3.認めたくないけれど、親が地獄にいる(1)
目元まで隠すように深く被っていたマントのフードを後ろに払いのけると、露わになった彼女の顔立ちを見た人々がいっせいに息を呑む音が聞こえた。
修道院から身に纏ってきた白いマントは裾が擦り切れており、色も純白とは程遠く薄汚れている。マントの下には灰色の修道服を身に着けており、王宮のどの貴婦人と比べても見劣りする身なりだ。
ところが、どういうわけか、彼女は王宮に集まったどの乙女よりも光り輝いており、その美貌は誰もを圧倒した。
彼女の動きに合わせてキラキラと輝く黄金色の髪は、まるで金粉を振りかけているかのように見えた。髪飾りもなく、ただ無造作に腰まで垂らしているだけだというのに何という美しさか。
透けるような白い肌に、ほんのりと桃色に染まった頬。なんと言っても頬から顎にかけてのすっきりとした曲線が美しい。
広場の大扉に現れ、玉座に向かって軽やかな足取りでまっすぐと進んでいく彼女の姿は、人々に春の妖精を思わせた。
玉座から男がすくっと立ち上がった。皆と同じように彼女の美貌に息を呑んだ男は未だ夢から醒めない様子で一歩、また一歩と彼女の方へと歩み寄って迎えた。
「遠いところからよく来てくれた」
彼女がお辞儀をしようと身を屈めるよりも早く男は彼女の肩を抱く。
「今後は、この城を自分の家だと思い過ごしてくれ」
「はい、義兄上」
従順な様子で伏目がちに返事をすれば、男が喉を鳴らす音が聞こえた。
それから男は広場に集まった諸侯や騎士たちに振り返り、高らかに声を上げた。
「我が王妃の妹君である。王妃の妹であれば、我が妹に等しい。皆、そのつもりで仕えるように」
一斉に衣擦れ音が響き渡って、貴人も貴婦人も騎士も皆、彼女と男に向かって頭を下げた。その光景といったら圧巻のひと言である。これぞ彼女が求めていたものに違いなかった。
だが、足りない。
このままでは、この男の気分次第ですぐに王宮を追い出されてしまう。なぜなら彼女はこの男の気まぐれで王宮に呼び寄せられたからだ。
美しい乙女がいるらしい。しかも、その乙女は自分の妻の妹らしい。そうだと聞いて、ちょっと会ってみようという軽い気持ちだったに違いない。
今は、噂以上の彼女の美貌に満足しているが、その思いがずっと同じように続くとは限らない。数日で心変わりする可能性もある。
男が飽きれば、彼女は王宮を追い出されてしまう。再び修道院に戻るだなんてまっぴらである。
飽きられないように男を誘惑するべきか。今夜ならば簡単にベッドに誘えそうだ。
男の腕が彼女の腰に回るのを感じながら、そんなことを考えていると、男が玉座の方を向くよう促してきた。振り向けば、玉座の隣に並べられた椅子の前に女が立っている。
女は深緑色の絹のドレスを着て、王冠を被り、首飾りや指輪などいくつもの装飾品で身を飾っている。
あっと彼女は思った。朧げな記憶の中の母によく似ていると。思えば、母を失った時、母の年齢はこの女と同じくらいだろう。
(母上……)
母の最期を思い出して涙が溢れそうになるのを、ぐっと堪える。だが、すぐに思い直して涙が零れるままに任せた。
今は泣いた方がいい。その方がずっと効果的だ。そんな風に耳元で囁く蝶の声が聞こえたような気がした。
「姉上、ようやくお会いできました。ずっとずっとお会いできる日を待ち望んでいました。父上を亡くし、母上も亡くし、ばらばらに引き離された姉妹がようやく再会できたのです。姉上、もはやわたしには姉上しかおりません。どうか、どうか、姉上……」
真珠を零すように美しく泣く彼女に誘われて、広場のあちらこちらから鼻をすする音が聞こえ始めた。
白く綺麗な両手で顔を覆い、肩を震わせ涙する彼女の姿は、じつに哀れで、いじらしく、そして、愛おしく見えたことだろう。
「姉上、どうかわたしを側に置いてください」
その言葉を聞いて、彼女の姉はハッと顔色を変えて彼女に駆け寄った。
「ええ、ええ、もちろんですとも」
夫の腕から妹を奪い、その震える体を両腕で抱き締めて涙を流し、何度も何度も頷いて姉は言った。
「わたくしの側にいてちょうだい。ずっとずっとわたくしの側に。何でもしてあげるわ。今まで離れていた分だけ何でも」
彼女も姉を抱き締め返し、その肩に顔を埋めた。
――とその時。
『なんて感動的な再会だこと。上出来だ』
