9.旅の終わりに(1)
声を掛けてきたのは、彼女の方だった。
マーシャが湖のほとりを散策している時だ。白い腕が湖の水面にぬっと突き出て、ゆらりゆらりと、うねるように手招きしていた。
マーシャは最初、その腕の異常な白さを見て、水死体が腕だけ上げて沈んでいるのかと思い、ぎょっとした。
だが、マーシャがその腕の招きに従って水際まで行くと、水面が大きく波打ち、大きく盛り上がった。そして、髪の長い女の頭がざばりと水の中から現れたのだ。
マーシャは息を呑んで女の顔を凝視した。人ではないとすぐに分かった。白すぎる肌に、碧い宝石のような瞳が美し過ぎるからだ。
女の銀髪が水面で扇のように広がり、さわさわと揺らいでいる。首から上しか見えないので、まるで湖の水面に浮かぶ生首のように見えた。
『ドルイダスか』
女が声を掛けてきた。鈴の音のような高く美しい響きだった。
「弟子入りしたばかりで、まだドルイダスと名乗れるほどではないわ」
『師は誰か?』
「メルディン」
『ほう、メルディンの弟子か。ならば、いずれ力のあるドルイダスになろう』
ざぁーっと水が流れ落ちる音と共に女が上半身を露にした。マーシャは再び息を呑んだ。彼女が美しい裸体を披露したのかと思ったからだ。
だが、すぐにマーシャは頬を赤らめ、自分の間違いに気付く。彼女は裸体に見えるほど肌の透けた薄い衣をぴったりと纏っていた。
「貴女はアンダイン(水の精霊)?」
『さよう、我はアンダインのひとり。だが、我は並みのアンダインではないぞ』
マーシャはどう答えて良いものか分からなかった。メルディンや兄弟子たちからアンダインの気難しさを聞いている。
下手に刺激してはならないこと、気分を損ねてはならないこと、また、気に入られ過ぎてもいけないということ。彼女たちは気に入った人間を水の中に沈め、永遠に己だけのものにしてしまうからだ。
マーシャが黙っていると、アンダインは更に水から姿を露にする。
マーシャの目は彼女に釘付けになった。彼女の下半身には衣がなく、代わりに青く輝く鱗に覆われている。しかもその下半身は人間のような足ではなく、魚のような尾の形をしていたのだ。
彼女は空中をまるで水中を泳ぐように腰や尾をくねらせ移動し、マーシャに近付いてきた。
彼女の尾の先よりも長い銀髪が空中を漂って広がる。その美しさは、雨上がりに硝子玉のような水滴をいっぱいに飾った蜘蛛の巣のようだ。
マーシャが彼女の容貌に見惚れていると、アンダインはふわりと微笑を溢し、マーシャに向かって白い両腕を伸ばした。
『面白い小娘よ。二つの力を合わせ持っておる。主かも知れぬのぉ、我が待ち望んでいた者は。ならば、囚われてやろうぞ』
「え?」
『主が喚べば我は応える。主が求めれば我は力を貸そう』
「それって……」
『ただし、見返りは頂く』
「見返り? いったい何を……?」
マーシャは戸惑い、果たして自分に何があるだろうかと考えを巡らせた。何か持っていただろうか、アンダインが欲しがるような物を。あげられる物なんて何も持っていないのに。
まったく思い至らず、眉を下げてアンダインを見上げると、彼女の指先がマーシャの頬に振れた。ひやりとした冷たさが頬から全身へと広がる。
『我の名を主にくれてやろう。その代わり、主は我のものぞ。我は嫉妬深い故、せいぜい心するが良い』
―― ざばぁああああああんっ ――
銀タライの水が大きく膨れ上がり、まるで狂ったかのように高く高く天井に向かって延び上がっていく。
水が形を定めていくにつれて、女の姿が現れていく。それはそれは美しい女だ。
だが、ひと目で人間ではないと分かる。両足の代わりに魚の尾を持ったその姿は、アンダイン(水の精霊)のものだ。
「ニムエ! 来てくれてありがとう!」
『最初に申したが、我は嫉妬深い』
彼女はまるで空中を泳ぐように浮かび上がり、ちらりとアーサーの方に視線を向けた。アーサーは黒獅子に跨り聖剣を振るいながら黒狼との戦いを繰り広げている。
