8.あたしは、親を選んだ覚えがない(2)
「待ちなさい‼」
青い、深海を映したような瞳が恐怖の色を浮かばせて大きく見開かれ、珊瑚の粉を塗ったような唇から甲高い声が響いた。
「やはりそれはわたくしの物のようです。お返しください!」
「貴女の物だと認めてくださったのですね?」
「ええ、ええ、わたくしの物です。でも、悪魔なんて知りません。きっと何者かが盗んでいったのでしょう。そうです。盗まれたのです。いつの間にか無くなっていたの!」
「いつの間にか? あり得ない。貴女にとってとても大切な物であるはず。だから、貴女は常に身に着けていた。夜、眠る時も。いったいどのようにして盗めたというのですか。仮に何者かが盗めたとして、それは既に七日も前のこと。今の今まで盗まれたことに気が付かないはずがない。なのに、貴方は盗まれたことをいっさい口にしなかった。大騒ぎをしても良いほど大切な物だというのに」
モルガナは一瞬言葉を詰まらせた後、やっと首飾りから視線を逸らして言った。
「たしかに気に入って、いつも身に着けていました。けれど、気に入っている物は他にもたくさんあります」
「たくさんある物のひとつだから、大騒ぎをするほどのことではないと?」
「ええ、そうです。でも、見付かったことはとても嬉しいわ。返して」
モルガナの言葉の乱れを感じて、マーシャは彼女の焦り具合を知る。もう少し揺さぶってみようと、マーシャは頭を左右に振った。
「いけません。悪魔が触れた物なので、処分しなくては」
「処分ですって! 駄目よ。許さないわ! それはお母様がお父様から頂いた物なのよ‼」
マーシャは首飾りを踏みつけようと浮かせていた足を、すとんと下した。もちろん首飾りを踏んだりなんかしていない。肩で荒く呼吸を繰り返すモルガナから視線を外さないように体を屈め、腕を伸ばして首飾りを拾い上げた。
「とても大切な物のようなので、聖水で清めてからお返しします」
「いいえ、結構よ。今すぐ返して!」
マーシャは冷たく燃えるモルガナの瞳を見つめる。拾い上げた首飾りを彼女に見せ付けるように掲げると、玉座の傍らから身を乗り出して今にも掴みかかって来そうな彼女にパッと背を向け、すぐさま首飾りを玉座から少しでも遠くへと投げ捨てた。
あっと小さな悲鳴を上げてモルガナは駆け出す。ドレスの裾に構う余裕も、淑女らしく振舞う余裕もなく、絨毯の上に落ちた首飾りに手を伸ばした。
と同時にマーシャも床を蹴って駆ける。モルガナと擦れ違うように玉座に駆け寄ると、アーサーの両肩をきつく掴んだ。
「アーサー!」
呼び掛けて、がくがくと体を揺さぶってみるが反応が薄い。アーサーの体はマーシャに揺さぶれるがままになって、自分から動く気配がまったくないのだ。
時間がない。首飾りを取り戻したモルガナが次の手を打って来る前にアーサーを正気に戻さなければ。
マーシャはスッと息を吸い込んで覚悟を決めた。アーサーの肩を掴んだ両手に力を込める。
そして。
―― ガツン‼ ――
「痛っ‼」
ひぃーっと悲鳴がマーシャのすぐ後ろから発せられた。カイである。
「ひでぇ。なんで頭突き⁉ そこはキスするところだろう! 魔女の呪いはキスで解けるって、定番中の定番だろう。キスしてやれ!」
「しない!」
マーシャは自分の額に手を当てながらカイを睨む。マーシャの額がズキズキと痛むということは、頭突きを受けたアーサーの額もかなり痛んでいるはずだ。これで駄目なら……と下唇を嚙みしめながらアーサーを伺うと、アーサーの唇から呻き声が小さく漏れた。
「……痛っ…」
「アーサー‼」
カイがアーサーに駆け寄り、よろめきながら玉座から立ち上がろうとするアーサーに手を貸して、アーサーを立ち上がらせた。
「いったい何が……」
「大丈夫かよ?」
「頭が痛い」
