2.賢者修行は王が弟子で、前途多(1)
「いったいいつ、私はあいつを殺せるの?」
群青色の美しい蝶との出会いから早くも数年が経っている。てっきり劇的な何かが直ちに起こるものだと思っていたのだが、彼女は相変わらず修道院で暮らしていて、不変的な日々を過ごしている。
なぜなら悪魔の答えが常に同じだからだ。
『まだその時ではない』
彼女はひどく落胆した。
「あいつを殺せるのは、いったいいつなの?」
黄金色に輝く己の髪を櫛で丁寧に梳きながら、壁に埋め込まれた大きな鏡に向かって問いかけると、鏡に映り込んだ大きな蝶の顔がいつも通りの言葉を繰り返した。
『今ではない』
まだだ。まだだ。時ではない。――こうなると、もはや時など来ないのではないかと疑ってしまう。
それではいったい悪魔と関わったことに何の意味があるのだろう。関わってしまった自分はもはや天国には行けないというのに!
蝶と出会ってから、彼女は神に祈ることをやめた。
祈る無意味さを知り、代わりに書物を読んで様々なことを学ぶ楽しさを知った。
蝶に頼めば、修道院では手に入らない魔術についての書物も読むことができたので、独学ではあったが、簡単な術も使え、材料さえ手に入れば毒薬を作ることもできるようになった。
これでいつでも、どんな方法でも殺せる。準備が整ったというのにいつまで待たなければならないのだろう。
もし蝶の言う通り、その時が来たとしても、随分と待たされた自分は老婆になっているのではないだろうか。
老婆の自分が、老いた相手を殺したところで喜べるだろうか。自分は老いるまで修道院で燻り、相手は老いるまで栄華を極めた末の待ちに待った復讐だ。ああ、やっと念願が果たせたと、その時に自分は純粋に喜べるだろうか。
いや、喜べるわけがない。なぜもっと早く事を為せなかったのだろうかと大いに悔やむだろう。
まだだ、まだだ、と繰り返す悪魔に彼女は焦りと苛立ちを募らせる。
すると、鏡の中の蝶の顔が、彼女の焦燥感など鼻で嗤うかのように滑らかな口調で語り掛けてきた。
『お前の憎む相手は、忌々しい力で護られている。妾とて悔しいが、あの護りの力がある限り手が出せない。だけど、安心をし。必ず時が来る。それまでお前は美しさに磨きをかけているのだよ』
あまりにも蝶がうるさく言うので、出会ってから彼女は畑仕事を一切やめた。
同様に、指が痛むからと糸を紡ぐこともやめた。もともとやりたいと思ってやっていたことではなかったので、それらを禁じられるのは構わなかったが、可能な限り陽の光を避けるようにとも言いつけられた。時間があれば髪を梳けとも言われ、体には毎日、香油を塗るようにと口うるさい。
彼女の願いはまったく叶えてくれないくせに、あれこれ指示ばかりの蝶を疎ましく思いつつも、少女から女性になっていくうちに彼女自身も自分の美について意識するようになり、しだいに自らの意思で己の髪を梳くようになっていった。
やがて修道院という場所には似つかわしくない、美しくも艶めかしい大輪の花が咲く。
彼女が身に着けている衣は少女の頃からずっと変わらず質素な修道服だったが、その灰色の衣では隠し切れないほど彼女の美貌は眩く光り輝き始めていた。
そしてその美貌は、ごく稀に修道院を訪れる旅人の目に焼き付き、魅了し、けして忘れることのできない乙女として人から人へと噂された。
程なくして噂話はオークニーのロット王とその王妃の耳にまで届いた。
◇◇ ◇◇
テーブルをはさんで向かい合い座ると、何やら居心地が悪くて仕方がない。
居たたまれなくて、すぐにでも席を立ちたい気分だ。ここは自分の家で、目の前の相手は自分の弟子になるというのに、なんでこうも落ち着かないのだろうか。
「ええっとねぇ……」
マーシャは視線を彷徨わせ、言いよどみながら黒猫の姿を探す。
ビリーは窓際の揺り椅子の上で、ふわふわした毛糸玉みたいに丸くなっていた。大きな窓から差し込んでくる柔らかな光が彼を優しく包み込んでいて――腹が立つくらいに――ぽかぽかと気持ちが良さそうだ。
(もうっ。役に立たないんだから!)
