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序章

 

「死ね!」

 吐き捨てた声と共に地面を踏みつける。

「死ね! 死ね! 死ね!」

 靴底を叩き付けるように力を込めて何度も何度も。

 踏みつけて粉々になったそれが時に靴底に張り付き、時に剥がれ落ち、更に粉々に散って、少女の足元で低く舞っていた。

 もはや原形など想像すらできなくなるくらいに無惨な姿になっていたが、堰の切れた怒りは濁流のように全身から胸に集まり、そして頭のてっぺんへと突き上がって抑えることができなかった。

「死ねっ!」

 ――それは群青色の蝶だった。

 線のようなほっそりとした黒い体に、黒で縁取られた中に光沢のある群青色が眩いはね。初めて目にする美しい蝶だった。

 翅を広げた姿は片手を開いたほどの大きさで、ひらひらと舞う姿はまるで王宮の貴婦人のようだ。憂いなど何もない様子でとても優雅だった。

 彼女は純粋にその蝶を綺麗だと思ってその姿を目で追っていた。

 蝶はまるで翅を休める場所を捜しているかのように、高く飛んだり、低く飛んだりしながら、右に左にと舞っている。

 蝶の動きに合わせて彼女の青い瞳も上下左右に揺れ動く。彼女は呼吸すら忘れたように他の動きをすべて止めて、ただ瞳だけを動かしていた。

 そして、その時。

 無邪気な蝶が彼女の方へと近付き、彼女の顔のすぐ近くを横切った。

 一瞬の出来事だった。

 死神が大鎌を振り下ろすように彼女の右手が素早く空を切った。

 くしゃりと無残な音が世界に囁くように響く。そして、しんと静まり、息を殺した世界の中で彼女はじっと時が刻み始めるのを待った。

 彼女の世界は、見渡す限りの草原だ。

 その鮮やかな緑の中に、灰色の石を積み重ね、一切の華美を取り除いた建物がぽつんと立っている。修道院である。

 さほど大きくも広くもなく、かといえ、狭苦しく感じるほど小さいわけでもない質素な建物の内に三十人ばかりの修道女たちが暮らしている。

 そして、その暮らしぶりは、朝日よりも早く目覚め、祈り、畑を耕し、祈り、糸を紡ぎ、祈り、日が暮れれば眠るというひどく簡素で、平穏で、外界との交流を断った自給自足のものだった。

 その暮らしが昨日も一昨日もその前の日もずっと続いて来て、今日も明日も明後日も変わることなくずっとずっと続いていく。幼い頃に自らの意思でこの修道院に身を寄せた彼女は、そんな暮らしをもう十年以上続けていた。

 彼女の見る限り草原に果てがない。他に建物らしき物が一切見当たらず、修道院は陸の孤島であった。馬を一昼夜ずっと駆けさせなければ、一番近い村に辿り着くこともできない。

 建物の南側に畑がある。季節によって、麦や綿、豆などの野菜を育てている。

 彼女は他の修道女たちのように勤労を強制される身分にないので、気が向かない日は、他の修道女たちが畑仕事に勤しむ様子を建物の影に座り込んで眺めていた。

 ――なんて退屈な。

 ならば働けばいいのだ。くたくたになるまで働けば、夜もぐっすり眠れるだろう。だが、やる気が起きない。起きないやる気に従って、何もせずにいると、ますます無気力になった。

 ――やることがない。

 正しく言えば、やりたいことがない、だ。

 すると、込み上がってくるのは強烈な怒りだった。

 ――どうして私が! なぜ私が!

