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6.残念ながら、あたしの仕事じゃない(1)

 

 バチバチと騒がしい音が鳴り響いている。

 窓から室内に豆を投げ込まれているかのような音だ。それも、一つではない。幾つも幾つも。しつこいほど投げ付けて。床が豆だらけになってしまうのではないかと心配になる。

 音がうるさい。それでもマーシャは瞼が開かなかった。

 感覚としては、眠りに落ちてからさほど時間は経っていない。ならば、まだ夜中であるはずだ。朝ではないのなら静かに寝かせて欲しい。

(雨か)

 ふと、騒がしい音の正体は雨音なのだと気が付いた。かなり激しく降り続いている。

 こんなにも雨が降ると知っていたのなら、窓に羊皮を下げておいたのに。きっと今頃、窓辺の床は水びだしだろう。今からでも羊皮を下げるべきか。

 しかし、ここで目を開いたら負けな気がしてマーシャは再び眠りの中に潜ろうと、ゆっくりゆっくり意識を手放していく。

 どのくらいの間、うとうとと夢の狭間を彷徨っていただろうか。雨音に紛れて、ガチャリと扉が開く音が小さく聞こえた。

「マーシャ、寝ているのか?」

 ――アーサーの声である。

(は?)

 がばりとマーシャは起き上がって、暗闇の中、部屋の入り口で燭台を手に佇むアーサーの姿を見やった。

「寝てた」

 いかにも不機嫌そうに薄目を開いて言えば、すまないと謝罪が返ってきたが、部屋を出て行ってくれるつもりはないらしい。

 アーサーはそっと扉を閉めて部屋の中に入ると、蝋燭の灯りが灯った燭台をテーブルの上に置いた。淡い灯りで部屋の中がぼんやりと照らされる。

「何? どうかしたの?」

「しばらくマーシャと話をしていない」

「そうね。モルガナ姫の接待おつかれさま。朝から夜までずっと彼女に付きっ切りだもんね」

「騎士たちにお相手を頼もうと思ったんだが、なかなかうまくいかない」

「当たって砕けた騎士が何人もいるって聞いたけど」

 どんなに見目の良い若い騎士がモルガナ姫をもてはやしても、彼女の瞳にはアーサーしか映していないようだった。

「ごめん、眠いの。愚痴なら明日にして」

「マーシャ」

 再び寝ようと掛布を引っ張ると、アーサーが寝台の近くまで歩み寄って来る。

(ちょっと待て。あたし、肌着しか着てない!)

 近付いてくるアーサーにぎょっとしていると、制止する間もなく、アーサーは寝台に腰を下ろした。

「マーシャが足りない」

「はあ?」

「キスをしよう」

「なんでよ。嫌よ」

「嫌とか言うな。ここずっと触れていないんだぞ」

「必要ある?」

「必要だ! ……霊力が溜まらない」

「霊力……? いやいや、単にキスがしたいだけでしょ」

「そうだ、悪いか。俺はキスがしたい! 霊力なんか言い訳だ。ぶっちゃけどうでもいい。マーシャに触れたい。マーシャと話したい。マーシャの側にいたい。マーシャとキスがしたい!」

「ぐはっ! ぶっちゃけ過ぎだ‼」

 アーサーが正直すぎて吐血するかと思った。

「ぜんぜんマーシャの側にいられない。視界の中にはいるのに触れられない」

「はいはい」

 幼い子供のようにぐずぐず言い始めたアーサーにマーシャはまったく心の籠らない軽い返事を口にする。

「せめて視界の中にいてくれたら良かったのに、どっか行くし」

「あー、はいはい」

 宴を途中で抜けたことね、と頷く。

「アーサー、だいぶ酔っているのね。早く自分の部屋に戻った方がいいわ」

「嫌だ。マーシャ、キスをしよう」

「しない」

 アーサーが膝立ちで寝台に上がって来る。体も顔も近付けて来て、軽く貞操の危機だったが、せめてブーツを脱いで欲しいと別の方に意識が行ってしまう。

 おそらくマーシャはアーサーを男として見ることができていないのだ。

 押し倒そうとしてくる体を逆にマーシャから腕を伸ばして抱き締めてやった。

「仕方がないから、これで我慢して。はい、ぎゅーう!」

 抑え込むように力一杯、両腕で締め付けてやれば、しばらくしてアーサーは全身から力を抜き、ぐったりとマーシャの身体に沈み込んできた。

(ああ、ブーツが)