もとより役に立たない相棒だということは承知している。だけど、せめてビリーが普通の猫みたいに、にゃあとか言いながらテーブルの上に乗って来て、空気をまったく読まない構って攻撃を繰り出してくれたなら、この妙な空気も吹き飛ぶというものだ。
そもそもアーサーがいけない!
彼があんなことを言うから調子が狂ってしまう。
それに加えて彼の態度。これにも大きな問題がある。玉座の時と大違いで、あの時のあの横柄さはいったいどこに旅立ってしまったのかと思うくらいに、アーサーは姿勢を正してマーシャと向かい合い、真摯な瞳で見つめてくる。
(ぎゃああああっ! やめて! こっち見ないで! 見られると意味なく緊張するの! それに美形の真顔ってなんか怖い! 本人にはそのつもりはないだろうけど、じっと見つめられると、すごく大きな何かを期待されているような気分になる)
無理っ! とマーシャはテーブルを両手でバシンと叩いた。
「期待されても困るのよ! 好きとか意味わかんないし。三年前にちょこっと会っただけでしょ。大した話もしてないし。それで好きとか言われても困るのよ‼」
きぃきぃ喚くように言えば、澄んだ青い瞳が一瞬見開かれ、その後その顔いっぱいに笑みが浮かんだ。
「ぶはっ! 突然何を大声で言い出すのかと思えば。神妙な顔をしているから、さっそくドルイドの修行が始まるのかと思ったぞ」
「始めようにも始められないわよ。だって、その……だって……貴方が変なことを言うから……」
「俺は変なことを言った覚えはない。ただマーシャを好きだと言っただけだ」
「そ、それが、それよっ、その……、変なこと…よ……」
「変? 失礼な奴だな。人の気持ちを何だと。……まあ、いい。マーシャがどう言おうと俺の気持ちは変わらないからな。それより始めようじゃないか。ドルイドの修行とやらを」
どうやらアーサーは今はこれ以上この話をするつもりがないらしい。
そして、おそらく今のところは、マーシャに何かを期待したり求めたりするつもりもない様子だった。
ならばマーシャも今は忘れよう。ちょっと拍子抜けしたけれど、命拾いした気分だ。
心を決めると、マーシャはアーサーに向き直った。
「ドルイド(オークの賢者)が弟子を取るとき、まず最初に弟子に対して師匠から渡すものがあるの」
言い始めはぎこちなくなってしまったが、どうにかそう切り出してマーシャは両手を打ち鳴らす。それはごくごく僅かな、瞬きもできないほどの短い間だった。打ち鳴らしたマーシャの両手に分厚い一冊の本が乗っている。
袖の中や体の後ろに隠すには大きすぎる本だ。厚みもさることながら、しっかりとした黒い表紙で、見た目通りずっしりと重い。
手を鳴らす前から持っていたのではないか。いや、そんなはずはない。
では、いったいどこから現れたのか。あまりにも自然に、そして、当然のことのようにそれがマーシャの両手に乗っていたので、アーサーはしばらく言葉を失うくらいに驚愕したようだった。
(そうよね。普通の人間ならびっくりするわよね。でも、こんなの、ドルイドの世界では序の序。ごくごく初歩的なことよ)
アーサーの反応に満足してマーシャはいつもの調子を取り戻す。
「これがその渡すものね。はい、どうぞ」
「ちょっと待て! 今それ、どこから現れた⁉」
「やっぱりそこ引っかかっちゃうわよね。そうよ、そこからよね。ええっと、どこっていうか……。手の中?」
「手の中⁉」
「と言うより、異空間かしら?」
「異空間⁉」
「いろいろと仕舞い込めて便利なのよ。あたしがドルイダス(女賢者)になって一番良かったと思うところよ」
マーシャは黒い本をテーブルの上に置くと、そのテーブルの上を滑らせるようにして本をアーサーの前に差し出す。
「そんなことよりも表紙を見て、紋章が描かれているでしょ」
「紋章? ……これは何かの植物か?」
「そう、ヤドリギを摸した紋章なの。あたしたちは自分の系譜を表した紋章を持っていて、それを見れば、その人が誰の弟子で、どんなドルイドの流れをくんだドルイドなのかが一目瞭然なのよ。人間だって自分の一族の系譜を大切にするでしょ? 家族を持たないドルイドにとって師弟関係は血のつながりよりも濃く、それをとても大切にしているの」
