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5.見捨てるには、関わりを持ちすぎている(2)

 それからログレスの王都キャメロットでは、モルガナを歓迎する宴が十日ばかり続いた。

 昼間は馬上試合が行われ、キャメロットの多くの騎士たちがこぞって参加した。

 中には遠い地からわざわざやって来た騎士もいて、モルガナの前で傅き、「貴女のために戦います」と言って彼女のドレスの裾に口づけたものだから、他の騎士たちも競うようにモルガナに傅いてから試合に臨むようになった。

 馬上試合はトーナメント戦だ。初日の予定通りに進めば七日で決着がついたはずだったが、その遠方から来た騎士のように飛び入りで参加する者が多数いたため、未だ優勝者が決まらないまま連日に渡って開催されている。

 甲冑を纏い、自分の愛馬に跨った騎士は穂先を布で覆った槍を手にする。相手を傷付けないためである。

 向かい合った騎士たちが合図で馬を駆り、擦れ違いざまに槍を繰り出してぶつかり合う。大抵、勝負は一瞬で、どちらかが馬から叩き落されて終わるが、一度で勝敗がつかなければ馬首を返して何度でもぶつかり合った。

 落馬しなくとも、槍が致命的な場所に当たったことを認めて、潔く降参を口にする者もいる。どちらかがもう一方を圧倒的な力でねじ伏せる試合も面白いが、己の負けを認めることの難しさを思えば潔い試合も尊いもののように見え、皆の拍手を誘った。

 そして日が暮れると、大広場に料理が並ぶ。大きくて長いテーブルに大皿料理が次々と運ばれてきて、大広場は騎士と貴婦人たちの笑い声で溢れた。

 酒杯を運ぶ給仕たちが忙しそうに貴人たちの間を動き回る姿は、花から花へと跳び回る蜜蜂のようだ。彼ら給仕たちの働きのおかげで貴人たちのお腹が満たされ始めた頃、静かに音楽が流れ出し、ひとりの男が竪琴を手に大広場の中央に進み出てきた。

 男は、おもむろに床に腰を下ろすと、ほっそりとした両足の間に竪琴を置き、ポロン、ポロンと弦を弾き始める。

 男は吟遊詩人だ。キャメロット城で宴が連日催されていると聞き、どこからかやってきたのをアーサーが大広場に招き入れたのだ。

 彼の他にも吟遊詩人は数人いたが、彼の歌声は男にしては高く、とても透き通っており、また彼が紡ぐ物語はどれも愛おしいものばかりであったため、いつからか彼が真っ先に物語を唄うようになっていた。

 勇敢な騎士の冒険談。青年と美しい乙女の恋物語。恐ろしい怪物の話。とある国の王と貧しい男の滑稽話など。彼の話は泉のように尽きず、毎夜、皆を楽しませた。

 吟遊詩人たちの歌物語が終わると、華やかな音楽が奏でられ、騎士と貴婦人たちが手を取り合って踊り出す。

 貴婦人たちが身に纏ったドレスが踊りに合わせてふわふわと揺れ動き、大広場のあちらこちらで色とりどりの花が咲いたように見える。その光景に目を細めながらマーシャは、すっと気配を消して大広場を抜け出した。

 宴は楽しい。

 楽しいが、こうも連日だと『楽しい』は迷子になる。いい加減、森に帰りたかった。

 だが、河に出没した悪魔について調べるとアーサーに約束してしまったため、ひとり森に籠ることもできず、それに悪魔がアーサーを狙っているかもしれない状況でキャメロット城を離れることは、アーサーを見捨てるということだ。

 悪魔を相手に普通の人間がどうこうできるものではない。悪魔が人間を殺すと決めたら、その人間は必ず殺されてしまう。助かるためには悪魔に対抗できる力に縋るしかないのだ。

(明日もう一度、河辺に行ってみようかしら)