 完全に寝台の上である。シーツを洗わなければなるまい。明日のタバサの仕事を増やしてしまった。

 全身で触れ合った身体がぽかぽかと温かい。マーシャからアーサーに力が流れていくのを感じるのと同時に、アーサーから心地よい温もりが伝わって来た。

 マーシャの肩にアーサーの顎が押し付けられ、完全に脱力した体が掛布代わりにマーシャの身体を覆っている。アーサーの呼気からは酒の香りが漂い、すぐ近くにあるマーシャの鼻まで届いた。

(眠い)

 中途半端に覚醒させられた意識が再び眠りに落ちるまで、そう時間はかからなかった。

 次にマーシャが意識を取り戻した時には、すっかり朝日が昇り、窓から差し込む光で部屋の中が露わになっていた。

 アーサーがテーブルに置いた燭台の蝋燭は溶けて跡形もない。マーシャが寝台に上がる前に脱いだ漆黒のマントは、椅子の背に掛けられたままだ。

 黒橡色のチュニックは掛布の上に広げておいた記憶があるが、夜中にいろいろあって、床に落ちていた。

 コンコンと扉を遠慮がちに叩く音がして、タバサの声が廊下から聞こえる。

「マーシャ様、お目覚めですか? 朝食をお持ちしても構いませんか?」

「えっ。タバサ⁉」

 タバサにはマーシャが目覚めているという確信があったのだろう。扉を開いて部屋に入ってきた。

 そして、彼女は手にしていた陶器の水差しを、がっしゃーんっと床に落とした。

「し、失礼致しました! すぐに片付けます! い、いえ、すぐに出て行きますっ!」

「違うの! 出て行かなくていいから!」

 いいからぁーっ‼ と叫ぶマーシャの制止も聞かず、タバサは城勤めの侍女あるまじき荒っぽい動作で扉を開け閉めし、廊下を走り去っていく。

 マーシャは頭を抱えたい気分だった。だが、アーサーに抱え込まれていて身動きが取れなかった。

 おかしい。寝入る前はこんな体勢ではなかったはずだ。いつの間にかマーシャはアーサーの腕枕で眠っており、彼の腕の中に抱き込まれていた。マーシャの額にアーサーの頬が押し付けられている。

「アーサー、起きて」

 二人のこの姿を見てタバサが何を考えたのか、手に取るように分かる。こんなことになるのなら、何が何でもアーサーを部屋から叩き出すべきだった。

 眠気に負けたのだ。一刻も早く眠りたくて、とにかくアーサーを黙らせることを優先してしまった。

 視線を巡らせると、ビリーは枕元で丸くなって眠っている。獣のくせに、この猫は熟睡するのだ。まだしばらくは起きないだろう。起きたら絶対にうるさい。

「アーサー‼」

 こちらも熟睡しているらしく、まったく起きる気配がないことにマーシャは焦れて、一度ぐっと体を縮めて、反動を使って思いっきり伸び上がると、アーサーの顎に向かって頭突きする。

 ガツンッ!

