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7.強大な魔力は、精霊を魅了する(1)

 

 びしゃんと皮靴の下で塗れた音が響いた。昨夜の雨のせいで、あちらこちらに水たまりがあり、ひどく地面がぬかるんでいる。

 なんて足場の悪い!

 マーシャはともかく、こんなところでカイは剣を振るわなければならないのか。まともに戦えるだろうか。相手は悪魔なのに。

 二人の馬たちが落ち着きなく嘶いて足踏みを繰り返す。カイが馬の手綱を放すように言い、自分の愛馬の尻を叩いて、逃げるようにと指示を出す。

 とたんにカイの馬は走り去り、追うようにしてマーシャの馬も木々を縫うように駆けて行った。

 気配は、馬たちが去った方角とは真逆から近付いてきた。

 ぬかるんだ地面を蹴って二人に迫って来る獣の足音。そして、はぁはぁと荒々しい息遣い。

 その姿はすぐに露わになる。

 木々の陰から現れた獣は駆けるのをやめ、マーシャたちと間合いを取るように踏み止まった。

 それは巨大な黒い犬だった。

 ――いや、恐ろしく大きな狼だ。

 人間をひと呑みできそうな大きな口は耳まで裂けていて、赤黒い舌を長く垂らしている。

 見上げるほどの体躯を黒々とした毛並み覆い、マーシャたちの動向を伺う鋭い眼は赤く不気味に光っている。

 その異様な大きさだけでも、ただの狼ではないと分かるが、それだけではなく、狼の背中には鳥のような黒い翼が生えていて、尻には大蛇の尾があり、まさに普通の獣ではなかった。

「さあ、予想通りに悪魔のお出ましだぞ。どうする?」

 カイは腰に帯びていた剣を抜いて突如として現れた悪魔に向かって構えている。

「ちょっと待って。今考えてるわ」

「今⁉ 考えてなかったのかよ。予想通りだっただろ。それに、考えるたって。あんなの、俺は勝てないぞ」

「知ってる!」

「おいこらっ‼」

 カイは、騎士の中ではけして腕の立つ方ではない。アーサーよりはいくらかましな程度だ。ただし、アーサーは王なので腕っぷしは求められていない。さらに、アーサーには神と精霊の守護があるので、総合的に見れば、カイよりアーサーの方がましになる。

(そう言えば、アーサーの聖剣)

 持ち主に神の加護を与える聖なる剣であるはずなのに、悪魔の子であるマーシャを拒絶する力さえ失って、ただの剣になっていた。

(あれはどういうことなんだろう。アーサーは神の守護を失ったということなのだろうか。いったいどうして……って、今考えることじゃないわね)

 黒狼の悪魔が低く吠える。そして、ばさり、ばさりと翼を大きく羽ばたかせ、威嚇するかのように前足で地面を踏み鳴らした。

(逃げられるかしら?)

 ――いや、無理だ。

 マーシャはすぐに考えを否定する。黒狼の悪魔は翼を持っている上に、動きがかなり俊敏そうだ。もっとも木々が覆い茂った森の中では、大きな翼は却って妨げになるかもしれないが。

(それに、モルガナ姫に繋がるような物を見付けないと。――でも、どうやって?)

 血に飢えたような赤い眼がマーシャを貫き、べろんと浅黒い舌が上下に揺れた。

 ――来る!

