2.賢者修行は王が弟子で、前途多(2)
呆気に取られているアーサーを置き去りにしてマーシャは椅子から立ち上がり、窓際に移動すると、揺り椅子で丸くなっていた黒猫を両腕に抱き上げた。
「基本的なことは説明したし、本もあげたわ。あとは自分で本を読んで学ぶものなの。一から百まで師匠が手取り足取り教えるなんてこと、ドルイドはしないわ」
マーシャは揺り椅子に腰を下ろし、自分の膝の上にビリーを乗せる。不意に抱き上げられて迷惑そうだった黒猫もマーシャがその毛並みに沿って優しく撫でればすぐに満足げになり、再び毛糸玉みたいに丸くなった。
「第一、その本ね、師匠の知識がすべて書かれているの。弟子の本は師匠の知識の量だけ分厚いわけで、弟子入りした後でも師匠が新たに知識を得れば、本はどんどん厚くなっていくものなの。だから、たいして知識のないドルイドが弟子を取れば、弟子の本は薄っぺらいものになるわけね。――師匠が弟子に伝えるべき知識はすべて弟子の本に書かれていて、しかも、それは順次その本に追加されていっているのだから、まず本さえ読めば、師匠に一々尋ねる必要はないの」
「すると、師匠の役割は本を弟子に与えて終わりか?」
「もちろん分からないことがあれば教えるし、ドルイドとしてやってはいけないことをやろうとしていたら止めるわ。でも、弟子が未熟な間、師匠を必要とする理由は他にあるの。――本を開いてみて」
マーシャはビリーを膝の上に乗せたままアーサーに向き直り、彼の黒い本を指さした。アーサーが本の表紙を開くと、そこには挿絵や図を交えながら大小様々な文字が綴られていた。
「読まなくていいわ。ページをどんどんめくってみて」
促されてアーサーは次々にページをめくっていく。すると、すぐに白紙のページに行き当たった。それも表紙から二十ページもめくらないうちにだ。
「おい、どういうことだ? ここから先ずっと何も書いていないじゃないか」
「違うわ。書いてあるの。読めないだけよ。――だって考えてみて。その本さえあればドルイドの知識を使いたい放題なのよ。もしドルイドではない何者かに奪われてしまったら? 経験の浅いドルイドがいきなり強大な力を使おうとしたら? 悪用されるに決まっているし、制御できないに違いないんだから」
「なるほど。つまり、経験値によって読めるページが決まっているということか」
「そう。でも、経験というよりも力よ。ドルイドとしての力。それは腕力とか物理的な力ではなくて……もっと抽象的な…なんて言えば分かりやすいかしら……」
「魔力か?」
「魔力……。うーん。人間にとってそう言ってしまうのが一番イメージしやすいでしょうけど、魔力とは似ていても根本的に違う力よ。魔力は魔。悪魔的な力であり、あるいは、悪魔の力を借りて魔法使いや魔女が扱う力のこと。対して、ドルイドは自然に宿る精霊たちに力を借りているの。だから、魔力ではなくて霊力と呼ぶのが正しいわ」
「霊力な」
「ちなみに聖人とか聖女とか呼ばれる人たちが神や天使の助けを借りて奇跡を起こしたりするんだけど、そんな彼らが持つ力は神通力と言われていて、霊力や魔力とは、似ているようで、また別の次元の力なの。――それで、霊力なんだけど」
マーシャはビリーを両腕に抱いて揺り椅子から立ち上がり、さきほどまで座っていた椅子に戻ると、テーブルの上にビリーを下ろしてアーサーと向き合うように椅子に腰掛けた。
マーシャから解放されたビリーはすぐさまテーブルを飛び降りて再び窓際の揺り椅子の上へと飛び乗る。その場所がよほど気に入ったらしい。あくびをひとつすると、毛糸玉のように丸くなって眠り始めた。
「霊力が増えれば読めるページも増えていくわけなんだけど、じゃあ、どうやって霊力を増やしていくのかよね。じつは、人はそれぞれ大きさの異なる目には見えない器を持っているの」
言いながらマーシャは両手を合わせて器のかたちをつくってみせる。