どこから現れたのか、彼女の耳元で蝶が囁いた。
『さあ、時が満ちた。これは始まりの一手。次の手を教えようではないか』
ひらひらと群青色の蝶が舞う。しかし、その優美な姿は彼女の目にしか映っていなかった。
◇◇ ◇◇
マーシャたちが森を出ると、辺りは夕闇に包まれていた。
どこから流れて来たのか、太った羊のような大きな雲が空を覆い隠している。今朝はあんなにも澄んでいて、青が果てしなかったというのに、ブリタニアの空はあっという間に曇ってしまう。
幾重にも重なり厚くなった雲は、端こそ夕陽が差し込んで橙に輝いているが、そこから桃色、紫色、錆色、黒橡のグラデーションを描き、空に浮いていること自体が不思議なほどの重量を感じさせる。
一方、地上では、北の奥からやってきた冷たい風が大地に隙間なく茂った草を順繰りに薙ぎ倒しながら海へと駆け抜けていった。
海から昇る大蛇のような河がその水面に夕陽の影を長く長く映して、まるで血を垂れ流しているかのように見える。
河の流れに添って建つ城壁も夕陽に照らされて戦火に燃えているかのように赤く、その光景の禍々しさにマーシャは寒気を感じてマントの襟を整える仕草と共に身を竦めた。
「おい、まずいぞ。すでに河を渡り始めているじゃないか」
河に向かって馬を走らせながらカイが先方を指し示して言った。アーサーは河をなぞるように視線を移動させ、河の水面に浮いた小さな舟を見つけると、ああ、と息を漏らすように頷いた。
「間に合わなかったか」
アーサーの馬に同乗させて貰っているマーシャもアーサーの肩越しから覗き見るようにして河に浮いた舟を見つめる。
舟は海ではなく波の少ない河を渡るためだけに造られた皮舟で、帆もなく、薄い木片を編んだものに獣皮を張ってできていた。
皮舟は水面を揺らぐようにしてゆっくりと、だが着実に向こう岸からこちらへと向かって来ていたので、マーシャたちがようやく河岸にたどり着いた時には既に河の中央よりもこちら側に流れ着いていた。
三人は馬から降りると、穏やかな波が打ち寄せる砂地に立って、少しずつ少しずつ近付いてくる皮舟を見つめる。
辺りはすっかり暮れてしまい、河の水が墨のように黒く見えた。じゃぶじゃぶと不気味な波音を立てて漂う者たちにとって、皮舟に掲げられた灯りだけが頼りに違いない。
「そこまで来られたんじゃあ引き返してくれとは言いづらいな」
「言いづらいどころか、言えるわけがない」
「しかも、どうやら必要最低限の人数で来たみたいだ。侍女がひとり、護衛の騎士もひとり。よくぞここまで無事にたどり着いたもんだ。ログレスの領内で何かあればアーサーのせいにされてしまうっていうのに。あれじゃあ送り返すにしても、騎士を何人か付けてやらなきゃならないだろう」
「わざとだ。モルガナ姫を迎え入れるのなら思惑通り、追い返して万が一にもモルガナ姫に何かあればログレスの落ち度。そうやって戦争の口実をつくろうとしているんだ」
「ねえ、でも舟の上に四人いるわよ」
アーサーとカイの会話に口を挟むのは忍びなかったが、マーシャの目には皮舟の上にもう一人――アーサーとカイが数に入れていない人影が見えるのだ。気になって聞かずにはいられなかった。
マーシャの問いに、それまで憂鬱そうな表情を浮かべていたアーサーが一変して楽しそうに、どこか嬉しそうにマーシャの方に振り向いて答えた。
「一人がモルガナ姫で、……たぶん、あれだ。藍色のフードを被った女がそうだろう。その隣に座っている女は侍女だ。そして騎士。――で、船頭だ」
「そっか、船頭ね。だから、一人だけ舟の上で立って櫂を漕いでいるのね。……でも、あの船頭、ちょっと変じゃない?」
「変?」
「変っていうか、おかしいというか。胸騒ぎがするというか……ちょっ! やっぱり変よ‼ 見て、あれ!」
マーシャは大声を上げて事の異常さを訴える。その声が届いたのか、マーシャの次に異変に気が付いた者は皮舟の上の騎手だった。弾かれたように立ち上がり、すかさず腰の剣を抜こうするが、抜き切る前に何か――マーシャの目にはそれが何であるのか見えなかったが――強い力に吹き飛ばされ水しぶきを高く上げて河に落ちてしまった。
悲鳴が上がる。侍女のものだ。
彼女は驚愕と恐怖の表情を浮かべたまま大きな大きな闇に喰われ、頭部を失った体で、どぶんっと河に落っこちた。
「なんだ、あれは⁉」