「へえ、そうなのか。それで、このヤドリギの紋章を持つドルイドは、どんな系譜なんだ?」
「パナケアという名前の女神の系譜よ」
「女神?」
「そう。あたしたちの始祖は女神なの。だから、魔女と呼ばれたキルケやヘカテ、グルヴェイグとはそもそも違うんだってことをまず知っておいて欲しいわ。――右手を紋章の上に重ねて」
「右手? ……こうか?」
アーサーはマーシャの言葉に従って金に縁取られた鮮やかな緑色のインクで描かれたヤドリギを摸したという紋章の上に右手をそっと重ねた。
目で小さく頷いて、マーシャはアーサーの手に自分の手を重ねる。
「生と死と万物に誓って。すべてに宿る大小の精霊よ、我らの願いを受け入れ、望みを叶えたまえ。我、この者を子とし、導き、育み、見守ることを誓う。――次、繰り返して」
声を掛けられて、アーサーはハッとした様子でマーシャの紫がかった黒い瞳に視線を向ける。紋章と接した手のひらに違和感があるのだ。そして、その違和感はたちまち焼けるような熱となった。
ぴりりとした痛みさえ感じる熱に驚いたアーサーが思わず手を紋章から離そうとするのを、すかさずマーシャは彼の手を上から押さえ込んで防ぐ。
再び促すと、アーサーはマーシャの言葉を繰り返した。
「我、この者を師とし、敬い、尊び、従うことを誓う」
「自然を畏れ、慈しみ、けして裏切らず。知識を重んじ、それ以上の宝は無しと心得よ」
するりと滑らせるようにマーシャはアーサーから手を離した。アーサーの手のひらは未だ熱く、まるで火傷したかのようにひりひりと痛んでいた。
「今のはなんだ?」
アーサーは自分の右手を見る。そして、次の瞬間、腰掛けていた椅子を跳ね飛ばして立ち上がり、大声を上げた。
「なんだ、これはっ⁉」
熱い、痛いと思っていた手のひらに本の表紙に描かれていた紋章と同じようなものが、まるで焼き印のように描かれているではないか。
だが、驚愕するアーサーに対して、マーシャはしれっと答える。なぜなら、これはドルイドであれば誰もが通った道だからだ。
「それは貴方があたしの弟子になったっていう印よ。よく見て、本の表紙に描かれている紋章と同じなようで少し違うでしょ。同じであるように見えるのは、その紋章を持つ者がパナケアを祖としていることを表していて、違う部分は貴方という個を表しているの。つまり、その紋章は貴方があたしの弟子だっていうことが一目で分かる紋章なの。大丈夫よ、それは普通の人間には見えないものだから。それに、力を使っていない普段は消すこともできるの」
ほらと目の前に広げられたマーシャの白い手のひらを見ると、その手の平にパッと紋章が浮かび上がったかと思いきや、またパッと消えた。
どうやら自分の意思で消したり、出したりすることができるようだと理解してアーサーは倒した椅子をもとに戻し、腰を落ち着かせた。
「言われてみれば、本の表紙の紋章とは少し異なっているな。こちらにはトゲトゲした赤紫色の花や、花びらの多い青紫色の花が加えられている」
「赤紫色の花はアザミの花よ。――見て」
マーシャはもう一度アーサーの前に自分の右手を広げて、手のひらにくっきりと紋章が浮き上がらせた。
金で縁取られたヤドリギの葉と茎の複雑な模様。そこに重なるようにトゲのあるアザミの花が描かれている。
「マーシャには青紫色の花がないんだな」
「その青紫色の花は……クレマチスかしら?」
「かしら? って、なんで疑問形なんだ」
「だって、自分の弟子の紋章なんて初めて見るんですもの。クレマチスなんだぁ、へぇ、っていう気持ちなの。ええっと、説明するわね。このアザミの花が、あたしがメルディンというドルイドの弟子であることを表していて……それから、ここを見て。アザミの葉が四枚描かれているでしょ。これは、あたしがあたしの師匠の四番目の弟子っていう意味なの」
「なら、クレマチスは?」