「そりゃあ、マーシャのせいだ」
カイに支えられながらアーサーはマーシャに視線を向ける。南国の海のように澄んだ青い瞳に見つめられて、マーシャはホッと胸を撫でおろした。
マーシャ、とアーサーが額を擦りながら言う。
「キスしてくれ」
「なんでよ!」
ぶっ、と吹き出すカイ。つられてマーシャは笑い、それから、モルガナに視線を戻した。
彼女は首飾りを胸の前で固く握り締めると、ひどく荒んだ眼差しでマーシャを、そして、アーサーを睨み付けてきた。
「この首飾りは、お母様の形見よ。お母様がお父様から頂いた物。婚儀を上げたその日に。二人が夫婦となり、そのことを喜び合った証として。いわば、二人の愛の証よ。とてもとても特別な物なのよ」
「うん、知ってた。知ってたのに、雑に扱ってしまってごめんなさい。でも、貴女もそれほど大切な物を悪魔に渡してはいけないわ」
「どんな犠牲を払っても、必ず殺すと誓ったのよ!」
――許さない。
モルガナの唇が恨みの言葉を形づくるのを見て、マーシャはアーサーを庇うように彼の前に出て、モルガナに対峙する。
「モルガナ姫、貴女の恨みは分かるわ」
「黙れ! お前に分かるわけがない! お母様は心からお父様を愛していた!」
彼女は金髪を振り乱しながらマーシャの体越しにアーサーを睨み付ける。
「アーサー! ――お前っ‼」
美しい容貌が凍えるほどの狂気に満ちていた。モルガナはアーサーを指さし、呪うように言葉を放つ。
「お前は自分がどのようにしてこの世に生を受けたのか知らないでしょう。教えてあげるわ」
一歩。モルガナがアーサーに向かって足を進める。
アーサーは立ち尽くしてモルガナを凝視していた。
「お前の父親はわたくしのお母様に横恋慕し、お母様を奪うためにお父様に戦争を仕掛けた。コーンウォール城の近くまで攻め込んできたお前の父親は、とあるドルイドの力を借りて、わたくしのお父様の姿に変身し、城の中に入ると、お母様の寝室にまで潜り込んだのよ」
「何の話だ……?」
アーサーは戸惑いの表情を浮かべ、モルガナ姫を見つめている。
マーシャはこのままモルガナに話させて良いものか迷い、カイを振り返り、そして、ウルフィウスに視線を向けた。カイも迷いのある目でマーシャを見つめ返してきて、彼もまたウルフィウスに見やる。
ウルフィウスは青ざめ、体を震わせて俯いていた。まるで彼自身の罪を暴かれようとしているかのようだ。
また一歩、モルガナがアーサーとの距離を縮め、アーサーを鋭く指差したまま話を続けた。
「同じ頃、敵陣に王がいないと見破ったお父様は敵陣に突撃したの。でも、敵の兵たちにとって、お前の父親の指揮なんか関係がなかった。お父様は返り討ちに合い、命を落としたわ」
「俺は父親なんて知らない!」
「そのようね。孤児のように育ったのでしょう? だから、貴方には何も罪はないと? ええ、そうね、そうでしょうね。だけど、その夜、お母様は身籠ったわ。十月十日、お腹の中でお父様の子ではない赤子を育てながら、お母様は心を病んでいった。仕方がないわ。だって、想像してみなさい。お父様と愛し合った夜が明けたら、変身が解けたお前の父親がお母様の寝台の上にいたのよ。そして、同時にお父様の戦死の報が入ったの。お母様の絶望が分かるでしょう」
モルガナがちらりと視線をウルフィウスに向けて、突如、氷のような笑みを浮かべた。
「誰かと思えば、ウルフィウス卿ではないの。お前はあの夜のことをすべて知っているはずよ。なぜなら、お前はお父様の騎士であるブラシアス卿に姿を変え、アーサーの父親と共に城にやってきたのだから。戦場に向かったはずの主の急の帰城を怪しんだ者も、ブラシアス卿が共にいる姿を見て、お父様だと信じた城内の者も多かったはず。――ウルフィウス、お前の罪は重い!」
吐き捨てるように言うと、モルガナは再びアーサーに振り返った。
