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3.認めたくないけれど、親が地獄にいる(2)

 最後の詞と共にマーシャは瘤のある醜い背に向かって左手を振り下ろした。炎が轟々と燃え盛りながら悪魔に向かって勢いよく飛んでいく。


 ―― だんっ ――


 炎は悪魔の背中の瘤に触れると、空高く火柱を上げた。

 それはまるで悪魔の自由を奪う円柱の檻。悪魔に逃れる術は微塵もなかった。


 ―― ぎゃおおおおおおおおおおおお ――


 黒い炎の中でいっそうに黒い影となって悪魔は身を捩り、苦しみ悶えながら、その姿を細く細く、小さく小さくしていく。

 圧倒的な力で押さえつけられ、捻り潰され、やがて悪魔の影は一筋の線となり、その線が途切れるようにして悪魔は消滅した。

 がくん、と膝を折ってマーシャはその場に崩れ落ちる。と同時にマーシャが放った闇の炎も幻が現実に呑み込まれるように、すうっと消えた。

『マーシャ、やったよ! すごいね! マーシャはすごいよ!』

「……」

 はしゃぐビリーに答えてやる気力は残っていなかった。まるで全力疾走した後のような疲労感と、大事を成し終えた後の脱力感がマーシャを襲っていた。

 大きく肩で息を吸う。アーサーの心配げな呼び声が聞こえていた。彼は片膝を着いてマーシャの顔を覗き込むようにマーシャの肩に触れてくる。

「大丈夫か?」

「……」

 大丈夫と反射的に唇を動かしたが、声は出なかった。何度か荒く呼吸を繰り返し、ばくばくと跳ねる心臓を押さえつける。

(あたし、本当に悪魔を倒したの……? 悪魔の力で…)

 無我夢中でやってしまったことだったが、本当にこれで良かったのだろうか。マーシャが左手から放った炎は、凶悪な悪魔を焼き尽くしてしまえるほどの強大な力を持った邪悪な炎だった。

 悪魔の力は十分に承知しているつもりであっても、想像以上に強大で、そして、覚悟していた以上に邪悪なものだ。そう再認識させられ、マーシャは自分がやってしまったことの重大さに恐れ戦いた。

(あたし、なんてことを……っ。他にも手があったんじゃないかしら。本当に悪魔の力に頼るしかなかったの?)

 マーシャは自分の左手をそっと開いて見やった。

(……ない)

 そこにあったはずの悪魔の紋章は――普段そうであるように――既に目には見えなくなっている。現実に起きたことではなく、夢だったのではないか。そんな淡い期待を抱かせるほど、マーシャの左手はいつも通りだった。

 だけど、夢なんかじゃない。自分は確かに悪魔の力を使ってしまったのだ。

(使いたくなかった。物心が付いた頃からずっと使ってはいけないものだと思っていたし、塔を出た後も絶対に使わないと固く誓っていたのに……)

 どっと押し寄せてきたものは、強い後悔だった。指先が震える。いや、膝も。

 強い後悔がたちまち恐れに変わり、全身がガタガタと震え始めた。

(どうしよう。あんなにも邪悪だとは思わなかった。あれでは、あたし、まるで悪魔みたいだわ。……ちがう。あたしは悪魔なんかじゃない! もう二度と使わないわ。そうすればきっと大丈夫。あたしは人間だ!)

