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6.残念ながら、あたしの仕事じゃない(2)

 


 ◇◇  ◇◇ 



 朝食を終え、ビリーをマントのフードに押し込んで、河に向かおうと部屋から出てきた時だった。廊下の端からこちらに向かってくるカイの姿を見付けた。

「よお、体はどうだ?」

 会話ができる距離まで近付いてからカイはマーシャの前で歩みを止めた。

「体? べつに何ともないけど?」

「アーサーが一晩お世話になったらしいな」

「は?」

「俺としては、国に利益がある女をと思っているんだが、アーサーはマーシャ以外には目もくれないだろ。結局のところ、国の平穏は王に後継ぎがいることで保たれるわけで、王に見向きもされない王妃よりも、後継ぎを産んでくれる王妃の方が良いと思うわけだ。――で、マーシャ。昨晩の首尾は? 身籠れそうか?」

「はあ! 何言ってんのよ! 何もないからっ。身籠れるわけがないでしょ。ほんと何もないから! っていうか、誰から聞いたのよ! タバサ? ミラ?」

「アーサー」

「あぁーさぁーーーっ⁉」

 顎が外れる勢いで大声を出して、その後、絶句する。

「バカなの⁉」

「バカかもしれん。だけどよ、大喜びだったぞ」

「……っ⁉」

「もう城中に知れ渡っている」

「なっ‼」

「モルガナ姫の引き攣った顔、見物だったぞ。同情すら覚えた。そのまま悲嘆に暮れてオークニーに帰ってくれると良いんだけどな」

「あー。そういう作戦?」

「いや、アーサーに作戦も何もない。単純に喜んでいただけだ……と思う」

「百歩譲って、そういう作戦だったら許そうかなぁと思った。一瞬ね」

「なら、そういう作戦ってことで。それより」

 カイの声のトーンが変わったので、マーシャは眉を寄せて彼の顔を見上げた。

「今日の馬上試合は延期だ。森に出かけることになったぞ」

「急ね。どうしたの?」

「みんな飽きてきていたってことだろ。昨夜の雨のせいで足場は悪いが、雨上がりの森は美しいから散策に出かけたいとのモルガナ姫のご要望だ」

「そう、森に行くのね」

 それならマーシャも森に行く方が良いかもしれない。今さら行っても収穫はないと分かっている河よりも、モルガナが提案した場所の方が何かしら起こりそうな予感がある。

「あたしも行く」

「当然。だから、こうして迎えに来た。アーサーはモルガナ姫と行動を共にするから、悪いが、マーシャは俺と一緒にいてくれ」

「いいけど。アーサーの護衛は?」

「部下たちがする。アーサーにマーシャの側にいろと頼まれているんだ」

「なるほどね」

 マーシャに否はないのでカイと連れ立って城門に行くと、騎士たちが自分の馬に貴婦人を乗せて手綱を引き、続々と城門を出て行くところだった。

 貴婦人の侍女たちが自分の主が乗った馬の横を歩き、騎士の従者たちもその後に続いているため、華やかで賑やかな行列が城門から森へと伸びていく。

 アーサーの姿を捜して辺りを見渡せば、アーサーは自分の愛馬ドゥン・スタリオンに跨り、まさに城門を出て行くところだった。

 ドゥン・スタリオンと並んでゆっくりと脚を運ぶ白馬にモルガナが跨っている。モルガナとしては、他の貴婦人たちのようにアーサーの馬に乗り、手綱を引いて貰いたかったに違いない。

「徹底して一線を引いているって感じね」

「だろ。最初の夜でしくじったからな。昼も夜も常に気を張って頑張ってるんだ。もっと褒めてやれよ」

 カイの従者が厩舎から連れて来た栗毛の馬にマーシャは騎乗して、自分の愛馬に跨ったカイの隣に並んだ。

 キャメロット城は、キャメロットの中心にある小高い丘に建てられている。マーシャとカイは行列に加わって城門をくぐると、丘を下り、石壁に囲まれた迷路のように入り組んだ細い道を進んだ。