「お母様は上の娘たちと引き離され、お母様の意思とは関係なく、無理矢理お前の父親と再婚させられたけれど、けしてお前の父親には心を開かなかった。床を共にしたのも、あの呪われた一夜のみ。それなのに身籠ってしまった」
「……」
「心も体も病んでいったお母様を見て、ただひとり――幼さ故にお母様と引き離されなかったわたくしは、お母様を連れてお前の父親から逃げ出し、修道院に身を隠したわ。そして、そこでお母様は赤子を産んだ。憎き敵――ウーゼルの息子を」
モルガナの人差し指は未だアーサーに向かって突き付けられているままだ。
そうよ、とモルガナは言葉を続ける。
「お前だ。お前が産まれたせいでお母様は死んだのよ。お母様は儚い希望を抱いてかろうじて生きていたわ。お腹の中の赤子はもしかしたらお父様の子かもしれないと。だけど、生まれてきたお前は、誰がどう見ても、憎きウーゼルにそっくりだった。お母様は希望を絶たれ、自ら毒を呑んで亡くなったのよ!」
あまりのことにアーサーは言葉を失っている。足元がふらついているのは、媚薬が抜けきっていないせいではないはずだ。アーサーは蒼白な顔をして、モルガナに返す言葉を必死に探している。
「申し訳ないが、理解が追い付かない。俺は……ウーゼル王の息子なのか…?」
「だから、その玉座に座っているのでしょう?」
「いや、俺は聖剣を抜いたから……」
「ウーゼルの息子だから抜けたのよ。あの剣は最初からそういう品物だったのよ。だって、メルディンが用意した剣ですもの」
メルディンと聞いて、マーシャは表情を強張らせた。
たしかにメルディンだ。アーサーを聖剣のもとへ導くようにとマーシャに命じたのは、マーシャの師匠であるメルディンだ。
「メルディンは最初からすべてを知っていたのよ。なぜなら、貴方をエクトル卿に預けたのもメルディンであるなら、あの呪われた夜にウーゼルをお父様の姿に、ウルフィウスをブラシアス卿の姿に変え、ウーゼルをお母様の寝室に導いたのもメルディンだからよ」
嘘だ! 叫びたかったが、マーシャは声が出て来なかった。もしかしたらと思う気持ちが僅かにあるためだ。モルガナの言う通りかもしれない。これはすべてメルディンが仕組んだことかもしれない。
マーシャの頭が必死になって師匠メルディンを擁護する考えを巡らす。きっとメルディンは戦火ばかりのブリタニアを憂いて、劇的な方法でブリタニアが王を迎え入れれば、平和が訪れると考えたのではないだろうか。
さも神に選ばれ、精霊に愛された王であれば、誰もがその王に従うのでは、と。
そのために必要だったのが、ウーゼル王の後継ぎだ。
当時ブリタニアで有力な王のひとりであったウーゼル王が短命であることを、メルディンは前もって知っていたという。であるのなら、ウーゼル王に後継ぎができれば、その子を自分の理想通りに即位させることができるかもしれない。
理想的な時期に、理想的な方法で。それまで人目に触れにくい場所に隠しておかなければならない。
おそらくイグレイン妃はアーサーの養育を拒絶したに違いない。そういう点においても、メルディンにとってイグレイン妃はウーゼル王の後継ぎを産む女として都合が良かったのだろう。
妃を持たないウーゼル王が初めて心を奪われた女をメルディンは逃さなかった。何としてでもウーゼル王の王子を産ませようと力を尽くしたに違いない。
気が付くと、師匠を擁護するどころか、その黒い策略に批難する言葉ばかりが浮かび上がってしまい、愕然とした。
たとえ平和のためだとはいえ、何ということをしてくれたのだろう。子を孕ませるために、夫のある女性を騙したのだ。
同じ女として許しがたい。イグレインの無念も、モルガナの悔しさも、よく理解できてしまう。
だけど、そうとはいえ、アーサーは悪なのか?