「あたしの弟子っていう意味。葉が一枚だけついているでしょ。最初の弟子っていう意味よ」
アーサーはマーシャの手のひらと己の手のひらを見比べながら言った。
「なるほど。意味さえ分かれば、自分が誰の弟子で、自分の師のさらに師が何者か、またその師の何番目の弟子であるのか、始祖は何者かが紋章から読み解くことができるんだな。そうやってドルイドたちは自分が何者であるのか、自分のルーツを紋章によって描くことができるというわけだ」
「そう」
「しかし、それでは、代が進むにつれて紋章が複雑化していかないか?」
というか、すでにアーサーの紋章はヤドリギだかアザミだかクレマチスだか何だかの花と葉と蔦でぐちゃぐちゃである。覚えろとか、紙に描いてみろとか言われても不可能なものになっている。
「うん、そう。どんどんごちゃごちゃになっていくわよ。でもね、紋章が変化して、絵柄が減ることもあるの。とは言っても、本当にめったにないことなんだけど、自分の師匠の力を超えると、師匠の弟子だということを表す模様が消えるの。つまり、あたしたちのアザミの花はあたしの師匠から受け継いだものだけど、あたしがあたしの師匠を超えれば、あたしの手のひらの紋章からアザミの花の絵柄が消えるってこと。その代わりにクレマチスの花が現れるはず。そして、師匠の師匠を超えれば、さらに紋章はすっきりして、始祖であるパナケアまで越えられたらヤドリギまで消えて本当にすっきり。クレマチスの花だけの紋章になるわ。そして、その時、あたしを祖とする系譜が始まるのよ」
「自分を祖とする系譜が始まったら嬉しいだろうか?」
「どうかしら?」
マーシャは小首を傾げる。アーサーに問われる今の今まで考えたことがなかった。
ふと自分の手のひらに視線を落としながら、考え考え素直な今の気持ちを伝える。
「嬉しいと思うドルイドもいるだろうけど、あたしは師匠のアザミの花を気に入っているし、パナケアのヤドリギも好きよ。師匠と巡り合えて幸運だと思っているし、紋章にヤドリギが描かれていることで、魔女ではなくパナケアという名の女神の系譜だと証明して貰えるもの。だから、自分の紋章から消えて欲しいなんて思ったことはないわ。あたしはクレマチスだけの紋章よりも今のごちゃごちゃしている紋章の方がずっと好き」
ごちゃごちゃで複雑な紋章は、先人たちの生きた証だ。
たとえ荒れ地にマーシャひとりで佇んでいたとしても、右手に描かれた紋章を通して先人たちの気配を感じられる気がする。
古くから続いて来た長い長い歴史と知恵の流れの中にマーシャもいて、一人ぽっちでも、マーシャは独りではない。そんな気がするのだ。
今、マーシャの後ろに続く者としてアーサーにも紋章を与えたけれど、このゆるやかに続く長い流れを、先人たちの気配をアーサーも感じることができるだろうか。
彼の師として、この想いを伝えるべきなのだろうと思ったが、師として未熟なマーシャには上手な言葉が思い浮かばなかった。
言葉が出て来ないままアーサーを見つめていると、アーサーが満面の笑みを浮かべた。
「俺もマーシャのクレマチスが気に入ったよ。だから、ずっと俺の手のひらにあって欲しい」
にこにこと、あまりにも澄んだ瞳で言い放つので、マーシャは目を瞬かせた。懸命に考えて答えことが阿保らしくなるくらいの毒気のない笑顔だ。
マーシャが師匠のアザミの花を気に入っているのと、アーサーがマーシャのクレマチスを気に入っているのとでは、想いの深さや種類、もはや次元すら違うような気がした。
(ま、いいか)
ふと師として弟子に伝えたいと思ったものの、伝え方が分からず伝えられなかったことを、そう無理に伝えようとしなくとも構わないではないかと思い直す。
所詮、アーサーはごく短い間のみの弟子だ。まして彼は一国の王であり、本気でドルイドになるわけではないのだ。全身全霊で育ててやる必要はない。
深く息を吐き出してからマーシャはすっと腕を伸ばして、アーサーの前に置かれた本の表紙を指先でこつこつと叩いた。
「開いてみて」
