88 ~THE MUSIC~
この物語はフィクションです。実在する人物、団体、名称等とは一切関係ありません。
『真のショパンとはどういうものかだとか、クラシックとは何かなんてことをね、わたくし達はずっと問いながら弾いてきたの。だけど答えなんてものはきっと死ぬまでわからなくて、死んでもわからないものだとも思っていたわ。それにね、ショパンもクラシックもわたくし達より過去にあって、時間が経つほど人々の記憶から薄れてゆくのを必死になってなんとか形を保とうとしているの。答えを探すどころか現状維持が精一杯。でも違った。答えはあったのよ。未来にこそあった。彼がその答えだわ。なんて鮮烈なショパン! なんて眩い未来! わたくし達が過去をどうやって未来に残すかなんていうことをこねくりまわしているあいだに、彼はタイムマシンでショパンと未来旅行! 確かにわたくしの知っているショパンなのに、まるで別の顔をして! ああ口惜しい。あんなショパン、嫉妬でおかしくなってしまいそうなのに、また聴きたくて仕方がないのよ。あなた、わたくしの言っていることが理解できて? わたくしも自分が何を言っているのか分からないわ! ああ、ファウ・チェンがあと1年だけでも長く生きてくれていたなら、共に一晩中語り明かせるのに! 天才? いいえそんなものじゃないわ。彼こそが音楽なのよ! ねえ彼は今どこ? すぐに彼の演奏を聴かせて!』――審査員マリア・ヘレンド(第18回ポーランド国際ピアノコンクール結果発表後に行われたインタビューより引用)
[1]
ピアノがベートーヴェンのワルトシュタインを歌っている。益子蒼空は上の空で細い指を鍵盤に漂わせていた。
本来はこんな調子で弾けるような易しい曲ではない。しかし気の抜けた様子でグランドピアノの前に座る青年は、眠っていても弾けると言わんばかり。手だけが別の生き物のようで、俊敏に動く。
(独立低ランク行列分析とは独立ベクトル分析と非負値行列因子分解とを融合させた手法で従来の手法より高精度な音源分離が実現でき多チャンネルのブラインド音源分離は人間であればカクテルパーティー効果などと言われ聴きたい声や楽器の音をごく自然に難なく分離し聴き分けることができるものをAIで行う情報処理に必要な…………)
ああ、ちっとも集中できない。昨晩うっかりイヤフォンをしたまま眠ってしまったせいだ。蒼空の脳内には垂れ流しになった論文資料の中身が充満していた。楽譜は暗譜しているから弾くには弾けるが、眠気と疲労感が筋肉と神経の動きを鈍くする。最低でも8時間は何も考えずに眠りたいのに、最悪だ。
「ストップ。やる気ねぇなら帰れよ」
部屋の端から、しわがれた声が蒼空の耳に届く。キャスターチェアがワックスの剥げきったフローリングの上を滑り、ピアノの傍まで来ると床がネズミの鳴き声のような音を立てて軋んだ。
皺の深い手が黒いグランドピアノの縁を掴むと、蒼空は「すみません」とだけ返事をし、鍵盤に添えた指を動かし続けた。長めの前髪はこういうとき便利だ。目を合わせたくない相手と自分との間で薄い壁となって視線を遮る。
一聴すると流暢で難所もサラリと弾きこなす慣れた手つき。だが、どこか冴えない、弾けているだけの締まりのない音がレッスン室の時間を重くする。
「蒼空よ。儂はもう生いさき短い身でな、いい大人が迷子になってメソメソしてるようなくだらない音を聴いて過ごす暇なんか1秒だってありゃしねえんだわ。ほれ」
「わっ! 九谷先生、いきなり何ですか!」
蒼空が胸元に放りこまれた薄い冊子を慌ててキャッチすると、まだ第1楽章も終わっていないワルトシュタインが止んだ。表紙には『第42回JPACピアノコンクール応募のしおり』とある。
「それ持って帰れ。儂はマッシュの動画を観る」
その名前をここで何度聞かされたか。いい年してVtuberピアニスト好きって。てか迷子って。蒼空は心の中で毒づくが、長年の慣れた間柄でも言い返せないことがある。それが師弟関係というものだ。
「アンテナもお若くていらっしゃる。九谷先生はまだまだ長生きしますよ。あと俺、もうコンテストは出ませんから」
「音響研究者になりますってか。そんじゃ他所に行きな。儂はピアニストを育ててんだ。おお、儂のような老いぼれが偉い博士様に教えるなんて畏れ多くて」
九谷がわざとらしく身震いをしてみせると、ふざけないでくださいよ、博士じゃありませんし、と蒼空が眉をひそめた。演奏を再開すべく冊子を譜面台の脇に置きかける。
「ふざけてんのはお前だろう。こぉんな小せえ頃から見てきた儂がわからんとでも?」
九谷は座ったまま腰の高さに手をやり、子供の頭を撫でるような仕草をした。その手が腰を叩くようにして蒼空を押しやり、終いだ終いだ、と、強引に椅子から剥がす。しぶしぶ立ち上がった蒼空は小さく頭を下げ、レッスン室のある九谷のマンションを後にした。