メルディンも許せないが、ウーゼル王も許せない。そもそもウーゼル王の横恋慕がすべての発端だ。ウーゼル王の許しがたい行いの結果としてアーサーが生まれたのだから、アーサーの意思とは関係なく、アーサーは悪だというのか。
マーシャは己の左手の平を見つめた。今は見えないが、そこには消すことのできない印が刻まれている。
(アーサーはあたしだ)
マーシャの父親は地獄にいる。誰もが間違いなく彼を『悪』だと言う。そんな彼から生み出されたマーシャは『悪』なのだろうか。
マーシャの母親も、イグレイン同様、腹に宿った子を産みたくなかった。彼女はまだ十四歳で、未婚だったのだ。身に覚えがないのに腹が日に日に大きくなり、さぞ不安だったことだろう。
腹の子を憎みながらも、子を殺そうと試みても殺すことができず、十月その腹で育て、そして、子を産んで絶望した。
マーシャは物心付いた頃に母親の恨みを知り、そして、自分が本当は何者であるかを知った。
対して、アーサーは今知ったのだ。己の両親が何者なのか、どうやって母親がアーサーを身籠り、どれほど母親に恨まれていたか。
マーシャにはアーサーの戸惑いも悲しみも手に取るように分かった。だから、マーシャはアーサーの代わりに声を上げるのだ。生まれる前から押し付けられている理不尽な憎しみに負けないように。
「モルガナ姫、貴女の気持ちはよく分かる! だから恨んでもいい! でも、その恨みでアーサーを傷付けるのは違う。だって、アーサーが何をしたって言うの? 産まれてきたのが悪い? アーサーがウーサー王に『産まれたいです』って頼んだ? イグレイン妃に『産んでください』って頼んだ? あたしたちは誰だって気が付いたら生まれてて、産まれたいです、あの人に産んで貰いたいです、って親を選んで生まれてきたわけじゃない。だって、自分の意志で選べるものなら、誰が貧しい家に産まれたいと思う? その日のご飯にも困って、幼い頃から汗と泥にまみれ、大人にどやされながら働いても、カビの生えたパンを一欠けらしか貰えず、隙間だらけで雨漏りしている寒い家でひもじい思いをするために産まれたいと思う?」
選べるものなら誰だって恵まれた人生を歩みたい。そのために裕福で温かい家庭を営んでいる夫婦のもとに生まれたいと思う。父親にも母親にも愛されたい!
「誰が母親に憎まれるために産まれたいものですか! だけどね、親に憎まれようと、生まれてきたからには生きなきゃいけないし、どうせ生きるなら、楽しく生きたい。楽しみを見付けながら生きていきたいのよ!」
「はっ! 楽しくですって、そんなこと、アーサーに許されるわけがないでしょ。お母様を殺したのよ!」
「アーサーがイグレイン妃にナイフを突き付けたの? 刺し殺すところを貴女は見たの? 死ね、ってアーサーが言った? 殺してない! 死んで欲しいなんて思っていなかった!」
「それでもお母様は死んでしまったわ!」
「だから、その点で貴女はアーサーを恨んでもいい!」
声を荒げるモルガナの耳に届くようにマーシャも声を張り上げる。
「貴女は最愛の母親を失い、とても悲しんでいる。苦しんでいる。母親の死のきっかけがアーサーであるから、貴女がアーサーを恨むのを誰も止められない。実の弟でしょと諭しても空々しいだけ。だから、止めない。でも、それとアーサーを害そうとするのは別よ」
「では何? 心の内だけで恨みを募らせておけと? どうすることもできず、ただただわたくしひとりで恨んでいろと言うの?」
「そうよ、そうすべきだわ。貴女の恨みに誰かを巻き込むべきではない。たとえアーサーであっても巻き込むべきではなかった」
「うるさい! 黙れ! わたくしの、私の気持ちを知ったように語るな! 恨んでもいい? 恨みに巻き込むな? 私はアーサーを殺したいのよ! 悪魔に力を借りてもアーサーに思い知らせたかった。何も知らずに安穏と生きているアーサーを殺してやりたいと、ずっと願って生きてきた。この身がどうなろうとも、必ず、必ず、アーサーを地獄に引きずり落としてやる!」
