーを不能にするとか」

「不能? ……ああ、できなくするのね?」

 混乱の中、縋りつけるものを見付けた気持ちでマーシャはカイに訴えると、カイはよく響く鐘のように打てば打っただけの返事をくれるものだから、マーシャは余計に頭の中がこんがらがってきた。

「できなくなってしまえば、どうしようもないものね」

「そうそう。できないもんは仕方がない。モルガナ姫は諦めるだろうし、アーサーもうまく切り抜けるだろう。まあ、もし外交的にモルガナ姫とそういう関係になった方が良いのだとしたら、明日以降になればいい」

「そうね。明日以降にアーサーをモルガナ姫の部屋に送り込めばいいのね。けど、不能にするって、どうやってやるのかしら? やり方あったかしら?」

「永続的に不能になっては困るぞ。アーサーには世嗣ぎが必要だ」

「わかったわ、一時的な不能ね。難しそうだけど、何か方法がないか考えてみる」

「――俺に何をするつもりだ」

「わっ! アーサー‼!」

「何⁉ もう済んでしまったのか⁉ なんてこった! いくらなんでも早すぎるだろうっ‼」

「そんなわけないだろっ!」

 振り返ると、不機嫌顔のアーサーが立っていた。衣服が乱れている様子はない。それどころか松明の炎に照らされた彼の髪がキラキラと輝き、まるで潔白のサークレットを着けているかのように見えた。


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