 悪魔に襲われた翌日すぐにマーシャは襲われた場所に戻り、魔術の痕跡がないか調べている。悪魔と契約した者や悪魔を信仰する者が扱う術のことを魔術といい、魔術を行うと、何らかの痕跡が残ることがあるのだ。というのも、多くの魔術には供物が必要だからだ。

 供物は、どのような魔術を扱うか、どんな悪魔に力を借りるのかで異なる。金であったり、食料であったり、または、家畜の心臓や人間の命だったりするが、術者の数滴の血で済むことがもっとも多い。

 数滴の血の痕跡を見つけるのは無理かもしれないが、別のものであったら、何か見つかるかもしれない。なとど、ほとんど自分の中では欠片も期待していないことを胸に抱いて河辺に行ってみようと思うのは、マーシャが昼間の馬上試合に飽き飽きしているからだ。

(三日目までは楽しかったんだけどね)

 キャメロット城に与えられた自室に戻ろうと歩み始めてマーシャは肩を竦める。

 ところで、供物はマーシャたちドルイドも術によっては必要とする。

 出陣前の儀式として若く美しい男の首をナイフで切り、その血を顔に塗って味方の勝利を祈ったり、王の病を治すために数人の男女を並べて座らせ、端から順に首を落としていったり、そういった供物を欲する精霊がいるため、ドルイドの術もなかなかである。

 では、神に仕える者たちは供物を必要としていないのかといえば、まったくそんなことはない。

 神への供物でもっとも多いのは、羊や山羊などの家畜だ。祭壇をつくり、家畜を殺し、殺した家畜の血を祭壇にふりかけ、家畜の内臓を祭壇に置くと、祭壇ごと焼く。

 このようなやり方で、自分の息子を供物として神に捧げようとした強者つわものがいた。アブラハムという名前の男だ。

 神にしろ、悪魔にしろ、精霊にしろ、供物を要求するのは同じだが、具体的な物よりも精神的なもの――自己犠牲を強く求めるのが神だ。その結果、老いてからようやく得た最愛のひとり息子を供物として捧げようとした者が現れたのだ。

 ちなみに、アブラハムは、息子を神に捧げようと、息子に向かって刃物を振りかざした瞬間、天使が現れて全力で止められ、事なきを得た。

 左右を石壁に囲まれた廊下をマーシャは足早に進む。

 カツカツと鳴り響く足音がマーシャを追い駆けて来る。マーシャが止まれば足音も止まるのだから、それはマーシャ自身が立てている音に違いなかったが、本当にそうだと言い切れる自信はなかった。

 もしかしたら柱の陰から突然、何者かが現れて襲い掛かってくるかもしれない。そんなはずはないと思いつつも、何度も何度もそんな不安が脳裏を横切るほど辺りは暗く、不気味に静まり返っていた。

 大広場から遠く離れれば離れるほど人々の声から遠のき、ひと気もない。聞こえるのはマーシャの足音と松明の炎がジリジリと大気を焼く音だけだ。

 松明は、石壁の高いところに腕木を突き出させた燭台に入れられている。燭台は等間隔にあり、それぞれが廊下の闇をそっと左右に分けていた。

(モルガナ姫が乗ってきた舟も確かめたけれど、とくに不自然なものは無かった)

 魔術に使った祭壇が見付かれば一目瞭然なのだが、そんなものが簡単に見つかるわけがない。そもそも魔術によっては祭壇を省略したりもする。

(ダメだ! 手がかりがない!)

「いっそ、もう一度現れてくれたら尻尾を掴めるかも? ――いやいやいや、何言ってんだろう。嫌だし。もう一度悪魔と出くわすとか嫌だし。二度と無理!」

「そうだなぁ。悪魔のおかわりは勘弁して欲しいな」

 背後から声を掛けられてマーシャは飛び跳ねるように後ろを振り返った。大柄な青年がひとり周囲の静けさに溶け込むようにして佇んでいた。

「びっくりした! 気配がなかった!」

「そうか? 普通に追ってきたが」

「追ってきた? なんで?」

「マーシャが大広場を出て行くのに気付いたアーサーが追えって」

 両手を腰にやり、やれやれと呆れた様子でカイが大きく肩を上下する。

「追えって、何か用だったかしら?」

「違う。――あのなぁ、ここ連日の宴でみんな浮き立っているだろ。普段、人畜無害な奴でも酒が入ると、人が変わったように暴力的になったりする。加えて普段なら、そこかしこに立っているはずの衛兵がひとりもいない」