「その器には霊力はもちろん、魔力を注ぐこともできるし、もっと他の何かを入れることもできるの。でも、さっきも言った通り、器の大きさは人それぞれだから、器の小さい人は少しの霊力しか持つことができないわけね。だから、まず器を大きくする必要があるってことなの」
「器は大きくなるものなのか? どうやって?」
「人によって大きくなる限界は違うのだけれど……。器を常に満杯にしておけばいいの。常に満杯で力が溢れ続けている器は少しずつ少しずつ大きくなっていくものだからよ。つまり、ドルイドの弟子たちがより大きな霊力を得るためには、自分の師匠に霊力を注いで貰い続ければいいの」
マーシャは腕を伸ばしてアーサーの前に広げられた本のページをめくった。
「詳しいことは、この本の最初の方のページに書いてあるわ。ほら、この辺り」
「どれどれ……。ふーん、なるほどな。霊力を注ぐと言っても、特別なことをするわけじゃないんだな」
「そう、ただ側にいるだけでいいの。ドルイドの体からは常に霊力が放出されている状態だから、側にいればそれだけで霊力は霊力の多い者から少ない者の方へと流れていくものなの。もちろん誰にでも霊力が流れていくわけではないわよ。師弟の契りを結ぶと、霊力が行き交うことのできる繋がりができて流れていくの。未熟で霊力の少ない弟子は師匠の側にいて霊力を成長させていく。霊力が増えれば本の読めるページも増えて知識も増えるはずだから、ドルイドとしても成長できるわけね。そして、十分な霊力と知識を得たら一人前。師匠から独立するまでだいたい十年。早くても七年はかかるわね」
「七年かぁ。そう簡単になれるものだとは思ってはいなかったが、一人前のドルイドになるのは年月が必要なんだな。だが、城では二年でどうにかすると言っていなかったか?」
「だから、そこそこによ。一人前のドルイドにするのは二年では絶対に無理だもの。宮廷のちょっとした相談役や薬師くらいのレベルにはしてあげられると思うわ」
「……なあ、ここに手っ取り早く、且つ、確実に霊力を注ぐ方法も書かれているぞ」
「え」
「一、手を繋ぐなどの肌の触れあい。二、口吻などによる粘膜や体液の接触。この二点をふまえ最も効率的な方法は性交であり、そのやり方は……」
「ちょっ‼」
ばちんっ、と大きな音を立ててマーシャは両手で本の表紙を閉じた。危うくアーサーの顔が本に挟まるところだったが、それどころではない。
「どこ読んでるのよ!」
どうしてこうも目敏く際どい文章を見つけてくれるのだ。マーシャは顔を真っ赤に染めてアーサーを睨み付けた。
「関係ないからっ。そういう方法があるのは事実だけど、あたしとは関係ないから。やらないし、必要ないし、無縁だから!」
「ふーん?」
「何よ?」
「今までにやったことは? たとえば、お前の師匠と……」
「ないって言ってるでしょ!」
「とは言うが、手くらい繋いだことあるだろ?」
「手? 師匠と繋いだことなんてあったかしら?」
「試してみないか。早く霊力が溜まるに越したことはないだろ」
すっとアーサーが手を伸ばしてきてテーブルの上に無防備に置かれたマーシャの左手を掴もうとする。
師匠メルディンの顔を思い浮かべながら手を繋いだ記憶を探っていたマーシャは、ハッとして、すぐさま伸びてきた手を振り払った。
ばちんっ、と思いがけず大きな音が響いた。
マーシャもびっくりしたが、アーサーは青い瞳を大きく見開いて、信じられないとばかりにマーシャの顔を見つめて来る。
(しまった!)
過剰に反応してしまったことを悔やむ。何かあるのではないかと勘繰られたら面倒くさい。それに叩くつもりなんてなかったのに、かなり強い力で振り払ってしまった。
ごめんと謝るべきか。いや、謝るほどのことだろうか。むしろ許可なく触れようとしてきたアーサーの方が悪いのではないか。
ぐるぐると考えを巡らせながら、マーシャは自分が混乱していることを自覚した。
(だって、アーサーが悪い!)