「痛っ‼」

 拘束が緩んだ隙にマーシャはアーサーの腕から抜け出して素早く寝台を降りた。

「なんであたしの部屋で寝ちゃうのよ!」

「気持ち良かったから。マーシャだって寝ただろう」

「気持ち良かったからね!」

「そこは認めるんだな」

「あたしは正直者なの」

「嘘つき」

「そんなことより、早く自分の部屋に戻って!」

 マーシャは床からチュニックを拾い上げると、手早く頭から被り、帯を締めた。

 手櫛で黒髪を整えながら扉に向かうと、扉を薄く開いて廊下をそっと伺う。

「……タバサ」

 走り去っていったはずのタバサが、彼女と同じように侍女の装いをした少女と一緒に扉の前で片耳に手を添えて部屋の中の様子に聞き耳を立てていた。

「あはっ。マーシャ様」

「あはっ、じゃないわ。何もないから。いい? 何も起こっていないから、絶対に他言無用よ!」

 すでに一人には確実にしゃべっているタバサだ。賢くて気が利くと思っていたが、若い故の好奇心と話したい欲求には勝てないようだ。

 マーシャは、じとりとタバサの隣にいる少女にも視線を向けた。見れば、タバサと彼女はよく似た顔立ちをしている。ゆるく癖のあるダークブラウンの髪に、煉瓦色の瞳。頬骨の辺りに薄いそばかすがある。

「妹?」

 タバサよりもわずかに背が低く、悪びれる様子もなくキラキラと瞳を輝かせた表情が幼く感じられた。

「はい、妹のミラです」

「陛下にお仕えしております。朝のお仕度のお手伝いにお部屋に伺ったんですが、いらっしゃらなくて」

「あー」

 マーシャは姉妹の状況を理解した。妹はアーサーの部屋でアーサーの不在を知り、姉に指示を仰ぎに走り、姉はマーシャの部屋でアーサーを見つけ、妹に知らせるために走ったのだ。そして今、姉妹はそろってここにいる。

「ミラ、アーサーを連れ帰って。よろしく」

「はい、お任せください」

 陛下、と明るい声を出してミラはマーシャの部屋の中に入ると、未だに寝台でダラダラと寝転んでいるアーサーの腕を引っ張って、続いて足も引っ張って、びくともしないと分かると、自らも寝台の上に乗り、アーサーの背後に回ってその背中を力強く押した。

 寝台の上でアーサーの身体がころんと転がって、寝台の端からドスンッと床に落っこちる。

「痛っ!」

「陛下、お部屋に帰りますよ。急がないと、モルガナ姫をお待たせしてしまいます。今朝も朝食を一緒にとのお約束ですから」

「くそっ! 俺はマーシャと食べたい!」

「モルガナ姫とのお食事は一種の外交です。大事です」

「分かってる!」

 アーサーは上体を起こして金髪を乱暴に掻き荒らすと、悪態をつきながら立ち上がった。それを見て、素早く寝台を降りたミラは再びアーサーの背後に回り込んで、その背中を両手で押して部屋の外へと促していく。

「はい、そこ。水差しが落ちています。割れちゃっていますね。危ないです」

 マーシャは扉の前から退いてアーサーとミラを通すと、彼らが部屋を出て、廊下を去って行くのを見送った。

「貴女の妹、やるわね」

「妹は恐れ知らずなのです」

 確かに侍女が国王に対して取る態度ではない。

「まるで友達みたいね。アーサーに仕えて長いの?」

「私たちは元々、エクトル卿にお仕えしていました」

「エクトル卿っていうと?」

「カイ様のお父上で、陛下の養父です。陛下はエクトル卿のお屋敷でお育ちになられました」

「じゃあ、子供の頃からの知り合いってことね」

 タバサが頷くのを見て、マーシャはなるほどと思う。

 タバサは部屋の中に入ると、床にしゃがみ込み、先ほど手を滑らせて割ってしまった水差しを拾い始めた。

「その頃、陛下はエクトル卿の養子というお立場でしたが、孤児でしたので、私たちにも気安く接してくださいました。よくカイ様の後ろに付き従っていらして、荷物持ちなどをされていましたよ」

「へぇ」

 エクトル卿の養子とはいえ孤児で、しかもエクトル卿には実子もいるのだから、アーサーの立場は待遇の良い使用人といったところだろうか。きっと、聖剣さえ抜かなければ今頃、カイの一番の従者になっていたことだろう。