「不用心よね。でも、仕方がないわよ。大広場の方で人手が必要なんでしょ」

「そこに目を付けて不埒な真似をする奴がいるかもしれない」

「はぁ…」

「と、アーサーがマーシャを心配しているというわけだ」

「あっ。あたし、心配されているのね?」

「部屋まで送ろう」

「どうも。どうも」

「どういたしまして」

 マーシャの隣に並ぶとカイはマーシャに歩みを促した。

「けどさ。俺が思うに、マーシャは悪魔さえも撃退できるドルイダスだろ。不埒者に襲われるなんて心配、必要か?」

「不要ね」

「だよな」

 廊下を進みながら淡々とした会話が続く。

「俺もそう思ったんだけど、アーサーが納得しなくてな。俺が行かなきゃ自分がって」

 モルガナの隣に座して、彼女をもてなしていたアーサーの姿を思い浮かべてマーシャは頷いた。

「アーサーが宴を抜け出すわけには行かないわね」

「まあ、俺も人様が踊っているのを見てるのに飽き飽きしていたから抜け出せて良かったが」

「踊れば良いのに」

「王の親衛隊長が王の側を離れて踊れるわけがないだろ」

「王の側を離れて、心配不要のドルイダスを追い駆けることはできるのに?」

「踊るのと、王の命令で王の大事な人を護りに行くのとは、まったく違うだろう」

「違うかぁー」

 カイがマーシャの反応を見ようとして口にした『王の大事な人』というフレーズは無表情で聞き流した。

「ぶっちゃけ飽きたよな。料理がさ、美味しいんだけど、毎晩同じ献立なんだわ」

「分かる」

「馬上試合も早々に負けたから、見てるしかないわけだろ」

「あたしなんて初日から見てるしかなかったわよ」

「飽きるよなぁ」

「飽きるわね」

 カイの名誉のために付け加えると、カイは二日目にモルガナがオークニーから連れてきた黒い甲冑の騎士と戦って負けたのだが、その黒い甲冑の騎士はカイに勝ってからもずっと勝ち進んでおり、優勝候補と目されている。つまり、とてつもなく腕が立つ相手だったのだ。

「貴方は、戦った相手が悪かったわよ」

「ああ、そうだな。死ななかっただけでも偉いと思うぜ」

「そうよ。その通りよ」

 黒い甲冑の騎士と戦った者は、カイを除いて皆、槍で串刺しにされている。戦って負けたのに生きているカイはじつに運が良い。

 そんな試合を続けている黒い甲冑の騎士は、馬上試合の開始から十日が経ち、すでに十人近い相手を殺していることになるが、問題視されないのかといえば、まったくもって問題視されないのである。

 そもそも馬上試合で命を落とす者は珍しくない。観客の中には、そのスリルを楽しんでいる者もさえいる。そして、たとえ命を奪ってしまったとしても、正々堂々と行われた試合である以上、罪には問われないのだ。

 とはいえ、ほとんどの試合で対戦相手を串刺しにしているなんて、普通に考えて、とても恐ろしいことだ。戦ったら殺されるかもしれないという恐怖を対戦相手に与えていること、そして、黒い甲冑の騎士はなぜか頑なに名乗らず、モルガナも彼の名前を知らないことから、いつからか彼はブラック卿と呼ばれるようになっていた。

