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7.強大な魔力は、精霊を魅了する(2)

 その身長はマーシャのくるぶしほどである。茶色い襤褸を纏い、髪も髭も伸ばし放題だ。

 身に着けている物も、髪も髭も体毛もすべて茶色いので、頭のてっぺんから足の先まで茶色で覆われているように見え、それ故に彼らはブラウニーと呼ばれている。

 本来、彼らは家に棲みつく精霊なのだが、このブラウニーはなぜか家ではなくマーシャを気に入っているようで、マーシャが行く先々にいつもついてくるのだ。

 マーシャは小さい彼と目を合わせるため地面にしゃがみ込んだまま彼に話しかけた。

「この首飾りについて調べて欲しいの。たぶんモルガナ姫の持ち物だと思うんだけど、かなり高価そうだし、何かしらの謂れがあるかもしれない。どういった経由で彼女の手に渡った物なのか、彼女にとってどういう物なのか調べられるかしら?」

 すると、小さい彼は、こくこくと何度も首を縦に振る。マーシャが指先に摘んで差し出した首飾りの宝石を両腕で受け取ると、それを大事そうに抱え混んで、ぱっと姿を消した。

「これで良し」

 にっこりして立ち上がり、マントの裾を払う仕草をして、自分がずぶ濡れの泥だらけであることに気が付いた。隣を見れば、カイもマーシャに負けないくらいに酷い格好である。

 足場が悪い上に、剣の達人とは到底言えない腕前で、悪魔相手にカイは本当によく頑張ってくれたと思う。感謝の気持ちを込めながら、マーシャは右手をカイの胸元にかざした。

 触れるか触れないかの距離である。右手の紋章が淡く光ると、カイの衣類の泥が綺麗に落ちて、まるで洗い立てのマントとチュニックのようになる。頬の傷も、腕や脚の傷もすべて消してマーシャは、うん、と頷いた。

「そんなに深い傷じゃなかったから、簡単に治せたわ」

「すげぇ、治ってる! 地味に痛かったから助かったよ、ありがとうな」

「どういたしまして」

 マーシャ自身も身なりを整えると、ビリーをマントのフードの中に戻した。

 ふと、視線を感じて顔を上げると、バアル・ゼブルが何やら複雑そうな表情を浮かべてマーシャを見つめていた。

「何?」

「礼を待っている」

「え?」

「首飾りを贈ったのだが」

「……」

 悪魔のくせに、しょんぼりとしているように見えて、マーシャは絶句する。

(えっ? え、ええ? ええーっ⁉ ど、どういうこと⁉ まさかの、ありがとう待ち⁉)

 信じられないものを見る瞳で、マーシャはバアル・ゼブルを見つめ返すと、恐る恐る口を開いた。

「あ、ありがとう……?」

 ぱあっと、後光が差したように見えた。まったくもって、悪魔の笑顔が眩しいだなんて、どうかしている! マーシャは再び言葉を失った。

「君の役に立てて嬉しい」

「ええっと、あと。……助けてくれて、ありがとう」

「うん」

 にっこりと悪魔が笑みを浮かべながら頷く。その様子があまりにも眩しくて、マーシャは視線をそらした。

「このような気持ちになれるなら、もっと早くから君の近くで、君の力になれば良かった。『瘤のある獣』が現れた時も」

 ん? とマーシャは怪訝に思って、傍らの背の高い悪魔を見上げる。

「それって、河に現れた悪魔のこと? でも、ウヴァルとのことがあったから、あたしの居場所を知ってやって来たんでしょ?」

「いや、わたしはずっと君の居場所を把握していた。君が生まれた時から。君が塔にいる時もずっと。君を見失ったことなど一度もない」

「は? じゃあ、なんで今頃、現れたの? 今まで何してたのよ」

「遠くで見守っていた。特に危険もなさそうだったのでな。だが、『瘤のある獣』が現れ、わたし以外の悪魔たちにも君の居場所が知られた。今後、多くの悪魔たちが君を狙って現れるだろう」