遠目ではあったが、確かに人の姿形をしていたはずの船頭の体が人と言うにはいびつな造形に変貌していく。
ギチギチと肉が弾けるような音を立てて首と両腕、両足が異様に長く延びていく。
肩を丸め、項垂れる格好になると、老人のように曲がった背中にまるで骨が飛び出てしまったかのような瘤が大きく盛り上がった。
「魔物だ! モルガナ姫が危ない‼」
アーサーとカイがそれぞれ剣を抜いて河に駆け込み、じゃばじゃばと水を蹴り上げながら皮舟にたったひとり取り残されたモルガナのもとに駆け付けようとする。
だが、おそらく間に合わない!
魔物はその異様に長い腕を伸ばして今にもモルガナに襲いかかろうとしていた。
(やられる! もうダメ‼)
ところが、ここで不可解なことが起こる。アーサーとカイが河の水を掻き分け近付いてくることに気が付いた魔物が目前の獲物であるモルガナから彼らに標的を変えたのだ。
魔物はドボンッと水しぶきを上げて皮舟から水中へと飛び込むと、一瞬で浮かび上がり、水面に長い手足を蜘蛛のように広げ、まるで氷上を滑るかのような動きで水面を物凄い速さで移動して来る。
アーサーとカイはみるみる迫って来る魔物に驚き、慌てて浅瀬へと引き返してきた。
マーシャは右手をくるりと一捻りすると弓を出現させて魔物に向き合い、その弓に矢をつがえる仕草をする。
「炎よ、我が力よ。我が敵を射抜く矢とならん!」
マーシャが声を張ると、マーシャの右手に炎を纏った矢が現れ、マーシャはすぐさまそれを魔物に向かって放った。
炎の矢は一切の弧を描くことなく、魔物に向かって一直線に飛んでいく。
トスッと軽い音を立てて、魔物の横腹に突き刺さったかのように見えた。いや、おそらく突き刺さったのだろう。炎の矢は魔物の体に触れるとたちまち黒い煙となって消え、跡形もない。
「あたしのバカ! 水辺の魔物に炎なんて効くはずがなかったわ。――風よ、我が友よ。我が敵を切り裂く刃とならん!」
魔物は既にアーサーたちに追い付いて、長い腕をぐるんぐるん振り回し、鋭い爪で二人の体を切り裂こうとしていた。
マーシャが放った風の刃は魔物の肩に切り傷をつけて消える。狙いは魔物の左腕を切断してやることだったのだから、まるで歯が立っていない。
とはいえ、少しは魔物に痛みを感じさせることができたようで、魔物は動きを止めて、ぐぐっと猿のような皺だらけの顔を上げた。
ぎろりとマーシャに振り向く。その瞳の暗いこと! まるで大木にあいた洞のようで、底なしの闇を感じられた。
ゾッとしてマーシャは立ち竦む。魔物はマーシャの様子を見て鼻を鳴らし、嘲笑ったようだった。視線をマーシャからそらし、再びアーサーたちに襲い掛かったが、マーシャはすぐには身動きが取れなかった。
ビリーがフードの中から這い出て来て、慌てたように言った。
『マーシャ、あれは魔物じゃないよ! 悪魔だよ‼』
「えっ、悪魔⁉」
『魔物ならともかく悪魔じゃあ人間には歯が立たないよ。マーシャがどうにかしなくっちゃ、みんな殺されちゃう!』
「どうにかって……」
『マーシャにはできるはずだよ。まだ手があるじゃないか』
「手なんて……」
『あるよ。あるじゃないか』
ビリーが言わんとしていることを察してマーシャは押し黙った。
『できるのにやらないの? やらなきゃ、みんな死んじゃうよ。マーシャは助かるかもしれないけれど、マーシャしか助からないよ? それでいいの?』
「……」
ビリーの言う通り、マーシャにはまだ打つ手が残されていた。
だが、それをやればマーシャは自分自身の中で一番否定したい自分を曝け出し、思い知ることになる。
自分自身の中で一番否定したい自分。
それは欠点――とは、だいぶ異なる。汚点とでもいうのだろうか。いや、それも違う。
なぜならそれはけして直せるようなものでも、挽回できるようなものでもないからだ。
否定したくていつも見て見ぬふりをしていた。まるで無かったことのようにして忘れていられたからどんなに良いかと思いながら。
だけど、時々、思い知る。太陽が地上に落ちる一瞬、足元に大地が無くなり、底なしの暗い穴に落ちてしまいそうになるのだ。
「できない」
『なら、見殺しにするの? そんなことしたらマーシャはますますあちら側に近付いてしまうよ!』
「でも……」
やりたくない。
だったら、見殺しにするの?