「宴とか、馬上試合って、もっと楽しいイベントだと思ってた」

「楽しいイベントなわけだよ」

「毎日やらなきゃね」

「そうそう」

「でも、吟遊詩人の物語を聞くのは楽しい。毎晩でもいい」

「へぇ」

「女王ブーディカの物語が印象的だったわ。もう一度聞きたい」

「マーシャは悲劇が好きなのか?」

「悲劇が好きっていうか」

 マーシャは眉を顰め、隣の男を見上げた。彼は背が高いので、ずっと見上げていると首が疲れそうだ。

「違うわ。悲劇は好きじゃない。自由と尊厳のために戦ったブーディカの生き様が格好良くて。……ダメね。格好良いとか、素敵とか、そんな言葉、彼女に失礼だわ。もし、あたしが彼女のドルイダスだったら、ローマ軍なんか蹴散らしてあげられたのにって思ってしまうの。すごく悔しいって」

 イケニ族の女王ブーディカが生きた時代は、ブリタニアを征服しようとローマ軍が侵略を始めた頃だ。

 当初、彼女の夫はローマ軍と友好的な関係を築こうとしていた。イケニ族の富をローマ帝国に分け与える代わりに、民族のアイデンティティーを守ろうとしたのだ。

 ところが、彼女の夫が急死すると、ローマ帝国は約束したはずの娘の王位継承を認めず、イケニ族の領地と財産をすべて奪おうとした。

 彼女の夫には彼女が産んだ娘二人しかおらず、彼女の夫は娘の王位継承をローマ帝国に認めさせるために、娘とローマ皇帝の共同統治を約束していた。

 ところが、ローマ帝国の法では男子しか親の財産を相続できない。息子がおらず、相続者がいないのであれば、すべてローマ皇帝のものであるというのがローマ軍の言い分だ。

 当然、ブーディカはローマ軍に反発する。すると、ローマ軍は彼女の身体を鞭で打ち据えて辱め、彼女の娘たちを陵辱した。

 兵士を連れ去らわれ、武器も奪われる。ローマ軍は強大だ。とても勝てる見込みなどなかったが、彼女は自分の民と、同じようにローマ軍に反発心を抱く他の民族を束ねてローマ軍に立ち向かったのだ。

「マーシャがブーディカのドルイダスだったら、今の俺たちはなかっただろうな」

 おそらくカイには、マーシャがブーディカと共に戦車に乗り、ドルイドの知識によってローマ軍を壊滅させる光景が見えたに違いない。苦笑を浮かべるカイと並んで廊下の角を曲がると、二人の目にマーシャの部屋の扉がようやく見えてきた。

「そうね。彼女が勝っていたら、ブリタニアは今とはまったく違うものになっていたわね」

 ブーディカの軍は初めこそ破竹の勢いで、コルチェスター、ロンディニウム、ウェルラミウムへと勝ち進み、一切の捕虜を持たずに女も子供も老人もすべて惨殺し、街に火を放ち、徹底的にローマ帝国の物を破壊したという。その残虐の限りを尽くした彼女の行いは、ローマ帝国側から見れば、悪魔の女王の所業に見えたことだろう。

 その後ローマ軍は反転し、組織的に訓練された兵士たちによってブーディカを追い詰めた。彼女の最後については諸説あるようだが、吟遊詩人の物語では、多くの味方を失い、ローマ軍に取り囲まれると、毒を煽って散る。

 ブーティカの死後、ローマ軍はブリタニアの征服を完了する。ローマ兵士の多くはそのままブリタニアに留まり、時と共に先住民たちと文化も血も混ざり合っていった。そうした彼らの子孫がアーサーやカイたち、ログレスの民なのだ。

 マーシャの部屋の扉の前に辿り着くと、ぴたりと歩みを止めてカイがマーシャに振り向いた。

「じゃあ、ゆっくり休めよ」

「ありがとう」

 短く礼を言って、マーシャは扉を開けて自室に入り、すぐに後ろ手で扉を閉めた。扉越しにカイが気だるそうに去っていく足音が聞こえた。

 マーシャは部屋の中をさっと見渡すと、部屋の様子に変わりがないことを確認する。

 マーシャが不在にしている間にタバサが掃除をしてくれているようで、散らかしたはずの物が片付いていたりする。この部屋にマーシャの私物はほとんどないとはいえ、自分がいない間に他人に入られるのは良い気がしない。