接吻がどうの、粘膜だの体液だの、いかがわしい個所を読み上げるからだ。
動揺している時に、よりにもよって左手に触れようとしてくるから対応を間違えてしまった。
後悔と罪悪感が織り交ざった顔でアーサーを見やれば、彼の青い瞳が大きく揺らいで、湧水がわくように潤み始める。
泣きそうだ、と思った。彼の手を強く叩いてしまった手前、泣かれたら罪悪感が増してしまう。
(ううっ、負けた……)
マーシャはしぶしぶ右手を差し出した。
「左手はやめて。触られたくないの。――右手ならいいわ」
嵐の去った後の青空みたいに、アーサーはにっこりと笑みを浮かべて、マーシャの右手を握った。
(あっ)
手と手、皮膚と皮膚が触れ合ったとたん、マーシャの心臓は跳ね上がった。
それはマーシャはこれまで味わったことのない感覚だった。すうっと手のひらから力が抜けていく感覚。抜けた力を補おうと、体の他の部分から右手に力が集まり、そして右手から自分の外に流れ出ていく。
「こういう感じなのね」
「マーシャから流れ込んでくるのが分かる。すごく温かくて気持ちがいい。ずっとこうしていたい」
「やめて。あたしは嫌」
「嫌? なんで?」
「嫌に決まってるわ。力がどんどん流れ出ていくのが分かるもの」
ドルイドの体からは常に一定量の霊力が放出されているものだが、おそらく常時放出されている量以上の霊力がマーシャからアーサーへ流れていっている。そのため、マーシャには霊力を奪い取られている嫌な感覚がするのだ。
「もう少しこのままでいたい。ダメか?」
「……いや」
「頼む」
「……うっ」
眉を下げるな! 上目遣いはやめて!
捨てられた仔犬のような顔をして見つめて来ないで欲しい。
霊力が必要以上に流れ出ていく感覚は確かに不快で、不安感を煽るが、困ったことに、我慢できないほどではないのだ。
それに手が。アーサーと繋がった右手が、アーサーが言うように温かい。不本意だけど、その温かさを心地よいと感じてしまう。
誰かと肌を触れ合わせると、こういう感覚を得られるものなのだと思い知らされる。
マーシャの無言を承知したと見なしたアーサーは、にこっと微笑んで言った。
「もう少しこのままで話をしよう。――マーシャは人を捜していると言っていたな」
唐突に話題を振ってきた。面食らいながらも、よりにもよってその話題かとマーシャは心の中でため息をつく。
城で話をした時に、ログレス専属のドルイダスになれというアーサーの誘いを何としてでも断ろうと、その理由として口にしてしまったのだ。冷静に考えれば、あんなこと言うべきではなかった。
人を捜していると聞けば、大抵の人が『誰を? どんな人?』と聞き返したくなるものだからだ。ましてマーシャに強い関心があるアーサーがすんなり聞き流して、そのままにしておけるわけがない、
「人を探してあちらこちらを旅していると。もう一度聞くが、何者だ?」
「十年前に助けてくれた男の子よ」
「十年前? いったい何から助けてもらったんだ?」
「何って……」
「嘘はつくな。誤魔化そうともするな。本当のことを話せよ」
「嘘なんて」
「言おうとしていた。目が泳いでるんだよ」
「……」
――なんて鋭い! 見抜かれている!
十年前に助け出されたという話自体は構わないのだが、助け出される以前のことは、マーシャにとってあまり好んでしたい話ではなかった。
いや、むしろ話したくないという思いが強く、どうにかやり過ごせないものかと考えをめぐらせていた。
アーサーがマーシャの右手を握る手に力を込める。まるで逃すまいとしているかのようだ。
(誤魔化しきれない…か……)
ならば観念して本当のことを話そう。――だけど、馬鹿正直にすべてを話してやる必要があるものか。
可能な限り誰にも話したくないことが、マーシャにはどうしてもあるのだ。
「あたし、ずっと閉じ込められていたの。高い高い塔の上にね」
視線を繋いだ手に落としながら、マーシャはぽつりぽつりと言葉を選びながら語り始めた。
「塔は森の奥深くにあって、人間がめったにやって来ないようなところだったわ。いつからなのかなぁ。たぶん生まれてすぐだと思うわ。物心ついた頃には塔の中の狭くて薄暗い部屋にいたの」
「いったい誰に、なぜ閉じ込められていたんだ?」
信じ難く、思いもしない話の内容だったのだろう。アーサーは怪訝そうに眉を寄せて、マーシャの話を受け入れようと努力している様子だった。
それはそうだ。生まれてすぐに塔に閉じ込められるだなんて、ただ事ではない。