マーシャはニムエの意図が分からず眉を寄せて彼女を見つめる。すると、ニムエはその体から絶えず水を沸き立たせながら水を衣のように纏い、尾を優雅に動かしてマーシャの周囲を巡ると、マーシャに向かってすうっと両手を伸ばし、その白すぎる両手でマーシャの頬を覆った。
『先に見返りを頂く。先日貰い損ねた分も込みでな』
言うと同時にニムエの顔がマーシャの顔に近付いてくる。
まさかそう来るとは思っていなかったから、避けるとか、拒絶するとか、そんな選択肢はなかった。無抵抗のままマーシャはニムエの口づけを受け入れた。
ぞわっ。
全身の毛が粟立つ。触れられた唇はひんやりと冷たく、そこからどんどんと熱を奪われていく感覚がする。
だが、奪われているのは体温だけではない。マーシャは指先から力が抜けていく感覚に襲われる。
腕が重い。足元が揺らぎ、立っているのがやっとになる。
ついに、腰が砕けたようになり、マーシャは膝を折ってその場に座り込んだ。全身が重怠い。頭を上げていることすら辛く、マーシャは項垂れた。
はっきり言って、この場に横になりたいくらいの疲労感である。すべての力をニムエに吸い取られてしまった。
床に両手を着いて項垂れていると、頭上でニムエの笑い声が高々と聞こえた。
『思った通り、なんたる美味! ああ、力が漲ってくる。嬉しや。ああ、嬉しや』
彼女は風にたなびく薄絹のような水の衣を纏いながら黒狼に振り向き、その両手に身の丈よりも長く鋭い緑青色の三又の槍を真珠のような泡を散らしながら出現させる。
『勝てる。今の我ならあのような狗、敵ではないわ。先の屈辱を果たしてやろうぞ』
言うや否やニムエは放たれた矢のように一直線に黒狼に向かっていく。
アーサーを乗せた黒獅子に飛び掛かろうと肢体を屈めていた黒狼が、迫り来る気配に振り返る。だが、遅い!
ニムエは槍の尖端から体ごと黒狼の翼に向かって突っ込んでいき、二枚の翼を続けて貫いた。
『ぐおおおおおーーーーっ』
黒狼が呻き声を響かせる。ニムエが突き抜けた彼の黒翼は大きく穴があき、無惨にも骨が折れて今にも千切れ落ちそうになっていた。もはや飛べない。
次にニムエは槍を片手に持ち直し、高く掲げると、力一杯に投げた。ひゅっと風を切る音と共に飛んだ槍は黒狼の尾に向かっていく。
『ギャアアア!!!!!』
槍は大蛇の頭を貫き、その長い体を床に押し留めた。と同時に、黒狼も動きを制限され、怒り狂って雄叫びを上げるがニムエは表情ひとつ変えなかった。
(強い)
ニムエの言っていたことは本当だったのだ。彼女は悪魔にも負けない。いや、負けないどころか、悪魔を相手に一方的な強さだ。
『マーシャ!』
黒獅子がアーサーを乗せて駆け寄ってくる。しかし、その大きな体は、一歩マーシャに近付くにつれて、ひとまわりずつ小さく縮んでいく。
そして、あっという間に小鹿くらいの大きさになり次の一歩でアーサーは跨がっていられなくなった。
アーサーの股の下から抜け出て更に数歩でビリーは元の猫の姿に戻り、にゃおとひと鳴きする。
マーシャは駆け寄ってくる黒猫に向かって重い両腕を力を振り絞って伸ばした。すぐにビリーがその腕の中に飛び込んで来た。
『マーシャ、怖かったよ。でも、僕、頑張ったよね?』
「うん、よくやったわ。えらい、えらい」
ビリーを追い掛けるようにアーサーもマーシャに駆け寄ってくる。その姿を確かめて、マーシャはビリーをぎゅっと抱き締めた。ビリーが機敏に逃げ回ってくれたおかげで、アーサーの体に目立った怪我はない。
アーサーがマーシャの前に立ったので、マーシャは立ち上がろうとしたが、まだ足に力が入らなかった。体が重い。怠い。
(ああ。この感覚、覚えがあるわ)
暗い暗い部屋の中。
マーシャは話し相手もなく、たった独り。
何をするわけでもなく、何を眺めるわけでもない。
ただ、ただ、今日という日が過ぎて、明日という日が来る。その繰り返し。
無気力だ。体が重くて腕が上がらない。立ち上がることもできない。
ひどく空腹だ。お腹がすいたと、それだけしか考えられなくて、やがてそのことさえもしだいに考えられなくなる。