それはモルガナが悪魔に力を借りたと自ら証言した瞬間だった。
彼女は彼女の騎士に呼び掛ける。
「こうなったら王妃も女王も、どうでも良い。今すぐここでアーサーを殺すのよ!」
彼女がどうやってアーサーを地獄に引きずり落とすつもりだったのかは、ウルフィウスから聞いている。姉弟で契るつもりだったのだ。そうして、アーサーの魂を汚して、天国の門をくぐれないようにしたかったのだ。そして、もしかしてとマーシャはモルガナの言い放った言葉を聞いて思う。彼女は王妃の座を得て、アーサーを殺し、ログレスを奪い取って女王になるつもりだったのだろうか、と。
悲鳴。いったい誰が最初に上げたのか、布を裂いたような悲鳴が響く。
すると、それを皮切りに、あちらこちらから次々に悲鳴が上がり、玉座の間に集まっていた人々がいっせいに大扉へと駆け寄った。
彼らは何に恐れを為したのか。その正体はすぐに知れた。モルガナの背後に控えたブラック卿の体が大きく大きく膨らんで天井に届くのではと思われるほどの巨体に変貌していたのだ。
もはやその姿形は人間のものではなく、四つ足の獣の姿だ。そして、獣の背中がメキメキ割れて、その割れ目から鳥のような黒い翼が生える。
ばあんと音を響かせ大扉が開き、悲鳴と共に人々が外へと逃げ出していく。それでいい、とマーシャは心の中で頷いた。早く逃げて、と。
ブラック卿は、やはり森で遭遇した悪魔だった。黒い翼を持った恐ろしいほどの巨大な黒い狼。
その姿を見上げてマーシャはニムエの言葉を思い出した。彼女はマーシャが正しい方法で彼女を召喚すれば、本来の力を発揮して悪魔にも勝てると言っていた。となれば――。
(まず綺麗な水!)
マーシャはカイに振り向いて叫ぶ。
「カイ、綺麗な水が欲しいの! 綺麗な桶にいっぱい! それと、銀器。できるだけ大きいのを。タライサイズがあれば最高!」
カイは一度ニムエの召喚に立ち会っているため、すぐにマーシャの意図を汲んでくれた。
「城内の井戸から汲み上げた水を運ばせる。それと、かなり前にアーサーが沐浴に使った銀タライがどこかにあったはずだ。探してくる!」
「うん、お願い!」
カイが逃げずに茫然と立ち尽くしていた騎士たちに声を掛けながら玉座の間を出て行く姿を横目で見送りながら、マーシャは、ぐっと唇をきつく結ぶ。悪魔と向き合って身構えた。
(準備が整うまで、時間を稼がないと。でも、どうやって)
「マーシャ‼」
アーサーの声が聞こえたと思ったら、突然の横からの衝撃で、マーシャを庇おうとしたアーサーと共に体が吹っ飛ぶ。二人は大理石の床に叩き付けられて、もつれるようにゴロゴロと転がった。
いったい何か? と顔を上げて思わず息を呑んだ。目の前で大蛇が鎌首をもたげ、マーシャをじっと見つめていた。その赤い眼はまさに捕食者が獲物を狙っている眼だ。大蛇は今にも二人に飛び掛かり、丸呑みにしようと様子を伺っていた。
(どこから大蛇が……)
瞬時に思い出す。大蛇は黒狼の尻から生えていて、黒狼とは別の意思を持って動いているのだ。そして、その大きさは大人の胴ほどの太さがあり、黒狼の首に巻き付けるほどの長さがある。黒狼だけに注意を向け、黒狼に向かい合っていたマーシャを横から吹き飛ばしたのはこの大蛇だったのだ。
「マーシャ、大丈夫か⁉」
すぐに立ち上がり、悪魔に向かって剣を構えたアーサーの声が響く。そして、マーシャの首元で猫の鳴き声が聞こえた。
ビリーがフードから這い出て来て、マーシャの頬に自分の顔を擦り付けて来る。
「ビリー、大丈夫?」
『僕は大丈夫。マーシャこそ痛いところはない?』
「あちこち痛いわ。油断した。尾が蛇だってことを忘れてたわ」
よろけながら立ち上がり、マーシャが大蛇の無表情の顔を睨み付けた。