 最初、掃除を断ろうと考えたが、タバサはとても賢く、察しが良いため、マーシャが触れて欲しくない物にはけして触れずにいてくれる。ならば、そのまま彼女に任せても良いかと思って何も言わずにいる。

 マーシャは漆黒のマントを脱ぎ、椅子の背に掛けると、綺麗に整えられた寝台に腰を下ろした。そして、マントの様子を眺めていると、すぐにマントのフードがもぞもぞと形を変えて動き始め、フードの中から黒い塊がするりと出て来て、軽やかに床に着地した。

 にゃあと、まるで普通の猫みたいにひと鳴きして、小さな黒い塊がマーシャを追って寝台の上にぴょんっと飛び乗った。

『やっと寝るの? 僕、眠くって』

「ずっとフードの中で眠ってたでしょ」

 黒猫は、ばつの悪そうに再び、にゃあと鳴いてみせた。

「ねえ、ビリー。あたし、思ったんだけど」

『なあに?』

 マーシャは今、ブーディカに心を強く掴まれていた。そして、先ほど自分自身が口にした言葉が引っ掛かっている。

 もしもブーディカがローマ軍に勝っていたら、ブリタニアは今とはまったく違うものになっていた。

「ブーディカが生きた時代って、ローマ皇帝で言えば、ネロの時代なのよね。神の子の死後、キリスト教が誕生して、そのキリスト教がローマ帝国の脅威になることを懸念して、キリスト教徒をたくさん処刑したのがネロ帝なの」

『ネロって、可愛い名前なのに、たくさん人間を殺したんだね。怖いね』

「でも、いろいろあって結局、ローマ帝国はキリスト教を国教に定めたの。そして、キリスト教はローマ帝国の領土拡大に伴って信仰を広めていったのね。つまり神は、神の子とローマ帝国を利用して、自分の教えを広めることに成功したわけ」

『うん。海を越えて、ブリタニアにまで神の勢力は広がってるよね』

「でも、もしブーディカが勝利していたら、ブリタニアには神の勢力は広がっていなかったかもしれない。あたしが生まれた理由が、あたしの父親っていう悪魔が神に対抗して神のように人間に子を産ませたのだとして、わざわざブリタニアにあたしを誕生させたのは、ブリタニアを神の勢力下にしたくなかったからじゃない?」

 黒猫はマーシャの正面に座り、まじめな顔でマーシャの言葉に耳を傾けていたが、こてんと首を横に傾げた。

『よく分からない』

「もしあたしが生まれてすぐに塔に閉じ込められていなくて、ブーディカと出会っていて、共に戦っていたとしたら……」

『ちょっと待って、マーシャ』

 ぽむっと黒猫の小さな前足がマーシャの膝の上に置かれる。

『マーシャがいつ頃に生まれたのか、僕もマーシャ自身もよく分かってないよね? マーシャが何年、あるいは、何十年、塔に閉じ込められていたのかはっきり分からないけど、少なくともマーシャが生まれた時にはブリタニアに教会が建てられていたわけでしょ。司祭もいた。つまり、ブリタニアにキリスト教が広まっていたわけだよね?』

「そっか。そうよね。その通りだわ、ビリー。キリスト教がローマ帝国の国境になったのは、神の子が死んでからざっくり三百年後で、あたしが生まれたのは、そこから各地に教会がぼこぼこ建てられた後なんだわ」