やけに頑丈で分厚い黒い表紙だ。言われるままにアーサーが開くと、その瞬間、表紙の紋章が薄く光りを放った。それは見逃してしまいそうなくらいのわずかな間で、加えて、かすかな光だったが、警戒心の強いアーサーは見逃さなかった。
驚いたアーサーは再び本を閉じて表紙を見やる。すると、常人には信じがたいことに、表紙に描かれたヤドリギの紋章が変化しているではないか。
「これはいったいどういうことだ?」
「貴方の手のひらの紋章と同じになったでしょう? もうその本は貴方の本だっていうことよ。ドルイドにとって、師から貰ったその本は命のように大切なものよ。絶対に手放してはいけないの。本を失えば、ドルイドとしての力も失うことになるのだと思ってね」
マーシャはアーサーの右手を取って、閉ざした本の表紙に再び手のひらを重ねるように言う。
「手放すな、常に持ち歩けと言っても、この本ってすごく重いでしょ? とても持ち歩けないわけよ。だから、ドルイドたちは手の中に本を仕舞うの」
「本を、手の中に仕舞うだと?」
「イメージして。その大きな本が小さく小さく小さくなっていくのを。豆粒よりもさらに小さくなるわ。針の穴に通ってしまうくらいに小さくなったら、すぅっと手の中に吸い込まれていくのよ。さあ、イメージして」
「イメージしろと言われてもなぁ」
「できない? 目の前に大きな本が見えているから難しいのよ。目を閉じて。そうなったらいいなぁって、頭の中で思い描くの。本が小さくなって簡単に持ち運べたら、とっても便利でしょ? 良いと思うでしょ? そしたら、ほら。小さく小さくなっていくから」
マーシャに言われてアーサーは素直に瞼を閉ざす。アーサーの牛のミルクのように白く滑らかな肌に黄金色の睫毛が長い影をつくっている。じつに無防備な顔だ。
赤く潤った唇は薄く開き、形の整った眉は緩やかな弧を描いている。
再びマーシャは、そっとため息をついた。
(なんでそんな顔するの? 無防備すぎるわよ。たくさんの兵士たちに守られている城の中じゃないの。もっと警戒して。あたしを好きだとか言って、あたしを信じすぎないで。……あたしのこと何も知らないでしょ?)
森にやって来てからアーサーはマーシャに対してとても素直で、真っ直ぐだ。
だけど、それはマーシャにとって却って厄介なことに思えた。アーサーが無防備であればあるほど、マーシャまで無防備になってしまうからだ。
「うわっ。消えた!」
マーシャが見つめていた青い瞳が、ばちっと大きく開いた。アーサーが短く声を上げ、テーブルの上を凝視している。
マーシャもそちらに視線を移せば、テーブルの上に本がない。無事に消すことができたらしい。
「どこいった⁉」
「だから、手の中に仕舞ったのよ。手のひらを見て、ほくろができてない? それ、本よ」
「はぁ? ほくろだと?」
アーサーはすぐさま自分の右手を確認して、再び声を上げる。
「うわっ。なんだこのほくろ!」
「だから、本だってば。ほら、今度は手から本を出してみて。出て来いって思えば、出てくるから」
アーサーは呆気に取られたような表情で、自分の手のひらとマーシャを見比べた。
「出て来いと思えば出てくる、って。簡単に言ってくれるよな」
「早く出して。簡単なの。ここ基本中の基本なの。ここで躓いたら先に進めないじゃないの」
「分かった。分かった。イメージだろ?」
そうそうとマーシャが頷くと、アーサーは両目を閉ざしてテーブルの上に手のひらを置いた。
多少なりドルイドとしての素質があるのか、それとも、状況に対する順応性や思考の柔軟性が高いのか、先ほどよりもスムーズにイメージができたらしく、手のひらの下に黒い本が現れた。
「おおっ、出た」
「本以外にもいろいろと仕舞い込めるから試してみるといいわよ。たとえば、腰から下げている剣とか。あたしは紙とかペンを仕舞っているわ。あと、ナイフとかパンとか皮袋に入れた水とか。ただし、仕舞えば仕舞っただけ手のひらにほくろが増えちゃうのは考えものよね」
「なるほどな」
「――以上」
「はぁ?」