(横になりたい)
どうかしている。力を封じられていた塔でのあの日々を、力を奪い取られて思い出すなんて。
力を封じられたり、力を奪われると、どうしてこうも弱気になってしまうのだろう。あの時と今とでは状況が違うのに、同じだと感じてしまう。
不快で嫌な思い出が押し寄せる大きな波のように思い出されてくる。
「おい、大丈夫か?」
アーサーがマーシャの傍らで片膝をついて顔を覗き込んできた。そして、マーシャの肩に片手をそっと置く。
その手の温もり。すぐ隣に感じるアーサーの気配。息遣い。鼓動。
瞼を閉ざしていても感じる光は、アーサーを守護して取り巻く精霊の輝き。
マーシャは重たい頭を俯かせたまま、あれ? と思い、遠い記憶を呼び起こした。
―― おい、大丈夫か? ――
脳裏に少年の声が響く。
あの暗い塔の日々がようやく終わりを告げた時に聞いた声だ。
あの声に、あの少年に、マーシャは救われたのだ。
マーシャは最後の力を振り絞るように顔を上げて、アーサーを見やった。
「アーサー?」
ああ、そうだ。アーサーだ。
声変わりしていて気が付かなかった。だけど、この感覚。この気配。この響き。思い出せる限りの記憶が彼だと告げていた。
(見付けた。やっと見付けたんだ)
思えばカイは言っていた。マーシャが塔から救い出された時、自分もそこにいたと。この言い方で考えられることは、『騎士』様はカイではない。カイは『騎士』様がマーシャを塔から救い出す姿を見たのだ。
そして、カイと共に幼少期を過ごして来たのは――。
ぶーん、と虫の羽音がマーシャの耳を掠めるように聞こえた。こんな時に。
(うるさい)
なんて煩わしいのだろう。
羽音は彼の言葉を代弁している。彼の存在を思い出せと。
そして、その羽音は彼の訪れの前触れだ。
マーシャは眉を顰めて心の中で強く強く念じる。
(来ないで。呼んでいないわ。貴方じゃないの。あの時も今も貴方じゃない)
強く強く彼を拒絶する。
ずっと捜していた相手がアーサーだと分かった今、その気持ちに割り込むように現れて欲しくない。
だって、彼はマーシャが一番苦しかった時に来なかったのだ。今さら来られても不信感しかない。
あの時マーシャを救い出してくれたのは、アーサーだ。
ずっとマーシャが求めていた相手は、アーサーだったのだ。
心の中で強く念じてきっぱりと拒絶すると、しだいに羽音が弱々しくなり、やがて遠ざかって行った。
マーシャが瞳を潤ませアーサーの青い瞳を見つめる。
「アーサー、あの…あのね……」
何をどう伝えようか悩みつつ、何か言わなくてはと口を開く。
何か……。ああ、何か……そうだ。お礼だ。まずはお礼を言わなくては。ずっとずっとお礼を言いたかったのだから。
だが、マーシャが口を開くよりも早くアーサーの腕が予告なく伸びて来て、マーシャの頭の後ろに回された。
何をと問う暇もなかった。アーサーの手がマーシャの頭をすくい上げるように支え、強引に彼の方へと引き寄せる。
「……っ‼」
マーシャは力一杯に瞳を見開いた。唇の感触に驚き、体を硬直させる。
何が起きたのか理解するのに数秒の間が必要だった。ハッと我に返った時には既にアーサーはマーシャから顔を離していて、平然と言った。
「さっき力を貰ったから少し返した。立てるか?」
「かっ……」
――返した?
マーシャは絶句して目の前の整った顔を見つめる。
ドルイドの力――霊力は、霊力の多い者から霊力の少ない者の方へと流れていくものだ。弟子であるアーサーから、師であるマーシャに力が移動するということがあるのだろうか。
マーシャはアーサーに支えられながら立ち上がる。そして、ちゃんと足に力が入ることに驚いた。
(力が戻ってる)
常に霊力は師から弟子への一方通行なのだと思っていた。そうではないのだと初めて知ると共に、それだけマーシャの霊力が空っぽになっていたということを改めて実感する。弱気にもなるわけである。
――と、その時。