 震える右手で左手をぐっと抑え、歯を食いしばって全身の震えを止めようと自分を叱咤する。

 やがて跳ね回っていた胸が落ち着きを取り戻すと、マーシャは瘤のある悪魔が跡形もなく消えた河に視線を向ける。

 墨のような河に、ぽつりとひとつの灯りが揺らめいているのが見えた。

 アーサーもつられるように河を振り返り、あー、と低く唸るように声を漏らす。

 灯りは未だ河を漂う皮舟に掲げられたもので、その灯りに照らされて皮舟の上にドレスの裾を広げて座っているモルガナの姿が夜闇に浮かんで見えた。

「モルガナ姫を助けに行かなきゃならないか」

「……そうね」

 だけど、どうやって? 泳いで行くの? という言葉をマーシャは呑み込んだ。

 迎えに行ってやらねばモルガナが困るだろうが、夜の河なんて誰だって泳ぎたくはない。

 どうにか精霊の力を使って皮舟を岸に引き寄せる方法はないかとマーシャが思案していると、皮舟が大きく揺れる。一瞬、ひやりと背筋に冷たいものが走った。倒したはずの悪魔が再び現れたのかと思ったのだ。

 だが、河から現れたのは、真っ先に悪魔に突き落とされた騎士だった。彼は皮舟の縁に両手を着くと、皮舟を大きく左右に揺らしながら皮舟の上に這い上がった。

「どうやら、ここで待っていれば良さそうだ。あの騎士に任せよう」

 皮舟の上に戻った騎士は――幸いなことに――皮舟の中に落ちていた櫂を手にしてゆっくりと漕ぎ出した。その様子を眺めながら、マーシャはそっとアーサーの手を肩から退けて立ち上がる。

 まだ膝がガクガクと震えていたが、大丈夫。立てる。

「さっきの悪魔のことなんだが……。あの悪魔は死んだのか?」

 アーサーもマーシャの動きに合わせて立ち上がる。そして、わずかに言いよどみながらアーサーが尋ねてきた。

 おそらく、アーサーが本当に聞きたかったことは悪魔の生死についてではない。マーシャが放った禍々しい炎についてだ。そして、マーシャの生まれについて。

 マーシャが塔に閉じ込められていたのは、悪魔の印が左手にあって、悪魔の力をその身に宿しているからだけではないと気付いたのだ。

 マーシャは悪魔に力を借りることができる。それも並みの悪魔ではない。かなり力を持った上位の悪魔に。なぜそんなことができるのか、そのわけに思い至ってしまったのだ。

 だが、マーシャは素知らぬ振りをしてアーサーが口にした問いに答えた。

「悪魔は死なないわ。消滅しても時間が経てば復活するの。でも、自分を倒した相手には逆らえない。倒された時に名前を奪われるから」

「名前?」

「悪魔は自分が何者であって、どんな罪を犯したのか知られるのを嫌うの。それを知られた相手には服従しなきゃならないから」

「それなら、マーシャはさっきのやつの名前を奪えたのか?」

「悪魔が消滅する瞬間に、パッと頭の中に前が浮かんだわ」

「へえ。なんて?」


「――ウヴァル」


 突然、マーシャの視界が真っ暗になった。

 それはまるで目の前で勢い良く扉が閉ざされて、夜道に取り残されたかのような感覚だ。

 悪魔の名前を口にしたとたん、マーシャはこの世という部屋から弾き飛ばされたのだ。

 ぶわり、とマーシャの全身の毛が逆立った。どろどろとしたゼリー状のものが、何かを探るようにマーシャの体をぬるりと擦り抜けて行く。

 内臓を掻き回されたような気持ち悪さに腹の底から吐き気が込み上げてきた。

(何……これっ⁉)

 アーサーやビリーの声が遠くの方で響いて聞こえた。けれど、それに応えてやる余裕なんてない。ぞわぞわと背中を虫が這っている感覚に襲われていた。

 次第にアーサーとビリーの声は小さく小さく、静かに消えて、まったく聞こえなくなってしまった。

 不意に足元の地面が不安定に揺れる。ズキンと左手に痛みが走り、マーシャは表情を歪めた。痛い。いや、熱い! 炎を掴んでいるかのようだ。

 そして、次の瞬間、マーシャの足元に大きな大きな円が現れた。

(目だ)