どちらが正しいなんてマーシャには分からなかった。
やれるけれど、やりたくない。なぜなら、その力はマーシャが人間であるなら使ってはならない力だからだ。
だけど、それを今使わねば、アーサーとカイは死ぬ。自分が人間であることに拘り、彼らを見殺しにすることが果たして正しいのか?
マーシャは背中に大きな瘤のある悪魔と戦うアーサーたちを見やる。彼らは必死に剣を振るい応戦しているが、マーシャのドルイダスの力でさえ通用しなかったのだ、ただの人間が鉄の塊を振り回して敵うわけがない。
力の差は歴然で、悪魔は弄ぶように少しずつ彼らの体に切り傷を刻み込む。
アーサーの頬。カイの腕。
アーサーの肩。カイの太もも。
致命傷になるような攻撃はしてこない。長く鋭い爪で胸を刺し貫けば一瞬で命を奪えるというのに。爪を空に滑らせて浅く切り付けて来る。
ひとつひとつの傷は浅くとも、ナイフで切り付けられているようなものだ。痛くないはずかない。傷口からはどんどん血が流れていくし、体力も削られる。
このままでは二人とも力尽きてしまうのは目に見えている。
悪魔が暗い眼でアーサーを見やり、彼の額から流れる血を見て、耳まで裂けた大きな口をニタリと引き上げて笑った。
(なんて胸糞悪い!)
それはまさしく魔物よりも知能の高い悪魔の所業だった。
人間をいたぶって遊んでいる。
「だから悪魔は嫌い! あたしは絶対に悪魔なんかじゃないからっ‼」
マーシャは怒鳴るように悪態をつくと、砂地に片膝を着いて左手を地面に触れさせた。
悪魔が嫌いだ。
悪魔に殺されるであろう二人を見殺しになんてできない。
そんなことをしたら、自分は悪魔よりも劣る!
左手に意識を集中させる。いつも右手でやっているように、自分の体を取り巻くすべての力を左手に集めるのだ。
うまくできるだろうか。自分の意思でやるのはこれが初めてだ。
「光を掲げる者。炎を運ぶ者。天界の玉座の右に座していた者。我、汝の名を知る者。我、汝に連なる者。我、汝の求むる者。我を糧に汝目覚めよ。我らに仇なす愚かなる者に絶望を」
ひとつひとつ言葉を放ちながらマーシャはゆっくりと立ち上がり、すっと左手を悪魔に向かって掲げる。
悪魔はアーサーの剣をいなし、雄叫びを上げ、いたぶるように長い腕を振り回し、まるでマーシャには無関心のように広い背中をマーシャに晒していた。
マーシャ弾みをつけて最後の言葉と共に勢いよく振り下ろす。
「出でよ、そして、滅ぼせ!」
――と同時に、マーシャの左手から現れた黯く暗い闇の炎がごうごうと激しく音を上げながら渦を巻いて燃え盛り、巨大な火の玉となって悪魔へと飛んでいく。
炎は一瞬で悪魔を包み込んだ。
「わっ、なんだあの炎は⁉」
「やったのか?」
アーサーとカイは飛び退くようにして悪魔との距離を取り、ひと目でこの世のものではないと分かる暗黒の炎が燃え盛る様子を見守った。
悪魔の唸り声が低く大地を揺さ振る。苦しんでいる姿が見て取れた。炎が悪魔の皮膚を焦がし、魚を腐らせたような悪臭が辺りに立ち込めた。
ばしゃん、ばしゃん、と河の水面に全身を激しく叩きつけながら、どこまでも執拗に絡みついて来る炎を振り払おうと悪魔はのた打ち回っている。悪魔から目を離さないままアーサーがマーシャのもとに駆け寄ってきた。
「マーシャ、いったい何をやったんだ⁉」
「何って……。あたしだってやりたくてやったわけじゃないわ。これは仕方がなく……他に手がなかったのよ!」
「べつに責めているわけじゃない。何をしたのか知りたいだけだ」