大罪を犯した囚人の子として産まれたか、世に出てはならない身分にある子であるか、どれにせよ、よほどの理由があるに違いなかった。
「理由は、左の手の、手のひらにあるの」
「手のひら?」
右手は繋いだまま、アーサーの視線がマーシャの左手に移動する。
先ほど彼が触れてこようとして、マーシャが振り払った左手だ。
マーシャはアーサーの視線を感じながら左手の手のひらの方を天井に向けると、そっと開いた。
そこには何ら異常もないように見える。だが、アーサーはうすうす気が付いているようだった。異常は見えないだけなのだということを。
ドルイドたちが手のひらの紋章を隠すことができるように、マーシャはこの手のひらに自分の秘密を隠しているのだ。
アーサーの考えが正しいことをマーシャは目を一度だけ瞬かせて答えた。
「あたしの左手には生まれながら、あってはならないものがあるの。それを見つけた教会の司祭があたしを塔に閉じ込めたの」
「あってはならないもの? 司祭が出て来るほどのものなのか?」
「印よ」
「印?」
アーサーの顔がますます怪訝そうになる。マーシャは、この世で最も言葉にしたくない秘密を告げるために、重たい口を、爪が肉に喰い込むほど強く左手を握り締めながら、開いた。
「悪魔の印。――悪魔の紋章があたしの左手に刻み込まれているの」
「なんだと? なんで悪魔なんかの」
「知らないわ。悪魔のすることなんて!」
わずかに声音が高くなり目が泳いでしまった。だが、幸いにもアーサーは気が付いていない様子だ。
「とにかくそのせいであたしは長いこと塔に閉じ込められていたんだから。最初の頃はあたしを閉じ込めた司祭が食料を運んで来てくれていたんだけど、いつの頃からかパッタリと来なくなって、別の人が運んでくれるようになったんだけど、その人も来なくなって、次の人が来て、でも、その人も来なくなって……ってことが何回かあって、そして、ついに誰も来なくなってしまったの。食べ物がなくなって、水もなくなって、いよいよあたし死ぬのかなぁって時に現れたのよ、『騎士』様が」
「『騎士』様なぁ」
「まだそんなに大きくない男の子だったんだけど、すごく勇敢で、あたしを塔の外に連れ出してくれたの。子供の頃からあんなに勇敢だったんだもの。きっと今頃どこかの国で騎士になっているはずだわ」
「それで『騎士』様か」
「すべて『騎士』様のおかげなの。だって、それからなのよ、あたしの人生が始まったのは」
一番口にしたくなかった『悪魔』という言葉が、堰となっていたらしく、その言葉さえ口から出て来てしまえば他の言葉は次々と出て来る。
しかも『騎士』様という言葉の響きはマーシャを勇気づけ、胸を熱くする。『騎士』様に対する想いがマーシャの胸に続々と溢れてきて、想いは留まることなく言葉として口から飛び出てくるのだ。
ふとアーサーが訝しげに首を傾げた。
「少し聞きたいんだが、マーシャは『騎士』様とやらを『騎士』様と呼んでいるということは、そいつの名前を知らないんだよな?」
「ええ。名前を聞きそびれてしまって……。あたし、その時、長いこと誰とも話をしてなかったから声が出なくなっていたの。だから、聞けなかったのよ」
「それなら、そいつの顔は覚えているのか? 十年前のことだろう? 当然、成長して変わってしまっているだろうけど、面影はあるはずだ」
「それが、塔の中って、すごくすごく暗かったの。暗くて顏なんて見えなかったし、塔から出た後は、外の光があまりにも眩しくて、数日間、目が見えなくなっちゃってたの。目が見えるようになる前に別の土地に移動してしまったし」
「要するに?」
「『騎士』様の顔、知らないの」
「……」
「……」
「それなら、まず塔があった場所の近くを捜したのか? 塔の近くにある村にいる可能性が高いだろう? 今そこにいなくても親か兄妹が残っているかもしれないし、行方を知っている者がいるかもしれない」
「あのね、言いにくいんだけど、どこに塔があったのか分からなくて」
「は? ……マーシャ、言ってもいいか?」
「やだっ。言わないで」
「ブリタニアがどんだけ広いと思っているんだ。名前も知らない、顔も知らない、出身地も知らない、騎士になったかどうかも分からない相手を『騎士』様などと呼んで捜すだなんて無謀だ。いや、不毛だ。人探しなどやめてキャメロットに留まれ」