 そうと気付いた時、その目が大きく見開かれた。

 紫色の瞳だ。ギョロリ、ギョロリ、と左右に動いてから、それはマーシャを見つめた。


 ―― オ マ エ ダ ――


 低くもなく、高くもない。だが、体の芯から震えがくるような、ぞっとする声が聞こえた。

 いや、違う。耳から聞こえたのではなく、言葉を感じたのだ。

(誰⁉ 何者なの⁉)

 そう問いながらも、マーシャには声の主に心当たりがあった。


 ―― ヤ ッ ト、 ミ ツ ケ タ ――


 声の主が、にっと笑ったのを感じる。マーシャは悲鳴を上げた。

 間違いない! 彼だ‼

 とっさにマーシャは逃げようと体を捻った。だけど、逃げ場なんてない。見渡す限り闇で、マーシャが今立っている場所――目玉だけが闇の中にぽつりと浮いている。

 そして、なんと、その目玉から生白い腕が、ぬっと伸びてきたではないか。腕は何本も何本も次々と生えて来て、まるで深海生物の触手のようにゆらゆら揺らめきながらマーシャを捕らえようと迫ってくる。

(いやっ。いやっ、やめて!)

 マーシャは必死に生白い腕から逃げた。足首に襲い掛かってくる腕を飛び越え、腰に絡まって来ようとする腕を払い落とし、黒髪を振り乱しながら死に物狂いに逃げ回る。

 捕まったらおしまいだという恐怖に支配されていた。それはきっと、ちっぽけな蟻が人間に踏み潰される直前に感じる恐怖に似ていた。

 マーシャがなかなかしぶとく逃げ回るので、生白い腕は苛立ったようにうねり始める。そして、さらに一本、二本、三本と目玉から腕が生えて来て、マーシャに襲い掛かった。

 限界だった。

 ついに左足を囚われ、気を取られている隙に右手の自由を奪われ、腰に絡みつかれ、右足、左腕を囚われてしまった。

 ひと際、太い腕がマーシャの首に絡みついて来た。息苦しさを感じるとともに、意識が朦朧としてくる。

 ああ、死んじゃうのかな、とマーシャは漠然と思った。



 ▲▽   ▲▽



 殺されるはずがないのだということを、マーシャは目覚めてから気が付いた。

 ぱっと瞼を開くと、見慣れない場所だった。絶対に自分のものではない豪華な天蓋付きのベッドに寝かされている。

(ここは……どこ?)

 ベッドから床に足を降ろして、マーシャは辺りを見渡した。

 石造りの部屋だ。小さな窓が等間隔に五つある。

 中央に大きなテーブルがあって、白いテーブルクロスが敷かれた上に炎が灯った燭台が置かれていた。炎の明かりはゆらゆらと揺らめきながら、テーブルの上に並べられた食事を照らしている。

 マーシャは立ち上がって、テーブルの上を眺めた。銀の平皿が四つ並び、こんがり焼けた鹿肉の塊、野菜のスープ、手のひらサイズのパンが六つ、そして、プラムが山のように盛りつけられている。