 身構えるべきか、避けるべきか、一瞬の迷いがマーシャの動きを鈍らせた。次の瞬間、マーシャは体を弾き飛ばされ、ばしゃんと水たまりの中にうつ伏せに倒れ込む。

「大丈夫か⁉」

 先ほどまでマーシャが立っていた場所でカイが黒狼の牙と剣を交えている。太い前足がカイに向かって振り下ろされ、それを避けるためにカイは後ろへ飛び退いた。

 どうやらマーシャはカイに庇われ、背中を突き飛ばされたらしい。

 カイが退くと、すぐに黒狼は体を翻してマーシャに飛び掛かって来る。明らかにマーシャだけを狙っていた。

「させるかっ!」

 カイが剣を両手で握り締め、切りかかったが、蛇の尾がまるで暴れ狂った大縄のようにカイの剣を薙ぎ払う。

 迫って来る黒狼の影にハッとして、マーシャは水たまりの中を両手で弄って、地面を這う大樹の根に右手を添わせた。

「お願い! 護って‼」

 呪文も何もあったものではない。ただ純粋に気持ちだけを込めて樹木の精霊に願えば、水たまりの中から次々と太い根が空に向かって突き出してくる。

 大人の男の腕ほどの太い根だ。それがマーシャを囲む長い槍のように生え、そのうちの二本がマーシャに飛び掛かった黒狼の腹を貫いている。

 黒狼が低く唸る。その串刺しになった体躯は無残にも足を地面から浮かせていたが、次の瞬間、悪魔はニタリと嗤った。

 黒狼の腹を貫いた木の根がみるみるうちに腐り、ぼろぼろと崩れ落ちていく。他の木の根もしゅるしゅると音を立てて地面の下へと戻っていった。

(やっぱり普通の精霊の力では歯が立たないんだわ)

 ――なら、どうする⁉ 他にいったいどんな手が。

 両手を突っ込んだ水たまりの冷たさが、いつかの幻想のような記憶を呼び覚ます。そして、もしかしたらという期待と、もはやそれ以外に方法がないのだという縋る思いで、右手に力を込める。

(喚んでも来てくれないかもしれない)

 ずっと以前の口約束だ。マーシャが塔から出たばかりのころに出会い、それっきり逢うこともなく喚ぶこともなく、マーシャなど忘れてしまっていたくらいだ。彼女もマーシャのことなど覚えていないかもしれない。

 ――だけど、賭けてみるしかない!

「朝露よりも美しき姫君」

 じっと水たまりの水面を見つめて呼び掛ける。

「新雪よりも気高き乙女。深緑の森の主にして湖の賢き貴婦人よ」

 黒狼の動きを妨げようと、カイが剣を振るっている音が聞こえた。だが、マーシャは一心に水面だけを見つめて、そして、静かに瞼を閉ざした。

「我、汝の名を知る者。我、汝に誓う者。我、汝の求むる者。我の声に汝応えよ」

 マーシャの右手のひらにドルイダスの紋章が現れ、その手のひらを中心に水たまりの水面が激しく波打ち、眩しい光を放つ。

「――出でよ、ニムエ‼」

 ひと際大きく波打ち、水面が大きく盛り上がった。そして、次の瞬間、ざばぁーっと勢いよく水たまりの水が天を支える柱のように高く吹き上がった。

『この愚か者―っ‼』

「で、でたぁーっ!」

 半分驚き、半分喜んで、マーシャは大声を上げて頭上を見上げた。すると、マーシャの頭上で、水たまりから姿を現した美しい女の額に青筋が立つ。

 美しい彼女は上半身に、ほぼ裸に見えるほど肌の透けた薄い衣をぴったりと纏っている。だが、下半身には衣はなく、代わりに青く輝く鱗に覆われており、しかもその下半身は人間のような足ではなく、魚のような尾の形をしていた。ひと目で人間ではないと分かる容姿だ。

 彼女は尾の先よりも長い銀髪をうねらせて、アクアマリン(碧い宝石)のような瞳でマーシャを睨み付けた。

『此度こそぬしの魂を吸い取ってやろうぞ。このような濁った不潔な水で我を喚び付けるとは。ああ、なぜ我は主のような者に我の名を与えてしまったのか。あの時のあの出会い、そして、あの時の我の判断が今となっては悔やまれる。どうかしておったわ。主の無知は承知しておったが、よもやこのような泥水に……』

「ごめん、今それどころじゃないの!」

 マーシャはアンダイン(水の精霊)――ニムエの言葉を遮って叫ぶ。ニムエはまるでここが水中であるかのように体を浮かせ、その体から絶えず水を沸き立たせながら纏い、尾を優雅に動かしながらマーシャの周囲を巡るように空中を泳ぎ、そして、黒狼の姿を見付ける。

『ほう。悪魔かえ』

 アクアマリンの瞳が、すぅっと細められ、氷のように冷たく輝く。マーシャは未だ水たまりの中で膝を着いた状態で、胸をどぎまぎさせながら二ムエを見上げた。

「勝てる?」

『勝てぬな。主の召喚が完璧であったのなら話は別であっただろうが』

「そうなの⁉ ニムエって、ちゃんとしたやり方で喚べば悪魔にも勝てるの?」

 口惜しそうなニムエに期待と尊敬が入り混じった眼差しを向ければ、彼女はますます苛立ちを露わに美しい顔を険しくした。

『当然だ! 我は格が高いのだ! だが、悲しいことに、気高い我の力も人の世においては召喚士の力量に大きく影響を受ける。つまり、主の力、そして、どのような条件で喚んだのかで我の力は制限されてしまうのだ。――ドルイドたちの常識ぞ』