 道は城塞から離れれば離れるほど少しずつ幅が広くなっていく。石壁は低く、ほとんど壁としての意味をなさない高さになっていき、代わって民家の土壁がその姿を現し始めた。

 キャメロットは王都というだけあって、大勢の民が暮らしている。民家も密集して建っており、隣の家との隙間が拳ひとつ分しかないという場所もあった。

 だが、これも城塞からの距離と大きく関係していて、城塞から遠ざかるほど民家はまばらになり、田畑や空地が目立つようになってくる。そして、城壁に辿り着いた。

 城壁の外は草地が広がっている。緩やかな高低差のある草地で、登っては下りてを繰り返して、やがて行列の先頭が森の中へと入って行った。

 緑葉が空を覆い、その緑葉を貫いた光のみが淡く青みを帯びて地上へと降り注いでいる。時折、ぽたり、ぴちゃんと音を立てて、木の葉の上を滑った雫が地面へと落っこちて来る。

 蜘蛛の巣のように根の張った地面は昨夜の雨でぬかるんで滑りやすくなっていたが、貴婦人たちを乗せて馬たちは実に器用に足場を見付けて森の中を進んでいった。

 馬上で貴婦人たちがくすくすと笑い、馬の手綱を引く己の騎士と言葉を交わしている。密やかなその声は、頭上で揺れ動き、擦れ合う木の葉の囁きに似ていた。

 やがて大勢が留まるのに十分な開けた場所に行き着くと、騎士たちの手を借りて貴婦人が馬から降りる。彼女たちは、侍女が広げた敷布の上に椅子を置いて腰を下ろし、親しい何人かで集まっておしゃべりを始めた。

 雨上がりの森は空気が瑞々しいだの、濡れた花の美しさはまるで可憐な乙女のようだだの、おしゃべりの始まりは森の景色を称えるものであったが、次第に話題は移り変わり、どんな場所であっても女が数人集まれば、誰それがどうの、誰と誰がどうしただのといった噂話に花が咲いていく。

 彼女たちの噂話に耳を傾けていると、時折、アーサーの名前が出て来た。ついでモルガナの名前も。

 アーサーがモルガナを王妃に迎えるか否かは、彼女たちだけでなく、ログレス中が、いや、ブリタニア中が関心を寄せていることだろう。

 さて、騎士たちは己の貴婦人から離れると、気心の知れた仲間と連れ添って、あるいは単独で狩りを楽しむ。

 各々支度ができた騎士から己の貴婦人の前で傅き、「必ずや、貴女に獲物を捧げましょう」と誓って森のさらに奥へと入って行った。

 マーシャはアーサーの姿を捜して森の中を見渡した。アーサーは狩りを行わないようで、モルガナと椅子を並べて座っている。モルガナの背後には、例の黒い甲冑の騎士――ブラック卿が控えている。また他にも、アーサーとモルガナの周りには侍女と侍従も十数名ついており、さらに数名の貴婦人たちがモルガナを囲って、モルガナとアーサーに何やら話しかけていた。

 ふと、モルガナの視線が揺らいで、マーシャの姿を見付けると、すっと片手を上げて取り巻きの貴婦人たちを黙らせる。

「ドルイダスのマーシャ」

 モルガナがよく通る声を響かせると、ぴんと張りつめた糸のような静寂さが空から落ちてきたかのように辺りを覆った。

 聞こえなかった振りなど当然できるはずがなく、マーシャはモルガナの方に体を向けて、チュニックの裾を指先て摘まむと軽く礼を取った。

「はい、モルガナ姫」

「わたしのために何か狩ってきてくれないかしら?」

 マーシャは絶句し、モルガナの美しい容貌を正面から見据えてしまう。彼女はゆるやかにうねる金髪を腰まで垂らして、その腰の丸みや胸の豊かさがよく分かる肢体のラインに沿った純白のドレスを身に纏っていた。

 森のニンフ(妖精)を思わせる美しさだ。そして、同時にマーシャは体の芯から冷えるような恐れを感じ、ぞっとする。

「わたくし、アーサー王以外の殿方から獲物を受け取るつもりはないの。なのに、アーサー王は狩りをなさらないとおっしゃるし。誰からも獲物を捧げて貰えないなんて寂しすぎるわ」

「ですが、あたしは……」

「ドルイダスがどのような獲物を捧げてくれるのか楽しみにしています。森は貴女方の棲み処のようなものでしょう? きっとどの騎士よりも大きな獲物を狩ってきてくれるものと信じています」