「嫌な予言しないでくれる?」

「予言ではない。すぐに現実になる。『瘤のある獣』と『炎を吐く狼』はどちらも、とある貴婦人の手の者たちだ」

「とある貴婦人?」

「『駱駝に乗った貴婦人』または『宝冠を腰周りに結ぶ貴婦人』と呼ばれる」

 マーシャは瞳を瞬いた。自分が持ち得る悪魔に関する知識を脳裏に巡らせてみる。貴婦人だの、宝冠だのいう言葉が名前に入っているところを考えると、高位の悪魔だと推測できる。

それはともかく、宝冠を腰周りに結ぶって、いったいどんな貴婦人だろう。冠は頭に被るものであって、腰飾りではない。ちょっと普通ではない容貌の貴婦人を思い浮かべながら、マーシャは眉を寄せて尋ねた。

「何者なの?」

「『夜の女王』の妹だ」

「『夜の女王』?」

「君の父君のきさきだ。君には父君を同じくする兄弟が多くいるが、その幾らかは『夜の女王』の子ではない。その子らは皆等しく『夜の女王』の恨みを買っているが、中でも君は特別な子だ。神に対抗して父君が強く望んでつくった子だからね。そんな君を『夜の女王』は格別に許せない。彼女は長い間、君のことを探していたはずだ。君の父君とは異なった理由でね」

「なんてこと……。恨みがまったく等しくないように感じられるのはあたしだけ?」

「君は格別だ」

 うんざりしてマーシャは肩を竦めた。

「彼女たちは仲の良い姉妹でね。おそらく『駱駝に乗った貴婦人』も姉君のために君を探していたはずだよ」

「つまり、ウヴァルとの闘いで彼女たちにあたしの居場所がバレた可能性があるのね」

「確実に知られたはずだ」

 ――最悪である。

 マーシャはがっくりと脱力した。それから、不意に浮かび上がった疑問を口にして、バアル・ゼブルを見上げる。

「貴方はあたしの居場所を知っていたのに、ずっと誰にも言わずにいたのよね? どうして?」

「なぜ言い触らす必要がある?」

「でも」

「君はわたしのものだ。君の父君に対しても、君の居場所を告げる義務はないと、わたしは思うね」

 きっぱりと言い切った悪魔にマーシャは紫色の瞳をパチパチと数回瞬いた。

「なんだか、ありがとう」

マーシャの感謝の言葉に悪魔は、ふっと微笑んだ。

 ピーっとカイが口笛を吹くと、馬の足音が遠くの方から徐々に近付いてくる。危険が去ったと知り、戻ってきたのは、カイの愛馬だけだった。マーシャの馬はきっと城内の厩舎に帰ってしまったに違いない。あるいは、野生に帰ったのだ。

「アーサーのもとに戻ろう。モルガナ姫が悪魔と関係があるとハッキリした以上、アーサーの傍に彼女がいることが心配だ」

 言いながらカイは騎乗すると、マーシャに手を差し伸べた。その手を取って、カイの後ろに引っ張り上げて貰い、彼の愛馬に乗せてもらうと、マーシャはバアル・ゼブルに振り返った。

何か言葉を交わそうと思ったわけではない。お礼もすでに告げた。別れの挨拶が必要かどうかも分からない。ただ。彼の姿を捜そうとしてしまった自分がいただけだ。

 だが、既にそこに彼の姿はなく、ぶーんと一匹の蠅が飛び去っていった。


 マーシャとカイがアーサーや貴婦人たちが待つ場所に戻ると、狩りに出ていた騎士たちのほとんどが獲物を担いで戻って来ていた。

 誰の獲物が一番の大物であるかを決めるのはアーサーの役目だ。騎士たちが得意顔で獲物を地面に並べて見せ合っている、その間をアーサーとモルガナが並んで歩き、騎士たちに狩りの様子を尋ねて言葉を交わしていく。貴婦人たちも自分の騎士の狩りの成果を自慢し合いながら、アーサーが一番を決めるのを待っていた。