 もちろんマーシャだって承知していることだったが、ニムエの本来の力がそれほどに強大だとは思っていなかった。

 二ムエを召喚するには、本来、純銀の器と清らかな水が必要だ。器すらもなく、泥水であるのに関わらず、彼女が召喚に応じてくれたのは、マーシャ以外のドルイドたちに言わせれば、奇跡に他ならない。まったくもって、あり得ないことなのだ。

 もぞもぞとフードの中からビリーが這い出てきて、するりとマーシャの肩の上に移動する。

『マーシャ、左手の力を使うんだ。左手の力を使ったらマーシャはどんな悪魔にも負けない』

『そうよのぉ。負けぬであろうなぁ』

 ビリーの言葉を受けてニムエが意味ありげに言って瞳を細めた。

ぬし程度のドレイダスの喚びかけに我が応じた理由がそこにある。主の霊力はそこそこだが、魔力は比類なく高い。強大な魔力は時に精霊を魅了する』

 マーシャはぎょっとしてニムエの美し過ぎる微笑を見て、そして、ゾッとする。

 この世には、権力や財力を初め、あらゆる力があり、人間を惑わせ、時にその人生を狂わせてきたが、力を欲する想いは悪魔も精霊も同じだ。もっと力があれば、もっともっと様々なことができるのにと願ってしまうからだ。

 そんな彼らに魔力は、赤く青く燃え盛る炎のように美しく見えるのだろう。夜の虫が炎に飛び込み己の翅を焦がすように、強大な魔力に魅了され、魔物に堕ちていく精霊がいるのだ。

 マーシャには、父親譲りの魔力がある。認めたくはないが、その魔力は並みのものではない。まさに深い深い闇の夜に煌々と灯った比類なき炎だ。

 まさかとは思うが、ニムエはすでに魔力に魅了されつつあるのではないか。

 マーシャは両手を着いて地面を突き放すようにして立ち上がった。漆黒のマントがすっかり濡れて、重みを持って足に絡まってくる。

 魔力に魅了されてしまうのは人間も同じだ。魔力に魅了されれば、魔に堕ちていく。ましてマーシャは生まれながら魔に片足を突っ込んでいるようなものだ。これ以上、魔力を使って悪魔に近付きたくはない。

「悪魔の力は、使わない」

『でも、マーシャ。あの悪魔に勝てないよ。殺されてしまう。マーシャもカイも僕も、みんな死んじゃう! 河でも左手を使ったけど大丈夫だったじゃないか。あと一回。ちょっとだけなら大丈夫だよ』

 ――大丈夫? 大丈夫なものか。

 河で悪魔の力を使ったせいで、一番関わりたくない悪魔に居場所を知られてしまった。

 マーシャは紫色の恐ろしい瞳と体の芯から震えがくる声を思い出して身震いする。

 きっと今この瞬間もあの悪魔は地獄の底からマーシャのことを見ているに違いない。そして、マーシャが自分のもとに堕ちてくるのを今か今かと待っているのだ。

「ごめん、ニムエ。無理は承知の上。でも、お願い! 力を貸して‼」

 マーシャはマントを翻して黒狼に向かい合う。黒狼はカイが振るう剣を易々と交わし、跳び上がっては勢いをつけて飛び掛かり、太い前足の爪でカイを引き裂こうとしていた。

 マーシャは黒狼に向かって、すっと右手を掲げた。

 そして、空を上から下へ切るように大きく振りおろす。

「我と汝の敵を討ち果たせ!」

 マーシャの手のひらにアザミの紋章が浮かび上がる。それが碧く輝くと、その輝きに応えるようにニムエの体も碧い輝きを放つ。

 彼女は風にたなびく薄絹のような水の衣を纏い、その両手に真珠のような泡を散らしながら出現させた身の丈よりも長く鋭い緑青色の三又の槍を構えると、放たれた矢のように一直線に黒狼に向かっていく。