 ぐっとマーシャの喉が鳴る。なんという押しの強さ。有無を言わさない言葉の強さがマーシャを頭から押さえつけようとしている。

 しかし、マーシャは負けるつもりなどなかった。

「お言葉ですが、ドルイドは狩人でありません。まして、騎士でもないので、麗しき乙女に何かを捧げるようなまねは致しません」

「まあ! それでは貴女は何のためにここまでいらしたの? 狩りもせず、貴婦人たちとの会話を楽しむこともせず? アーサー王のドルイダスであるならば、アーサー王の客人であるわたくしを楽しませてみせては如何かしら?」 

「残念ながら、そのようなことは、あたしの仕事ではありませんね」

 モルガナの辺りに落とした静寂はすっかり薄れ、ざわめきが風で揺れる草木のように騒がしく周囲に広がった。

 貴婦人たちが顔の前で広げた扇の陰で、マーシャの名前を口にする。

「陛下は昨晩、あのドルイダスと共に過ごされたとか」

「どういうおつもりかしら?」

「まさかドルイダスを王妃に迎えるおつもりでは?」

「あり得ないわ」

「ドルイダスが王妃になれるものですか」

「でも、もしもそのようなことが起きてしまったら、どういたします?」

「わたくしはモルガナ姫を王妃に迎えるべきだと思いますわ」

「ええ、わたくしも」

「あのような美しい方を王妃にお迎え出来たら、ログレスの誉れですわ」

 マーシャは苛立ちを堪えて奥歯を嚙みしめる。許可さえ下りれば、辺り一面、火の海にしてやりたい気分だった。

 要するに、モルガナは昨夜の一件を知って、マーシャを大勢の前で遣り込めてたいのだ。王と一夜を共にしたとしても、お前なんぞがログレスの王妃になれるはずがない、と言外に匂わせ、圧をかけているのだ。

(こちとら、王妃になるつもりなんか、さらさらないわっ!)

 大声で主張してやりたかったが、ますます貴婦人たちを敵に回すのは目に見えていた。彼女たちにとって、王妃とは尊くも憧れの存在だからだ。王妃になりたいと強く願っていてもけしてなれないようなものであるのに、なるつもりがないだなんて言えば、何様だ‼ ということになる。つまり、反感しか買わない。

 それに、公衆の面前でアーサーを振ることにもなる。アーサーの王としての立場がない。

(ええい、めんどくさい)

 モルガナと言い争ってもまったく勝てる気がしないばかりか、不利益ばかり被ることになりそうだ。これ以上やりあっては駄目だと判断して、マーシャは漆黒のマントを翻した。

「無礼な! まだ話の途中です。背を向けるだなんて!」

 すかさずモルガナの声と貴婦人たちの批難が聞こえてきたが、マーシャは構わず騎乗した。栗毛馬の手綱を握って、足踏みをする馬を宥めながらマーシャはモルガナに振り返る。

「いいでしょう、モルガナ姫。狩りの獲物は捧げられませんが、ドルイダスならではのものを貴女に捧げましょう」

 言って、馬を森の奥へと駆けさせた。呼び戻そうとするアーサーの声が聞こえたような気がしたが、マーシャは手綱を引かなかった。

 馬が蹴った泥が高く散って、マーシャのチュニックの裾を汚している。

 後ろから追って来る馬に気が付いたのは、苛立ちがおさまった頃だった。手綱を引いて、馬の歩みを緩める。

「してやられたかもしれない」

 不本意すぎて、不貞腐れたように言えば、忍び笑いが返ってきた。

「かもな」

 笑うなら、もっと堂々と笑ってくれて構わないのにと苦々しく思う。振り返ると、カイが愛馬をマーシャの馬の隣に寄せてきた。

「アーサーの護衛は?」

「問題ない。グリフレットが側にいる」

「誰?」

「即位する前からのアーサーの友人だ。アーサーが騎士にした」

「強いの?」

「まったく」

「ダメじゃん」

「忠誠心は強い。いざとなったらアーサーの盾にはなれるだろう」

「ふーん」

 マーシャは軽く鼻を鳴らす。

「それよりもお前だ、マーシャ」

「そうね。モルガナ姫に追い払われた気がする。森の中で何か起こるかも」

 モルガナはマーシャに狩りに行くよう命じた。つまり、アーサーから離れ、森の奥へ行けということだ。

 元より、モルガナが森で何かを仕掛けて来るだろうことを予期して同行している。であるなら、もっとすんなりとモルガナの言葉に従っても良かったのだが、なにぶん、カチンと来てしまった。今さらながら、言い返せずにはいられなかったことを恥じる気持ちだ。