マーシャに睨まれたからかどうかは分からないが、大蛇が身を引いて、代わって黒狼が振り向き、唸り声を上げた。そして、耳まで裂けた口を縦に大きく開いて赤黒い喉の奥から碧い炎を吐き散らした。
マーシャは瞬時に右手を前に突き出して精霊に呼び掛ける。
「風よ、我が友よ。我を護る盾とならん!」
マーシャとアーサー、そして、ビリーを包み込む風の繭ができて碧く光る炎と勢い激しくぶつかる。繭が焼け溶けて、焼けるような熱気がマーシャたちの体を嬲ったが、風の精霊たちは炎からマーシャを護ってくれた。
マーシャたちが吐き捨てた炎では死ななかったと知ると、黒狼の視線がアーサーに絞られた。マーシャを相手にするよりも、モルガナの望み通りにアーサーを先に片付けるべきだと判断したのだろう。黒狼の鋭い爪が伸びた前足がアーサーに向かって高く振り上げられた。
マーシャは右手を軽く握ると、胸の前に押し当てる。
「風よ、我が友よ。我が敵を切り裂く刃とならん!」
マーシャが声を張ると、マーシャの右手に透明のナイフが現れる。マーシャはすぐさまそれを黒狼に向かって投げ付ける。ナイフは空中で二つに分かれ、更に二つずつに分かれ、更に分かれ、八つの鋭利なナイフとなってマーシャが投げた力以上のスピードを持って黒狼に向かって一直線に飛んでいった。
黒狼が振り向いた。そして、アーサーに向かって振り下ろそうとしていた太い足で、すべてのナイフを難なく叩き落とした。
(くっ)
マーシャは小さく呻いた。黒狼の注意をアーサーから反らすための攻撃だったが、そこまで容易に防がれてしまうと、がっかりしてしまう。
黒狼が唸り声と共に体躯をくねらせ、縄を振り回すように大蛇をぐるんと振り回した。大蛇の体当たりから逃れるためにマーシャは素早くしゃがみ込んで体を縮めた。ぶんっと風を切る音がして、すぐ頭上を大蛇の腹が過ぎ去っていく。
『ギリギリだったね、マーシャ。怖いよ。早くなんとかしてよ。ねぇ水はまだなの?』
ビリーの言葉を聞きながらマーシャは立ち上がり、大扉に視線を向けた。水桶を抱えた騎士が玉座の間に入ってくる姿が見えた。彼が床に水桶を置くと、もうひとり別の騎士が水桶を抱えて大扉から入って来た。彼らは水桶を置いて再び大扉から出て走って行く。
これで水は桶ふたつ分。だけど、まだ足らない。銀器もない。
次にアーサーに視線を向けた。アーサーは黒狼に向かって剣を構えているが、悪魔が相手ではマーシャ以上に無力だろう。せめてアーサーの手にしている聖剣が、聖剣本来の力を宿していれば話は変わっていただろうに。
どうしてだか分からないが、アーサーの聖剣は、神に由来する聖なる力を失っている。
ならばと、マーシャは右手を天井に向かって高く掲げた。
「天と地の境に存在するすべての精霊よ、ログレスの王に力を!」
アーサーの剣が白い光を放つ。と同時に、ひとつ、またひとつ、羽虫ほどの小さな光があちらこちらから飛んできてマーシャの右手に無数に集まってきた。そして、マーシャの頭ほどの大きな光の塊になると、アーサーのもとへと飛んでいく。
「なっ、なんだこれは⁉」
アーサーは驚きの声を上げたが、すぐに使い方を悟ったようだ。構えていた聖剣を高く振り上げてから黒狼に向かって力一杯に振り下ろした。
『かはっ!』
黒狼が呻いた。アーサーの剣から放たれた光の刃が黒狼の右足に傷を追わせたのだ。
「効いた!」
悔しいがマーシャの攻撃よりも効き目があるようだ。いや、これはマーシャがアーサーの剣に力を与えた結果なのだから、二人の攻撃だ。
だけど、アーサーと黒狼の体格差はいかんともしがたい。さらに、大きな体躯がその大きさに似合わず俊敏に動くのである。あの太い足で一撃でも喰らえば、アーサーは命を落としかねない。
黒狼の攻撃を確実に避けて、アーサーが攻撃できるチャンスを得るには……。黒狼以上の俊敏な足が必要だ!