「これ、食べてもいいかしら?」

「食べればいい。そのために用意したんだ」

 独り言のつもりで口にした言葉に思いがけず返事が戻ってきて、マーシャは弾かれたように声の方へと振り向いた。

 部屋の扉の前に、今まさにやって来ましたといった態でアーサーが立っている。

「大丈夫なのか? 突然倒れたんだぞ」

「ここは?」

「キャメロット城だ」

 アーサーは部屋に入ってくると、テーブルの前の椅子を引いてマーシャに座るように促した。

「あたし、どのくらい寝てた?」

 マーシャが椅子に腰掛けると、アーサーはテーブルから硝子の水差しと銀の器を手に取って、水差しを傾け、器に水を注いだ。

 ほら、と言ってアーサーは器をマーシャに差し出す。

「時間はそれほど経っていない。けど、城に運ぶ間どんなに呼び掛けてもまったく反応がなくて心配した」

「ごめん……」

 アーサーから受け取った銀の器は触れるとひんやりと冷たく、器に注がれた水の冷たさを想像させる。マーシャはそっと器の縁に唇を押し当て、啜るように水を口の中に含んだ。

 すぅっと染み入るように水が体内を巡って行く。マーシャは、あっという間に器の水を飲み干してしまい。自分の喉がひどく渇いていたことを知った。

「もう一杯やろうか?」

「うん、ありがとう。――ビリーは?」

「マーシャの猫か? あの猫なら散歩に出かけたみたいだ。少し前に様子を見に来た時にはマーシャの隣に寝ていたんだけどな」

「そんなに何度も様子を見に来てくれたの? モルガナ姫は? 放っておいて平気なの?」

「放ってなんかいない。丁重に城に迎え入れて、城内で一番良い部屋に通したし、晩餐も共にした。十分に歓迎しているだろ。その上、我が国のドルイダスに会いたいとの要望に応えるべく、こうしてマーシャを迎えに来たっていうわけだ」

「モルガナ姫があたしに会いたいって言ってるの?」

「助けて貰った礼を言いたいんだと。悪いが、食事を終えたら一緒にモルガナ姫のところに行ってくれ」

 それから、とアーサーはマーシャが差し出した器に水を注ぎながら言葉を続けた。

「俺に話していないことがあるだろう?」

「当然じゃないの。そんなのいっぱいあるわ」

「だろうな」

 即答したマーシャにアーサーは、むっとした表情になり、その顔のままテーブルに水差しを置いた。

「昔から悪魔と関りを持つ子供が生まれることはある。そういう子供を悪魔から守るために、教会はその子に対して特別な処置をする。塔に閉じ込められた子供も、探せばマーシャ以外にもいるかもしれない。だけど、マーシャ」

 アーサーはそこで言葉を切ってマーシャに振り返る。マーシャは水の入った器を両手で包み込み、静かにアーサーの青い瞳を見つめて彼の次の言葉を待った。

「生まれてすぐ塔に閉じ込められるなんて相当だ。女が悪魔に襲われて不本意にも悪魔の子を生んでしまった場合でも、その子は教会で洗礼を受ければ普通に生きていけると言われている。マーシャは左手に悪魔の印があり、その身に悪魔の力が宿っているから塔に閉じ込められたと言っていた。だけど、それだけじゃないだろ?」

「……」

「さっきマーシャは悪魔に力を借りていた。悪魔を倒せるほどの強大な力を借りられる悪魔にだ。並みの悪魔であるはずがない。かなりの力を持った上位の悪魔なんじゃないのか?」

「……そうね」

「マーシャは悪魔の子供なんだろう? それも上位の悪魔の子供だ。そうだろう?」

「……」

  マーシャが唱えた詞を聞いていたからこその問いなのだ。ならば、この問いはアーサーにとって疑問ではなく確認だ。

「アーサーは何を知りたいの?」

「俺はマーシャが知りたい。マーシャのことなら何でも知りたいと思う」

「あたしが知って欲しくないって思っていることでも?」

「そうだ」

「……もう知ってるくせに」

 マーシャは自分の手元に視線を落とした。俯いた顔を黒髪が覆い隠す。なんだか世界が暗くなってしまったように感じた。

 不意にマーシャの耳元で、ぶーん、と虫の羽音が聞こえる。蝿だと、その飛び方で分かった。部屋の中をぐるぐると彷徨うように回りながら飛んでいる。

 煩わしいとは思うが、彼らは食べ物があるところにやって来るものなので、マーシャは特に気に留めなかった。

「あたしには母の記憶がないのだけど、あたしの母は十四歳であたしを産んだらしいわ。未婚でね。身籠るようなことをした覚えはないのに、ある時からだんだんお腹が大きくなっていったんですって」