「嘘よ。気付いているくせに!」
アーサーが息を呑んだのをマーシャは見逃さなかった。
生まれてすぐに塔に閉じ込められた理由についてマーシャはアーサーに話している。すべてを話したわけではないが、悪魔と関係があることは話した。ならば、マーシャが何の力を借りて、あんなにも禍々しい炎を呼び寄せたのか、アーサーならすぐに気が付いたはずだ。
マーシャが放った炎が、ドルイドが本来借りるべき精霊たちの力による炎ではないことは見て明らかだ。精霊ではないのなら、他に答えはひとつしかない。
『マーシャ、ダメだよ‼』
ビリーの声が響き、アーサーを睨みつけるように彼の青い瞳を見つめていたマーシャは、はっとして悪魔の方へと視線を向けた。
マーシャは目を疑う。なんと悪魔を覆っていた巨大な炎が消えようとしているではないか。
『マーシャ、力が足りてないよ。もっと大きな力が必要だよ』
「そんなこと言ったって、どうすればいいのよ」
『本当のことを言えばいいんだよ。本当の自分のことを。マーシャがそうすれば、きっと大きな力が手に入るよ』
ごごごごごご……と身の毛がよだつような恐ろしい雄叫びが響いた。悪魔の足元で、河の水が幾重にも波紋を描いている。
いくらか燻っていた闇の炎は、その雄叫びによってすっかり消え去ってしまった。
マーシャは苦々しく表情を歪める。先ほどの詠唱の詞にだって十分に自分を曝け出したつもりだった。それなのに、忌み嫌う自分の真実をもっと曝け出さねばならないのか。
「決定的な詞を口にしなければならないってことね」
そうやってマーシャに己が何者なのか知らしめることこそ悪魔の魂胆であるように思えた。
マーシャは片膝を着いてしゃがみ込み、左手を地面に添わせた。
「かつて天上で最も輝いていた者。稲妻のように天から地に堕ちた者。暁の子にして、この世で最も罪深き者」
マーシャは両目を閉じ、静かな声を響かせると、地獄に向かって呼び掛ける。
「我、汝の求むる者」
左手が熱い。
「我、汝の罪を知る者」
左手の印が皮膚の表面に浮き出ているのを感じる。地獄の悪魔がマーシャの呼び掛けに耳を澄ませている証だ。
「我、汝に創られし、汝の子」
マーシャはゆっくりと瞼を開きながら、黒いマントの裾をはためかせながら立ち上がった。
「我を糧に汝君臨せよ。我らに仇なす愚かなる者に恐怖と絶望を」
背中に大きな瘤のある悪魔がマーシャに宿った強大な力を感じ取って、長い両腕をぐるんと振り回し、マーシャの方に振り向くと、大きく大きく口を開いた。
―― ぐおおおおおおおおおおおお ――
赤黒い口から恫喝の雄叫びが響き渡る。
だけど、マーシャは知っていた。悪魔が恐怖を感じていることを。マーシャに、いや、マーシャが呼び寄せた力に怯えているのだ。
手加減なんてできそうになかった。マーシャはただ、自分に宿った力をそのまま放つだけだ。
「出でよ、そして――」
闇よりもなお暗い地獄の炎が現れ、マーシャの左手を中心に大きな渦をつくった。それをマーシャは悪魔に向けて高く高く掲げる。
布を裂いたかのような悪魔の悲鳴が響いた。逃げようとマーシャに背を向ける。瘤のある背中を向けられて、マーシャは、すうっと目を細めた。
――悪魔に容赦はしない。
そうすることで自分と悪魔との間に、はっきりとした線引きができる気がした。
(あたしは悪魔なんかじゃない!)
だが、マーシャは気が付いていない。自分の瞳がかつてないほど鮮やかな紫色に輝いていることを。
「――滅せよ!」