「ビリー、力を貸して!」
マーシャは己の肩にしがみ付いているビリーの首根っこを鷲掴みにすると、そのまま高く掲げて声を張り上げた。
『ぎゃあー。何するつもり⁉ マーシャ、怖いよ‼』
「大丈夫。怖くないようにする! ――汝、力強く。汝、逞しく。汝、勇ましく」
『やだやだやだぁー。嫌な予感しかしなーいっ‼』
「汝、大きくなれ! 汝、獅子となり、アーサーと共に駆けろ!」
言い放つと同時にビリーを空中に高く高く放り投げた。
『ふにゃあーっっっがぁっおおおおおおおおおおおおおっ‼』
猫の悲痛な叫びが途中から猛獣の唸り声に変化する――と共にビリーの体が、その小さな体の中に風船が隠されていたかのように、背中の方から盛り上がるように大きく大きく膨らんで、四肢が長く太くなり、頭が大きくなると同時に頭のてっぺんから順に鬣が長く伸びていく。
(ごめん、ビリー。今はこの方法しか思い付かないの)
心の中で謝罪しながらマーシャは目の前に現れた大きな黒い獅子を見上げた。黒狼と同じサイズである。これなら、たとえ正体が猫でもそこそこ戦えるかもしれない。
「アーサー、ビリーに乗って」
「わかった。……すごいな、ビリー。格好良いぞ」
アーサーが称賛を口にしながら黒獅子に手を伸ばすと、黒獅子はゴロゴロと喉を鳴らしてアーサーの胸に額を押し付ける。それから、アーサーはビリーの背に軽々と飛び乗った。
マーシャはビリーの首元に手を伸ばすと、その黒い毛並みをひと撫でしてから、アーサーを見上げた。
「あたしの力では勝てないわ。もちろんアーサーの力だけでも」
「聖剣に精霊の力を宿してくれただろ。それにビリーもいる」
「それでもまだ足りない。時間稼ぎにもならないわ。だから……」
――アーサーにもっと力を。
マーシャは両手を伸ばし、ぎゅっとアーサーの襟元を掴むと、その体をぐっと自分の方へと引き寄せた。
瞼を閉じる。ぎゅうっと。
「……っ!」
ぐっと押し付けるだけの触れ合い。だけど、感じる。
マーシャの唇から力が流れていく。その力をアーサーの唇が受け止めて、アーサーの体の隅々へと広がっていく。
(アーサーに力を! アーサーにもっと!)