 皆が浮き立っている時だったので、マーシャとカイが戻ったことに気を留める者はいない。二人は馬から降りると、少し遠巻きにアーサーの様子を窺った。

 マーシャはドキリとして、思わず眉を顰めた。モルガナがアーサーの腕に自分の腕を絡ませている。どうしてという想いが胸を突く。あんなにも一線を引いて、接触を避けていたのに。

 アーサーがモルガナに囁き、彼女が微笑みを零し、アーサーの耳元に唇を近づけて囁き返す。すると、アーサーが高らかに声を上げて笑った。

 マーシャの紫色の瞳に二人の仲睦まじげが姿がきつく焼き付いた。

 いったい何があって、あんなにも急激に距離が縮まったのだろうか。

(それとも、そういう演技をしているっていうこと?)

 どのみち何か訳があるに違いない。

 城に戻ったら問いただそう。いったいどういうつもりなのかと。それに、悪魔とモルガナの関係も話さなければならない。

 一番の獲物が決まり、その獲物を狩った騎士にアーサーから褒美が与えられる。そして、皆から拍手と称賛を受ける中、その騎士は自分の貴婦人に獲物を捧げた。

 その様子を遠巻きに眺めながらマーシャは、暗く沈んだ表情を浮かべる男に気が付いた。マーシャとカイのように、僅かに人々から離れた位置で、アーサーを見つめている。

(あれは……)

 騎士の装いをしているので、おそらく騎士なのだろう。がっしりとした体に使い込まれた甲冑と錆色のマントを身に着けている。

アーサーの父親ほどの年齢だろうか。白髪交じりの頭をしていて、老練さを感じさせる眼光の鋭さで、じっとアーサーを見つめ、物言いたげな表情を浮かべている。

「あの人は? 知ってる?」

 マーシャはカイの袖を引いて、視線で男を指示した。カイはすぐに、ああと頷いた。

「ウルフィウス卿だ。かつてウーゼル王に仕えていたらしい。アーサーが即位した時にキャメロットに来て、アーサーに忠誠を誓っている」

「ウーゼル王の騎士だったのね」

 そうと聞けば納得の年齢だ。ウーゼル王はアーサーが即位する十数年前に亡くなっている。その王に仕えていたということは、ウルフィウス卿は十数年前から騎士だったということだ。

「ウルフィウス卿がどうかしたのか?」

「分からない。ちょっと気になっただけで」

「気になると言えば、ほら見てみろ」

 カイが顎をしゃくってモルガナを指し示す。マーシャがモルガナに視線を向けると、カイが声を潜めて言った。

「ブラック卿の姿がない」

 ハッとしてマーシャはモルガナの背後に黒い甲冑の騎士の姿を捜す。キャメロット城に来てから、馬上試合を除いて、常にモルガナの背後に控えていたブラック卿の姿が、カイの言う通り、どこにも見当たらないのだ。

「どういうこと?」

 皆が徐々に帰城支度を始めたので、マーシャはカイに彼の愛馬に乗るようにと促された。マーシャが騎乗すると、カイは愛馬の手綱を持った。

「なあ。悪魔って、人間の姿になれるのか?」

――なれる。

カイの問いに、マーシャは馬上から彼の茶色い瞳を見つめて心の中で答えた。



◇◇  ◇◇ 


 