「やだやだ。言わないでって言ったじゃないの! 薄々そうじゃないかなぁって気付いてたわよ。だけど、でも、だって、あたし、ドルイダスでしょ。どうにか見つけられるんじゃないかなぁって思ってるの」
「ドルイドやドルイダスはそんなにも万能なのか?」
うっ言葉を詰まらせてからマーシャはしぶしぶ答えた。
「それほどじゃないけど……」
だろうな、というアーサーの顔だ。いちいち声にしてくれなくても分かる。
もうこの話題はやめたい。むっと顔を顰めて、合図を送るようにアーサーと手を繋いでいる右手にちょっとだけ力を込めた。
アーサーの顔が僅かに綻んだ。彼は少しだけ話題を変えた。
「そもそもマーシャはなんでドルイダスになったんだ? 塔に閉じ込められていた時からドルイダスだったわけじゃないだろ?」
ああ、とマーシャは落胆した。話題は少しだけ方向を変えたが、そのため再び口にしたくない言葉を口にしなければならない。
思いっきり眉を顰めながらマーシャは口を開いた。
「あたしが閉じ込められていた塔は、あたしの中の悪魔の力を封じるためのものだったの」
「悪魔の力? 印があるだけじゃないのか?」
「そう、だけじゃなかったの」
この辺の理由は言いたくない。
「塔から出ても悪魔の力を封じられるように、悪魔の力に上書きできる力が必要だったのね。それがドルイドの知識だと教えてくれたドルイドがいたの。あたしの師匠――メルディンよ。あたしが塔から救出された時ちょうど近くの村に彼が滞在していて、あたしの扱いに困った村人たちによって、あたしは師匠に預けられたの。そして、そのまま彼に弟子入りしたっていうわけ」
「ちょっと待てよ」
急にアーサーの顔色が変わる。自由な方の手をマーシャの顔の前に出してマーシャの言葉を止めた。
「俺、どこかで、同じような話を聞いた覚えがあるぞ。……ああ、そうだ。塔に封じられた魔物の話だ。なあ、マーシャが閉じ込められていたという塔って、もしかしてエクトル卿の領地内にある森じゃないのか?」
「分かんないわよ。覚えていないって言ったじゃないの。師匠にも聞いたけど、忘れたって言ってたわ。師匠、かなりの歳だから物忘れがひどいのよ。っていうか、なんであたしの話と魔物の話を同じにするのよ!」
ひどい! 心外だ! とぷんすか怒りながらアーサーを見やると、アーサーは何やら考え込んでいるような表情を浮かべて、しばし黙り込んだ。
急に静かさが降って来てマーシャの耳に、窓の外で木々が身震いし、黄緑色の光を受けた葉たちがざわめいているのが聞こえた。
沈黙に耐え切れず、何を考えているのか尋ねようとすると、その前にアーサーがほとんど独り言を言うように口を開いた。
「メルディンか……。城でその名前を聞いた時、どこかで聞いたことがある名前だと思ったわけだ。なるほどな。――よし。よく分かった!」
「えっ、何が?」
うんうんと頷くアーサーはなぜか楽しげだ。いや、楽しげというよりも嬉しげといった方が正しいだろうか。
そんなアーサーにマーシャはうろんな目を向ける。自分だけがすべてを分かっているような様子が気に入らなくて、心を見透かしてアーサーの考えを覗いてやりたかったが、残念ながらマーシャにはそのような力はない。
もう一度聞き返してやろうかと思った時だった。やや興奮気味な幼い声が響いた。
『マーシャ、人だよ! 誰か来たよ!』
振り向けば、ビリーが窓の木枠に飛び乗って、空気を読めない普通の猫みたいに、にゃあにゃあ騒ぎ立てている。その緑かかった金色の大きな瞳は窓の外のずっと下の方をじぃーっと見つめていた。
マーシャはアーサーと視線を交わし、どちらともなく手を離すと立ち上がる。
右手からアーサーの温もりが失われると、何やら寂しいような、ひどく寒いような心地がした。
代わりの温もりを求めてマーシャはビリーを胸元に抱き上げ、窓の外を見下ろす。ビリーの言う通り何者かがマーシャの仮家に近付いてくるのが見えた。
がっしりとした大柄な男だ。黒布のマントを羽織った騎士の風貌をし、片手で剣を持ち、足元の草を薙ぎ払いながら、もう一方の手で馬の手綱をひいてやってくる。
「誰かしら?」
「カイだ」
「カイ?」
「執事長で、親衛隊長で、あと、兄だ。血は繋がっていないけどな。――それより、その猫、しゃべらなかったか?」
「しゃべったわよ。ドルイダスの猫だもの。執事長が親衛隊長を兼任しているの? よほど人手がないのね」
「言っただろ、信用できる者があまりいないって。ドルイダスの猫って、しゃべるものなのか」