『つまり、マーシャがブーディカと一緒に戦うなんて無理ってことだよね。生まれてないんだから』

「そっかぁー」

 マーシャは脱力して、ぐったりと頭を垂れた。

「なんでか、すっごくホッとした。どうしてかなぁ」

『罪悪感が消えたからじゃない?』

「罪悪感?」

 ぱっと顔を上げて黒猫の翡翠色の瞳を覗き込む。この瞳は、夜、燭台の灯りが差し込むと黄金色に輝く時がある。

『マーシャはブーディカに同情しているんだよ。塔にさえ閉じ込められなければ彼女の力になれたかもって、悔やんでいる。自分が生まれてたことの理由がそこにあるような気がしたんでしょ? それが果たせなかったことに罪悪感を抱いたんだ。でも、違うんだと分かって、ホッとしたんだ』

「そうなのかも。あたしね、塔の中でずっと考えてた。あたしって、何のために生まれてきたのかなぁって。このまま死ぬまでずっと塔の中にいなきゃいけないのかなぁ。だったら、なんで生まれてきたんだろう。その時のあたしは塔の中で息をしていることしかできなくて、ほんと、なんで生きているのか、なんで生まれてきたのか分からなかった」

『マーシャは、生まれてきた意義が欲しかったんだね』

 ビリーがマーシャの膝の上に乗って来て、小さな頭をマーシャのお腹にぐりぐりと押し付けてくる。くすぐったくて、マーシャはビリーの頭を撫で、耳の後ろを掻いてやった。

「あたしって、母親に疎まれながら生まれた子でしょ」

 何度も何度も母親に殺されそうになりながら、嫌悪と憎悪に包まれて生まれてきた。そのため、ただ一度も母親の腕に抱かれたことがない。

「子供って親に愛されるために生まれて来るんだって聞いたことがあるんだけど、あたしは違ったんだなぁって思ってた。でも、『高き館の主』の言葉を聞いて、母親には望まれていなかったけれど、もしかしたら父親の方にはギリギリ望まれていたんじゃないかって思って」

『もしかしたらギリギリ?』

 怪訝そうな声音だ。ビリーが長い尻尾をぱたんぱたんと左右に振った。

『マーシャ、悪魔に、それも魔界の皇帝に父親の愛を期待するのは、ちょっと危険かもよ』

「分かってる。だから、もうっ。自分でもバカだなぁって思ってる。だけど、いろいろ考えちゃって。神とか悪魔とか精霊とか。司祭とか魔女とかドルイドとか。それらの区別をあたしは今まではっきり説明できたはずなのに、ブーディカの話を聞いていろんなことの境界線があやふやになってしまった気がするの」

 ブーディカと彼女の民にとってローマ軍は残酷非道な悪鬼だ。ところが、ローマ人から見ればブーディカこそ冷酷無慈悲な悪魔の女王だ。

 立場や見方を変えれば、『悪』と『正義』がひっくり返ってしまう。

「あの『高き館の主』もかつては神として人々から崇められていたわけでしょ。それって、神と悪魔がひっくり返ることも有り得るってことかしら? 自分が『善』だと信じていたものが、ある日突然、『悪』にひっくり返ることも……」

 ドルイドが力を借りる精霊の中には人間の命を供物として要求してくるものがいる。まるで悪魔のような要求をしてくる精霊のことを、ドルイドや精霊の事情について何も知らない人間を相手に、それでもその精霊は『悪魔』とはまったく違うものなのだと、きっぱりと言い切ることが困難なことのように思えてきた。

 しかし、そこが揺らげば、ドルイドやドルイダスは、魔法使いや魔女とはまったく違うものなのだと言い切ることも難しくなってくる。

 たった十日と数日前に、カイに『魔女』と呼ばれてあれほど怒っていたというのに。

『マーシャもう寝よう? だんだんマーシャの言いたいことが僕には分からなくなってきたよ。それに、悪とか善とかいうのは、考えても答えは出ないよ』

 黒猫はマーシャの膝から降りると、寝台の上で伸びをしながら、くかぁーと欠伸をする。そして、ぐるりとひと回りしてから丸くなって眠ってしまった。

 話し相手がいなくなってしまったので、マーシャも帯を解き、黒橡色のチュニックを脱いで肌着一枚になると、掛布をめくり、その中に潜り込んだ。













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