 教会から司祭が仰々しくキャメロット城にやって来て、玉座を前にして声高々に言った。

「モルガナ姫を王妃に迎えるべきです!」

 モルガナは危うく大笑いしそうになった。

他の誰でもない、教会の司祭が言ったのだ。なんて滑稽だろう。所詮、教会の司祭などというものは、その程度のものなのだ。

「賛成です!」

 司祭の言葉に被せるように、どこかの騎士が大声を上げた。続いて他の騎士たちも声を上げ、貴婦人たちも続いた。

「モルガナ姫を王妃に!」

「王妃にお迎えください!」

「モルガナ姫をログレスの王妃に!」

 司祭がキャメロット城に飛び込んできたのは、アーサーがドルイダスと一夜を共にしたと聞き付けたからだ。教会としては、ドルイダスの王妃など認められないのだ。

 魔女とドルイダスは別物だと主張するのは、ドルイドたちだけだ。

 教会からしてみれば、魔女もドルイダスも何ら変わらない。神以外を信じ、神以外に救いを求めている者――つまり、魔女だ。

 アーサーがドルイダスに心を奪われていると知った司祭は、王がドルイダスを王妃に迎えたいと言い出す前に打って出てきたというわけだ。

 幸い、王妃候補としてロット王の義妹がキャメロット城に滞在中である。婚姻を結べば、ロット王と姻戚となることができて、じつに都合が良い。これ以上にない縁組ではないかと司祭は考えた。

 だが、モルガナは腹の底から嗤ってやりたくて仕方がなかった。

 魔女を退けようとして選んだ女こそ魔女なのだから。

 モルガナはアーサーが座る玉座の傍らに立っている。キャメロット城に来たばかりの頃、この場所にはドルイダスが立っていた。モルガナがいるべき場所と定められたのは、段の下――他の貴婦人たちと同じ列の中だった。

 ひどい屈辱だった。何度も何度も思い出しては腸が煮えくり返る思いに駆られた。

 だが、それさえもすべてどうでもよくなるくらいの高揚感に包まれて、モルガナはアーサーの傍らに立つ。

 あと、もう少し。

 あと、ほんのひと押しで、アーサーの玉座の隣に王妃の座が設けられ、そこにモルガナが座ることになるだろう。

 モルガナは純白のドレスを身に纏い、広場に集まった人々の中に視線を巡らせ、ドルイドの黒々とした姿を捜した。そして、その姿が見当たらないと分かると、モルガナは、ふんっと鼻を鳴らして顎を反らした。

 あの生意気なドルイダスを広場から締め出したのは彼女だった。アーサーの命だと騙って、アーサーに近付けないようにしている。

 モルガナの媚薬がいくら強力だとしても、アーサーが真実想いを寄せる者の姿を目にしてしまえば、正気に戻ってしまう恐れがあるからだ。それほど、アーサーのあのドルイダスに対する想いは深く、やっかいだった。

(本当に邪魔な娘ね。死んでくれたら良かったのに)