 彼女が狙いを定めたのは、黒狼の横腹だった。


 ―― ガキーンッ‼ ――


 金属がぶつかり合う音。だが、二ムエの槍に相対したものは金属ではなく、黒狼の大きく鋭い牙だった。

 黒狼の反応は機敏だった。自分に向かってくるニムエに気が付くと、己の横腹を庇って体躯を捻り、赤い歯茎まで見えるほど牙を剥き出して三又の槍を受け止めるたのだ。

 そして、黒狼の牙がニムエの槍を噛み砕く。

 氷が砕け散るように緑青色の欠片が散っていく。キラキラと硝子のような水雫が下へ下へと舞う中、柄だけとなった槍を手に二ムエは茫然とした表情を浮かべ、そして、その顔に影が差したと思った次の瞬間、黒狼の大きく太い前足が彼女に襲い掛かった。

 咄嗟の行動だった。ニムエは黒狼に向かって槍の柄を投げ付けた。やけくその攻撃は黒狼の左目の下を掠め、小さな傷を作って終わり、引き換えに黒狼の前足が彼女の体を猛打する。


 ―― ばしゃーんっ‼ ――


 それはまさにタライの水をぶちまけたような音だった。ニムエの体を形どっていた水が、糸の切れた操り人形のように崩れ落ち、魂を持たないただの水となって散り、地面に大きな水たまりを残した。

『マーシャ‼』

 二ムエという大きな、そして、唯一の盾を失ったマーシャに黒狼の鋭い牙が襲い掛かる。

 吸い込まれそうな深い洞だった。いや、洞のような暗く、奥の知れない口だ。

 噛み砕かれる! と思ったその瞬間にマーシャはハッと我に返って、間一髪、地面に転げるようにして避けた。

『マーシャ‼』

 マーシャの肩から転がり落ちたビリーが身軽な動作で地面に着地すると、何度も何度もマーシャの名前を呼ぶ。左手を使えと言いたいのだ。だけど――。

 だけど、絶対に使わない!

(あたしは、まだ人間でいたいっ‼)


 ―― ぶーん ――


 羽音がマーシャの耳を掠めた。

 虫? そう思った時、マーシャの目の前に黒い大きな壁ができる。いや、壁ではない。それは再びマーシャに襲い掛かろうとしていた黒狼を包みこもうとする大きな大きな網だ。

 違う。網でもない。マーシャは黒い無数の小さな点が黒狼を覆い隠していく様子を見つめながらゆっくりと立ち上がる。

「なんだ、あれは?」

 カイがマーシャに駆け寄って来て、マーシャに手を貸しながら言った。

 見れば、カイのマントはズタズタに引き裂かれており、マーシャに負けないくらい全身泥だらけだ。腕にも脚にも傷を負っているようで、出血でアンバー色のチュニックのところどころの色が濃くなっている。

「あれは……」

 ――蠅だ。

 マーシャは思わず息を呑んだ。

 とてつもない数の蠅が黒狼に纏わり付いている。黒狼はそれらを振り払おうと、牙を剥き出しに唸りながら、ぐるぐると体躯を捻って暴れた。


 ―― ぶーん‼ ぶーん‼ ――


 蠅は次々に黒狼の顔に向かって体当たりをし、目に、鼻に、口に飛び込んでいく。

 これほど攻撃的な蠅を見たことがなかった。正常ではあり得ない蠅の動きだ。いや、そもそも蠅が他の生物に対して攻撃するものだろうか。

「普通の蠅じゃない」

 あれらは悪魔の蠅だ。

「高き館の主」

 予感がして振り返ると、やはりそこに男が立っていた。

「どわぁっ‼ 悪魔‼」

 カイが後ろにひっくり返りそうなくらいに体を反らし、驚愕の声を上げた。跳ねるように体を翻し、新たに現れた悪魔に剣先を向けたものの、黒狼も依然としている。黒狼か、それとも新たに現れた悪魔か、どちらに対峙するべきか分からず、カイは問う視線をマーシャに送った。

 マーシャはバアル・ゼブルには敵意がないと見た。カイと視線を交わしてひとつ頷くと、カイは黒狼に向かって剣を構え、マーシャはバアル・ゼブルに向き直って尋ねる。

「貴方の蠅?」

「わたしの花嫁に手を出されて黙っておられなかった。だが、あの程度の相手、君の敵ではなかろう。容易にねじ伏せられるはずだ」

 そう言って、バアル・ゼブルは訝しげに首を傾げる。

 マーシャは絶句した。悪魔だというのに、ひとつひとつの動作がいちいち上品で、何故か可愛らしいのだ。そして、癖のある柔らかそうな黒髪と対比して、その肌は昼間の日差しに焼かれてしまうのではないかと心配になるほど白かった。