 ほとんどやけくそのようにマーシャは語り出す。

 けして話したくはない内容だが、話さない限りアーサーは納得しないだろう。

「当然、本人も周囲も驚いたし、母は女としての名誉を傷つけられて、周囲から冷たい扱いを受けたらしいわ。どうして自分が、何もしていないのになぜ、って、母は教会に何度も足を運んで泣いていたみたい。そして、母はその教会の司祭に告白したの、一度だけとても恐ろしい夢を見たって。何か原因があるとしたら、それしか考えられないって」

「夢?」

「悪夢よ。悪魔に襲われる夢。でも、それは夢じゃなかったの。あたしが産まれて、母はそのことを知ったわ。自分は悪魔に犯されて、悪魔の子を身籠り、産んでしまったんだ、って」

 マーシャは左手を見やる。その手のひらを開いて言葉を続けた。

「産み落とした赤子の手のひらには印があって、それを見た司祭が母に告げたの。この印は悪魔の紋章だ、それもただの悪魔ではない、魔王の中の魔王。お前を拐かした悪魔は、悪魔たちの皇帝だ、って」

 ぶーん、と再び羽音がマーシャの耳を掠め、一瞬の影を残して飛んでいく。アーサーの表情はこれまでに見たことのないほど強張っていた。

「悪魔たちの皇帝というと……まさか…」

 この世に王と名乗る人間は何人かいても、皇帝と名乗れる者は東に一人、西に一人いるのみだった。

 と同様に、天上にも主がひとり、そして、悪魔たちの中にも彼らの皇帝が唯ひとり存在するのだ。

 マーシャは左手を握り締め、顔を上げてアーサーを見つめる。すでに彼が頭に思い浮かべているであろう名前を口にするために言葉を放った。

「悪魔の中の悪魔。魔王の中の魔王。地獄に囚われし、地獄の支配者。堕天使たちの長にして、魔界の皇帝――」

 一瞬の躊躇い。

 そして。


「ルシファー」


 ぞっと背筋が冷たくなるほど重たくマーシャの声は響いた。

 そして、マーシャとアーサーは、ほぼ同時に視線を巡らす。部屋の中には二人しかいないはずなのに、なぜかもうひとりいるような気配を感じたのだ。

(気のせい……?)

 お互いに巡らせていた視線が交わり、訝しげな表情で顔を見合わせる。

「気のせいか……。背後に立たれたような気配がしたんだが」

「悪魔の名を口にしたせいかもね。――信じた?」

「何を? 今の話をか?」

「そう。だって、冗談みたいでしょ? よりにもよって悪魔たちの皇帝が父だなんて。誰もが知っているような悪魔よ。メジャーもメジャー、メジャー過ぎて冗談みたい」

「けど、真実なんだろ? そうだと聞いて俺は納得した。マーシャが放った炎はそれほど強大なものだったから」

「……ひいた?」

「何に? 炎か? それとも親が地獄にいることにか? 答えは否だ。それでも、マーシャはマーシャだからだ。俺の中で何も変わらない」

「……」

 マーシャは、じっとアーサーの青い瞳を見つめた。南の海のように澄んだ青が薄暗い部屋の中でも綺麗に輝いている。

「本心から言っているの?」

 あまりにも必死に見つめすぎて気が付けば、アーサーの顔に顔を近づけ過ぎていた。

 慌てて距離を取るのも不自然な気がして、そのままの距離で潜めた声で尋ねると、アーサーがフッと淡く笑った。

「当然だ」

「でも、あたしは怖い。あたしだったら、悪魔の子ってだけでも避けたいと思うのに、普通の悪魔じゃないんだもの。怖いと思うわ」

「俺は怖くない」

「でも……」

 すっとアーサーの手がマーシャに向かって伸びて来て、そっとマーシャの頬に触れる。

 温かい。

 マーシャの力がアーサーに流れていくのを感じると同時に、アーサーからも何か不思議な力がマーシャに向かって流れ込んでくるのを感じた。

(これは何?)