触れ合った唇の感触に胸が温かくなる。力は奪われる時には不快感を抱くものだが、相手に自ら与えようと思う時にはなんて心地良く感じるのだろう。不思議だ。
どのくらいの口づけだっただろうか。マーシャには長く感じられたが、おそらく一瞬だったに違いない。ふと瞼を開くと、驚いた青い瞳と目が合い、マーシャは慌てて両手を離して身を引いた。
「行って!」
急に気恥ずかしくなり、頬が赤くなっているのを隠すようにマーシャは右腕を大きく振り回して黒狼を指差した。
「カイが戻るまで時間を稼いで。行って!」
「……あ、ああ」
アーサーも我に返り、左手で黒獅子の鬣を掴むと、右手の聖剣を持ち直して黒狼に向かっていく。
その姿が白い光に包まれているように見えた。いや、実際にアーサーは光輝いていた。マーシャから受け取った力がアーサーの体内に収まりきらず、全身から溢れ出ているのだ。
ビリーが大きく飛躍しながら駆ける。アーサーが聖剣を振るうと、全身を纏う光が剣先に集まり、光の刃となって放たれて黒狼を襲う。
直接切り付ける必要がない分、アーサーに分がある。あとはビリーが体力の限り駆け回り、黒狼の攻撃から逃げ回ってくれればいい。
マーシャは黒狼の隙を見て大扉の方に向かって走った。
水樽は四つ床に並んでいた。樽の中を覗き込むと、澄んだ水がなみなみと入っている。この水であれば、二ムエも不満はないだろう。
「マーシャ」
声がして振り向くと、カイが大きな銀タライを抱えて大扉から入ってくるところだった。
「間に合ったか? アーサーは無事なのか……って、なんだあれは⁉ すごいな!」
カイは黒狼と争うように駆け回っている黒獅子を見やって驚愕して言った。
「新手の悪魔か? いや、でも、アーサーが跨っているし」
「あれはビリー。詳しくは後で話すわ。早くタライを」
「おおう、そうか」
カイはタライをマーシャの前に置くと、水桶の水をタライの中へと流し込んでいく。その間にも水桶は届き、マーシャも桶を両手に持ってタライへと水を流し込んだ。
銀タライは、アーサーが即位式の前に体を清める時に使った物だという。アーサーが中に入ってしゃがめるほどの大きさがあるので、届いた水をすべて流し込んでもなかなか満たされなかった。
「足りないか?」
「そうね。もう少し水が欲しいわ」
「わかった。汲んでくる!」
カイが膝を叩いて立ち上がり、水桶を抱えて大扉の外に飛びえ出していく。
マーシャはアーサーを振り返った。大丈夫。まだ無事だ。無事に戦えている。だが。
『マーシャ! まだなの⁉ 僕、怖いよ。もう無理だよ。怖いよー』
アーサーは大丈夫でも、ビリーの方が限界に近い様子だ。姿を変身させると共に『お前は強い』という暗示を掛けたのだが、もう切れかかっている。
「ビリー……」
やっぱり猫は猫だった。気まぐれで、役に立つということがない。
「もうちょっとよ、ビリー。もう少し水が必要なの。アーサーを頼んだわよ。今、猫に戻ったら承知しないんだからね!」
『マーシャ、ひどいよぉ。早くしてよ。無理だよ。だって怖いんだもん』
大きななりで泣き言を言いながらも恐怖が作用して、ちゃんと黒狼の攻撃を避けている。ひとまずその調子で頑張るのよ、とマーシャは拳を握って応援する。というより、今は応援するしか手がないのだ。
一方、アーサーは時々ビリーの体を撫でながら元気づけ、光の刃を繰り出している。その戦いぶりは、だんだん板についてきたようで、連続して光の刃を放ってみせたり、聖剣を横凪にして縦に振るった時とは異なる形の光の刃を繰り出したりしている。戦いのセンスというものがアーサーにはあるようだ。
「マーシャ」
呼ばれて振り返れば、カイが体格の良い騎士を二人つれて戻って来たところだった。彼らはそれぞれに両手に水桶をひとつずつ下げており、三人で桶六杯分の水を運んで来てくれた。
マーシャとカイで桶から銀タライに水を流し込む。
「ありがとう、カイ。これでいいわ」
マーシャはカイと騎士たちに礼を言うと、少し距離を取って貰い、銀タライを正面にして腰を下ろした。銀タライの中で澄んだ水が波打ち、銀の輝きをキラキラと反射させている。
マーシャはその水面に右手をかざす。
「朝露よりも美しき姫君」
瞼を閉ざす。
「新雪よりも気高き乙女」
アーサーと黒狼の戦いがまるで遠くの場所で行われていることのように喧騒が遠ざかる。
「深緑の森の主にして湖の賢き貴婦人よ」
水面にかざした右手の下で、ざわざわと水が囁き始める。
ああ、聞こえているのだ。彼女に。この声が。
「我、汝の名を知る者。我、汝に誓う者。我、汝の求むる者。我の声に汝応えよ」
マーシャの右手のひらにドルイダスの紋章が現れ、その手のひらをかざした水面が激しく波打ち、眩しい光を放つ。
「――出でよ、ニムエ‼」