 自室に戻ったモルガナは、日課のように化粧台の前に腰を下ろした。櫛を手にして、金糸のような髪を梳いていく。

「いつ殺してくれるのかしら?」

 銀細工で縁取られた大きな円い鏡を睨み付ければ、鏡の中の自分の顔の隣に黒い獣の顔が映り込んできた。

『我の力では敵わぬ者が、かの者を護っている』

「供物を捧げたわ。どうあっても殺してくれなければ許さない」

『お前から捧げられた供物は奪われた。我のもとにはない』

「知るものですか。殺すのよ。何度でも殺すの。必ずね!」

 役立たずと罵りながら、拳を化粧台に打ち付けた。

 ひらひらとモルガナの視界の中で影が揺れ動く。おやめ、とその影が甘く囁いて、モルガナが見つめる鏡の中にスッと入って行った。

わたしの可愛い子を虐めるのは、おやめ。妾でさえ、あやつが相手では勝てぬ。消されずに戻って来られただけ幸いだった』

 モルガナは鏡の中に現れた蝶の顔をキッと睨み付けた。蝶は嗤ったようだった。

『それよりお前。王妃となり、アーサーと一夜を共にし、神の守護を失わせた後どうするのだ?』

 モルガナは表情から怒気を消して、蝶の顔を真っ直ぐ見つめて単的に言った。

「殺すわ」

『その後は? せっかく王妃になるのだ。国を奪えば良い』

「国を奪う?」

『女王になると良い』

「私が女王に? けれど、教会が認めないわ」

『はっ』

 鏡の中で蝶の顔が嘲笑う。

『認められる必要があるのか?』

「ローマ帝国の後ろ盾がなければ、あっという間に滅ぼされてしまうわ」

『ローマ帝国? やがて滅びる海の向こうの国のことか。まったく、なんて可哀そうな愚かな子。後ろ盾なら妾がおるではないか。他に誰に認めて貰う必要があると? お前は既に神に背を向けている。それなのに、神に認めて貰うことを望むのか』

「……」

 モルガナは櫛を化粧台に置いて両腕を下ろした。じっと鏡の中に自分を見つめる。

 ――国を奪い、女王になる。

今の今まで考えたことがなかったが、悪魔のその提案はとても良い考えであるかのように思えた。そして、悪魔の言う通り、もはや神の許可などモルガナには必要がない。

 幼い頃からアーサーを殺すことだけを望んで生きてきた。それがもう少しで叶うというところまで来ていて、と同時に、殺した後のことを考える時が来たのだ。

 モルガナは椅子から腰を上げ、すっと立ち上がると、数歩足を前に踏み出す。ゆっくりと、ゆっくりと、まるで玉座の間の赤い絨毯の上を歩くが如く厳かに。

「私が女王に」

 はっと目が覚める想いがしてモルガナは顔を上げ、ずっとずっと遥か先を見据えるように青い瞳を輝かせた。



◇◇  ◇◇ 


 

狩りの日から七日が過ぎて、マーシャは疎か、カイさえもアーサーと会えない日々が続いている。

アーサーの側にはグリフレットが護衛についていて、カイがアーサーのもとに行くと、グリフレットがアーサーの命令を伝えて来るのだ。

曰く、マーシャとカイには会わない、と。

「おかしい」

 マーシャの部屋にカイがやってきて、図々しくもタバサに注がせて果実酒を飲んでいる。マーシャはカイと向かい合うように座り、テーブルの上から小さな林檎をひとつ手に取った。

「どんなに喧嘩したって、こんな何日も会わなかったことなんかなかったぜ」

「妹のミラの話では、朝食から晩餐までずっとモルガナ姫とお過ごしだそうです。晩餐の後、陛下がモルガナ姫をお部屋まで送られているそうですが、グリフレット卿とミラも同行していますし、お部屋の中までは入られていないようです」

「婚前交渉をしてる様子はないってことだな」

「マーシャ様から頂いた物のおかげでしょうか」

 タバサがちらりと視線を向けて来る。

「何の話だ?」

 果実酒を飲み干して盃をテーブルの上に置くと、腕を組んで椅子の背もたれに寄り掛かった。

「前に話したでしょ。アーサーを一時的に不能にする方法はないのかって。そうなるような薬剤を詰め込んだ匂い袋をミラに頼んでアーサーの服に縫い付けて貰ったのよ」

「わーお」

「本当に効くかどうかは自信なかったけど。今のところ何事もないのなら効いてるのかなぁ」

「アーサーの承諾は得てないんだろ? 匂いでバレないか?」

「うっすら嫌な匂いがするくらいで、ほとんど感じないはず」

 匂いと言えば、とタバサが空になったカイの盃に新しい果実酒を注ぐ。

「ミラが言うには、モルガナ姫から甘い香りがするそうです。その香りを嗅いでいると、頭がふわふわしてくるとか」

「それって……」

「ミラは意識して嗅がないようにしているそうですが、常に陛下と共にモルガナ姫のお側にいるグリフレット卿は、次第にモルガナ姫に心酔しているかのような発言をするようになっているとか」