「結局、持ってきてしまった」
新宿駅に向かう蒼空の左手にはリュック、右手にはコンクールの冊子。マンションを出てすぐのコンビニ前にゴミ箱が並んでいたが、何も買っていないのにと、なんとなく遠慮をしてしまい捨てられなかった。
もう縁のない話なのに。蒼空は冊子にチラと目をやり、握りつぶすように手に力を込める。とにかく、手に持っていては邪魔だ。スマホも見られない。家に帰ったら捨てよう。蒼空は渋々リュックの中に冊子をしまい込み、リュックを背負いイヤフォンを耳に差し込んでスマホを覗き込む。
チャンネル登録者数のカウンターが10万人目前。今夜中に大台に乗るかもしれないと思うと頬が緩む。数日前に公開した動画の再生回数も伸びている。
「つか九谷先生、マッシュとか見んなよ……俺だっつーの。恥ずいわ」
まだ明るい時間帯にもかかわらず、新宿駅は早くも酒と煙草のニオイがした。大学の帰りに寄るレッスンは帰宅時間が飲み屋帰りの社会人たちと被ることが憂鬱だった。かといって休みの日にレッスンが入るのも都合が良くない。今日はすぐに帰されたからこの程度で済んで良かったと口角が上がりかけたが、そもそも早く帰されたのは九谷の機嫌を損ねたからということを思い出して苦い顔になる。
俯いて改札を入ったところで蒼空の耳にPerfumeの新曲『無限未来』が流れ込んだ。今日の憂鬱が溶かされる、と浸りかけたとき、前を歩いていた若い女性がつまづいた。その瞬間は何が起きたかわからず、視界が急に開けたと蒼空は感じた。しかし問題はその後だった。つまづいた拍子に女性が前にいた酔った男にぶつかったことで、立腹した男が女性に殴りかかろうとしているのを目が捉えてしまった。
咄嗟の行動だった。女性をかばうように差し込んだ右手に灼熱を感じた。
男の拳と突き合うようにして指が当たったと理解したのは、あらぬ方向に曲がった蒼空の指を見て女性が酷く狼狽えていることに気付いてからだった。
「え、えっと、うそ、やだどうしようごめんなさい、誰か、誰か! 駅員さん! えっと違う? 救急車? わかんないどうしよう」
蜘蛛の子を散らすように周囲から人が退き、改札前に取り残されたのは男と女性、それに蒼空だけ。男は激しく動いて酔いが回ったからか驚きからか、その場にへたり込み震える声でブツブツと言い訳を唱えている。
「おれは知らないぞ、急に手ぇ出してきたから……」
女性が駆けつけた駅員に、ゆびがおれてますよね、これおれてますよねと蒼空を指してしきりに訴える。蒼空はその様子をテレビでも見ているかのような他人事の距離感で眺めていた。
音が遠い。視界も色褪せて、限りなくモノクロに近いセピア。ストップモーションで遠くから向かってくる警官の姿が見えた。へたり込む男を支えるように立ち上がった警官が蒼空に後ほど署のものが迎えに行きますので、と声を掛けたが、蒼空には言語のかたまりとしてしか認識できなかった。
到着した救急車に案内された頃になって、ようやく蒼空は尋常ではない指の痛みを自覚しだした。腰掛けた状態で乗った救急車には、つまづいた女性も同乗している。
「本当にごめんなさい……助けてくれた人が、こんな、目に……あうなんて」
女性は謝りながら鼻をすすり顔を覆って泣きじゃくっていた。なんで泣いているんだろう……そうか、彼女が原因で俺の指が。痛みの中、ようやく合点がいく蒼空だった。
応急処置を終え、翌日また来るようにと言われた蒼空は、約束通り迎えにきた警察官と新宿署に行った。調書をとるというので、3時間近くをそこで使った。ガラの悪い男がいきなり入ってきたので歌舞伎町界隈のヤクザかと焦ったら、刑事だった。
女性がお詫びとお礼をしたいというので連絡先を交換して、ようやく帰宅できたのは深夜近くになってからだった。実家住まいだがこの時間はもう家族全員が寝静まっている。蒼空はシャワーを浴びたいと考えたが指を保護するのが億劫で、着替えもそこそこにベッドに倒れ込んだ。
前日からの疲れと痛み止めの薬の効果もあり、蒼空はあっという間に眠りについた。が、その晩は熱と痛みにうなされ悪い夢を見た。
指が、なくなる夢だった。いつものようにピアノの前に座った途端、砂のように指がこぼれ落ちてなくなっていく。これではピアノが弾けない。やめろ、やめてくれ……俺から指を……ピアノを奪わないでくれ!
「夢か」
目覚めた蒼空は汗だくだった。両手を広げて全部の指が付いていることを確認して胸をなで下ろすと、リュックを手探りして冊子を取り出す。
「コンクール……、いや、やっぱりもう関係ない」
窓明かりに月はなく、夜明け前の仄青い光が蒼空の指を微かに照らしていた。