 そして、おそらく、周囲からそうなるようにと言われて育ったに違いない。

「すぐに朝食をお持ちしますね。それと、掃除を」

 水差しの欠片を拾い終わったタバサは立ち上がり、そう言うと、ちらりと窓辺の床に視線を向けてから再び部屋を出ていった。



 ◇◇  ◇◇ 



 モルガナは、アーサーが付けてくれた小間使いの少女を下がらせると、化粧机の前に腰を下ろした。すると、銀細工で縁取られた大きな円い鏡の中に、苛立ちを隠し切れない女の顔が映った。

 キャメロット城に滞在して十日以上が経っている。そんなにも時間があって、その間ずっと行動を共にしているというのに、成果は疎か、手応えさえなかった。

(あの子、どこかおかしいのではないの⁉)

 修道院にいた頃から男はもちろん、女の心も思うように奪ってきた。男なんて簡単だ。数秒間じっと相手の瞳を見続けるだけで良い。

 モルガナに見つめられた者は、彼女の瞳に心を惹きつけられ、彼女から目が離せなくなるのだ。

 ところが、アーサーときたら、まったくモルガナを見ていない。いや、見る、見ないの話であれば、視線は合う。モルガナの方に顔を向け、話しかけてくる。笑顔すら向けて来る。共に歩く時には手を差し伸べて来る。

 だが、モルガナには感じられるのだ。見られていない。見て、話して、触れて、相手のことを知りたいという欲がアーサーからはいっさい感じられなかった。

 誰もを魅了する自分がアーサーの心を惹きつけられないのだとしたら、ひょっとするとアーサーは女性に興味がないのではと疑い始めた頃だった。アーサーの視線の先にいる人物に気が付いた。

(あのドルイダス、名前は確か……)

 ――オークの賢者メルディンの四番目の弟子、マーシャ。

(メルディンの弟子。あのメルディンの)

 ぐっと力の入った手先がドレスの布地を握り締めて深い皺をつくる。

(メルディン……。私の幸せを奪い、またこうして私の邪魔をしようというの?)

 ――許せない。

 ふと鏡の中で憤っている女の顔に視線を向けると、鏡の中の女もハッとした表情になって、それから感情を抑え込んだ顔になる。

(あの娘がいる限り、アーサーは私を抱かない)

 魔術で作った媚薬を使えば或いはと思ったが、隙が無いのだ。それに第一、己自身の美貌で心を奪えず薬に頼らねばならないとは、これまでの自分の美貌への努力を否定し、けなされたようで屈辱この上ない。

(いいえ、なりふり構ってはいられないわ)

 屈辱が何だという。これまで幾度も辛酸をなめてきた。ここでつまらない矜持のせいで目的を果たせなかったら生きていても意味がない!

(まず、あの娘を殺す。それから、媚薬を)

 アーサーに飲ませる隙が無いのなら、香水として自分の身体に纏わせればいい。

 声に、瞳に、触れる手に、全てに魔力を込めてアーサーの心を惑わす。そして、地獄に引きずり落としてやる。

「死ね」

 幼い頃から幾度も繰り返し声にしてきた二文字だ。まるで合図のように、その二文字を口にすると、鏡の端に黒い獣の顔が映り込んだ。

 ぎょろりとした赤い眼。大きく裂けた口から赤黒い長い舌と鋭く尖った牙が見える。

 黒々とした毛並みの大きな狼だ。しかし、狼の頭の下には人間の体がついていて、直立し、甲冑を身に纏っている。

 モルガナは振り返ることなく、鏡越しに狼の顔を見つめた。

「あのドルイダスを殺して貰えないかしら?」

『力を尽くそう』

 低く、しゃがれた声だった。

『ただし、報酬が必要だ』

「供物を差し出せということね。何がいいのかしら?」

『我は玉を好む。お前のその首飾りを頂こう」

「これは……」

 とっさに隠すようにモルガナは自分の胸元を飾る首飾りを片手できつく握りしめた。それは血だまりのように紅い、大きな宝石の首飾りだ。

 華美を許されない修道院において、これだけは手放せず、他の修道女たちに見付かって取り上げられないように、ずっと大切に隠し持っていた。

『お前にとって命のように大切な物であろう。ならばこそ命を奪う願いに相応しい。それを我に捧げよ』




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