 自分に流れ込んでくるものが何か分からない。

 分からないが、とても安心できる。心地よくて、まるで羽毛に包まれているかのようだ。

 気持ちが温かくなって落ち着くと、マーシャはアーサーの頬についた切り傷に気付いた。悪魔ウヴァルに負わされた傷だ。確か腕や肩などあちらこちらに傷を負ったはずである。

 ちゃんと治療を受けただろうか。

 王なのだ。治療を受けていないはずがないと思いながらもマーシャはアーサーの傷ひとつひとつに右手を当てていく。

 まず頬から、そっと右手で触れてから首筋を撫でて肩へ。肩から腕に沿いながら右手を少しずつ下ろしていき、腕から手首に、そして、指先まで届くと、肩まで戻った。

 同じように反対側の肩から指先まで右手で触れると、次にマーシャはアーサーの胸板に右手を添えた。

 背中にも傷を負ったはず。そう思い、アーサーの背後に回って、その背に右手で触れる。

 そうやって触れながら手の平に力を込めれば、傷薬よりもずっと早く傷が塞がっていった。

「こんなこともできるんだな」

 感心したように言うアーサーにマーシャは眉を寄せる。

 背中の次に脚の傷を治しながらマーシャは尋ねた。 

「貴方の剣って、以前あたしが見た剣と同じかしら?」

「ああ、そうだ。石から抜いた剣だ」

「だとしたら、それって、聖剣よね?」

 聖剣。――神の聖なる力を宿した稀なる剣。

 そうであるのなら、持ち主を守護する力を持っているはずである。

 その力は特に魔物に対して有効であり、多くの魔物は聖剣の持ち主に掠り傷とて負わせることができないはずだ。

 そして、悪魔も聖剣を忌む。聖剣に切られれば、その切傷は燃えるように痛み、なかなか完治せず、長く苦しめられるからだ。

(何か、おかしい……)

 聖剣であるなら、アーサーの攻撃はもっと悪魔に対して有効であるはずだし、悪魔が戯れに放った攻撃を防いでくれたって良いはずだ。無傷とまではいかなくとも、もっと浅い傷で済むはずなのに、どうして……。

「ちょっと見せてくれる?」

 マーシャはアーサーの剣を指差してから右手を差し出した。

 悪魔の血が流れるマーシャにとっても聖剣は触れたくないものだ。

 三年前、カンタベリー寺院の庭で石に突き刺さった聖剣を見た時、なんて神々しく輝いている剣なのだろうと思った。眩しくて見つめていられないと。

 そして絶対に触りたくないと思った。きっと触れたら火傷してしまう。

 ところが、今、アーサーが腰に帯びている剣からは、そういった畏怖を感じられない。本当に同じ剣なのだろうかと首を傾げたくなる。

「いいけど」

 アーサーは腰から剣を抜き取ると、鞘ごとマーシャに差し出した。マーシャは一度右手でそれを受け取り、ゆっくりと左手を近づけていく。

「っ⁉」

 ――触れた。

 金細工で飾られた見事な鞘は、触れると金属の冷たさを左手に伝えてきた。けして、熱くない。火傷なんてするわけがない。

「貴方、何かした?」

 ぐっと両手に力を込めて、剣と鞘を左右に引っ張り、半分ほど剣を抜いてみる。

 すると、その魚の腹のように輝く刀身に、まるで水面を覗き見たかのようなわずかに歪んだ自分の顔が剣に映った。

「何もしていない。どうかしたのか?」

「聖剣としての力が弱くなってる。これではほとんどただの剣だわ」

「ただの剣って……」

 聖剣を手に入れたからアーサーは王になったのだ。

 そして、聖剣が手元にあるからアーサーは王でいられる。

 それでは、聖剣が聖剣でなくなったとしたら……?

 マーシャとアーサーはお互いの目を見つめ合う。とても恐ろしいことが起こり始めていた。





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