 輝くドレスを纏い、ひらひらと舞っていたのは自分だったかもしれない。こんな灰色と緑しかない世界ではなく、絢爛豪華な宮殿で贅を尽くした暮らしをしていたはずだった。

 威厳のある父。自愛に満ちた母。優しい姉たちに、見目麗しい騎士たち。眩いばかりの人々に囲まれて、誰よりも輝いていたのは自分だったかもしれない。

 彼女は右手を固く握りしめたまま、ゆっくりと立ち上がる。握り締めた手の中には、彼女の暗く凍えるような殺意が閉じ込められている。

 彼女はそっと右手を開いた。ぱらぱらと群青色の欠片が散って彼女の足元に落ちて行き、そして彼女の手のひらには、くしゃくしゃになった群青色のドレスが張り付いて残った。

 黒い線のような足がピクピクと動く。まだ生きていたのかと冷ややかな思いで右手を見下ろした。

 彼女は両手を叩いて、かろうじて命を灯している蝶を足元に払い落とす。

「死ね!」

 ドンッ、と地面を踏み鳴らした。

 何度も何度も踏み潰して、確実に小さな命をこの世から消し去る。

「死ね!」

 声を出したこと、体を動かしたことで胸がすくような高揚感が生まれ、最上の美酒を得たかのように陶酔し、始めてしまったことを自分自身では止められなくなっていた。

 何度も何度も。息が切れてもやめることができない。

「死ねっ!」

 だが、その時だ。

 氷針で身を貫かれたかのような鋭い視線を感じて、彼女は慄き、その場から弾かれたように飛び退いた。

 そして、彼女は自身が踏み荒らした地面に視線を落とし、ぎょっとした。何かある。その何かが何であるのか分かると、ぞっと身の毛を逆立たせた。

 そこには、もはや原型など分からないものが散っているはずだった。ところが、残っていたのだ。蝶の頭が。

 黒々と輝く二つの丸い眼。そのすぐ近くから上に真っ直ぐ伸びる細い二本の触覚。そして、くるりと丸まった細長い口。

 踏み潰したはずだ。全部粉々に踏み潰したはずだ。――それとも踏み損ねたのだろうか。

『――ああ』

 狼狽える彼女の耳に声が聞こえた。成人した女性のやや低めの声がズキンと頭に響く。とっさに辺りを見回したが、彼女以外、近くに人影はない。

『――ああ、なんて美しい』

 また声だ。同じように響いて聞こえ、彼女はまさかと思いながら踏み荒らした地面に残っていた蝶の頭を見下ろした。すると、黒々とした蝶の眼もまた彼女を見つめていた。

 その眼は、まるで黒曜石のように艶やかで、吸い込まれるような輝きを放っている。

 黒い輝きの中に自分の顔が写り込んでいると気付いた時には既に遅かった。蝶の頭はみるみるうちに大きくなって、彼女を呑み込もうとしているかのように彼女の顔に差し迫ってくる。

 くるくると丸まった蝶の口が彼女の頬に触れそうなくらいに近付く。その頃にはもはや蝶の頭は彼女の顔よりもずっと大きくなっていた。

『お前の殺意は美しい』

 蝶が言った。

 丸まった口が動いたわけではないが、蝶が言ったのだと彼女には理解できた。大きくて丸い黒い眼がじっと彼女を見つめている。

わたしは、美しいものが好きだ。お前に力を貸してあげても良い』

 指先が震える。膝も震えている。足に力が入らず、今にも倒れてしまいそうだったが、と同時にまるで体を動かせなかった。

 逃げた方がいい。頭では分かっていたが、震えるばかりの足が言うことを聞かず、逃げることができない。

 普通の蝶であるはずかない。見れば、人間の大人ほどの大きさになった蝶には細い胴体までくっついていた。ふわふわと柔らかそうな産毛に覆われた胸部から、黒く、枝のように細く長い足が六本、突き刺さるように生えている。

 普通の蝶ではないのなら、何だ? 怪物か、化け物か。それらではないとしても、妖精や天使の類だとは到底思えなかった。

 良いものではない、きっと悪いものだ。関わってはならない。口を利いてはならない。目も合わせてはならない。一刻も早く逃げなくては!

 だが、どうしたわけか、美しい。彼女は蝶が大きく広げた群青色の翅に見とれた。

 こんな美しくて恐ろしいものがこの世に存在するなんて。

『お前には心から殺したいと願う相手がいるのだろう? 力を貸してあげよう』

「…ち、から……?」

 ダメだと思いつつ、ほとんど反射的に掠れた声が口から洩れた。

『そう。力だ。妾がお前に力を貸そう。その力でお前は憎い相手を殺せばいい。――さあ、どんな殺し方をしようか。焼こうか、引き裂こうか。それとも、ぺちゃんこに潰してしまおうか。ああ、駄目だ。それでは、いけない。ただ殺すだけでは足りはしない。死んで、相手が神のもとに行ってしまってはつまらない。殺す前に闇に引きずり落とさねば。神が毛嫌いするくらいに汚してから殺そう』

「……神様が毛嫌いするくらいに?」

『ああ、愚かな子。神に《さま》なんて敬称をつけるのはおよし。あんなのに祈ったって、お前を救いはしないのだから』

 美しい蝶の言葉に彼女は、はっとする。思わず、蝶の黒々とした丸い眼を見つめた。

 やはりこの美しい蝶は、神とは相反する存在なのだ。

 怪物というには美しすぎる。それでは何か。魔物か。――いや、悪魔だ。

 蝶の語り方には、知的な雰囲気がある。おそらく、地位と実力のある悪魔に違いない。

 そもそもここは修道院である。容易には、魔物や悪魔が入って来られない場所であるはずだ。彼女の殺意が呼び入れたのだとしても、入って来ることができただけでそのものの力が強いことを示している。

「本当にあいつを殺してくれる?」

 神に祈り続けた日々だった。けれど、悪魔の言う通り、神は彼女のために何もしてくれなかった。

 無意味に祈り、外界から忘れ去られた存在として、ただ生きているたけの日々。そんな日々から、もしかしたら抜け出せるかもしれない。

 迷路の出口をやっと見つけたような思いで問えば、悪魔は薄く嗤ったようだ。

『手を下すのは、お前。妾はそのための力を貸してやろう』

 やっと見つけた迷路の出口。その先は、底のない闇だった。

 悪魔の力を借りて、自らの手を汚すのだと理解して、彼女は暗黒の入口にひとり立ち尽くしている気分になった。

 一歩でも進めば彼女の魂は汚れ、けして天国の門をくぐることはできないだろう。死ねば、永遠の闇の中。魂は切り裂かれ、想像を絶する苦痛で罪を償うこととなる。

 だけど、と彼女は思う。神がこれまでに彼女に何をしてくれたというのだ。

 死んだ後に天国に行ける? それがいったい現世で何になるというのだ。生きている間は笑うなとでもいうのか。ひたすら悔しさに耐え、ただ、ただ、泣いていろと。

 そんなことを強いる神なら。生きている間にあいつを殺してくれる悪魔の方がましなのではないだろうか。そうだ。ましに違いない。

 ただし、と彼女は己の両手を広げて、ぐっと見下した。

 ――私の手を汚すのであれば、必ずあいつの魂を汚してやる。




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