 マーシャは、なおも蠅と格闘し続けている黒狼を指差して尋ねる。

「あの悪魔は何者なの? 貴方の知り合い?」

「知り合いの知り合いといったところかな」

「お友達じゃないのなら生け捕りにして欲しいの。聞きたいことがあるのよ」

「さて」

 どうしたものかとバアル・ゼブルが視線を上げたので、つられてマーシャも黒狼を見上げた。そして、もはやマーシャの願いは叶えられそうないことを悟る。

 黒々とした渦となって蠅と揉み合っていた黒狼が高々と咆哮を響かせる。耳まで裂けた大きな口をさらに縦に大きく開いて、その谷底のように暗い喉の奥から碧い炎が吐き出した。

 一瞬にして灰となり、消えていく数万の蠅たち。黒狼は炎を吐き続けながら頭を大きく左右に振り、翼を羽ばたかせ、空を覆った木々の緑を掻き分けるようにして高く駆け上がっていく。

 激しく枝が揺さぶられ、バサバサと葉が舞い落ちて来る。木々の緑は黒狼を空へと逃がすと、再び辺りを覆った。もはやその姿を追うことも敵わない。

 飛び去って行く黒狼の羽ばたきの音もすぐに聞こえなくなり、マーシャはバアル・ゼブルに振り向いた。

「あの悪魔は何者?」

「『炎を吐く狼』だ。もしくは、『鷲の翼と蛇の尾を持つ戦士』や『偽りを嫌う者』と呼ばれる。捕らえて問えば、けして偽りを言わず、君の知りたい問いに答えただろう」

「逃がしてしまった悔しさを倍増させる情報をありがとう」

「君から礼を言われるとは、なんとも心地良い。胸が温かくなるね。――では、これを渡せば、もっと喜んで貰えるだろうか」

 言って、バアル・ゼブルが差し出した物にマーシャは瞳を瞬く。

「何それ?」

 バアル・ゼブルは白くて細長い指先に、金の鎖を絡ませるようにして首飾りを掲げてみせた。首飾りには、これまで見たこともない大きさの紅い宝石ルビーがついている。

「君にあげよう。『炎を吐く狼』から奪い取った物だ」

「えっ、さっきの悪魔から?」

 ――いつの間に? 

 それに、見かけによらず手癖が悪いのではないかと、マーシャは信じられない思いでバアル・ゼブルの顔をまじまじと見つめてしまった。

「あの者の力では、わたしに勝てないからね。命乞いのつもりで投げ寄越して来たんだよ」

「ああ、そういうことね。奪い取ったっていうから、ふところから盗んだのかと思った。懐、どこだよって感じだけど」

 黒狼の懐の位置について疑問に思いつつ、マーシャはバアル・ゼブルの手から首飾りを受け取った。そして、カイに振り向く。

「ねえ、これって……」

「モルガナ姫の首飾りだ!」

「だよね。いつも彼女が身に着けている首飾りよね」

 そういえば、今日は朝から彼女の胸元が寂しいように感じていた。この大きな紅い宝石の首飾りではなく、別の首飾りを付けていたからだ。

「その首飾り、モルガナ姫がさっきの悪魔と関係があるという証拠になるんじゃないか?」

「なるなる! なるわよ!」

 わぁーいと両腕を上げて喜びを全身で表現してみたマーシャだったが、すぐにその両腕を下げて、ため息をつく。

「ダメだわ。自分の物ではないとか、盗まれた物だとか言われたら、終わりだもの」

『でも、マーシャ。悪魔に供物として捧げるような物だよ。その人にとってすごく大切な物なんじゃない?』

 マーシャの足のすねに体を押し付けながらビリーが、にゃあにゃあ鳴いている。マーシャはビリーを抱き上げて自分の肩に乗せた。

「そっか。そうよね。すごく大切な物のはず。だから、まずはこの首飾りがモルガナ姫にとってどんな物なのか知る必要があるわね。小さい人に調べて貰うわ」

「小さい人?」

 首を傾げるカイに、にっと笑ってマーシャはその場にしゃがみ込むと、地面に右手をかざした。

「小さき友。茶色き衣を纏う者。家に憑く精霊よ。我、汝の親しき者。我、汝に名を与える者。我、汝の求むる者。我の声に汝応えよ」

 パッとマーシャの手のひらに浮かび上がった紋章が輝き、そのかざした手のひらの下に小さな小さな小人が、ぽんっと跳ねるように現れた。


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