「俺がモルガナ姫なら、お前のことを邪魔だと思うな」

「うん」

「消そうとするだろうから、刺客を放つとか」

「並みの刺客なら返り討ちよ。あたし、ドルイダスですから」

「とすると、……悪魔か」

「モルガナ姫が悪魔の契約者であるならね」

「悪魔が現れて、証拠が掴めれば、俺たちの勝ちだな」

「うん」

 強く頷いてマーシャは手綱を握り直す。証拠さえ掴めれば、モルガナをログレスから追い払えて、さらに悪魔と関係があるモルガナを送りつけてきたロット王を問いただすこともできるだろう。

 可能であれば、ロット王や他の王や領主たちとは戦火を交えたくはない。だけど、もし戦争になってしまったとしても、ロット王が悪魔と関係があるとなれば、彼らにけして神は味方しない。神が見向きもしない者に、人々もまた味方することはない。多くの者がアーサーの味方となり、きっとアーサーが勝利を掴み取ることだろう。

 マーシャはカイと馬を並べて、何とはなしに馬の気持ちが赴くままにその歩みを進めた。

 貴婦人たちからも、他の騎士からも遠く離れたところまで来たらしく、辺りは、森の囁きと鳥の歌声に包まれる。そして時折、馬たちが水たまりを踏んでは、ぴしゃんと音を立てて森を驚かせ、鳥たちをしばし黙らせた。

 もぞもぞとマントのフードの中で黒猫が身動きを取る。朝からずっと眠っているビリーだが、今ので再び寝直したに違いない。こちらはいつ何が起きても良いように気を張り詰めているというのに、いい気なものである。

「マーシャ」

 不意にカイに呼ばれて何事かと振り向くと、とくに何か起きたわけではなく、カイは世間話を振ってきた。

「マーシャはずっとログレスに居続けるつもりはないのか?」

「どうして?」

「アーサーがそう望んでいるから」

「どういうつもりでアーサーの傍にずっといろっていうの?」

 王妃として? そんなことできるわけがない。マーシャは精霊に仕えるドルイダスだ。王の相談役になることはできても、臣下にはなれないし、まして王妃になんてなれるわけがない。

「あたしは『騎士』様を捜しているの。だから、ひとつのところに長く留まるつもりはないわ」

 アーサーの傍にずっといられない理由を口にして、マーシャはカイから目を反らした。アーサーのことを男として見られないと言外に匂わせると、カイはため息まじりに言う。

「マーシャが人探しをしていることはアーサーから聞いているが、十年くらい前に会っただけの少年なんだろう? 今どうしているのか、本当に騎士になっているのかどうかも分からないんだってな。田畑を耕しているだけの生活をしているかもしれないぞ」

「もしそうなら……」

 そんな男を捜し出す価値が本当にあるのかとカイは言いたいのだ。

 だが、マーシャはすぐに次の言葉を続けた。

「もしそうでも必ず見つけるわ。あたしはお礼を言いたいのよ。十年前、塔から助け出してくれたことのお礼をしたい。もし彼が田畑を耕しているのなら、耕しやすい農具を与えてもいい。たくさん収穫できるように大地を肥沃にしてもいい。彼が望む時に雨を降らせ、望むままに空から雲を払ってもいい」

「そうやって農夫に仕えるつもりなのか」

「もし彼が農夫になっているのなら」

「マーシャがそこまで『騎士』様を慕うのは、よほど塔に閉じ込められていた時期が辛かったからなんだろうな」

 カイの言葉にマーシャは視線を伏して、ただ黙って頷いた。

 それから、ぽつりとぽつりと、小石を地面に置いていくように言葉を零していく。

「あたしは二度生まれたようなものよ。一度目は母親に産み落とされて生が始まり、二度目は塔から救い出されて人生が始まった。だから、『騎士』様に救って貰ったというのは、そういうことなの。『騎士』様に救われるまで、あたしはただ産まれてこの世界にいたけれど、生きてはいなかったのだから」