「媚薬効果のある香水を使っているのかもしれないわ」

「モルガナ姫の取り巻きの貴婦人方も、女神のようにモルガナ姫を崇めていらっしゃいます」

「騎士の中にも、本気で恋に落ちちゃっているやつがいるぜ」

「ブラック卿がモルガナ姫の寝室を守っていなければ、とっくに恐ろしいことになっていたかもしれませんね」

「ブラック卿ね……」

 タバサが注いでくれた盃に再び手を伸ばしながらカイが意味深にタバサの言葉を繰り返す。マーシャはカイを一瞥して、両手の中で小さな林檎を転がして弄ぶ。

 ブラック卿は狩りの時に姿を消して、結局その日は姿を現さなかった。彼が再びモルガナ姫の護衛についたのは、その翌日からだ。

 表情の読めない顔で、一言も発さずに影のようにモルガナ姫に付き従っている。

「どう思う?」

 マーシャにはカイの言わんとしていることが分かったので、こくんと頷いた。

「有り得ると思う」

「人間とは思えない戦いっぷりだもんな」

 馬上試合のことを言っているのだ。ブラック卿はカイ以外の対戦相手をすべて串刺しにして殺し、決勝戦まで勝ち進んだ。

そして、決勝戦の日。いざ勝負というところでモルガナ姫が立ち上がり、ブラック卿に勝負を棄権するように命じたため、別の者が優勝した。

「なぜ決勝戦を止めたんだと思う?」

「優勝者は司祭から祝福を受けることになったから?」

「それだ!」

 モルガナを王妃にと訴えにキャメロット城までやってきた司祭が、突然、馬上試合の優勝者に祝福を授けたいと言い出したのだ。馬上試合の白熱した戦いを観て、気分が高揚してしまったのだろう。アーサーの隣に席を設けさせて、椅子から落ちんばかりに身を乗り出して観戦していた司祭の姿を思い出す。

「ブラック卿とはもう二度と戦いたくねえな。人間の姿の時はもちろん、あの獣の姿になられたら、今度こそ死ぬ」

「善戦していたじゃないの」

「あの時あの悪魔はマーシャしか狙ってなかった。だから、俺はマーシャを狙った攻撃を弾いて防いでいれば良かったから、どうにかなったんだ」

「そうは言うけど、よく防いでくれたわ。助かったもの。ありがとう」

「やめてくれ。照れる!」

 きっと褒められ慣れていないのだろう。赤面したカイにマーシャは、ぶぶっと笑って口元を抑えた。

「そう言えば、狩りの時に見かけた老騎士、ええっと……」

「ウルフィウス卿?」

「そう、その人」

「悪い。マーシャが話してみたいと言っていたから捜させているんだが、まだ見つかっていないんだ。馬上試合のために領地から出てきたらしいんだが、城内では見かけないから、城下町のどこかで宿を取っているのかもだな」

「もう馬上試合は終わってしまったでしょ。すでに領地に帰ってしまったということはないの?」

「それはない。城壁の衛兵に、ウルフィウス卿がキャメロットから出て行こうとしたら呼び止めて、俺に連絡するよう言いつけてある」

「そう」

 それなら近いうちに彼と会うことができるだろう。そう思った時だった。部屋の扉が慌ただしく開かれた。

「マーシャ様、大変です!」

 タバサの妹ミラが肩を上下させながら部屋に駆け込んでくる。

「陛下がモルガナ姫を王妃に迎えるそうです!」

「はっ、本当か⁉」

勢いよく立ち上がったカイの後ろで彼の座っていた椅子がガタンと倒れる。そのけたたましい音にマーシャはびくりと身を竦めてから、ミラの顔を凝視する。

「今、なんて?」

「ですから、陛下がモルガナ姫を王妃に迎えると。明日、諸侯の皆さんを集めて宣言なさるそうです」

  



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