「猫によるわね」
マーシャは男の動向を目で追いながら、振り返らずに抑揚のない声でアーサーに答えた。
やがて男がマーシャの家のすぐ下までやって来ると、マーシャは今朝の出来事を思い出して、ああ、と小さく言葉を漏らした。あの時マーシャを迎えに来た兵士のひとり――中でも一番年長の男がカイだったのだ。日に焼けた肌に赤茶の髪をしている。
「何事だ」
マーシャの隣に立ち、窓から身を乗り出してアーサーは下をのぞき込むようにしながらカイに向かって声を張った。
「アーサー、大変だ。すぐに城に戻ってきてくれ。ロット王が姫を送ってきた」
「は? 姫?」
「叛意がないことの証として、ロット王の妃の妹――モルガナ姫をアーサーに預けると。つまり、人質を送ってきたってわけだ」
「頼んでないぞ」
「まったくだ。報せによると、すでにログレスの領内に入ったらしい。じきに河を越えてキャメロットにやってくるぞ。追い返すのなら河を渡る前がいいだろうし、迎え入れるのなら、相手が相手だ、アーサーが出迎えた方がいいだろう」
「そうだな。できれば追い返したいところだが。分かった、とにかく行こう。――というわけだ」
最後のはマーシャに向けられた言葉であるようだ。急に振り返られてマーシャは瞳を瞬き、それから片手をひらひらと振った。
「そう。いってらっしゃい」
「何を言っているんだ。マーシャも一緒に行くに決まっているだろ」
「え、なぜ?」
「弟子は師匠の側にいて霊力を高めるものだと言ったのはマーシャだ。一緒にいる時間が長ければ長いほど弟子の成長は早い。その方がマーシャにとって都合が良いだろ? ログレスに長く留まるつもりはないと言っていたからな。……それとも、手っ取り早く霊力を高める方法を試すというのなら俺は喜んで一人で行くけど」
「手っ取り早くって……バカじゃないの⁉」
アーサーが言わんとする意味を察してマーシャは顔を赤くして声を上げた。対してアーサーはいたって真顔で話を続ける。
「正直に言えば、俺は‘やりたい’。モルガナ姫を迎えに行ってまたここに戻ってくるまでの時間はどのくらいの霊力に値するんだろうな。キスひとつくらいで補える程度の時間ロスならいいけどな。もっとやる必要があるなら、やりたいと俺は思う」
「ちょっと待って……」
「けど、俺は別に構わないんだぞ、何年でもログレスに留まってくれても。二年で出ていきたいと言っているのはマーシャの方で、俺は少しも急いでいないからな。霊力がちっとも溜まらなくて二年経っても三年経っても十年経っても俺がそこそこになれなかったら、マーシャはキャメロットから離れられない。そういう約束だからな」
「分かったわよ。一緒に行くわよ」
「いや、キスで構わない」
「行くわよ。行きます! 行かせて頂きますってば‼」
半ばムキになって大声を上げて答えれば、アーサーはにやりと笑みを浮かべて窓枠を跨いで外に出ると、木をつたいながら地面へと降りて行った。
それを見てマーシャは慌ててマントを取りに家の奥へと駆ける。マントを羽織りながら家の外に出て、ビリーを抱えながら木から飛び降り、ふわりと、まるで綿毛が舞い降りるように地面へと着地した。
「その、しゃべる猫も連れて行くのか?」
「相棒だもの」
「俺の馬が怖がらないといいけど」
「馬? どこに貴方の馬がいるの?」
カイのように馬でここまでやって来たのだと言うアーサーに、マーシャは辺りをきょろきょろと見回して首を傾げる。それらしき影は見当たらなかった。
ところが、アーサーが、ぴぃーっと指笛を吹くと、その響きに応えるかのようにどこともなく嘶きが聞こえ、一頭の馬が姿を現した。
流れるような黄金の毛並が木漏れ日をキラキラと纏って、まるで宝石を散りばめた絹のドレスを身に着けているかのような美しい馬だ。
「良い馬だわ。とても綺麗」
アーサーの馬は主のもとに駆け寄ると、鼻先を主の胸元に押し付けてぶるると甘えた声を出した。その様子を見ただけでも、この賢い馬がアーサーにとても慣れていることが分かる。
マーシャは感心しながら馬を眺め、その周りをゆっくりと歩んだ。
「ドゥン・スタリオンだ。おい、馬の後ろに立つなよ。蹴られるぞ」
「それ、名前? 珍しい毛並ね」
「月毛というらしい。めったに生まれないんだと」
「へぇ」
幸いにもアーサーの愛馬はビリーを怖がることはなかったが、ビリーの方が大きな金色の馬を怖がり、マーシャの黒いマントのフードの中に潜り込んでしまった。