 マーシャの言葉を聞いてカイはマーシャの想いを理解したようで、ログレスに留まるよう言い募ることを諦め、ところで、と話題を換えた。

「アーサーからちゃんと聞いたわけではないからよくは知らないが、マーシャは父親が悪魔で、そのせいで塔に長く閉じ込められていたんだよな? 俺、それと似たような話を聞いたことがあるんだよなぁ。塔に封じられた魔物の話だ」

「……魔物? なにそれ。なんであたしと魔物を一緒にするのよ」

 思い出せば、アーサーも少し前に同じようなことを言っていた。

 アーサーにせよ、カイにせよ、魔物の話と似ていると言われるのは心外でしかない。不服だと表情いっぱいに露わにして、うろんな目つきでカイを見やると、彼は慌てたように片手をあげて謝ってきた。

「いやいや、ごめん、ごめん。けどな、その魔物っていうのは、本当は、悪魔の子のことなんだ」

「え、どういうこと?」

「俺の故郷にあった話なんだが、昔むかし、未婚の女が突然孕んだんだ。最初は皆、その女のことを身持ちが悪いとか淫乱だとか言って蔑んでいたんだけど、その女が娘を産み落とすと、どうやら悪魔に拐かされたらしいってことになった。女が産んだ赤子は悪魔の娘だから、成長すればとんでもない悪人になる。だから、赤子のうちに殺してしまうとしたんだが、その子は得体の知れない力に護られていて傷ひとつ付けることができなかった。それで、悪魔の子は教会の司祭によって塔に封じられることになったんだ」

「あたしと同じね」

「でも、それは百年以上も昔の話で、まさか本当に悪魔の子が塔に封じられているわけがないと思うだろ? 塔は深い森の中にあって、そんなところに用事なんてあるわけがないから大人たちは近付かない。かなり古びていて不気味な塔だ。そうなったら、それはもう、子供にとって度胸試しにうってつけの遊び場ってことだ。――で、俺みたいな悪ガキは度胸試しにその塔の近くまで行って遊んだものだ」

 子供時代を懐かしんでいるかのようにカイは瞳を輝かせ、活き活きと話す。

「俺たちガキには、悪魔の子というのは分かりにくい。悪魔が人間の女を襲って孕ませてうんぬんっていう話は、大人が子供に聞かせる話じゃない。だから、大人たちには単純に分かりやすく『魔物』と聞かされていたんだ。塔には魔物が封じられている、ってな」

 なるほど、とマーシャは納得して表情を改める。

「たしかにそれなら似ていると言われても仕方がないわね」

「というより、同じじゃないか? ……まさかとは思うんだが、マーシャが閉じ込められていたという塔って、エクトル卿の領地内にある森の中にあった塔じゃないだろうな?」

 エクトル卿はカイの父親で、アーサーの養父だ。

 王の養父なのだからログレスで権力を握っていてもおかしくないのだが、彼は『自分はアーサーに屋根と食事、教育を与えただけだ』と言って城には上がらず、自分の領地に留まったと聞く。

「分かんない。よくある話なのかしら?」

『よくある話なわけないよ』

 不意にマーシャのマントのフードから子供の声が響いた。続いて、フードがもぞもぞと奇妙な動きを見せたものだから、カイが驚愕してカエルを潰したような悲鳴を上げた。

『悪魔の子を孕んだ、産んだ、という話ならあるだろうけど、塔に幽閉されるほどの力を持った子なんて他にいないよ』

 ひょこっとフードから顔を出して、ビリーが翡翠色の瞳を輝かせた。

『その話、マーシャのことだよ』

「えっ、私なの⁉」

「なっ、なんでその猫、しゃべってるんだ⁉」

 ほぼ同時に驚きの声を上げたが、驚いている理由が天と地ほど違うマーシャとカイだった。マーシャは、じとりとカイを見やって、フードの中のビリーを指差した。

「ドルイダスの猫ですから」

「なるほど。すべてが解決する完全無敵な言葉だな、それ。――というか、やっぱりそうなのか! じゃあ、あの時の女の子はマーシャだったんだな!」

「あの時? え? どういうこと? あたし、以前にもカイと会ったことがあるの?」

 驚いてカイを見上げると、彼も子供時代にマーシャとの接点を見つけたことに驚き、感情が高ぶっている様子だ。子供時代を懐かしみながら明るい顔で声を大きくして言う。

「会ったことがあるんだよ、俺とマーシャは! マーシャが塔から出てきた時に俺もいたんだ! えーっと、あれは何年前だ? そうだよ、十年前だ。俺が十四歳くらいで、アーサーが八歳くらいだったから。マーシャは襤褸を纏い、髪はボサボサ、体はガリガリだったけれど、大きな紫色の瞳が印象的で、なんていうか、ひと目で普通ではないと感じたよ」

「どういう意味?」

「すごく魅力的だったということだよ! 村のどの女の子とも違ってて可愛いと思ったんだ」

「か、か、かわいい⁉」

(そんなこと言われたことがない! 生まれて初めて)

 マーシャは自分の顔がとんでもなく熱くなっていくのを感じた。湯が沸騰するかのように、かぁっと頭に血が集まり、沸き立つ。目の前がぐらぐらと揺れ動き、マーシャは、待って、待って、と両手で頬をぺしぺしと叩きながら必死にカイの言葉を繰り返した。

「あたしが塔から助けられた時にカイもいたのよね? えっ、じゃあ、もしかしてカイは『騎士』様を知っているの⁉」

 知っている。というよりも、もしかして、もしかして、カイが『騎士』様だったりしないだろうか。

 マーシャは愛馬に跨っているカイを凝視する。頭のてっぺんから爪先までぐるりと見回してしまう。

 背が高い。マーシャよりも頭ひとつと半分くらい高い。首も腕も太腿も太く、しっかりとした筋肉がついている。

 もし憧れの『騎士』様の正体がカイであったとしても、マーシャは一向に構わないという気持ちが生まれた。いや、それどころか期待している自分がいる。

 可愛い。その言葉の威力のなんと強大なことだろう。可愛い以上の想いを伝えられたわけではないのに、あたかも好意を伝えられたかのような気持ちになってしまう。

(嫌だわ。落ち着きなさいよ。これも言われ慣れてなさすぎるせいなんだから)

 もう一度、マーシャはカイに視線を向けた。

 赤みを帯びた茶色い髪はごわごわとして硬そうだ。太い筆で描いたかのようなしっかりとした眉の下に、子供のように無邪気な――とは良い言い方で、つまり物事を深く考えていなそうな――茶色い瞳。鼻は大きく、だんご鼻。

 ブ男というわけではないが、アーサーのような美形を見てしまうと何段も劣って見えてしまう。

(いやいや、アーサーが規格外な美形なのよ)

 カイだって十分に好感の持てる顏立ちをしている。

 もっと素敵な人がいるかもと思いつつも、そうは言っても自分程度ならばこのくらいの相手なのかなぁと、しょうもないことを心の中だけで思いながら村娘が受け入れられる程度の顔だ。――分かりやすく、もっと簡単に言えば、そこら中によくいる程度の顔立ちだということだ。

 マーシャだって、ごくごく一般的な村娘と同じ思考の道筋をたどる。長い間ずっと思い描いて追い続けてきた『騎士』様とカイとではまったくイメージが異なるが、まあ、カイなら良いかなぁと思える。

 そう、カイが『騎士』様であるなら、さほどがっかりすることなく『騎士』様を捜す旅を終えることができるだろう。

 ――カイかもしれない。

 いや、違うかもしれない。

 だが、ひとつ確かなことは、カイは『騎士』様を知っているに違いない。

 何年もの間あてもなく捜し続けていた相手がついに見つかるかもしれない。その期待と興奮に指先が震えた。

 あと少し。きっと指先が触れるくらいに近付いている。

 マーシャは『騎士』様について尋ねようと、ねぇ、とカイに向かって口を開いた。

 ――と、その時。

 マーシャが羽織った漆黒のマントのフードの中で、フゥーと黒猫が背中の毛を逆立てて唸った。これはビリーの警告である。ビリーはマーシャよりもずっと悪いものの気配に敏感だ。いくら『騎士』様の正体まであと一歩だとしても、無視することはできない。命に係わる。

 マーシャは言おうとしていた言葉を、ぐっと呑み込んで、フードの中に潜り込んでいる黒猫に声を掛ける。

「どうしたの?」

『嫌な感じがするよ。全身がぞわぞわして毛が逆立っちゃう。――たぶん悪魔だ』

 ビリーの言葉にマーシャとカイは素早く馬から降りて背中合わせに立つと、辺りを注意深く見渡した。




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